5-3:魔王城と側近たち
「……では、行くぞ。離れるな」
わたくしが頷くと、魔王アビスは、わたくしとコハク、そしてわたくしが根ごと掘り起こした薬草の苗木が入った麻袋ごと、彼の魔力が作り出す「影」の中に入れるよう手を差し伸べた。
わたくしは、自分の小さな聖域に最後に一度だけ振り返る。
(ありがとう、わたくしの最初のお城)
コハクを強く抱きしめる。
「キュ?」
コハクが不安そうに鳴いた。
「大丈夫よ、コハク。わたくしと一緒よ」
わたくしが彼の影の領域に足を踏み入れた瞬間、視界が真っ暗になり、次の瞬間には凄まじい速度で景色が「流れ」ていく感覚に襲われた。
(……これが、魔王様の、魔法……)
物理的な移動とは違う。空間そのものを掴んで手繰り寄せているような、途方もない力だ。
コハクを抱きしめる腕に力を込める。瘴気の森の陰鬱な景色が、足元を過ぎ去っていく。
そして、ほんの数分と経たないうちに、わたくしたちは巨大な黒曜石の広間に立っていた。
魔王城、「玉座の間」。
(……着いた)
わたくしは、あまりの移動速度にまだ目が回る感覚を覚えながら、よろけそうになる足を叱咤した。
そこは、王宮の「白亜の間」とは対極の空間だった。
すべてが黒。磨き上げられた黒曜石の床が、天井から吊るされた青白い魔道具の光を冷たく反射している。
「白亜の間」が光を見せつけるための空間なら、ここは影を秘めるための空間だ。
窓は強力な魔力で瘴気を遮断する特殊なガラスが嵌め込まれているが、その向こう側には常に紫色の絶望の霧が渦巻いていた。
アステル王国の王城のように美しい庭園や市街地は見えない。見えるのは、戦い続けている現実だけ。
そして、空気が重い。
わたくしの「聖域」とは比べ物にならないほど、濃密な瘴気の気配が城の石そのものに染み付いている。
わたくしは、この淀んだ空気に思わず息を詰めた。
わたくしの浄化の力がこの城の瘴気に反応し、無意識に肌の周りで金色の光を放ちそうになる。
(……だめ、抑えないと)
わたくしは、この力が魔王やここにいる「魔族」の方々にとってどのような影響を与えるか分からない。必死でその力を内側へと抑え込んだ。
「我が王! ご無事で……!」
わたくしたちの突然の出現に、広間にいた一人の老紳士風の魔族が駆け寄ってきた。
彼は王宮の宰相のような華美な服ではなく、質素だが機能的なローブを身につけている。
「そして、そちらの方は……? おお、なんと……清浄な気配。そして、聖獣様まで……」
彼は、わたくしが抱くコハクと、わたくし自身から抑えきれずに漏れ出す微かな光を見て、驚きと希望に満ちた目で魔王を見上げた。
だが、その温かな視線は、すぐに別の二つの鋭い視線によって遮られた。
「……チッ。人間、か」
玉座の脇に控えていた一人の巨漢の男。爬虫類のような硬い鱗に覆われた肌、背中には巨大な翼を畳んでいる。竜人族、というものでしょうか。
彼の体格は王宮の衛兵など比べ物にならないほど強靭で、その全身から「武」の圧力が放たれている。
彼はわたくしを、まるで汚物でも見るかのように、あからさまな敵意と不信感で睨みつけていた。
「王よ、それが『浄化の力』だと? か弱そうな人間の女ではないですか。それとも、アステル王国が送り込んだ間者では?」
「……」
もう一人は、女性だった。
侍女服を完璧に着こなした、妖しいほどに美しい女性。長くしなやかな尾がゆらりと揺れている。おそらく、妖狐族というものでしょう。
彼女は竜人族の男のように敵意は示さない。
だが、その微笑みの奥で、わたくしを頭のてっぺんから爪先まで、まるで値踏みするかのように冷静に「評価」しているのが分かった。
