6-3:執務室と「モフモフ・セラピー」
夜。
魔王城の廊下は、青白い魔道具の光が黒曜石の床をぼんやりと照らすだけで、不気味なほどに静まり返っていた。
わたくしはコハクを抱き、ヴァイス様の後ろについて城の最奥にある魔王様の執務室へと向かっていた。
(……空気が、重い)
玉座の間よりもさらに濃く淀んだ瘴気の気配が、この廊下の先に満ちている。
この城の「心臓部」であると同時に、瘴気の「呪い」が最も強く王を苛んでいる場所。
わたくしの肌がピリピリと痛んだ。
わたくしの浄化の力がこの強大な瘴気に反発し、無意識に金色の光を放ちそうになるのを必死で抑え込む。
「王、エリアーナ様をお連れいたしました」
ヴァイス様が重厚な扉をノックする。
「……入れ」
中から聞こえてきた声は、わたくしが森で聞いた時よりもさらに低く、疲労に掠れていた。
わたくしはトレイを持つ手にぎゅっと力を込めた。
扉が開かれる。
そこは、書斎というよりも「戦場」だった。
部屋の三方の壁は天井まで届く本棚で埋め尽くされているが、そのすべてが魔術や歴史書ではなく領地の地図や瘴気濃度の報告書で溢れている。
壁に広げられた巨大な地図には、瘴気の濃度を示すのであろう無数の赤い印が打たれている。
部屋の中央にある巨大な黒檀の机の上も書類の山。
そして、その書類の山に埋もれるようにして魔王アビスは座っていた。
(……ひどいお顔)
わたくしは息をのんだ。
彼がまとっていた漆黒の外套は脱がれ、糊の効いた黒いシャツ一枚になっているが、その美しい顔は紙のように真っ白で、目の下には深い隈が刻まれている。
あの燃えるようだった紅い瞳は、今は不眠と過労によって焦点が合っていないかのように鈍く揺れていた。
彼はわたくしたちが入ってきたことに気づきながらも、指先で激しく痛むこめかみを強く押さえている。
部屋の空気そのものが、彼の苦痛と彼が押し返している瘴気によって重く歪んでいるようだった。
「……エリアーナ殿か。わざわざ、すまない」
彼はわたくしを認めると、かろうじて王としての威厳を取り繕い顔を上げた。
「キュ……」
わたくしの腕の中で、コハクが彼のその痛々しい姿に不安そうな声を上げた。
「王、エリアーナ様が、王の『不眠』のために薬草茶を淹れてくださったと」
ヴァイス様の声が重い空気を震わせる。
「薬草茶……?」
アビスは、わたくしが持つティーカップに怪訝そうな視線を向けた。
その時、わたくしの隣に控えていた侍女長のセレス様が静かに一歩前に出た。
彼女も王の不眠のことは知っていたのだろう。その冷たい表情にもわずかな憂いが見える。
「王、恐れながら。人間の薬草が、王の『呪い』に効くとは思えません。わたくしが、まず毒見を」
セレス様がわたくしとトレイの間に素早く割り込む。
「……セレス」
アビスがセレス様の過剰な警戒を制しようとする。
だが、わたくしは彼女の言うことも尤もだと思った。
わたくしはまだ「賓客」ではあっても、信頼された「仲間」ではないのだ。
王宮のレティシア様はわたくしを「毒草師」と呼んだ。この城でわたくしが同じ疑いをかけられても仕方がない。
「セレス様。わたくしが、まずいただきますわ」
わたくしはセレス様が差し出す銀の盆を待たず、自らそのティーカップに口をつけた。
温かいカモミールの香りがわたくしの心を落ち着かせる。
「……大丈夫です。毒など、入っておりません」
「……!」
わたくしが自ら毒見をしたことに、セレス様だけでなくアビス様もわずかに目を見開いた。
セレス様の冷たかった瞳に一瞬、当惑の色が浮かぶ。
アビス様は、ふう、と重い息をつくとセレス様の手を制した。
「……よい。下がれ、セレス」
「しかし、王」
「わたくしは、彼女の『庭』の香りを、知っている」
アビス様の紅い瞳がまっすぐにわたくしを捉えた。
「あの瘴気の澱みでさえ、わたくしの頭痛を和らげた。その香りがする茶だ。わたくしが、飲もう」
彼の言葉には、わたくしの力への確かな「信頼」がこもっていた。
セレス様とヴァイス様が固唾をのんで見守る中、わたくしは震える手でティーカップをアビス様の机に置いた。
ふわりと、わたくしとコハクの力を込めた浄化の香りが広がる。
その香りを吸い込んだ瞬間、アビス様の険しかった眉間の皺がほんのわずかに和らいだ。
「……これは」
彼がその白い指でカップに触れようとした、まさにその時。
「キュイ!」
それまでわたくしの腕の中でじっと王の様子を窺っていたコハクが、突然わたくしの腕から飛び降りた。
そして、ためらうことなく机を飛び越え、魔王アビスの膝の上へとぽす、と着地したのだ。
「「「……!」」」
わたくしとヴァイス様、セレス様の三人の息が止まった。
聖獣が、瘴気の呪いの中心である魔王の体に直接触れたのだ。
「こ、コハク!? だめよ、無礼でしょう……!」
わたくしが慌ててコハクを呼び戻そうとする。
「……待て」
アビス様がわたくしを手で制した。
当の魔王は、あまりの出来事に完全に凍りついていた。
その紅い瞳が、信じられないものを見るかのように自分の膝の上を見下ろしている。
(……温かい)
それがアビスが最初に感じた衝撃だった。
瘴気に蝕まれ常に氷のように冷え切っていた彼の体に、聖獣のまるで陽だまりのような「温もり」がじかに伝わってくる。
彼が結界に触れようとした時の、あの焼けるような「拒絶」はどこにもなかった。
それどころかコハクは、アビス様の膝の上でくるりと丸くなると、彼の瘴気と戦い続ける冷たい精神に寄り添うかのように、額の琥珀色の宝石を彼の胸にすり、と擦り付けた。
「キュゥ……」
(大丈夫だよ。わたくしが、温めてあげる)
(……なんだ、これは)
アビスは混乱していた。
聖獣の毛皮を通して伝わってくる純粋で清浄なマナの温もり。
それはわたくしのハーブティーの香りとはまた別の力で、彼の精神を蝕む「呪い」の冷たさを内側から直接溶かしていくようだった。
生まれてこの方感じたことのない、「癒やし」の感覚。
この小さなモフモフの生き物が、わたくしの苦痛を理解しているとでも言うのか。
「……フ」
アビスの唇から、彼自身も気づかないうちに乾いた笑いが漏れた。
彼は、そのモフモフの「温もり」を膝に感じながら恐る恐るわたくしが差し出したティーカップを手に取った。
そして、清らかな香りと聖獣の温もりに包まれながら、その「浄化の聖水」を一口飲み干した。




