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その5

 やがて卒業生たちが職員室に姿を見せ始めた。教師を囲む輪ができる。カードに別れの言葉を書いてもらっているのだ。やはり同性の教師が頼みやすいらしく、女教師の周囲に輪ができている。非常勤講師のHの周囲が賑やかだ。五、六人の生徒か集まってキャッキャッと騒いでいる。諦三はその中心に立っているHの姿を見つめた。二本の三つ編みを上げて、後頭部に匍わせている。漆黒の髪が艶やかだ。卒業式のための髪型だろう。東洋的で、しかも派手なその髪型がHにはよく似合っていると諦三は思った。                                                                                                         

 Hは美人ではなかったが、人をひきつける活気のようなものがあった。海外旅行が趣味で、十ヶ国近くを廻っていると聞いた時から諦三はHに興味を抱いていた。机も離れており、話を交わす機会がなかったが、町年末の講師会の忘年会の折、Hがたまたま諦三の隣に座った。諦三が口にするいい加減な英語が、Hの海外旅行の思い出を甦らせるようで、ニ人は片言の英語で話をした。諦 三の予想通り、Hは女にしては珍しい熱情と視野の広さを持っていた。二月の初め 、Hが中国旅行の時知り合った スイスの青年を紹介した いと言ってきて、彼を交えて三人で午前三時まで飲んだ。 スイスの青年は日本滞在中Hの家に居るのだった。外人と話をするのは骨が折れたが、楽しい一夜だった。その後、三年生が自宅学習に入ると、三年生を教えていたHは学校に くる用事がなくなった。今日Hの姿を見るのは久しぶりだった。                                                                                                  

 諦三はHと目が合えば挨拶しようと思 って い た。しかし 一つの輪が崩れて去ると、別のグ ループが取り囲むという感じで、Hはなかなか解放されない。人間的魅力だなと諦三は思った。三年生を教えていたということは確かにあるにしても、これだけの生徒が寄ってくるのはそれだけではあるまいと思えた。諦三も三 年の一クラスを教えていた。昨日そのクラスの生徒三人 が何か書いてくれとカ ー ドを持ってきたが、今日は誰も寄ってこな い。期待はしていなかったが、Hの有様を見ていると一抹の淋しさをやはり感じた。                                                                                                     

 弁当を食べ終るといよいよ何もすることはなかった。時間はまだ十二時前だ。謝恩会まで三時間もある。一年生の学年末の試験問題は既につくったし、授業の準備は二、三時限分はし てある。試験の解答をつくってなかったと思った が、 それもまだ時間があり、今しなければ ならないことではなかった。 いったん帰って店に出ようか。そしてま た三時前に出かけてくるのか。 考えただけで諦三は気が重くなった。店で一人ぽっちの理加子にはそれが一番いいのだろうが、ただ存在証明のためにちょこちょこと店に出る自分の姿が我ながら憐れだった。一年間続けてきた学校と店との二重生活に諦三は疲れていた。 一点に落着きたい。それができない自分の境遇に歯ぎしりする思いがした。                                                    

 ふと前を見ると校長が立っていた。応接セットの横に立って前方を見つめている。校長は時々こうしてぬっと職員室に人ってくる。誰に話しかけるでもなく、職員の机の間を歩き、立ち止まると顔をしかめて前方を見つめる。 諦三は歩きぶりや態度が校長に似ていると言われたことがある。その時はっとした。自分でも似ていると感じていたからだ。店 に い る時の諦三がそうだった。話 す人もなく、ただ常務という肩書きをぶ ら さげ て、苦しそうな顔をして突っ立っている。                                                         

 諦三は校長に話しかけようかと思った。昨日の件は触れずに置くつもりだったが、校長が理事長に聞いてみようと言った以上、その結果を尋ねないのも失礼なように思えていた。それに何より、昨日の行為を繕いたい気持があった。校長に弁明すべき言葉は昨晩頭の中で整理していた。                           

 しかし、なぜか気遅れがした。校長か職員室にいる今がチャンスだ、と思ったが諦三の唇は動かなかった。校長はちらりと諦三の方を見て、職員室を出ていった。行ってしまった、と諦三は思った。まあいいや、と思った。しかし、校長が去り際に自分の方を見たことが気になった。目分が話しかけてくるのを待っていたのかも知れない。そう思うと諦三は反射的に立ち上かり、職員室を出た。が、廊下には校長の姿はなかった。                                

 諦三は堙草に火をつけた。所在がなかった。非常勤講師の多くが既に帰っていた。Aも居なかった。Hも話を交わす暇のないまま帰ってしまっていた。 諦三は机ニつを隔てて斜め前に座っている視聴覚担当のEを見て話しかけた。                                                             

「先生は謝恩会には出られるんですか」                                                                                          「ああ」                                                                                                             

 Eは白毛の混じった眉の下の目をしょぼつかせた。                                                                                          「せっかくだから出さしてもらおう、と思っているが、それまでの時間をどうしようかとね」                                                                  「はは、そうですね」                                                                                     

 諦三は煙を吸って吐いた。そしてEにアルバムを返さなければならないことを思い出した。アルバムは車の中にある。                                                      「あ、先生、アルバムどうもありかとうございました。今日持ってきたからお返しします」                                                                   「ああ、終ったですか。いい映画できてますか」                                                                                       「ええ、お蔭様で何とかかんとか」                                                                                                        

 諦三は高校の同窓会の幹事をしている。今年の総会が諦三たちの期の当番で、昨秋からその準備で追われていた。総会のアトラクションとして、学校の七十年余りの歴史を映像でふり返ろうという企画が立てられ、諦三はそのビデオ映画の製作委員の一人として、忙しい日々を送ってきていた。Eはその高校が旧制中学だった頃の卒業生で、諦三の遠い先輩だった。諦三はEから当時の写真資料として卒業アルバムを借りていたのだ。                        「ちょっと取ってきます」                                                                                                 「そこにないんですか」                                                                                                   「車の中に置いてます」                                                                                                    

「それならいいですよ。今でなくても」

「いや、すぐ戻りますから」

 諦三は職員室を出た。思い出してよかったと思った。ひまつぶしになるし、気がかりが一つ消えることにもなる。アルバムは借りてから三カ月以上になっていた。一週間ほど 前撮影を終え、返そうと車の中に人れておいたのだが、職員室まで持 ってくるのを忘れて二、三日が過ぎ ていたのだ。

 靴を履いて外に出た。校門の内側の広場を卒業生と父兄達が歩いている。校門の石柱の上には竹竿が立ち、日の 丸 が掲げてあった。珍 し いものを見るように諦三はそれを仰いだ。校門を出ると、やはり卒業生と母親が道のそこここに 肩を並べてのんびりと帰っている。諦三はその間を肩をすぼめるような気持で歩いた。

 第二駐車場は歩いて三分ほどの距離だった。昨夜の雨で水溜りの残っている地面を、ズボンの裾を上げて跳ぶように歩き、車にたどりついた。 上半身を車の中に人れ、後部座席に置いてあるアルバムを取った。

 帰りは小走りになった。Eが待っていることが頭に浮かんだ。帰ってしまうかも知れないとふと思った。待っていてくれという確認をとらないまま出てきたのだ。前方から生徒が二人歩いてくる。近づくにつれて、諦三が 教えていたクラスの卒業生だとわかっ た。彼女達は諦三 の顏を見たが表情を変えず、そのまま二人で話し続けた。出かかった、おう、という言葉を呑みこんで、諦三は二人の脇を走り過ぎた。走っていてよかったと思った。歩いて脇を過ぎればそれだけ不快な時間が長びいたろう。



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