孤独の木
春†……(はる†……)
村に来たばかりの頃、たいして期待はしていなかった。
ただ、静かな場所で深呼吸して、少し探検して、昔からの友達・イェンゾと会えればいいと思っていた。
「ルザ、この木を見に来いよ」
イェンゾは電話越しに言った。「森の奥深くに立ってるんだ。一本だけでさ。“孤独の木”って呼ばれてる。近くに川もあるから、釣りにも最高だぞ」
だから、春の明るい朝、俺たちは森を抜けて歩いた。新緑が風に揺れ、サラサラと音を立てていた。
途中、野生のキノコを摘んで笑っている女の子たちのグループとすれ違った。その時、「森って本当に生きてるんだな」と思った。でも、彼女たちが去ると、森は急に静まり返った。
不思議と——平和だった。
“孤独の木”は森の中心に立っていた。高くて、古くて、どこか誇らしげで。
イェンゾはいつものように川に釣り糸を垂らした。
俺は太くて低い枝に登って、横になった。日差しが顔に降り注ぎ、心地よかった。
そこからの景色は完璧だった。
——そして、彼女を見つけた。
一人の少女が、少し離れた場所に座っていた。
空を見上げ、どこか遠くを見つめているようだった。
静かで……でも心は別の場所にあるような目をしていた。
彼女も、この木と同じように——寂しいのだろうか?
その後、小さな池のそばで彼女にまた会った。池にはたくさんの花が咲いていて、彼女は一輪を髪に挿していた。
その瞬間、俺の胸に、ずっと忘れていた何かが灯った。
「道に迷ったの?」
彼女は言った。「それとも、この季節が好きなだけ?」
「季節は好きだよ」
俺は微笑んで言った。「でも……俺はこの季節に向いてないのかも」
彼女も微笑んだ。「誰かとこうして話すの、久しぶり」
「ルザっていうんだ」俺は言った。
「……まだいいよ」彼女は言った。「名前は夏の花火のときに教えて」
——そうして、俺の春が始まった。
春(続き)
春の日々は、あっという間に流れていった。
彼女と過ごす時間は、まるで風のようだった——優しくて、でも掴めない。
彼女はよく川辺にいて、草花を集めていた。ときどきスケッチブックに何かを描いていた。
「何描いてるの?」と聞いても、彼女は笑って「内緒」としか言わなかった。
イェンゾは、俺がよく森へ通ってることに気づいた。
「ルザ、お前……あの子に会ってるんだろ?」
俺は少しだけ笑った。「名前も知らないのに?」
でも、たしかに——
彼女のことが、気になって仕方なかった。
ある日、彼女がぽつりと言った。
「この木って、不思議だよね。話しかけてるみたい」
俺は木の幹に手を当てた。「たしかに……なんか、声が聞こえる気がする」
彼女は頷いた。「でもたぶん、それって私たちの心の声かもね。木が映してるだけ」
その日、彼女はひとつだけ秘密を教えてくれた。
「私は季節の中で、春が一番苦手なの」
「え、どうして?」
「だって、何もかも始まるのに、私は置いていかれる気がするから」
——その言葉が、胸に刺さった。
俺も、どこかで同じことを感じていたから。
その夜、星が降るような空の下で、俺はそっと木に手を当てて願った。
「彼女の春が、少しでも優しくなりますように」
その願いが、彼女に届いたかはわからない。
でもその時、確かに“孤独の木”が、優しく揺れた気がした。
夏
夏がやって来た。
空は深く青く、陽射しは強く、木々の葉はまるで溶けそうなほどに茂っていた。
彼女はもう、現れなかった。
森をいくら歩いても、“あの場所”に彼女はいない。
風が吹いても、声は届かない。
スケッチブックのページは風にめくられたまま、草の上に落ちていた。
俺はそれを拾い、そっと閉じた。
中には、例の木と、そこに立つ誰かの背中が描かれていた。
「……俺?」
その背中は、どこか寂しげだった。
イェンゾが言った。
「お前、ずっとここに通ってるんだな……」
俺は頷いた。「彼女が、また来る気がして」
けれど、夏の蝉の声にかき消されるように、その気配は薄れていった。
ある日、突然の豪雨が降った。
雷鳴が森を揺らし、“孤独の木”さえも怖がっているように見えた。
俺は必死に駆けて、木の下へ辿り着いた。
そして、濡れた幹にしがみついた。
「どうして……いなくなったんだよ……」
「どうして、何も言わずに——」
涙なのか雨なのか、わからなくなった。
でも、“あの木”は、ただ静かに俺を受け入れてくれた。
その夜、イェンゾが傘を持って迎えに来た。
「ルザ……もう、戻ろう」
俺は頷いた。でも、心はあの木に置いてきたままだった。
——夏は、熱くて、残酷だった。
思い出すのは、もういない誰かと、降りしきる雨の匂いだけ。
秋
秋が訪れた。
木々は黄金色に染まり、風は涼しく、どこか寂しげだった。
“あの木”も、静かに色を変えていた。
夏の嵐を越え、濡れた幹は乾き、また陽を浴びていた。
俺はその下で、落ち葉を拾った。
一枚、一枚……まるで彼女の思い出を探すかのように。
イェンゾは静かに言った。
「お前、まだ……」
俺は頷くしかなかった。
「彼女の声が……まだ、ここに残ってる気がしてさ」
風が吹くたび、木の枝が揺れ、どこかで誰かが笑ったような気がした。
