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一日の呼吸  作者: 坂本梧朗


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10/10

その10

 Kはなかなか現れなかった。あまり遅くなるとKとスナックに行く時間がなくなってしまう。もう来ないのかな、と諦三は思った。それなら帰ろうか。しかし、楽しく談笑している連中に、「じゃ、ぼくはこれで」とはとても言えそうになかった。一人楽しんでいない者が、楽しんでいる連中に挑戦する言葉のように感じるのだ。「俺は楽しくないから帰るぞ」と言うように。「どうして」とでも聞かれれば顔が強張ってしまいそうだった。

 手指を使ったクイズが始まる。タネがわかれば他愛ないものだが、結構人を楽しませる。全員がそれに興じた。

 Kが来たのは九時前だった。いつものように、酔った様子もなく、すぐ冗談でも言いそうな顔をして入ってきた。Kは自分を避けているのではと思っていた諦三は少しはっとした。

 またカラオケが始まった。さっきより酔いがまわっているので、歌い方も熱狂的で、他の者もタンバリン、マラカス、ポンゴなどでリズムをとり、にぎやかになった。体育科のYがギターを借りてきて弾き始めた。諦三とKはWを囲んで馬鹿話をしていた。酔いが深まり、諦三もようやく気持のわだかまりから解かれつつあった。

 十時になった。理加子の勤めが終る時刻だ。諦三はトイレに立った。小便をしながら、正面のヌードカレンダーのモデルの顔に大きく息を吹きかけた。

 トイレを出たところに公衆電話があった。理加子はまだアバートに帰りついていないかも知れないと思ったが、電話をかけてみる気になった。理加子が出たら、今からKと一軒まわって、十二時までには帰ると言うつもりだった。コール音を十回まで数えた。諦三は受話器を置いた。 ふと、 あいつは今夜、まっすぐに帰らないつもりかも知れないと思った。

 椅子に座ると、Kが「おくさん? 」と聞いた。諦三は頷いて苦笑した。

 三日前にも酔って帰宅したことを諦三は思い返した。同窓会の集まりがあったのだ。総会の準備についての打合せを終って、皆と飲みに出た。スナックを二軒はしごしてかなり酔って帰った。帰ってから理加子にしつこくくだを巻いたらしい。翌朝、理加子は腫れぼったい目で諦三を見て、昨夜のようなことがもう一度あったら、私も考えることがあると言った。店でいやな思いをし、家に帰ったらあんたから苦しめられ、どこで息をつけばいいのか。同期生におごってやっ たらしいが、あんたがそうして次から次に費消(つか)ってしまうから、お金をためるなんて無理な話よ。理加子の怒りの言葉を諦三は黙って聞くほかはなかった。しかしその後二日間、諦三も店に出る平常の生活をすると、その晩の記憶も薄れていた。

 諦三はマラカスを取って、スタンドマイクで歌ってしるMのリズムをとった。Mはフォークやロックが好きだ。諦三と好みが似ている。諦三はマラカスをタンバリンに代えると立ら上がってMの側に行き、ロ笛を吹きながらタンバリンを打ち、激しく振った。今、ようやく諦三は自由だった。アッリヴェデルラの閉店時刻を過ぎたことが諦三の煩悶に区切りをつけたと言えた。Mが歌い終ると諦三はマイクスタンドの前に立った。

 十時三十分。諦三は再びアバー トに電話を人れた。理加子は出なかった。土曜日なので客が遅くまで残っているのかも知れないとも思った。しかし、やはり腹を立てて、まっすぐ家に帰る気がしなくなったのだと思えた。理加子は店が終ってから、姉や、女の従業員達と飲みに出ることがたまにあった。そんな時は諦三に断って行くのだが、 一度、諦三が店を早くあがって理加子に何も言わすに飲みに出た夜、理加子もまた黙って姉達と飲みに出かけたことがあった。今晩もそんなことだろうという気がした。なぜ、我慢をしないのだ。俺だっ て遊び呆けているわけじゃない。たった一日店に出なかったからといって、どうしてすぐこんなことをするのだ。諦三は不満だった。

 十一時になった。そろそろKと一緒に店を出なければならない。諦三は三たび電話に立った。ダイヤルを回し終る。コール音が響くだけだ。理加子はアバートに帰っていない。

 諦三は席に戻ると水割りのグラスを空けた。理加子が家に居ないという事実が、底に開いた深い穴のように諦三を脅していた。 あいつ 、辛棒できなくなったんじゃないか。ひやりと諦三は思った。三日前の痛傷は理加子の内部でまだ癒えてはいない。今、諦三はそれをはっ きり知った。それなのにまた今日も俺は一日店を空けてしまった。諦三の唇から呻き声がもれた。

「どうしたん、おくさん何か言ったの」

 Kが顔を寄せてきた。

「出ない。まぁしょうがないかな」

 諦三は照れ隠しに頭を掻いた。

 思えば理加子の毎日にどんな楽しみがあるだろう。来る日も来る日も働くばかりだ。あいつは今日こそ俺から離れる決意をしたのかも知れない。諦三の体からす ーと力が脱けていった。待ってくれ、もう少し我慢してくれ、諦三は理加子に呼びかけた。いや、それは無理だろう。この境遇のなかでじっとしておれというのが無理だ。それができるとすればむしろ奇跡だ。諦三の思考は破局の一点に向って収斂する。その思考とともに椅子に座っている体が地面に沈みこんでいくのを諦三は感じる。奇跡か。それなら奇跡を起してくれ。諦三はしんとした意識のなかで、理加子に訴えた。



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