その7
二時過ぎに「アラジン」を出た。準備もあるので謝恩会の会場にそのまま向うというKとNを諦三は会場近くまで車で送った。そしてアパートに戻った。時間の余裕はなかったが、金を持ってなかったので取りに戻ったのだ。朝の状態がそのまま残されている居間に諦三は立った。慌ただしく身づくろいをして出かけていっただろう理加子の姿が浮かんできた。引き出しを開け、封筒の中から一万円札を一枚引き出した時、理加子、すまない、と諦三は呟いた。このまま出かけていいだろうか。電話の前で諦三は迷った。電話をかけても仕方がないとは思った。どうせ店には出ないのだから。今から謝恩会に行ってくるという電話に理加子も快い応答はしないだろう。しかし諦三は理加子の許し、あるいは承認のようなものが欲しかった。しぶしぶとダイヤルを回し、目を閉じて、コール音を聞いた。
「はい。アッリヴェデルラでございます」
義兄だった。諦三の心が一瞬強張る
「ああ、あの諦三ですが、理加子をお願いします」
返事もなく受話器が置かれ、オルゴールが耳に流れこんでくる。その音の向こうで理加子を呼ぶ声が小さく聞こえる。諦三は吐息を一つして天井を見上げた。オルゴールの音が耳を洗っている。理加子はなかなか出ない。店は忙しいのかな、と思うと諦三はちょっと心苦しい。ゴトッと受話器を取る音がして、
「はい、何」
理加子だ。
「ああ、忙しい? 」
「うん」
「そう、あの、俺、今から謝恩会に行ってくるから」
「ああ、どうぞ」
「夜はどうするの。店に出るの」
「うーん、夜か。夜はちょっと先生方と飲みに行かないけんやろ」
理加子の吐息が聞こえた。
「はい、はい、お好きなように。ゅっくりしてきたらいい」
皮肉を言うな! と諦三は思った。
「とにかく行ってくるから」
諦三の声も少し強張る。
「あまり飲みすぎないようにね」
「うん」
受話器を置いて、諦三は大きく息を吐いた。不幸、という言葉が頭の中で点滅する。理加子一人を苦痛な環境に置いて、お前は酒を飲みに行くのか、という自責と、それに対する反発が諦三の内部で葛藤する。いっそ行くのをやめようか、と思う。店で理加子と一緒に居る方が気が楽だ、と思う。しかし謝恩会に行かなければK達をすっぽかすことになる。後で言い訳するのが煩わしい。諦三は渋面をして靴を履き、外に出た。急がなければ三時を過ぎてしまう。始まっている会場に一人遅れて入っていく時の気持は想像するだけで胸が詰まった。理事長も出席しているのだ。
タクシーを急がせて、会場までの一本道に入った時が三時五分前。どうにか三時までには会場に入れるメドが立った。ほっとすると、自分の行動が省みられた。理加子にはいかにも出席しなければいけないというロ調で言ったが、別に謝恩会への出席は義務づけられていない。基本的には飲みたい、食べた 、楽しみたいと い う欲求のために出かけるのだ。目分のような境遇の者が、心理的負担を負ってまで出席する代物ではなかった と思えた。さらに謝恩会というからには卒業生の 父兄が来ているはずで、三年のクラス担任や、長年勤めている先生 ならともかく、自分のような父兄に何の面識もない非常勤講師が行っても、会場ではつんぼ桟敷に置かれるのではないかと思えた。後の方の懸念は諦三の気持を本当に出席を やめる方向に沈みこませた。昼の間は店に出て、夜、教師達だけで飲む時に出てくればよかったと思っ た。しかし今さらひき返せなかっ た。前方に会場の富士見パレス か見えてきた。
建物にくら べて小さく感じられる入口の、自動ガラスドアを抜ける と、横の壁に今日の予約客の名を書いた看板が並んで掛けられていた。M高校の謝恩会は三階だった。諦三は会場に近づくことに躊躇を覚えながらもエレべーターの釦を押した。
エレベーターのド アが開くと、正面に受付があり、父兄なのだろう、和服姿の婦人が二人座っていた。非常勤講師の平井です、諦三が小声で名を告げると、婦人は何も言わず、名簿の諦三の名前の横に○印をつけた。やっばり来るんだ、飲み食いしたさに。そんな声を諦三は自分の裡に聞いた。
会場は右手の大広間だ った。会場前の廊下には顔見知りの教師が二、三人居た。諦三は 会釈して通り過ぎ、こちらに歩いてきていた制服姿の女の 従業員に 、コ ートはどこに預けたらいいか尋ねた。従業員は後ろをふり返って、廊下のつ きあたり 近くの部屋を指さした。