(……王に害をなすか。利用価値はあるか。なぜ、聖獣を連れているのか……)
その瞳は、わたくしを「人間」としてではなく、「道具」あるいは「未知の要因」として分析している、冷徹な光を宿していた。
(……怖い)
わたくしは、二人の圧倒的な威圧感に思わず一歩後ずさりそうになった。
王宮で向けられた、レティシア様や王太子殿下の根拠のない侮辱や嫉妬とは違う。
あの二人の悪意は彼らの「小物感」と「浅はかさ」に起因するものだった。
だが、この二人の視線はもっと本質的な、「異物」を見る目だ。
彼らにとって、わたくしは「敵国」の人間であり、この瘴気の城にそぐわない「清浄な力」を持つ危険な存在なのだ。
わたくしは、自分が敵地の中枢にたった一人で飛び込んできたのだと今更ながらに痛感した。
緊張で息が詰まる。わたくしはコハクを抱きしめる腕にぎゅっと力を込めた。
その、わたくしの恐怖を感じ取ったのだろう。
腕の中のコハクがわたくしの胸にすり寄ると、くすぐったい舌でわたくしの頬をぺろりと舐めた。
「……キュ!」
(大丈夫だよ、エリアーナ。わたくしがついてる)
まるで、そう言ってくれているかのような温かい感触。
「……コハク」
わたくしは、その小さな温もりに強張っていた心がわずかに解れるのを感じた。
その、わたくしとコハクのやり取りを、魔王アビスは紅い瞳で静かに見つめていた。
そして、わたくしを睨みつける竜人族の男――ギデオン、と呼ばれた――に向かって、低い、絶対零度の声を発した。
「ギデオン。口を慎め」
「……っ! しかし、王!」
「聞け」
魔王の声が玉座の間に響き渡る。それはわたくしに請願した時の声とは違う、絶対的な王者の声だった。
「このエリアーナ殿は、わが領地の『賓客』である。アステル王国が追放した『毒草師』ではない。我らが悲願を叶える、唯一の希望だ」
彼は、わたくしの前に、まるでわたくしを守るかのように半歩だけ進み出た。
その漆黒の外套が、わたくしをギデオンの射殺すような視線から隠す。
「いかなる無礼も許さん。……ヴァイス、ギデオン、そしてセレス。彼女は、わたくしの客だ」
その言葉には有無を言わさぬ王の威厳が満ちていた。
ギデオンは悔しそうに歯噛みしたが、「……御意」と短く答え、何も言わずに片膝をついた。
老紳士のヴァイスは、「もちろんでございます、王よ」と深々と頭を下げる。
そして、あの妖狐の侍女――セレスと呼ばれた彼女は、その冷たい微笑みをほんの少しだけ深めた。
「……御意に」
セレスは優雅に一礼すると、わたくしに向き直った。
「エリアーナ様。わたくしは侍女長を務めますセレスと申します。王がお呼びになるまで、お部屋の準備を。……まずは、その長旅のお汚れを、落としていただきませんとね」
その言葉はどこまでも丁寧だったが、わたくしの「泥だらけの作業着」を暗に指摘していた。
(……やはり、ここでも、わたくしの格好は……)
王宮での「不快」という言葉が蘇り、わたくしは小さく身を縮めた。
だが、魔王アビスがセレスの言葉を遮った。
「セレス。エリアーナ殿の世話を。彼女が『必要』とする、あらゆる便宜を図れ」
「……かしこまりました」
魔王が、わたくしの「服装」ではなく、「必要とするもの」と言ったことに、セレスの眉がわずかに動いたのをわたくしは見逃さなかった。
(……わたくしの、必要なもの?)
それはドレスや宝石ではない。
わたくしの、剪定ばさみ。ナイフ。そして、土と、薬草の苗。
(この方は、わたくしを『賓客』として飾り立てるのではなく、わたくしの『仕事』を尊重してくださる……?)
わたくしは、魔王アビスの冷たい横顔に、初めて王宮の誰にも感じなかった「信頼」の可能性を見た気がした。




