ep.1 オアシスの向こう側 ①
第一幕 静かな部屋に、扉が生まれる
五代新太、二十七歳。社会人5年目。
某5歳児の歌を思い出して、歳を取ったなと思う。
今日も会議では無難な意見を言い、客先では空気を読み、衝突を避ける。褒められもしなければ、叱られもしない、誰の記憶にも残らない仕事を終わらせたところだ。
定時を少し過ぎて、オフィスを出る。エレベーターの鏡に映る自分の顔を、何気なく見つめる。背丈は平均、顔立ちもそれなり。なのに、そこにいるのは「面白いと思えない男」だった。
かつては、違った。
学生時代の新太は、誰とでも話せた。場が重くなれば冗談を挟み、意見が割れれば自然と間に入った。目立たなくても、場がうまく回るならそれでいいと思えた。
――あの頃は、楽しかった。
少なくとも、「自分には何もない」とは、思っていなかった。
だが今は違う。
学生時代に惚れて、勇気を振り絞って告白をした妻も“元”がついて2年経つ。転勤先では友達も特に作らず、彼女もいない。モテないというより、踏み出す理由が見つからない。
「どうせ俺なんて」
口には出さない。だが、胸の奥ではいつも、そう考えている。
最寄り駅から十分ほど歩いた先のワンルーム。鍵を開け、灯りをつける。静かすぎる部屋。脱いだコートを椅子に掛け、冷蔵庫を開くと、飲みかけの水と、昨日の総菜だけが入っていた。
電子レンジの音だけが、部屋に響く。
テレビをつけると、街はクリスマス一色だった。イルミネーション、笑顔のカップル、プレゼントを抱えた家族。
新太は、音量を下げる。
――別に、羨ましいわけじゃない。
そう思おうとするほど、胸の奥に、薄く濁ったものが溜まっていく。何をやっても、どこかにモヤが残る。誰かと比べているつもりはないのに、気づけば、いつも自分を下に置いている。
シャワーを浴び、ベッドに腰を下ろす。
部屋は整っている。散らかってはいない。だが、何もない。飾るものも、残したい思い出も。
――俺の人生って、何だったんだろう。
ふと、携帯が震えた。
表示された名前を見て、指が止まる。
――由梨。
元妻だった。離婚してから、連絡が来ることはほとんどない。
ためらいながら、通話を開く。
「……久しぶり」
落ち着いた声。責める響きは、どこにもなかった。
「急に、ごめん。……書類の件、確認したくて」
「…ああ、うん。今、送る」
事務的なやり取りが、数分続く。
じゃあね。と、切ろうとした、そのとき。
「…新太」
「なに?」
少しだけ、間があった。
「元気?」
「……まあ」
また、短い沈黙。
「……変わってないね」
「……悪い意味?」
「ううん。そうじゃない。ただ……」
由梨は、言葉を選ぶように、ゆっくり続けた。
「あなた、昔から、誰の人生にも“踏み込まない人”だった」
新太は、何も返せなかった。
「優しかったよ。いつも。……でも、私と一緒に、何かを“選んで”くれたことは、なかった」
「……それ、今さら言う?」
「言いたいんじゃない。確認したかっただけ」
由梨の声は、穏やかだった。
「あなたが、あなたのままで、生きてるかどうか」
通話は、それだけで終わった。
携帯を伏せ、天井を見つめる。
胸の奥に、鈍い痛みが残る。
――俺は、逃げてるだけなのか。
誰とも本気でぶつからず、誰も傷つけず、何も選ばず。
それは「優しさ」だったのか、それとも、「何も背負わない」という選択だったのか。
ふと、考える。
もし、自分の思った通りに作れる世界があったら、どうだろう。
誰も傷つかない。衝突も起きない。正しさだけが並び、選択を迫られない場所。
……そんな世界が、あったら。
自嘲気味に、息を吐く。
現実から逃げたいわけじゃない。ーーそう言い聞かせる。
ただ、少し、休みたいだけだ。
そのときだった。
視界の端で、壁の色が、わずかに揺れた。
見間違いかと思い、目を凝らす。
――そこに、扉があった。
今まで何もなかったはずの壁に、古い木製の扉が、はっきりと存在している。取っ手は鈍い金色で、周囲の壁と不自然なほど対照的だった。
心臓が、どくんと跳ねる。
「……は?」
近づき、触れる。冷たい木の感触。幻覚ではない。
誰かの悪戯? 管理会社? ありえない。
扉の向こうから、かすかに、鈴のような音がした。
迷う。
理性は、触れるなと言っている。だが、胸の奥に溜まっていたモヤが、扉の向こう側を見たいと言って理性を曇らせる。
取っ手を回す。
きいぃ、と、古い蝶番の音。扉が開く。
淡い光が溢れ、そこから小さな影が、ひょいと飛び出してくる。
赤と緑の、どこかクリスマスを思わせる色。小悪魔のような羽と、いたずらっぽい瞳。
「こんばんは、新太」
聞き覚えのない声で、だが、なぜか“知っている名前”を呼ばれた。
「僕の名前は、ヴェル。君が、ずっと考えていた世界の案内役だよ」
現実感が、音を立てて遠のいていく。
――自分の思った通りに作れる世界。
さっきまで、ただの空想だったものが、今、目の前にある。
ヴェルは部屋を見回し、静かに言った。
「…きれいな部屋だね」
「君の人生とそっくりだ」
胸の奥が、わずかに軋んだ。
由梨の声が、重なる。
――あなた、誰の人生にも踏み込まない人だった。
ヴェルは、にこりと笑った。
「大丈夫。怖がらなくていい」
「君が作る世界を、僕はただ見に来ただけだから」
救いなのか、罠なのか――まだ、分からない。
ただ一つ、確かなことがあった。
この夜を境に、
新太の人生は、もう、同じ形では続かない。




