7-2:王都の「聖女」
その頃。
わたくしが魔王城の新しい「研究室」で蘇った土の感触に歓喜していた、まさしく同時期。
アステル王国、王宮。
かつてわたくしが管理し、清浄なマナに満ち溢れていた「聖女の花壇」は、見る影もなくなっていた。
王都の上空を覆う「大結界」は、まだかろうじてその形を保ってはいるものの、その輝きは弱々しく、まるで冬の薄氷のようにいつ砕けてもおかしくないほどに明滅していた。
王都の空気はよどんでいる。
結界が弱まったことで浄化されきれない瘴気のごく微かな粒子が風に乗り、人々は原因不明の倦怠感や止まらない咳に悩まされ始めていた。
「どうして……どうしてなの……!」
聖女レティシアは、その「聖女の花壇」の中心でヒステリックに叫んだ。
高価なレースの扇が彼女の手の中で無残に折れ曲がり、地面に叩きつけられる。
わたくしが追放されてから、二ヶ月。
彼女が、わたくしを追放しさえすれば「自分のものになる」と信じていた花壇は、無残な姿を晒していた。
わたくしが丹精込めて育てていたカモミールもレモンバームも、すべてが根元から黒く変色し腐臭を放ちながら枯れ果てている。
豊かなマナを湛えていた土は、その供給源を失い、今やただの固くひび割れた黒い泥に変わっていた。
清浄な香りを失った花壇には、わたくしがいた頃は決して寄り付かなかったはずの羽虫や得体の知れない菌類が湧き始めている。
そこは、もはや「聖女の花壇」ではなく、「瘴気の温床」と化していた。
「わたくしが、毎日こうして祈りを捧げているのに……! 力が戻らないなんて、おかしいじゃない!」
(エリアーナがいなくなっただけ。あの、土臭い女が消えただけなのに……!)
レティシアは、それが理解できなかった。
彼女は、あの花壇の力は土地そのものか、あるいはわたくしが使っていた特殊な「肥料」か何かにあるのだと本気で信じ込んでいた。
わたくしという「園芸師」のスキル、その存在こそが力の源泉であったなどとは、想像もしていなかったのだ。
(あの女……! そうよ、きっとそうだわ!)
彼女の、自己保身に凝り固まった思考が唯一の「答え」に飛びつく。
(あの女が、追放される間際にこの花壇に『毒』でも撒いていったに違いないわ! わたくしへの当てつけに!)
自分の「浅はかな計算違い」を認めたくない彼女は、すべての責任をすでにいないわたくしに押し付けようとしていた。
(わたくしは、聖女。この国の、唯一の聖女なのよ。あの、泥だらけの園芸師とは違う)
(それなのに、結界の力が弱まっているなんて……! 殿下の、わたくしを見る目が日に日に冷たくなっていく……!)
彼女の最大の恐怖は、瘴気そのものではない。
「聖女」という地位を失い、王太子殿下の寵愛を失い、すべてを手に入れたはずの自分が無価値になること。
わたくしが「白亜の間」で向けられたあの侮蔑の視線を、今度は自分が受けることになるかもしれないという想像を絶する恐怖だった。
「レティシア、まだか!」
花壇の入り口から、王太子殿下が苛立ちを隠そうともしない冷たい声で彼女を呼んだ。
彼の完璧に整えられていたはずの金髪は、ここ数週間の心労で艶を失い、その目の下には魔王アビスと似た、だが理由のまったく異なる「隈」が浮かんでいた。
彼もまた、自分の権力の基盤が揺らいでいることに苛立っていた。
「で、殿下……! ご覧くださいまし、この花壇を……! やはり、あの女が……!」
レティシアは、いつものように涙を浮かべ彼に泣きつこうとした。
王宮でわたくしを断罪した時と同じように。
だが、王太子は、その芝居がかった姿にもはや何の庇護欲も感じていなかった。
「言い訳は聞きたくない!」
王太子はレティシアの言葉を遮った。
以前の彼ならば彼女の涙にすぐに同調し、「あの卑劣漢めが!」と怒りを露わにしただろう。
だが、今の彼にその余裕はなかった。
彼の元には連日、辺境と内陸部から絶望的な報告が届き続けていたからだ。
「王都の『大結界』が弱まっているのが分からんのか!Tお前の力がなければこの国は……!」
「わ、わかっておりますわ! 今、この花壇の力を取り戻そうと、わたくし必死に祈りを……」
「祈りだと!?」
王太子が怒りに顔を歪める。
「祈りで結界が保てるなら誰も苦労はせん! 現に、お前の力は弱まっている! いつになったら元に戻せるのだ! もう二月だぞ!」
王太子の怒声が、枯れ果てた花壇に響く。
彼は、まだ「真実」を知らない。
レティシアが「浄化」の力を持たず、「結界」の維持にさえこの花壇のマナを必要としていたことを。
彼はただ、自分が絶対の信頼を置いていた「聖女」という存在が、この二ヶ月で急激に「役立たず」になっているという事実だけを焦っていた。
「そ、そんな……! わたくしは、聖女ですのよ……!」
「聖女ならば、今すぐその力を示せ! 父上も宰相も、もうお前の『祈り』には何の期待もしておらんぞ!」
(……なんですって?)
レティシアの顔から血の気が引いた。
王太子殿下だけでなく、国王陛下や他の重臣たちまでもがわたくしを疑い始めている。
(嘘よ……。わたくしが、どれだけこの国のために……!)
彼女は、自分が「結界」を張ることでどれだけ国に貢献してきたかを叫ぼうとした。
だが、彼女は、その「結界」さえもわたくしのマナなしでは維持できないことを、誰よりも知っていた。
(どうしよう……どうしよう……!)
レティシアは、枯れ果てた花壇と冷たい目で見下ろす王太子を交互に見比べ、青ざめた顔で唇を噛んだ。
わたくしがいた頃に蓄えられていたあの清浄なマナは、もうほとんど残っていない。
王都を守る「大結界」は、彼女の魔力だけではもはや維持しきれないところまで追い詰められていた。




