カフカに倣いて(八) 異郷にある如く
他の作品については自信があったということでもないが、フランツ・カフカ最後の長編小説「城」ばかりは、何か語ろうにもまったく自信がない。舞台はとある雪深い寒村、主人公の自称測量師Kが深夜、村に到着するところから物語は始まる。Kはこの村を支配する城に雇われたと言い張るが、謎の官僚組織がKの前に立ちはだかり、Kはいつまで経っても城にたどり着けない——思いっきり要約すると、たったこれだけのストーリーなのだが、村にいる間、Kの身には様々な出来事が降りかかり、恋仲に落ちるフリーダなど魅力的なサブキャラクターも多く登場し、後半にいくほどプロットは錯綜してくるが、にっちもさっちもいかない状況に変わりはなく、目の前にある城は限りなく遠い——。
この未完の長編を編集したマックス・ブロート以来、「城に入る」=「宗教的救済」というような神学的視点から論じられることが多く、それはその通りなのかもしれないが、どの解説を読んでも城が象徴するものは何々だというような解釈ばかりで、どうも分かったような、分からないような感じなのだが、ただ分からないながら、好きなカフカ作品の一つであることは間違いなく、どの辺に惹かれているのだろうとずっと考えていた。
ミラン・クンデラ(1929~2023年)は知的刺激に満ち満ちたエッセイ集「裏切られた遺言」で、一章を丸ごと割いてこの大作のたった一つの文章に焦点を当て、詳細な考察を加えている。従来の複数のフランス語訳を批判しつつ、原文を引用し自ら訳をつけているのだが、狭く翻訳論云々というよりも、教義的に解釈されたカフカ文学を審美的に解放する一つの試みといえよう。
選ばれたのは、物語前半の第三章、城のキーパーソンらしきクラムの愛人のフリーダと出会うK、恋に落ちたKはその日のうちにフリーダと関係を結ぶ、酒場のカウンター台の後ろ、ゴミが散らかりビールの水たまりができた床の上で愛し合う二人を描いた場面である——。
Dort vergingen Stunden, Stunden gemeinsamen Atems, gemeinsamen Herzschlags, Stunden, in denen K. immerfort das Gefühl hatte, er verirre sich oder er sei so weit in der Fremde, wie vor ihm noch kein Mensch, einer Fremde, in der selbst die Luft keinen Bestandteil der Heimatluft habe, in der man vor Fremdheit ersticken müsse und in deren unsinnigen Verlockungen man doch nichts tun könne als weiter gehen, weiter sich verirren.
そこで時間が去って行った、一つになった息、一つになった心臓の鼓動の時間、そのあいだKがたえず、自分はさまよっているのだ、あるいは自分より前のどんな人間よりも遠く異郷の世界に、空気さえも故郷の空気のどんな成分ももたず、あまりの異郷感に息が詰まってしまうにちがいないのに、無分別な誘惑の只中で、ただ行きつづけるほか、さまよいつづけるほか、なにもできない世界にいるのだという感情を持っていた時間が。 (Franz Kafka『Das Schloß』)
エロテッィクでポエティックな、美しい文章だと思う。息の長い原文をクンデラはあえて逐語的に訳している。「城」という一作品にとどまらず、カフカ文学そのものの美学の独自性が凝縮された一文とみなしているようだ。「性交の長さが異郷の空の下での歩行という隠喩に変わる。しかしながら、この歩行は醜さではない。それどころか、私たちを惹きつけ、私たちをもっと先に行くよう誘い、私たちを陶然とさせる。それは美なのだ」。
クンデラがこの一文に加える文体論的な分析は微に入り細を穿っているが、大きく二点に集約できるだろう。一つは語彙の簡潔さ、もう一つは同じ語の繰り返しである。すなわち、gehen(行く)、haben(持つ)、sich verirren(迷う)など基礎語が選ばれ、それらが反復されている。特にこの文の出だし(Dort vergingen Stunden, Stunden gemeinsamen Atems, gemeinsamen Herzschlags, Stunden)では、9語のうち実に5語までが重複である(Stunden=時間、gemeinsamen=一つに)。またFremde(異郷)にいたっては、派生語のFremdheit(異郷感)を含めて3回使われている。
