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カフカに倣いて(五) 知らない街

 プラハには行ったことがない。いつか行きたいと思う。でも行くことはないだろう。

 フランツ・カフカ(1883-1924)は晩年、ヘブライ語を教えてもらっていた知人に次のような言葉を残している。「ある時、窓から旧市街広場を見下ろしていると、彼(=カフカ)は街並みを指差しながらこう言った。『ここに僕の小学校がありました。あそこに見える建物には大学、そしてその少し先の左が僕のオフィスでした。この小さな円環の中に僕の全生涯が閉じこめられているのです』。そう言うと彼は指で小さな円をいくつか描いて見せた」。実際、カフカはその生涯のほとんどをプラハのごく狭い地域で送ったため、伝記の類いを読んでいると、プラハの地図が自然と頭の中に入ってくる。

 以前取り上げた「審判」は「ユーリウス街」という架空の地名を除いて、具体的な地名は登場せず、それが現実離れした悪夢的は雰囲気を醸しだす一因ともなっていると思うのだが、実際にはそれぞれの場面で当時のプラハの街の細部が濃密に再現され、現実の場所も推定できるという。例えば、作品の終わり近く、教誨師がユーゼフ・Kに有名な寓話「掟の門」を語る大聖堂は、カレル橋を渡ったモルダウ川左岸、プラハ城内のゴシック建築で名高い聖ヴィート大聖堂に、物語の最後、Kが殺される石切り場は、やはり左岸の美麗な図書館で知られるストラホフ修道院の裏手にかつて存在した採石場に、それぞれ同定する説があるようだ。つまり、「審判」は同時代、20世紀初頭の新しい都市小説の潮流に乗った作品の一つで、レオポルド・ブルームにとってのダブリン、クラリッサ・ダロウェイにとってのロンドンが、ヨーゼフ・Kにとっての陰画のようなプラハということができるかもしれない。


 ヨーゼフ・Kは夢を見た。 カフカ「夢」


 いかにもカフカ的な、ぶっきらぼうでいて読む者の心をぐっとつかむ書き出しである。小品「夢」(1916年)は「審判」の中の一エピソードとして書かれたものだが、結局外され、後に独立した作品として発表された。母のもとへ帰郷したヨーゼフ・Kが、亡くなった父の墓参りをして、その夜に見た夢というのが元の構想だったようだ。

 要約するまでもない、ごく短い作品である。ヨーゼフ・Kが墓地を散歩していると、墓掘り人夫とおぼしき二人の男が墓石を立てていた。そこにベレー帽をかぶり、鉛筆を手にした画家が登場し、墓石に文字を書き始める。見事な文字で「……ココニ眠ル」と書いてあり、後は死者の名前を入れるばかりだ。画家はしばし躊躇するが、やおら堂々とした金文字でKの名前を書き入れると、Kは墓の穴に沈み、ぐんぐん引き込まれていく――。

 特に解釈も必要としない、完成度の高い、それ自体で完結した逸品だとは思うが、あえて「審判」との関連でごく表面的なことを指摘すれば、石切り場での「二人の男」によるKの処刑の予示、一種の予知夢となっているといえよう。加うるに、一貫して「ヨーゼフ・K」という匿名、記号のようなもので語られる主人公が、夢の中での象徴的な死によって、フル・ネームを獲得するという「死の固有性」を可能的に暗示するものの、物語の展開はそれを裏切り、Kはただ犬のように死に、その固有名を回復することもない――。

 「いくつもの人工的な道が、歩きにくそうにくねくねとうねっている」というこの墓地は、カフカの時代には既に閉鎖されており、今では観光名所となっている右岸の旧ユダヤ人墓地ではなく、プラハの東郊シュトラシュニッツの新しいユダヤ人墓地であろうか。カフカその人が眠るところである。チェコ人、ドイツ人、ユダヤ人の三つの民族のモザイク都市プラハ。墓地はいうまでもなく宗旨によって規定されるが、シュトラシュニッツ墓地はキリスト教徒の墓地、すなわちドイツ人とチェコ人の墓地の東に隣接しているという。「生前には、言語が、ドイツ人およびドイツ系ユダヤ人と、チェコ人とのあいだをわけへだてていたとすれば、死後は、今度は墓地が、ドイツ人およびチェコ人と、ユダヤ人をわけへだてることになる。プラハのユダヤ人にとって、言語と墓地は、二つながらに差異の、差別の範疇にほかならなかった」(平野嘉彦「プラハの世紀末 カフカと言葉のアルチザンたち」)。

