表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/3

ep.1 オアシスの向こう側 ①

第一幕 静かな部屋に、扉が生まれる


 五代新太、二十七歳。社会人5年目。

某5歳児の歌を思い出して、歳を取ったなと思う。


 今日も会議では無難な意見を言い、客先では空気を読み、衝突を避ける。褒められもしなければ、叱られもしない、誰の記憶にも残らない仕事を終わらせたところだ。


 定時を少し過ぎて、オフィスを出る。エレベーターの鏡に映る自分の顔を、何気なく見つめる。背丈は平均、顔立ちもそれなり。なのに、そこにいるのは「面白いと思えない男」だった。


 かつては、違った。

 学生時代の新太は、誰とでも話せた。場が重くなれば冗談を挟み、意見が割れれば自然と間に入った。目立たなくても、場がうまく回るならそれでいいと思えた。

 ――あの頃は、楽しかった。

 少なくとも、「自分には何もない」とは、思っていなかった。


 だが今は違う。

 学生時代に惚れて、勇気を振り絞って告白をした妻も“元”がついて2年経つ。転勤先では友達も特に作らず、彼女もいない。モテないというより、踏み出す理由が見つからない。

 「どうせ俺なんて」

 口には出さない。だが、胸の奥ではいつも、そう考えている。


 最寄り駅から十分ほど歩いた先のワンルーム。鍵を開け、灯りをつける。静かすぎる部屋。脱いだコートを椅子に掛け、冷蔵庫を開くと、飲みかけの水と、昨日の総菜だけが入っていた。

 電子レンジの音だけが、部屋に響く。


 テレビをつけると、街はクリスマス一色だった。イルミネーション、笑顔のカップル、プレゼントを抱えた家族。

 新太は、音量を下げる。


 ――別に、羨ましいわけじゃない。

 そう思おうとするほど、胸の奥に、薄く濁ったものが溜まっていく。何をやっても、どこかにモヤが残る。誰かと比べているつもりはないのに、気づけば、いつも自分を下に置いている。


 シャワーを浴び、ベッドに腰を下ろす。

 部屋は整っている。散らかってはいない。だが、何もない。飾るものも、残したい思い出も。

 ――俺の人生って、何だったんだろう。


 ふと、携帯が震えた。

 表示された名前を見て、指が止まる。


 ――由梨。


 元妻だった。離婚してから、連絡が来ることはほとんどない。

 ためらいながら、通話を開く。


「……久しぶり」

 落ち着いた声。責める響きは、どこにもなかった。


「急に、ごめん。……書類の件、確認したくて」

「…ああ、うん。今、送る」


 事務的なやり取りが、数分続く。

 じゃあね。と、切ろうとした、そのとき。


「…新太」

「なに?」


 少しだけ、間があった。


「元気?」

「……まあ」


 また、短い沈黙。


「……変わってないね」

「……悪い意味?」


「ううん。そうじゃない。ただ……」

 由梨は、言葉を選ぶように、ゆっくり続けた。

「あなた、昔から、誰の人生にも“踏み込まない人”だった」


 新太は、何も返せなかった。


「優しかったよ。いつも。……でも、私と一緒に、何かを“選んで”くれたことは、なかった」

「……それ、今さら言う?」


「言いたいんじゃない。確認したかっただけ」

 由梨の声は、穏やかだった。

「あなたが、あなたのままで、生きてるかどうか」


 通話は、それだけで終わった。


 携帯を伏せ、天井を見つめる。

 胸の奥に、鈍い痛みが残る。


 ――俺は、逃げてるだけなのか。

 誰とも本気でぶつからず、誰も傷つけず、何も選ばず。

 それは「優しさ」だったのか、それとも、「何も背負わない」という選択だったのか。


 ふと、考える。

 もし、自分の思った通りに作れる世界があったら、どうだろう。

 誰も傷つかない。衝突も起きない。正しさだけが並び、選択を迫られない場所。

 ……そんな世界が、あったら。


 自嘲気味に、息を吐く。

 現実から逃げたいわけじゃない。ーーそう言い聞かせる。

 ただ、少し、休みたいだけだ。


 そのときだった。


 視界の端で、壁の色が、わずかに揺れた。

 見間違いかと思い、目を凝らす。


 ――そこに、扉があった。


 今まで何もなかったはずの壁に、古い木製の扉が、はっきりと存在している。取っ手は鈍い金色で、周囲の壁と不自然なほど対照的だった。

 心臓が、どくんと跳ねる。


「……は?」


 近づき、触れる。冷たい木の感触。幻覚ではない。

 誰かの悪戯? 管理会社? ありえない。

 扉の向こうから、かすかに、鈴のような音がした。


 迷う。

 理性は、触れるなと言っている。だが、胸の奥に溜まっていたモヤが、扉の向こう側を見たいと言って理性を曇らせる。


 取っ手を回す。

 きいぃ、と、古い蝶番の音。扉が開く。


 淡い光が溢れ、そこから小さな影が、ひょいと飛び出してくる。

 赤と緑の、どこかクリスマスを思わせる色。小悪魔のような羽と、いたずらっぽい瞳。


「こんばんは、新太」


 聞き覚えのない声で、だが、なぜか“知っている名前”を呼ばれた。


「僕の名前は、ヴェル。君が、ずっと考えていた世界の案内役だよ」


 現実感が、音を立てて遠のいていく。

 ――自分の思った通りに作れる世界。

 さっきまで、ただの空想だったものが、今、目の前にある。


 ヴェルは部屋を見回し、静かに言った。


「…きれいな部屋だね」

「君の人生とそっくりだ」


 胸の奥が、わずかに軋んだ。

 由梨の声が、重なる。


 ――あなた、誰の人生にも踏み込まない人だった。


 ヴェルは、にこりと笑った。


「大丈夫。怖がらなくていい」

「君が作る世界を、僕はただ見に来ただけだから」


 救いなのか、罠なのか――まだ、分からない。

 ただ一つ、確かなことがあった。


 この夜を境に、

 新太の人生は、もう、同じ形では続かない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