それは 大広間に隣接し た控室のような部屋だった。ドアを開けると、諦三と同じ よ うに今着いたらしい教師が四、五人居た。正面に カウンターがあり、その向うに和服姿の仲居が二人立っていた。仲居達の背後には、デバートのコート売場のように、衣紋かけにかけられた コートが金棒に吊り下げられて並んでいる。諦三がコートを差し出す と、黄色いプ ラスチック製の番号札を手渡された。部屋の両側面の壁には番号を打った金属製の小型ロッカーが取り付けられている。立派なもんだな、と諦三は思った。
会場の 下手の扉は開いており、息を軽く吐いて諦三は中に人っ た。人った所で、体育科のYが出席者に座席番号を書いたクジをひかせていた。 諦 三が 前に立つと、Yは情けない顔をして、「なくな った」と言った。ふざけているのはすぐわか ったので、「そんなこと言わな いでくださいよ」と言うとYは笑って箱を差し出した。Yの冗談で諦三の気持は少しリラックスした。会場の中を見るとかなり広く、テーブルが島になって六つほど置かれている。 一つのテープルに十人余りが腰掛けているようだった。ほぼ揃った出席者達は静粛に開会を待っている。諦三はそれらの人々の間を顔を伏せて、足早に歩いた。諦三のテーブルは右端の列の上だ。下手の入口からは十メートルほど歩かなければならない。中央の列の上のテーブルに理事長や校長が座っている。そこまで来てふと顔を上げた諦三の目と理事長の目が合った。諦三は会釈した。理事長は頷くように顎を引いた。
着席した諦三の前には日頃交流のない人々が六人並んでいた。Kのグループに属さない人々と言ってもよかった。主に商業科の四十から五十代の勤務歴の長い教師たちだ。諦三の右隣には同じ非常勤講師のFが座っていた。Fは職員室で諦三の前に座っている二十五才の女性だ。左側の席は二つとも空席になっていた。席に落ち着いた諦三は理事長とスムーズに挨拶ができたことをよかったと胸の内で反芻した。
主催者の父母教師会々長が挨拶を始めた。諦三は下を向いてテープルクロスを見ていた。やがてその姿勢を続けることが苦痛になった。顔を上げる必要がある。しかし自分の額のあたりに前に座っている教師達の視線を諦三は感じていた。顔を上げるとその視線とぶつかることになる。そうすれば対抗して睨み返すことになるだろう。それは避けたかった。しかししだいに苦痛は増す。他人の視線を恐れて顔をあげ得ない自分も情けなく思える。諦三 は 一気に天井を見上 げた。シ ャン デリアが輝いている 。天井は約一メートル四方の格子組になっていて、その桝の 一つ一つに花島模様が描かれている。豪華なものだ、と思う。天井から下りてくる柱も太い。 柱にはラッパ形のブラケットが付いていて、柔らかい光を放っている。さらに視線を下げて、諦三は前に座っている教師達の顔を盗み見た。ちらちらと視線を往来させたが、諦三を見つめている者はいない。教 師達はつくねんとし た表情で 下を向 いたり、前方を見て い る。そん な もんだな と諦三は自分の妄想を嗤った。
ゆとりが出て周囲に目をやる。誰も神妙な頻をしている。壁際に白服のポーイが二、三人ずつかたまって控えている。ホテルのようだ、と諦三は思った。農 協が経営するこの建物がオープンした時、 諦三も噂は耳にしたが、来てみるのは初めてだった。大したも のだと、下を向いて紺色の厚いカーペットを靴先で撫ぜ ながら諦三は思った。
理事長がマイクの前に立った。父兄に祝いと感謝の言葉を述べ、教職員の労をねぎらった後、今日の卒業式は大変立派で感銘を受けたと話した。さらに校長の式辞をほめた。諦三は時々頭を回らして理事長を見た。しっかり聞いているというジェスチャーだった。自分の存在を示す意識もあった。理事長という職も、こうして各学校を回って目配りのきいた挨拶をしなければならないのだから大変だな、と諦三は思った。
惑乱がきた。しだいに苦しくなってきた。今、ワアーと叫んだらどうなるだろう。学校関係者が一番恐れている理事長の話の最中に。自分の精神的変調が白日の下にさらされることになる。教諭としての正式採用の話も取り消されるだろうー。そう思うと諦三の心の緊張はさらに高まり、その圧力に耐えられずにワアーと叫びだしたい衝動に全身が包みこまれた。諦三は挙を握りしめて耐えた。手のひらと足裏に汗が滲むのがわかった。嵐の頂点が過ぎると、諦三は理事長の話の筋を一心に追おうとした。意識を一事に集中することで惑乱から逃れようとした。しばらくその努力を続けていると心も落着いてきた。
ほっと息をつく思いで顔を上げ、テープルの上を眺めた。額にも汗が出ているのがわかった。理加子、お前は俺が飲み食いできることを羨ましく思っているかも知れないが、こんな関門も経なければならないのだ。諦三はぼんやりとそんなことを思った。