1-2:聖女の涙と嘘
「エリアーナ! よくも、よくも私のレティシアを苦しめてくれたな!」
わたくしが床に膝をつき、礼を取るよりも早く、王太子殿下の怒声が鼓膜を突き破った。
磨き上げられた大理石の床に声が反響し、部屋全体の空気がビリビリと震える。
殿下の顔は怒りで赤黒く染まり、普段は完璧に整えられている前髪が、感情のままに逆立っているようにさえ見えた。
その雷のような声に、待ってましたとばかりに、レティシア様がビクリと華奢な肩を震わせる。
「きゃっ……!」
白いレースの扇が手から滑り落ち、カラン、と乾いた音を立てた。
彼女は、まるで嵐に怯える小鳥のように、さらに強く王太子殿下の腕にしがみつく。
「殿下、もうおやめくださいまし……! わたくしはもう、大丈夫ですわ。きっと、エリアーナさんは、わざとではなかったと……うっ」
か細い、涙に濡れた声。
だが、その声には奇妙な強さがあった。わたくしを庇うふりをしながら、確実に「エリアーナが何かをした」という前提を王太子殿下に刷り込んでいる。
(わざとではなかった、ですって……? いったい、何が?)
わたくしの頭の中は、疑問符で埋め尽くされた。
「レティシア、君は優しすぎる! こいつは、君のその海のように深い優しさにつけこんだのだ! この卑劣漢めが!」
王太子殿下は、わたくしが心酔する聖女様を傷つけた「親の仇」でも見るかのように、わたくしを憎悪に満ちた目で睨みつける。
事情が、全く飲み込めない。
わたくしが聖女様と最後にお会いしたのは、三日前の定例報告の時だ。
いつものように、管理日誌と、花壇で収穫したばかりの清浄なハーブ(カモミールとレモンバームだったはずだ)を侍女の方にお渡しした。
レティシア様は、わたくしと直接顔を合わせることはなく、いつも侍女を通して「ありがとう。聖女の力が高まるようだわ」と、上辺だけの感謝を伝えてくるだけ。
あの時、何か不手際があったというのだろうか。
わたくしは、両脇を固める衛兵の圧力を感じながらも、ただ困惑し、事実を確認するために口を開いた。
「あの、殿下。恐れながら申し上げます。わたくしが、聖女様に何か、ご迷惑をおかけしたのでしょうか?」
「とぼける気かッ!」
わたくしの冷静な問いかけが、さらに王太子殿下の怒りを買ったらしい。
彼が椅子を蹴るようにして立ち上がると同時に、控えていた側仕えが、待ってましたとばかりにわたくしの目の前に、あの豪華な「管理日誌」を突きつけた。
「これを見ても、まだ白を切るつもりか!」
側仕えが、乱暴にページをめくる。
そこには、わたくしの几帳面な文字で、三日前に献上したハーブの種類と量が記されていた。
「聖女レティシア様は、貴様がこの日誌と共に献上したハーブティーを飲まれ、丸一日、高熱と苦痛に苛まれ、床に伏せられたのだ!」
側仕えの甲高い声が、わたくしを断罪する。
「これに、貴様が『毒』を仕込んだのだろう! 聖女様を害そうなど、国家反逆罪に等しいと知っての狼藉か!」
「毒、ですって?」
わたくしは、思わず声を上げた。
衛兵に掴まれた腕が痛むのも忘れ、側仕えを睨み返していた。
園芸師として、植物の専門家として、その一言だけは、断じて聞き捨てならない。
「お待ちください、殿下!」
わたくしは、王太子殿下に向き直り、必死に言葉を紡ぐ。
「わたくしが聖女様の花壇で育てているハーブは、全てわたくしが種から選び、土を耕し、わたくしの管理下で収穫しております! あの花壇は、わたくしが長年かけて培ったスキルで、王宮の他のどの場所よりも清浄なマナに満ちています! そこに、毒となるような要素など、万に一つも入るはずが……!」
わたくしは、専門家としての知識と矜持に基づき、冷静に、そして熱を込めて反論した。
わたくしが管理するあの花壇は、わたくしの「植物の力を引き出す」スキルによって、土そのものが浄化され、最高の状態に保たれている。
そこで育ったハーブが、人に害をなすことなど、天地がひっくり返ってもあり得ない。
わたくしの言葉は、真実だ。何一つ、やましいことなどない。
理路整然と事実を述べようとするわたくしの声は、しかし、計算され尽くしたタイミングで、聖女様の甲高い悲鳴によって無残に遮られた。
「ひっ……! 恐ろしい……!」
まるで、わたくしの反論が、彼女にとって刃物で突き付けられたかのような衝撃だった、とでも言いたげに。
レティシア様は、真っ青な顔でわなわなと震え始めた。その演技がかった震え方に、わたくしは逆に冷静になっていくのを感じた。
「殿下……わたくし、怖いですわ……!」
今にも気を失いそうなか弱い声で、彼女は再び王太子殿下にしなだれかかる。
「ご覧くださいまし、あの方の目を……! 自分が犯した罪を、わたくしがこれほど苦しんだというのに、一切反省の色もなく、まだ言い訳を……!」
涙をダイヤモンドのように浮かべた美しい瞳が、縋るように王太子殿下を潤んだ光で見上げる。
(わたくしの目、ですって?)
わたくしは、ただ真実を述べようと、専門家として事実を伝えようと、真剣になっていただけだ。
それが、彼女の手にかかれば「反省の色もない、冷酷な目」に変わるらしい。
その完璧なまでの「虐げられた悲劇のヒロイン」の姿に、王太子殿下の怒りは、庇護欲という名の愚かな炎をまとって、さらに激しく燃え上がったのだった。




