第2話 壊れた仮面
前回のあらすじ
主人公の樹は、同級生の千尋と友人になった。
樹がおばあさんに手料理を作ってあげたい。と言ったことがきっかけで、千尋が料理を手伝うことになった。
週末の午後、僕たちはスーパーのビニール袋を両手に提げ、ゆるやかな坂道を歩いていた。
春の風が少しだけ冷たく、でも陽射しは柔らかい。
並んで歩く千尋の横顔に、影が淡く伸びている。
「メニューも考えてくれて助かる!」
僕は笑いながら言った。「僕、中学までアメリカにいたからさ、日本の家庭料理とか、あんまりよく知らないんだよね」
「へぇー、アメリカ暮らし! なんか納得したわ」
千尋は片眉を上げて笑った。「主菜がぶり大根なのに、ピザも焼きたいとか言うから、何事かと思ったけど腑に落ちた」
「……好きなんだよ、ピザ」
僕は照れくさく言ってから、ふと思い切って尋ねた。「……もしかして、ピザって焼けたりする?」
「いや、焼いたことはないけど……」
千尋はピザ生地を指でくるくると回す仕草をして、「YouTubeとかで観ればいけるんじゃね? 今度試してみる?」
僕の顔は一瞬で明るくなった。
「焼く! 絶対焼く!」
「はいはい、わかったよ」
千尋は笑ってうなずいた。「ピザ焼き、勉強しとくわ」
玄関を開けると、ばーちゃんがいつものようにスリッパを並べながら出迎えてくれた。
千尋を見て、ぱっと目を細める。
「ばーちゃん、ただいま」
「ああ、樹おかえり。……まぁまぁ、お友達もいらっしゃい」
「こんにちは。お邪魔します」
千尋は背筋を伸ばして、少し緊張した様子でぺこりと頭を下げた。
「こいつが千尋。僕の料理の先生だよ」
ばーちゃんの目がさらに細くなり、嬉しそうに千尋の手をとった。
「まあ、立派な先生ね。今日はありがとう。さあ、上がってちょうだいな」
「ばーちゃんはテレビでも見てて!」
そう言ってばーちゃんをリビングへ押し込むと、僕と千尋はキッチンへ向かった。
メニューは、ぶり大根、小松菜の胡麻和え、なめこの味噌汁、蕪の浅漬け。
千尋はぶり大根と味噌汁、浅漬けを手際よく進め、僕は胡麻和えを担当することになった。
だが、小松菜を茹でて、冷まして、絞って、調味料を混ぜて……と工程が多く、慣れない僕は混乱しっぱなしだった。
「千尋は家で料理すること多いの?」
「昔はよくしてたけど、今はしてないな。食べる人いないし……」
「そうなんだ……」
「ほら、これ揉んどいて」
気まずい空気を変えるように、千尋が浅漬けの入ったビニール袋を渡してきた。
僕はそれを揉みながら、彼の横顔を盗み見た。
「でもすごいな……普通に尊敬する」
「そうか? 俺は料理楽しいし。樹の役に立てて嬉しいよ」
その笑顔は、自然で優しかった。
食卓に料理が並ぶ。器から立ち上る湯気。茶色、緑、白。彩りのある和食の温かみ。
「……おいしそうにできた!」
僕が並べ終えると振り返った。
でも千尋は、複雑な表情で食卓を見つめ、ぴたりと動きを止めていた。
「……」
次の瞬間、手早く荷物をまとめ始めた。
「……できたから、じゃ、俺は帰るわ」
足早に玄関を出ていく。
「えっ? おい、待てって!」
僕は驚き、慌てて彼を追って庭まで出た。
千尋の腕を掴んで、振り返らせる。
その瞳から、ぽろりと涙が落ちた。
「……え。なんで泣いてんの?」
千尋はははと笑いながら、下を向いた。
「玉ねぎが、目に染みて……」
「今日、玉ねぎ使ってないだろ」
僕が静かに言うと、千尋は何も返さなかった。
その沈黙が、何よりも雄弁だった。
「……何か嫌だった? 帰りたい?」
僕は彼の手をそっと握った。
千尋はぶんぶんと首を横に振る。でも、涙は止まらない。
「泣くなよ……」
僕はそっと、彼を引き寄せた。
肩を震わせる千尋の背中を、ただ黙って抱きしめた。
しばらくして、彼の呼吸がゆっくりと整ってくる。
「……ごめん。もう大丈夫……」
「……もう、帰ろうとしない?」
「……うん」
「一緒に食べよ?」
「うん」
「だいたい、あんなにたくさんご馳走作っって、ばーちゃんと二人で食べきれるわけないだろ」
千尋は鼻をすんとすすり、少しだけ笑った。
「そうだな、ごめん……」
***
三人で並んだ食卓。
「いただきます」
手を合わせる音が重なる。
「千尋さんは、お料理が上手なのねぇ。ぶり大根、大好物なのよ。とっても美味しいわ」
ばーちゃんがにこにこと言う。
「お口に合って良かったです……」
千尋は、少し照れたように笑った。
「ばーちゃん、この草も食べて! 僕が作ったやつ!」
「草じゃなくて小松菜でしょう」
ばーちゃんは笑いながら口に運び、「うん、おいしい。海苔が入っていておいしいわね」と、優しく褒めてくれた。
千尋はその様子を、静かに、穏やかな目で見ていた。
***
食後、僕と千尋はキッチンに並んで食器の跡片付けをしていた。
「千尋、今日はありがとう。ばーちゃん、すっごく喜んでた」
「……俺の方こそ。泣いたりして、ごめん」
「今日、無理に付き合わせたかな。千尋、優しいから……」
僕が言いかけると、千尋は首を横に振った。
「違うよ。本当に今日は楽しかった」
千尋はしばらく考えるように黙っていたが、ぽつりと語り出した。
「……俺さ、家族団らんってやつ、したことなくてさ。ああいう “食卓 ”っていうの? ああいうの、憧れてたはずなのに……俺がいちゃいけない気がして、場違いに思えて、逃げ出したくなったんだ」
彼は皿を拭く手を止めて、下を向いた。
僕はそっと彼の顔を覗き込んで、微笑んだ。
「……?」
千尋が不思議そうに見返してきたその瞬間、僕は彼の髪をくしゃっと撫でた。
「!」
千尋の肩が小さく跳ねた。
「……あっ、泡が髪についちゃった」
僕が冗談っぽく言うと、
「えっ、どこ?」
千尋もようやく笑った。
その笑顔は、どこかほっとしたようで――
仮面の奥に隠していた “本当の千尋” が、少しだけ顔を出したような、そんな気がした。
お読みいただきありがとうございます!
海苔の入った胡麻和え、給食に出ましたよね? 懐かしい! 久しぶりに食べたいです。