その6
Eにアルバムを返すとまた所在がなくなった。諦三は煙草に火をつけた。こうして机にい つまでも座っているのも奇妙だ、と自分が意識された。そう思うと落着かなくなった。いった ん学校を出ようか、と諦三は思った。そうだな、と自分で自分に頷く。煙草を吸って吐いた。諦三の後ろを通りかかった音楽科のNが声をかけてきた。
「平井さん、今から生徒とアラジンに行くけど、後で来ない? 」
「あ、アラジン」
「うん」
「いいですね。はい、行きます」
「じゃ後で」
これだからな、と諦三は思った。職場に居ればいろいろな事が起きるのだ。仕事が済んだら、はいさようなら、という わけにはいかないのだ。諦三は心の中で理加子に呟いて い た。
職員室の中にもいくつかのグループがある。諦三が今までつき合ってきたのはKの交友範囲に属する人々だっ た。Nもその一人だ。だからア ラ ジンに行くという話はKも聞い ている気はした。しかし諦三は一応Kに声をかけておこうと思った。
Kは卒業生と話したり、他の教師と打合せをしたり、忙しく動いている。三年のクラス担任だったのでそのはずだなと諦三は眺めていた。Kがようやく自分の机についたので、諦三は側に行き、
「N先生がアラジンに行こうって言ってましたよ 」
「アラジン。うん、行こう。ちょっと待ってね」
Kは笑顔 を見せてそう言うと、書きこみをし ていた書類を持ってまた職員室を出ていった。
Kは学部は違うが諦三と同じ大学を卒業していて先輩に当る。レストランに居た諦三をM高校に紹介したのはKだった。K達は店によく来ていたらしいが、諦三はKが声をかけてくるまで彼等を知らなかった。自分と同じ大学を出ていると聞いて、Kは諦三に興味を抱いたらしい。諦三はそれまでに三度、短期間だ ったが他の高校に非常勤講師として勤めたことがあった。 そんな筋から諦三の存在がKの耳に人っていたのだろう。「一つの刺激にはなると思います」と初対面のKは勧めた。諦三はその時はまだ店を出る気持が固まっていなかったので、非常勤講師として勤めることになった。以来、諦三の学校での人間関係はKを軸として動いてきた。
忙し そうに職員室に戻ってきたKが、
「ほな、行こうか」
と諦三に声をかけた。その目に、待たしたことで気分を害しているのではないか、と諦三の表情を伺うような色がある。そんなところを諦三はKの優しさと解していた。
「はい、行きましよう」
Kに気を使わせないよう、間髪を人れずに諦三は答えた。
女子高生とはよくしゃべるものだ。サンドイッチを食べながらも話は途切れない。彼女等二人は一年生で、卒業式の今日は登校しなくてよかったのだが、ビアノの演奏や裏方の仕事のためにNが頼んで出てこさせたようだ。その代りに昼食をNがおごるという寸法だった。諦三は彼女達の弾けるような話に笑い、自分もその雰囲気に合せて思いつくことを面白おかしくしゃべった。そして、ふと、 これで今日は一日店に出ないことになったなと思った。
一 人 の生徒が諦三に、 先生ほど我慢強い人はない、と言った。もう一 人が、そう、そう、 と相槌を打った。クラスの皆がそう言っていると言う。二人は諦三が教えているクラスの生徒だった。諦三は、授業中生徒が騒がしく、誰も聞いていないのに、自分がそれに構わずしゃべり続けているという状況を言ったのだと悟った。それは教師としての一つの無力を示すことなのだが、彼女達は本当に自分を我慢強い教師と思っているのか、それとも皮肉で言ったのか、諦三にはよく分からなかった。しかし言い方に邪気はなく、諦三はほろ苦さを感じ、同時に生徒に親しみを覚え、何か暖かい言葉を返してやりたい気持になった。しかし面白く茶化して言ったつもりの言葉が思うような効を奏さず、諦三は自分のこの種の能力の無さに目己嫌悪を覚えた。
Kはここでも自由だった。生徒をからかい、 時には膨れっ面をさせ、 しかも傷つけず、次から次に言葉を発して淀むところがない。諦三は一つの才能だとそんなKを見ていた。
