7-4:王都を覆う紫の霧
ピシ、ピシッ、ミシイイイッ――!
ガラスが割れるような、世界そのものが引き裂かれるような甲高い悲鳴が、王都の空に響き渡る。
御前会議に出ていた貴族たち、国王、そして王太子は、テラスで凍りついていた。
彼らが絶対の安全神話として信じ込んでいた「大結界」が、目の前で音を立てて崩れ落ちていく。
「……ああ……ああ……!」
一人の老貴族がその場に膝から崩れ落ちた。
空の、あの青い空の裂け目から、紫色の霧――瘴気が、ゆっくりと、しかし容赦なく王都アステルへと流れ込み始めていた。
それは、まるで巨大な悪意を持った生き物だった。
天から垂れ下がる、汚れた紫色の帳。
王宮の、純白の大理石で造られた尖塔に、その瘴気の先端が初めて触れた。
ジュウ、と、酸で肉が焼けるような小さな音がした。
王宮の、何百年も輝きを失わなかったはずの白亜の塔が、瘴気に触れた箇所から黒く、汚く変色していく。
神聖なシンボルが、目の前で汚されていく。
その光景は、王都の広場にいた民衆の目にもはっきりと見えていた。
「……空が」
「なんだ、あれは……」
最初は、それが何なのか誰も理解できなかった。
空に浮かぶ不吉な紫色の雲。
だが、その雲が自分たちの日常を終わらせる「死」そのものであると気づくのに、時間はかからなかった。
「……瘴気だ」
「辺境領の! 瘴気が、王都に……!」
誰かがそう叫んだ。
それが、合図だった。
「「「ぎゃあああああああああっ!!」」」
王都アステルは、その瞬間、阿鼻叫喚の地獄へと変わった。
それまで歴史上、一度も戦火や瘴気の脅威にさらされたことのなかった「安全な泡」の中の住人たち。
彼らは、その脅威への対処法も心構えも、何一つ持っていなかった。
「逃げろ!」
「門へ! 門へ急げ!」
「西だ! 瘴気は東から来るんだ! 西の門へ!」
「押すな! 子供が……!」
人々は我先に王都から脱出しようと市街地の門へと殺到した。
荷馬車が横転し道が塞がれる。人々はその荷馬車を踏み越え、倒れた者たちを踏みつけ進んでいく。
金品を道にまき散らし、家族の手を離し、ただ「生き延びたい」という本能だけで彼らは獣の群れと化した。
かつて「王国で最も理性的」と自負していた王都の民の姿は、そこにはなかった。
これが、アステル王国が初めて「辺境」と同じ現実に直面した瞬間だった。
「何をしている! 秩序を守れ!」
「衛兵! 衛兵は何をしているのだ!」
王宮のテラスから貴族たちが怒鳴る。
だが、その衛兵たちこそがパニックの中心だった。
彼らもまた、瘴気の脅威など書物の中でしか知らない王都育ちの人間たちなのだ。
「だ、だめだ! 門が……民衆で、開かない!」
「魔獣は……魔獣はまだ来ていないのだろうな!?」
恐怖が恐怖を呼ぶ。
そして、瘴気はついに地上へと到達した。
紫色の霧が、王都の美しい石畳をまるで薄い絹の布のように覆い尽くしていく。
その、見た目とは裏腹の致命的な冷気と共に。
「……う、ぐっ……!」
最初に異変を訴えたのは、広場にいた人々だった。
「空気が……息が……」
「けほっ、けほっ……!」
乾いた咳が、あちこちで上がり始めた。
王宮の清潔な空気しか知らなかった彼らの肺が、初めて吸い込む「呪い」の粒子に拒絶反応を起こしている。
それは、魔王領の民が持つ「耐性」など一切ない、無防備な体だった。
そして、
「……あ……」
広場の中央で一番最初に咳き込んでいた老婆が、糸が切れた人形のように音もなくその場に崩れ落ちた。
「お、おばあ様!?」
「どうしたんだ!?」
周囲の人々が駆け寄る。
だが、老婆はすでに息をしていなかった。その顔は恐怖でも苦痛でもなく、ただ安らかに眠っているかのように白かった。
(……死?)
人々がその事実に気づき後ずさった、その時。
「ぐ……ぁ……」
今度は、駆け寄った若者の一人が自らの喉を押さえ、その場にうずくまった。
「息が……できない……体が、寒い……」
まるで体の内側から急速に凍りついていくかのように。
全身が鉛のように重くなっていく。
「……奇病だ!」
「瘴気に触れると、死ぬんだ!」
パニックは頂点に達した。
暴動。
略奪。
それまで「聖女様の結界」という秩序の中で守られていた人々が、その秩序を失った瞬間、生きるために隣人から食料と水を奪い始めた。
王都アステルは、わずか一時間足らずで無法地帯へと変貌した。
「……レティシア」
王宮のテラスで、その地獄絵図を呆然と見下ろしていた王太子が、かろうじて声を絞り出した。
その声は怒りではなく、もはや虚無に染まっていた。
「……聖女よ。何とか、しろ」
「……」
「お前が、聖女なのだろう! 祈れ! 結界を張り直せ! 浄化をしろ!」
王太子の絶叫が虚しく響く。
だが、レティシアはもはや彼の方を見ることさえできなかった。
彼女は崩れ落ちたテラスの床に座り込み、ただガタガタと震えながら枯れ果てた「聖女の花壇」の方向を見つめていた。
(……ない。力が、ないのよ)
(わたくしには、もう、何もない)
結界を張るための、あの清浄なマナは、もう、どこにも。
「……エリアーナ」
レティシアの唇から、無意識にあの自分が追放した女の名前が漏れた。
(あの女が……あの女さえいれば……)
(あいつが、わたくしの力を、盗んだんだわ……!)
この期に及んでも、彼女の思考はまだ現実を受け入れようとしなかった。
自分が「搾取」していたのではなく、エリアーナの力を「盗まれた」のだと必死に自分に言い聞かせようとしていた。
「……エリアーナ、だと?」
王太子は、その呟きを聞き逃さなかった。
彼は、絶望の中で初めて「真実」の欠片に触れた。
「……そうか。あの花壇か」
彼が、レティシアの言葉を鵜呑みにして、あの「不快」な園芸師を追放したあの日。
あの女の、不思議なほどに「輝いていた」瞳。
(……まさか)
王太子の脳裏に、最悪の、しかしあまりにも筋の通った「答え」が浮かび上がった。
(……あの女が、『本物』だった、とでも言うのか……?)
彼らが自らの手で「毒草師」と呼び国から捨てた、たった一人の「希望」。
王都が建国以来の危機に瀕した今、その「希望」は、敵国である魔王領の玉座の隣にいることなど、知る由もなかった。