翻訳者たちは稚拙な印象を与えぬよう、単純な語を凝った語に置き換え、単調にならぬよう、同一語の繰り返しを避け類語に言い換えている。いわゆる「良い文章」のための当然の工夫ともいえるが、クンデラはそれを原作者への「裏切り」とみる。
語彙の限定、簡潔さはプラハの閉じたユダヤ人コミュニティの半人工的ドイツ語の貧しさ云々といったことではなく、カフカの散文の美しさの特徴、その審美的な意志を表現したものであり、語の繰り返しは旋律的な美しさ、ノスタルジックな調子を生んでいる——クンデラの指摘は一々、目から鱗である。
あえてクンデラの論に屋上屋を架してみたい。上の引用された文章では、性行為という場面において、Fremde(異郷)とHeimat(故郷)という言葉が明確に対比されているが、「城」という作品全体を通してもそういえるのではないか。
物語が始まってすぐ、村に到着した日の翌朝、Kは城へと向かう。初めて全貌を目にする城のみすぼらしい外観にがっかりして、Kは長い間帰っていないという故郷の町を思い出す。こんなところへ来るくらいなら帰郷した方がよかったと。故郷の町の教会の堂々とそびえ立つ塔に対し、この村の城の塔の窓が陽を浴びている様子を「狂気じみている」とまでいって違和感(Fremdheitsgefühl)をあらわにしている。そして物語も中盤の第十三章、村の小学校で同棲を始めたKとフリーダが交わす会話。この村での生活には耐えられず、南フランスかスペイン、どこか外国に移住したいというフリーダに対し、Kは移住などできないと答える。
……ich bin hierhergekommen, um hier zu bleiben. Ich werde hierbleiben.
ここに来たのは、ここに居座るためだ。私はここに居座るよ。 (Franz Kafka『Das Schloß』)
これまでのKの言動とは明らかに矛盾する言葉。異郷を故郷のように生きる、強引にでも自らのニッチ=生存領域を得ようという決意のようなものか。カフカ研究者の川島隆は基礎語bleiben(=stay)を「居座る」と訳し、この文章を「城」全体の最重要フレーズだという。もはや城に入ることではなく、居座り続けること自体が目的となっている、すなわち、「あつかましさ」と「居座り」こそがこの作品のテーマだと——はっとする。唐突な連想ではあるが、「あつかましさ」と「居座り」、まさにこの二つのキーワードをテーマにした傑作が、わが国映画史上にもあったではないか。川島雄三監督(1918~63年)の「幕末太陽傳」(1957年)である。確かにとらえどころのない謎の男Kと、何事にも如才ないやり手、わが居残り佐平次(フランキー堺)とでは、いくらなんでもキャラクターが違いすぎる。ただ多くの論者がそう解説するように、「城」が現代における「神の不在」や「救いの不可能性」を巡る、例えるならベルイマン風のしかつめらしい「観念劇」のようにはどうしても思えず、むしろ人間のリアルな欲やエゴが剥き出しの、川島雄三流の「重喜劇」と親和性が高いのではないかと考えてしまう。もし川島雄三が「城」の不条理で錯綜した世界をさばいていたなら——。
故郷と異郷の対比ということでいえば、好きな言葉がある。
故郷を甘美に思う者はまだ嘴の黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられる者は、すでにかなりの力をたくわえた者である。だが、全世界を異郷と思う者こそ、完璧な人間である。
博学無双と称えられた12世紀の神学者、サン・ヴィクトルのフーゴー(1096—1141年)の言葉である。あらゆる真理認識、とりわけ神認識の基盤に自己認識を置く、500年後のデカルトとよく似た考えを持っていたことで知られる。エドワード・サイード(1935~2003年)が引用したことで広く知られるようになった言葉のようだ。サイードやクンデラら「亡命者」が共有する世界への違和感の表現であろう。どんなに理不尽で疎外(Entfremdung)された状況にも、柳に風でへこたれないKのタフさを思うと、意外やこの金言にふさわしい男ではないかと、少しだけ感じてしまう。




