第8章:聖女の真実 8-1:聖女への厳命
アステル王国、王宮、玉座の間。
かつて「白亜の間」と呼ばれ、磨き上げられた純白の大理石が王家の威光を反射していたその場所は、今や、絶望の淵に沈んでいた。
天井で輝いていたシャンデリアの魔道具の光は弱々しく、王都の上空に広がった瘴気の霧が、窓という窓を不吉な紫色に染めている。
床には、先ほどの「結界崩壊」の振動で落ちた天井の漆喰の破片が散らばり、掃除する者さえいない。
「……報告を続けよ」
玉座に座る国王陛下が、絞り出すような、か細い声で命じた。
彼の顔は、床の大理石よりも白い。
「はっ!王都、西門、北門、共にパニック状態!民衆が殺到し、負傷者多数!衛兵の統制、もはや不可能です!」
「南の広場では、瘴気に当てられたと思われる者の死亡を初確認!『奇病』は、すでに王都全域に……!」
「辺境領より、第3砦、陥落との報!もはや、魔獣の侵入は止められません!」
「穀倉地帯より、小麦の枯死、止まらず!家畜の衰弱も……!」
次々と叩きつけられる絶望的な報告に、集まった貴族たちは、もはや何の対策も口にできず、ただ青ざめた顔で立ち尽くすだけだった。
これが、彼らが「安全な泡」の中で、どれほど「他人事」として辺境の苦しみを見て見ぬふりをしてきたかの、ツケだった。
「……聖女は」
国王が、震える声で、宰相に問うた。
「レティシア様は、まだなのか」
「そ、それが……先ほどから、あの花壇で懸命に祈りを捧げてはおられますが……結界のひび割れは、広がる一方で……」
宰相の言葉に、それまで黙って父の隣に立っていた王太子が、ついに堪忍袋の緒を切った。
「祈りだと!?祈りでこの国が救えるか!」
王太子は、わたくしを断罪した時とは比べ物にならない、本物の焦燥と恐怖に染まった顔で叫んだ。
「今すぐ、あの女をここへ連れてこい!『聖女』なのだろう!ならば、その『力』を、今すぐここで示せと!」
彼の金切り声が、冷え切った玉座の間に響き渡った。
もはや、レティシアを「私のレティシア」と呼ぶ、甘やかな響きはどこにもない。
彼にとって、レティシアは、壊れた「道具」であり、その「道具」が機能不全を起こしたことへの、苛立ちしか残っていなかった。
「……あ」
衛兵に両腕を掴まれ、引きずられるようにして玉座の間に連れてこられたレティシアは、その異様な光景に、息をのんだ。
枯れ果てた花壇で、必死に「祈り」を捧げ続けていた彼女のドレスは、泥と、正体不明の菌類で汚れ、完璧に結い上げられていたはずの髪は、汗で肌に張り付いている。
その姿は、かつてわたくしを「不快だ」と侮辱した、あの完璧な聖女の姿ではなかった。
「レティシア!」
王太子が、わたくしが立たされていたのと同じ場所――断罪の場に引き据えられた彼女に、詰め寄る。
「王都が、瘴気に沈もうとしているのが見えんのか!何をしている!」
「ひっ……!で、殿下、わたくしは、今、必死に……!」
「必死に、何だ!お前の『祈り』で、何一つ状況は変わっておらん!それどころか、悪化している!」
王太子は、テラスの窓を指差した。
その向こうには、紫色の霧が、雪のように、しんしんと王都に降り積もっていく光景が広がっている。
「今すぐ、何とかしろ!お前は、聖女なのだろう!」
「そ、それは……」
「『浄化』の儀式を行え!今、この場でだ!」
国王陛下が、玉座から、最後の望みを込めて、厳命を下した。
辺境に送る「聖水」が、ただの水になったこと。
穀倉地帯が、黒く枯れ始めていること。
そして、王都の結界が、崩壊したこと。
そのすべてが、聖女の「浄化」の力が失われたことに起因すると、彼らは、ようやく、しかし致命的に遅く、気づき始めていた。
「じょ、浄化……ですの……?」
レティシアの顔から、最後の血の気が引いた。
「結界」ではない。「浄化」。
わたくしがいた頃、わたくしの花壇のマナを使って、さも自分が行っているかのように見せかけていた、あの儀式。
だが、その力の源泉(わたくしと花壇)は、もう、どこにもない。
「さあ、やれ!今すぐ!」
国王と王太子、そしてすべての貴族たちの、最後の望みを託された、絶望的な視線が、彼女一人の上に、突き刺さった。




