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その3

 諦三が新年度から教諭にするという内示を理事長から得たのは一月の下旬だった。勤務校は一昨年学園が傘下に置いた学校だった。女子高だったが、理事長はそれを男女共学にし、課程も普通科のみに限定する方針を立て、今年四月の新人生からその構想が実施されることになっていた。校名も内容も変えて新しく発足する高校の教諭に諦三は指名されたのだ。現在勤め ている学校の教諭になるつもりだった諦三の思惑は外れた。しかしその時は教諭になれさえすれは、という意識だったので、文句は言えないと承諾した。だが、それから昨日まで何の通知もなかった。

 諦三は同僚と話をするなかで、自分の希望も述べないで承諾してしまったのはまずかったと思い始めていた。その新生高校はR区にあり、諦三のアパートから車で五十分程の距離があった。しかもそれは車がスムーズに勤いた場合で、途中にあるR区とQ区を結ぶRQ大橋は通勤時にはかなり渋滞するらしかった。それにくらべて現在通っているM 校は車で五分、歩いても十五分の距離だ。さらに私立高としては市内最初らしい男女共学は諦三にとっても初めての経験で、教室の中がどんな様子になるのか不安だった。風紀が乱れて大変なことになるぞと脅かす同療もいた。とにかく諦三にと っては距離も近く、 一年勤務して内容も掴めた M校の教諭がべス トだった。

 一ヶ月以上、何の連絡もないことで、諦三は自分の配属先はまだ決まってないのでは、と思いだした。理事長は確かに新生高校のK高に行ってくれと言ったが 正式にはM高の校長と話をして決めるとつけ加えた。諦三が面接したK高の校長も、あなたは十分やる気を持っていると本部に連絡しておきましょうと言ったに止まる。つまり諦三をK高の教諭にするという明確な達示は何もないのだ。とすると、今からでも自己の希望を述べて遅くはないのではないか。誰かが言ったように、 M高の校長に頼んで、この学校の教諭となれるよう理事長にロ添えしてもらう余地もあるのだ。しかし諦三は、 高に留まりたいと申し出ることが、理事長の意向に逆らうことになることを慮って、何も言わずに過ごした。早く通知がこないか、と思った。通知さえあればそれに従うつもりだった。

 ところがある日、見も知らぬ人から諦三は電話を受けた。諦三をF市にある高校の教諭として迎えたいと言う。F市は九州最大の商都だ。電話をしてきたのはその学校の教論だった。諦三は感謝しつつ、その話を断った。しかしそれで諦三には自信ができた。学園に対し自分の希望をはっきり述べ、学園からもはっきりした事を聞かなければならないと思った。

 しかしそれから一週間、諦三はやはり黙って過ごした。理事長には喜びの顔で承諾を与え、 高校の校長との面接では全力で頑張ると言っておきながら、今さらM 高校に居たいと申し出るのは潔くないと思えたのだ。

 あれこれの悛巡を経て、締三が校長に話したのが咋日だった。ドアをノックする直前まで迷っていたのだが。

 校長は「ああ、君か」という顔で諦三を迎えた。さて 何かを言わなければならない。どう言えばいい。諦三は言葉が出てこないのに途惑いながら、ロを開いた。

「あの……あれから……通知がないんですけど。どうなったのか」

 まずいな、と諦三は思った。理事長への不信感丸出しではないか。それにどうなったのか、で言葉を切ったのはいけなかった。失礼な言葉遣いだ。

「ほう、まだ来てませんか。あなたはK高校に決まったと思っていたが」

「決まりましたか。それならいいんです」

 諦三の言葉にはもう後退の姿勢が覗いていた

「いや、できるなら、この学校に居たいと思いまして」

 またまたまずいなあ、K 高を嫌ってるようじゃないか。それに決定に逆らうような印象を与えたぞ。

「うん、像も四月から専任にしたいということで、君ともう一人を本部に推薦していたのだが、理事長から、君はK高校に決まったと言われて、諦めていたんだ。そうか、通知がまだないか。それは気になるね。あんたも都合があるだろうし。聞いてみよう」

「あ、いいです。決まってるのなら」

 諦三は小声で制した。自分のこの行為の波紋をできるだけ小さな範囲に止めておきたかった。校長に話したことを諦三は後海し始めていた。校長は諦三の声が聞こえなかったように、机上の電話のダイヤルを回し、受話器を耳に当てた。出ないようだ。

「あそこは今日、卒業式なんだ」

 そう言って校長は受話器を置いた。どうやらK高校にかけたようだった。

「ああ、なるはど」

 諦三は少しほっとして相槌を打った。                                                                                                         「明日の卒業式には理事長が出席されるから聞いておこう」

 それはいいです、と心の中で諦三は言った。 理事長の心証を害しそうに思えた。そうか、明日は卒業式で理事長が来るのか、早まったな、と続けて思った。

「理事長はK高校にずい分力を人れてるようでね。うちの教員からも引き抜こうとしているくらいなんだよ。まぁ、あなたも交通の便その他でここがいいだろうとは思うけど、私もあなたが居てくれれば助かるんだが、あなたは見込まれたんだから、仕方がない」

「はい、わかりました」

 諦三の気持の中で後海だけがふくらんでいた。自分はK高校に行きたくないのではない。ただ通知がないので……と自分の立場を弁明したい思いに駆られたが、適当な表現が見つからないまま諦三は沈黙した。校長も黙った。

「それじゃ、これで、どうも」

と頭を下げると、諦三はそそくさと出口に向った。自分の落着きのない態度が自分で嫌悪された。ドアを閉めようとして、「失礼しました」と声をかけたが、衝立の陰から校長の返事はなかったように思えた。

 校長の気持を害したと諦三は思った。自分の態度はなってなかった。しどろもどろで品位を下げた。その軽薄な態度は校長に自分を軽んじていると受け取らせたのではないか。さらにこのことが校長を通じて理事長の耳に入る時のことを考えて、諦三の気持は一層重くなった。K高校で全力で頑張りますと言っておきながら、今さらM高校に居たいなどと言ってくるとは肚の座らぬ奴だ、と思われるだろう。特にK高校の校長に面接したとき、泥にまみれる覚悟でやれますか、と聞かれて、望むところです、というような答え方をしたことを思うと、諦三は自分が恥ずかしくなった。もう少し待てばよかった。泰然として。                                                

 昨晩はそれらのことが頭から離れず、よく眠れなかったのだ。確かにこの一ヶ月ほど、諦三は神経袞弱気味だった。小さなことにも神経が昂ぶり、なかなか鎮まらなかった。店を離れて新しい生活を始めようとしていることへの不安がその底にあった。


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