ドアが開いて国語科のIが入ってきた。Iは諦三達を見て驚いた顔をしたが、薄く笑い、仕方がないという感じで、諦三達のテーブルに近づいてきた。そして空いていた諦三の前の椅子に座 った。Iを見ると、女生徒達はククク と 下を向いて含み笑いを した。KとN はIに構わず女生徒達と話し続けた。 Iは何も言わす、頬のこけた細い顔のなかで目立つ大きな目をK達に向けている。諦三も前に座ったIに構わす、 それまでと同じようにK達の話の輪に加わっていた。
Iは皆で酒を飲むときも一人周囲から離れた感じでいる。打ち解けることがなかった。人にものを頼む時や、人から何かしてもらった時は、それがどんなに小さな事でも馬鹿丁寧に頭を下げた。用件以外にはめったに人と話をしない。職員室では時々椅子から立ら上がり、煙草を吹かしなが ら前方を黙念と眺 めていた 。それは岬の突端に立って海を眺めてい る風情だった。
KとIは机が 向き合っている。ある日、Kが自分の机の上にあった封筒をIの机の上に、「あんたのだろう」と投げると、Iがそれを激しく投げ返した。Kが「なんだ」という ように勢いをつけて投げ返すと、またIが投 げ返す。それが何度か繰り返され、結局、Kが笑いに紛らして終ったのだが、見ていた諦三の後味は悪かった。 Kが例の揶揄の調子で、 「煙草を吸う ばかりが能じゃな いぞ。仕事をせにゃ仕事を」と言ったのが原因だった。Iはヘビースモーカーで、机の引き出しにはいつもセプンスターが五、六箱人ってい た。
風変り なIだったが諦三には不可解ではなかった。むしろ内面的には親近感を覚える存在だった。諦三が自分の 中に病いとして見ているものをIも確かに持っていたから。諦三はIの自尊心を刺激する言葉を避けた。周囲の揶揄にIが時折り示す激しい反発は、Iの 自尊心の強さを示していた。そん な男の目尊心が傷つけられる時の痛みを諦三は理解できた。
目の前に座っているIを抜かして、K達と話を続けることに諦三は苦痛を覚え始めた。話をしたくなったら自分から加わってくればいいと考えていたのだが、諦三の方からIに二言、三言と話しかけるようになった。しかしIはそれにポツリと一言答えるだけで、後は黙ったままだ。なぜしゃべらないのだ。こちらが気を使っているのがわからないのか。諦三は次第に腹が立ってきた。Iは煙草を吹かしながら、テーブルの上を見つめている。それで社会人としてやっていけるのか。こんなところが甘えているのだ。頭の中でIへの批判が続く。諦三は自分の心の平衡が乱されてくるのを感じた。ふっと息を抜いて、壁に掛けられている時計に目をやった。 一時を過ぎている。理加子は今頃一人で、不快な環境のなかで働いているのだなと思った。
「オレ? オレはそんなのに興味ないもの」
生徒の一人が言った。諦三はその子に目を向けた。女らしい言葉をつかいなさい、という注意が頭に浮かんだが、それをストレートに言っては面白くない気がした。その一瞬の躊躇で、諦三は言うべき機を逸してしまった。 なぜ言わなかったのだ、と諦三は自問した。国語の教師としても適切な注意ではないか。
自分のことをオレと言うホステスが居たことを諦三は思い出した。理加子の実家に行った時、理加子の姉婿である義兄が面白いホステスがいると酒場に連れていってくれた。河内生れというそのホステスはロが悪く、ズケズケとものを言い、それがまた愛嬌になっていた。
生徒の言葉づかいを注意しなかったことが諦三の気持中に残り続けた。こんなことにひっかかるのも、Iが前に座って自分の心の平衡を乱したからだと思った。
「オレは……」
再びその生徒が言った。
「お前は河内の生まれか」
諦三が言うと、生徒はポカンとした顔を向けた。
「河内では女も自分のことをオレと言うそうだ」
諦三は冗談っぼく言ったつもりだったが、生徒は笑わず、むしろ表情を固くした。何か誤解したな、と諦三は思った。自分の言葉が生徒を傷つけたことを知った。諦三は苦い思いのなかで黙った。ストレートに、「女らしい言葉づかいをしろ」と言えばよかったと思った。