表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/10

その8

 理事長の話の後には校長の話が続き、ようやく乾杯となった。               

 テープルには舟にのった活造りや、二 三種類の肉、サラダ、シチュー、それにデザートの菓子などが並べられている。諦三はFと話しながら飲んだ。Fが隣だったのは幸いだった。職員室でその隣に座っているAと違って、Fはおっとりとした性格で、こららの話を柔らかく受けとめてくれる。Fと話をしながら諦三は理事長に挨拶に行くことを考えていた。教諭として採用してくれたことの礼を言わなければならない。それに昨日の件を校長が理事長に伝えているはすで、その答を理事長 自身から聞きたい気持もあった。諦三は背後のテープルの動きに注意していた。

 理事長のところに人々が挨拶に来始めたようだ。そろそろいいな、と諦三は思った。酒をあまり飲まないうらにすませた方がいい。こんなことは早く終るに限る。諦三はグラスのビールを飲み干した。そしてビール瓶を探した。Fが誤解して諦三のグラスにビールを注ごうとした。諦三は「あ、いい 」と余裕なく断った。Fは怪訝な顔をした。悪いなとは思ったが、今から理事長のところにビールを注ぎに行くとは言えなかった。おそらくFは来年度も非常勤のままだろう。四月から教諭になるという話を諦三は非常勤の誰にもしていなかった。

  理事長は向うむきになって隣の理事と話していて諦三に気づかない。諦三は突っ立っているのもおかしいので手前の理事にどうぞ、とビールを勧めた。その理事は手を振って、まずこちら、と理事長に手先を向けた。

理事長と話していた理事が気づいて、理事長に告げた。理事長は振り向くと、諦三の顔を見て、おう、と言った。

「どうもありがとうございました。どうぞ」

 諦三はビール瓶を差し出した。理事長はそうか、とうようにビールを受けながら、

「校長から話は聞いたよ。事務の手続きが時間がかかって連絡が遅れとるが、あんたがK高校に教諭としていくことは決まっているのだから、安心して、な」

「いや、どうもすみません、頑張ります。」

「うむ」

 諦三は安心したと同時に、K高校と聞いてやっぱりかと重荷を負った気になった。

 理理事だけで終るわけにもいかず、そのテーブルに並んでいる理事、校長、父母教師会の役員などに諦三は頭を下げてビールを注いで廻った。K達が会場のどこかでこの様子を見ているだろうと思った。Kはあいつもなかなかやるなと思って見ているだろうが、他の連中は米つきバッタと俺を見ているかもしれないと諦三は思った。とにかく諦三はやることをし終えた充足感を抱いて自分の席に戻った。

 席に着くと、前に座っている教師達が気になった。彼等は乾杯前と同じように静かだった。その中の一人が諦三の顔を黙然と眺めた。日頃自分達とはろくに話もしないくせに、理事長達には愛想のいいことだ。そんな呟きを諦三は彼等から聞くのだった。諦三は再び立ち上がると、前に座っている教師一人一人にビールを注いでいった。一人が受けただけで他はジュースを飲んでいたり、車で来ているから、と言って断った。にこりともせずに断る者もいた。もう動くまい、という気持で諦三は腰をおろした。

 宴は長々と続いた。舞台では着物姿の母親達の踊りがあり、教師達の合唱があった。アルコールが回ってくるにつれて、自薦、他薦で教師や父兄が舞台に上がり、自慢の声を張り上げた。いつの間にか理事長と理事の姿は消えていた。人々はあちこちに動き、会場はしだいに乱れてきた。諦三はFとの話にも倦んでいた。K達がどこにいるかはわかったが、彼等は彼等で楽しんでいるようであり、諦三と気の合わない者もいるそのテーブルにわざわざ入っていく気はしなかった。Kも敢えて諦三に近づこうとはせず、一度ビール瓶を持って隣に座ったが、呼ぶ者があって去った後は側にやってこない。

 諦三は白けた空間のなかに置かれた。なぜまだここに居るのだ。理事長に挨拶もできたし、確認もできた。もう用事は終った。帰ろう。今帰れば、アパートで少し横になって酔いを醒ましてから店に出ても、夜の忙しい時間に間に合う。 K達は今夜酒を飲もうと誘ってきたが、この様子では俺がいてもいなくても構わないようだ。し かし理加子は俺を必要としている。俺が店に出てやることがあいつにどれだけの支えとなることか。今なら帰れる。トイレに行くようにして外に出れば気づかれないだろう。これが飲みに行くメンバーが集まった後では抜けにくい――。

 諦三は吐息をもらした。どうしたらいい。

 拍手が起きたのでその方を向くと、いい気分に酔っている校長が母親の一人とダンスを始めたところだった。


 教師というのは実に閑な人々だと諦三は思う。謝恩会が終って二次会に行くメンバーは、ロビーでコーヒーを飲み、煙草をふかし、馬鹿話をし、そして今夜のスケジュールについて長々としゃべり合った。諦三もその長閑なメンバーの一人だったので批判はできないのだが、心の裡は長閑というわけにはいかなかった。ここで帰ろう。いや、もう遅い、ここまできたら行くべきだ。殆ど三分おきぐらいに諦三はこの問答をくり返していた。心おきなく寛げる他の人々が羨ましかった。自己の境遇が我ながら憐れまれた。表面上の落着いた態度とは裏腹に諦三は苛立っていた。酒場に行くなら行くで早くこの場を脱したかった。