ある日、木の根元に、小さな箱があった。
中には手紙と、乾いた花束。
震える指で開いたその手紙は、柔らかい文字でこう綴られていた。
> 「来年の春、また会えたら嬉しいな。
あなたの描いた世界、あたしはきっと好きになる。
——アオイ」
俺はその場に崩れ落ちた。
やっとわかった気がした。
彼女は、未来を信じていた。
俺のことも、この場所のことも、全部。
イェンゾは遠くから見ていた。
何も言わず、ただ見守っていた。
木の葉がひとひら、俺の肩に舞い落ちた。
それは、まるで彼女の手のように、温かくて優しかった。
——秋は、静かで、思索の季節だった。
失ったものの意味を、ゆっくりと教えてくれた。
冬
冬が来た。
森は白に包まれ、すべてが静まり返っていた。
“あの木”も、今は真っ白な雪を纏って、まるで眠っているようだった。
俺はまた、そこにいた。
誰もいない、何も話さない時間の中で、ただ立ち尽くしていた。
イェンゾは、もう来なくなった。
彼にも、自分の道がある。
俺はそれでいいと思った。
誰かを待つ痛みを、彼に背負わせたくなかった。
アオイ。
お前がいない冬は、こんなにも寒いんだな。
雪の中、ふと見つけたのは、木の幹に刻まれた文字だった。
小さく、でも確かにそこにあった。
> 「春になったら、またここで会おう」
それは、あの日の言葉。
誰が刻んだのか、もう分からない。
けれど、間違いなく——お前の想いだと感じた。
俺は手袋を外し、冷たい木肌にそっと触れた。
それだけで、心が少し、温かくなった気がした。
空から、雪が舞い落ちる。
ひとひら、ふたひら。
白い世界に、静かに吸い込まれていく。
でも、心はもう真っ暗じゃなかった。
春が来れば、また花が咲く。
そう信じられるようになったから。
——そして、もし春にもう一度会えるなら、
今度はきっと、ちゃんと笑って「またね」って言えるように。
“あの木”の下、静かに目を閉じた。
雪の中、夢の中で——彼女の声がした。
「ありがとう、ルザ」
それは、すべてを包むような、やさしい声だった。
春が戻ってきた†………
一年が過ぎた。
雪が溶け、柔らかな緑が村に戻ってきた——いつものように。かつて花びらを運んでいた同じ風が、再び僕の肌を撫でた。
僕は戻ってきた。
同じスーツケース。
同じ道。
同じ森の音。
でも、僕はもう前と同じじゃなかった。
あの秋の最後の散歩——葵との別れから一年が経った。彼女がすべてを変えた。約束通り、僕は戻ってきた。
彼女が季節に「覚えていて」と願ったから。
そして、僕はそれを忘れたくなかった。
孤独の木は、変わらずそこに立っていた。
枝を大きく広げて。川が静かに流れ、葉がやさしくささやく。
僕は、またあの枝に登った。
景色も、静けさも、すべてが変わっていなかった。
下を見ると、自然と笑みがこぼれた。
イェンゾがまた釣り竿と格闘していた。「今年こそは釣れるぞ!」と叫ぶ。
「毎年言ってるよ、それ」僕は笑った。
彼は新しいエサの袋を宝物のように振って見せた。しばらく話して笑って、やがて彼は食べ物を買いに去った。
僕は残った。
ひとり。でも、もう寂しくはなかった。
太陽がゆっくり沈み、すべてを金色に染めていく。僕は日記を開き、あの押し花を取り出した。彼女の花。
手のひらに乗せて、そっと言った。
「ねえ、春がまた来たよ。」
木を見上げる。「約束、ちゃんと守ったからね。」
葉が揺れた。返事はなかったけれど、それで十分だった。
そのとき——足音がした。
少女が森の入り口に立っていた。葵ではない。もっと幼い。手には野の花を抱えていた。
「あっ、ごめんなさい!」と彼女。「誰かいるなんて知らなくて。」
「大丈夫だよ」僕は言った。「いい場所だよね。」
彼女はうなずいた。「優しい感じがする。」
「そうだね。」
少し黙ったあと、彼女は聞いた。「この木に名前、つけたの?」
「“孤独の木”って呼んでた。」
彼女は首をかしげた。「なんだか寂しいね。」
「そうかも。でも、もう寂しくないよ。」
彼女はにっこり笑って、木の根元に一輪の花をそっと置いて立ち去った。
僕は少し長くその場に残った。葵が「この場所は覚えてる」と言っていたことを思い出しながら。
彼女の言った通りだった。
その夜はイェンゾの家に泊まった。窓から森が見えた。
僕はノートを開いて書いた。
「春を明るくしてくれた君へ——」
もう涙は流れなかった。
なぜなら、ようやくわかったから。
人は去っていく。季節も過ぎていく。
けれど、本物の想いは残る。
たとえ短い時間でも、永遠になることがある。
葵は、春だった。
静かな場所での笑い声。
蛍。
落ち葉の舞う時間。
彼女は今も、ここにいる。
そして僕——ただの訪問者だった僕は、ただの旅以上のものを見つけた。
彼女を見つけたんだ。
そしてこの季節は、もう二度と寂しくなることはなかった。
この物語は、もともと英語で書かれた一編のショートストーリーです。
日本の読者の方にも届けたくて、自分なりに翻訳してみました。
拙い部分もあるかと思いますが、少しでも心に残るものがあれば嬉しいです。
読んでくださり、ありがとうございました。