その1
意識は早くから覚め ていた。眠っ ていて、気が狂ってしまいそうな苦悶を味わうことがこの頃の諦三にはよくあった。胸をかきむしりたくなるような不安と恐怖が睡眠中の諦三を襲うのだ。それで目覚める。それからは半覚半眠のような状態が続いた。時計の針が八時を指しているのを諦三は見た。しかし九時まで起きれなかっ た。
上半身だ け起き上がったが、頭は重 い。熟睡のあとのさわやかな目覚めという感覚をメルヘンの世界のように諦三はなつかしんだ。
とにかく行かなければならない 。諦三は顔を上 げた 。カ ーテ ンを降ろした薄暗い室の中で正面の本棚がばんやりと見える。横に寝ている理加子の顔に目を落す。眉根を少し寄せて目を閉じている。 おそらく目覚めている、と諦三は思う。理加子は敏感だった。諦三が眠れな いでいる明け方は、大いて彼女 も目を覚まし ていた。
三月に人ったとは言え、今年は寒さが厳しく、ふとんか ら離れにくい。諦三は妻を起こさないように静かに床を脱けだした。こいつはまた今日も店で苦労しなければならないのだ、という意識がある。 少しでも長く寝て、疲れを癒すべきなのだ。
立ち上がってみると、昨晩まで行っても行かなくてもどちらでもいいという気持があった卒業式が、やはり行くべきものと思われてきた。 ちゃんと間に合うように起きるべきだったと後悔されてくる。九時頃学校に行けば間に合うという漠とした観念はあったが、起きたのが九時では仕様がなかった。非常勤講師である諦三には卒業式に出席する義務はない。しかし四月からは教諭となる内示を理事長から得ていた。卒業式にきちんと出ることが、諦三の印象をよくすることは確かだった。今日遅刻していくのはまずかったなと諦三は思った。
そんなことを考えながら顔を洗い、服を着ていると、理加子が起きてきた。やはり眠っていなかったのだ。妻が起きてくれば、寝てればいいと言うつもりだったが、学校に電話をしなければ、と思っていたところだったので、
「お前、学校に電話して、卒業式の時間を聞いてくれないか」
と諦三は頼んだ。自分で電話することには抵抗があった。電話口に出てくる事務員に名を告げねばならず、そうすればいかにも気の抜けた勤務態度だという印象を与えそうだ。理加子に電話させるという思いつきはグッドアイデアだった。
「十時だって」
電話口で卒業生の家族を装って丁重な話し方をしていた理加子は、受話器を置くと諦三に言った。よかった、間に合う、と諦三の気持が緩んだ。
理加子はパジャマのままテレビをつけると、電気コタツに座りこんで朝刊を読み始めた。いつものことだ。今朝はその余裕がなかったが、諦三も起きるとまず朝刊に目を通す。他のことをする気がしない。読んでいるうちに、さあ、顔を洗うか、という気持になってくるのだ。
「今日はどうなるの」
新聞を読みながら理加子が言った。今日の諦三の子定を聞いているのだ。時間にゆとりができたので、Yシャツを着て、ズボンを穿いたところで諦三もコタツに座っていた。
「うん」
と言って諦三はメガネを外して瞼をこすった。
「卒業式が終ると謝恩会がある」
謝恩会は三時からだ。卒業式は正午までに終るだろう。三時までどうしようか。帰ってきて店に出ようか。それがいいのかも知れない。店で一人ぽっちの理加子のためには。しかし諦三の気持は、重かった。そこまでコマネズミのようにはなれない。四月から教諭になることが決まっている以上 、生活の中心を学校に置かなければ、という意識もある。
理加子は何も答えないで新聞を見ている。その表情から、あなたは今日も店に出ないのね、という呟きを諦三は聞きとる。実は諦三には今日もう一つ理加子に対して心苦しい予定がある。夜、学校で親しくしているK先生と飲みに行くことになっているのだ。Kとは一週間前、一緒に飲んで借りをつくっていた。今度は諦三がおごる番だ。誘われれば断れなかった。つまり今日は丸一日店に出ないことになるはずなのだ。諦三はそれを理加子に言いかねた。Kと飲むことは、三日ぐらい前から匂わせてはいた。しかし、それが今日だとははっきり言ってなかった。
諦三は口の中でモグモグと、「今日は夜も飲み事があるかも知れんなぁ」と言った。理加子には何を言っているかわからなかっただろう。