 Kは0という教師と既に飲みに出かけていた。後で合流すると言う。エレベーターの前でKは、「金はいくらでもありますから大丈夫ですよ」と0に胸を叩くしぐさをした。そしてソファーに座っていた諦三に笑いかけた。諦三はK の言葉と笑いを自分への皮肉ではないかと疑った。諦三は今までKに何度もおごられ、それを返せないでいた。その負い目が諦三を素直にさせなかった。それにKが0と出かけることを、Kは自分を避けていると意識の偶で諦三は捉えていた。

 酒場に向うタクシーの中に諦三は虚ろな気持で座っていた。このまま飲みに行っても落着いて楽しめないことは予想できた。むしろ楽しめない自分を周囲の人に気がねして苦しむことになりそうだ。何度こんな思いをすることだろうと諦三は溜息をついた。もう店には出ないとしても、今から帰って、アパートでゆっくりした方が明日のためにも合理的だと思えた。タクシーが国道十号線との交叉点に差しかかった。ここで降りればアバートは近い。しかし今さら帰るというのもおかしかろうー。諦三は何も言わず、車は交叉点を通り過ぎた。同じような思いで諦三は河原口の交叉点も見送った。

 飲み屋街に着いた一行は、まずKと0が行った店に向かった。雑居ビルの二階のその店はシャッターを降ろして閉まっていた。Kと0は違う店に行ったのだろう。さてどうしようか、という話になった。家健科のWが、手の形をした人きな指輪をはめた指で耳の上の髪を撫ぜあげながら、

「今からルックスに行く? ちょっと早いわね」

「パチンコでもしようか」

 英語科のM が欠けた前歯を見せて笑いながら言った。

「Uさん、この前、紙袋一杯チョコレートを取ったそうやない」

「うん。あの時は連がよかったのよ」

 数学科のUが落ちくぼんだ目を細めて答えた。諦三には彼等が言う、時間が早すぎる、という感覚がよくわからなかった。

 結局、ぶらぶらと「ルックス」まで歩いていくことになった。

 鹿路町の狭い路地を何度か曲り、電車道を横切って今日町に入った頃、五人のグループは歩く速さによって二つに分れていた。Mと体育科のYが先行し、諦三とWとU は遅れた。

 前を見てもM達の姿は見えなかった。諦三は後ろを振り返り、WとU を見た。二人の女性は五メートルほど後を何かしきりに話しながら歩いてくる。ピーという音がして、前方の路地から石焼芋の屋台が現れた。それは何憚るものはないという甲高い音を響かせながら近づいてくる。                                     

 屋台は諦三の脇を通り過ぎた。ぶんと焼芋の匂いがした。                          「焼芋食べようか」                                            「うん、おいしそうね」                                                 

 諦三が振り返ると、WとUの前で石焼芋屋がリアカーの柄を下ろしているところだった。

「先生、食べない」

  Uが諦三に声をかけた。

「いりません」

 諦三は笑いながら手を振った。

 横が公園だった。彼女らを待つ間にトイレに行っておこうと諦三は思った。公園の向こう端の隈にトイレはある。公園を横切りながら、やはり飲み屋街にある公園で、女がトイレの外壁に押しつけられ、男のくちづけを受けていた情景を不意に諦三は思い出した。四、五年前の記憶だった。

 小便が出た。溜息が出た。この瞬間だけは解放されていると思った。

 路に戻るとWとUの姿がなかった。石焼芋屋ももちろん消えていた。た。諦三は当惑した。当惑したが何となくおかしかった。彼女達は諦三が先に行ったと思ったのだろう。どうしたものだろう、と諦三は思った。「ルックス」の場所を諦三は正確には知らない。これまでに二度行ったが、皆と一緒に行くので知らないうちに着いている。路順など覚えてない。                                                                     

 どうしたものだろう。いっそこのまま帰ろうか。今なら何の抵抗もなしに帰れる。天が授けてくれたチャンスだ。諦三は迷った。「ルックス」の場所がまるでわからなければいいのにと思った。大体の位置がわかるので、このまま帰れば意図的に帰ることになる。それが嫌だった。先に行っている連中 対しても弁明しにくいし、自分の気持の上でもコセコセしすぎる感じですっきりしない。

 諦三は仕方なく歩き出した。ネオンが連なる通りに出た。この通りだと思ってしばらく歩いたが見当たらない。本当に迷ったかな、と思うと少し嬉しい気がした。もうここで帰ろうという囁きが再び聞こえた。しかし北側にもう一本通りがあるのがわかった。それを知った以上、確かめないでは帰りにくい。その通りに入った。しばらく歩くとMが立っているのが見えた。もう逃れられなくなったと諦三は思った。

「どうしたん」

 諦三が近づくとM が言った。

「いや、道がわからなくて」

「ここ、ここ」

 Mは人差し指で自分の左側を指し、その方向に入っていった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