その9
ドアを人ってすぐ右側のテーブルにM達は座っていた。いつもの場所だ。他に客席は正面奥のカウンターと、左手の壁に沿ってテーブルがある。十二、三人で来れば満席になるこぢんまりとした店だった。M達のグループはこの店の常連で、給料日までのツケがきき、つまみも割安になっていた。 「先生、食べない」
Uがまた諦三に焼芋をすすめる。諦三は実際食欲がなかった。 「女性の体にはこういう繊維質が必要らしいです ね」
諦三が笑顔で言うと、 「平井さんは食べん方がいいよ。副産物が濃 そうやから」
Yが焼芋の皮をむきながら言った。皆が笑った。
「それはどういう意味ですか。お互い様でしょう」
「いや、あれは体質でかなり差があるみたいよ。……Mさんなんかも要注意だな」
焼芋を頬張っていたMはちょっと喉に詰まらせ、「あんたはどうなん」とY に言い返した。
「やせ型は大丈夫よ」
Yはすまして答えた。 「どうだか」とMは言い、皆は笑った。
「いらっしゃいませ」
目が少しやぶにらみのママが金盆に水割りのセットを載せて持ってきた。諦三はカラオケで歌っていて、このママに電源を切られたことがある。初めてこの店に来た時のことだ。 「皆で来た時は一緒に楽しみましょう」と彼女は言った。テープル席ではYの弾くギターに合せてMやN が声を張り上げていた。それまでは彼等がカラオケを占有していて諦三は歌えなかったのだ。彼等の合唱が始まったのを機に、諦三はカウンターの椅子に座り、カラオケのマイクを握った。 ママの言う ことはわかったが断りもなくスイッチを切るというやり方に腹が立った。M達には仲間外れにされたという疎外感、ママに対してはイチゲンの客の無力さを味わされたものだ。
水割りのグラスか揃ったところで乾杯になった。
M達はくつろいだ調子で話のやりとりをし、笑い声を立てる。諦三もその雰囲気のなかに入っていきたかった。ここまで来たのだ、もう何も考えるな、と何度も自分に言い聞かせたが、午後からずっと頭にわだかまり続けてきた思いは、いわば「癖」のようになって、追い払うことができなかった。
M達もそれを感じるのか、諦三にはあまり話しかけてこない。一人雰囲気をこわしている自分が意識され、諦三は辛かった。しかしどうしようもなかった。理加子はどんな思いでいるだろうー思いはいつの間にかそこへ向っている。彼女の周囲のすべての人間ー舅、姑、小姑、そして義兄、従業員ーどれもが彼女にとって気の許せない人々なのだ。夫である諦三がその誰とでも対立していることからしても。
諦三の父親は諦三と姉夫婦との確執において、ただ諦三を叱るばかりだった。母親も店を継ぐのは姉と考えているようで、ロでは諦三の肩を持っても、結局は姉夫婦の意思を立てた。従業員、特に調理士などは姉夫婦にさえ頭を下げておれは、という態度で、諦三に会っても挨拶すらしなかった。店は諦三にとってストレスの集中する場所だった。感覚的には敵地だった。そんな場所で理加子が一人で働いていることを思うと諦三は苦しかった。私は嫁だから、あなた以上に弱い立場にある、と理加子は時折りこぼした。長男の嫁に来たのに、それに見合うものがない実情に理加子は確かに失望していた。
「理事長はR大の理事長になる気みたいね」
組合の執行委員をしているMが言った。私立R大は補助金の不正受給が明るみに出て、内紛を起こしていた。
「T高の組合はそれに賛成しているらしい。R大を系列校にしてもメリットはないと思うがね」
T高は男子校で 、M高と同じく理事長の経営下にある学校だった。その話題でひとしきり話が続いた。
UとYがカラオケで歌い始めた。諦三もマイクを握った。歌っている間は胸のわだかまりを忘れることができた。カラオケは歌い終ると点数が出た。「忘れな草をあなたに」を歌ったUが最高点を出した。歌の好きな諦三だが、Uを抜いてやろうという気力が起きなかった。
もう帰ろう、ここを去ろう、という思いが呪文のように諦三を縛る。それを脱しようとして諦三は踠いた。自由になりたい。吐息とともに諦三は思った。酒場の椅子の上で、罠にはまった獣のように諦三は動きがとれなかった。
とにかくKを待とうと思った。自分がここまで来たのはKに借りを返すためなのだ、と諦三は思い直した。八時を過ぎた頃、音楽科のNが現れた。Nは謝恩会が終るとすぐ姿を消していた。服を着替え、風呂にでも入ったようなさばさばした顔で 現れたNを見て、自分の馬鹿正直さを諦三は思った。こういう参加の仕方もあるのだ。