 カフカが生きたのは、チェコ民族主義の隆盛期で、1897年にはプラハ市内で反ユダヤ主義暴動が起き、1918年から20年にかけて、第一次世界大戦終結からチェコスロバキア共和国独立の時期にはユダヤ人に対する街頭での暴力行為が激しさを増したものの、おおむね平穏な、小春日和のような時代だったといえそうだ。われわれはすぐそれに続く狂乱の時代を知っている、ヘイトのパンデミックが大きな口を開けて待っていた――。


 若かった頃、一番行きたかった街は、当時はまだレニングラードと呼ばれていたサンクト・ペテルブルクだった。憧れのシベリア鉄道経由で二週間の真冬のソ連旅行を計画した。当時、ビザを申請するには、事前に国営旅行会社に希望の旅程を提出し、先方が宿や移動手段を手配、「バウチャー」を発行してもらう必要があった。旅のクライマックスはもちろんサンクト・ペテルブルク、たっぷり三日間の滞在を確保して申請したと思う。プーシキンが決闘前に立ち寄ったカフェ、ドストエフスキー臨終のアパート、ラスコーリニコフの下宿のモデルとなった部屋、ラスコーリニコフが大地に接吻したセンナヤ広場、もちろんエルミタージュ美術館も……。夢は広がる。しかし返ってきた旅程は、なんと一日に削られていた。しかも深夜に空路サンクト・ペテルブルクに到着し、翌早朝には出発するというかなりの強行軍である。がっかりだったが、その削られた分はなぜかリゾート地ヤルタでの滞在に振り替えられ、結果として毎日チェーホフの家に通い、その作品のように瀟洒な居間、手入れの行き届いた庭で飽きることなく、何時間でも好きなだけ過ごせたので、それはそれでよかったかもしれないのだが。

 たった一日のサンクト・ペテルブルグ、どこに行こうか?ドストエフスキーの墓参りと決めていた。ネフスキー大通りをまっすぐ進み、アレクサンドル・ネフスキー大修道院を目指す。地図はばっちり頭に入っていた。胸躍らせ墓地に到着するも、入口の扉は固く閉ざされているではないか。肩をがっくりと落とし、すごすごと来た道を戻る。二月というのにやけに明るい陽射しの下、しばらくしょんぼり歩くも、俄然踵を返した。この辺が若かった頃と今の私の違いであろう。ソ連という国は御しがたい官僚国家ではあるが、何とかなるということも短い旅の間に学んでいた。扉をノックすると、不機嫌そうな中年女性がのっそりと顔を出す。ドストエフスキーの墓参りをするために遠路はるばる日本から来たこと、ほんの短い時間の参拝でいいこと、明日にはサンクト・ペテルブルクを発たねばならないことなどを、知っているかぎりのロシア語の単語にゼスチャーを交え、懸命に伝えた。おばさんは無表情のまま大きくうなずくと、黙って顎をしゃくり、私を中へ通してくれた――共産主義体制下では冷遇されていたはずの作家の墓に多くの花が手向けられていたのがうれしかった、人々は変わらず彼を愛していたのだ――。


 もしもたった一日、プラハに行けるとしたら、やはりカフカの墓参りをするだろう。「カフカのプラハ」(クラウス・ヴァーゲンバッハ)という、カフカの時代の写真をふんだんに使った、文学散歩のための素敵な観光ガイドを枕頭に置き、眠れぬ夜などページを繰って、行ったことのない街、行くこともないだろう街に思いをはせる。カフカの墓についての記述は――「地下鉄A路線で行く。駅はジェリフスケーホである」。プラハのメトロってどんな感じなのだろう。駅には案内板があり、それに従って墓地に向かうようにとある。「そこには詩や祈願文、その他さまざまな供物が供えられ、一種独特な巡礼の地と化している」。夢に見そうである。

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