カフカに倣いて(三) 腹が減っては
フランツ・カフカの作品の愛読者は、おおよそ次のような感覚を共有しているのではないか。すなわち、多くはあり得ない設定、しばしば荒唐無稽ですらあるストーリーだが、なぜか今の自分にとってとてもアクチュアル、まるで自分のことが書かれているかのようで、ひどく身につまされるといった感じを。そして「身につまされ」度といったものを基準に、それぞれお気に入りの作品があるのではないか。そんな風に想像する私にとって、短編「断食芸人」(1922年)こそ、まさにそんなような作品だ。
主人公の断食芸人に名前は与えられていない。読んで字のごとく、檻の中でひたすら断食をして、それを見物客たちに見せることを生業としている。ハンガーストライキをエンタメ化したようなものと譬えたら不謹慎だろうか。また奇抜な話をと思われるかもしれないが、カフカの時代には実際にそうした見世物があったという。
作品冒頭、今ではすっかり廃れてしまった断食芸のかつての盛況ぶりが描かれる。町中が沸き立ち、断食が続くにつれ、多くの人が一日一回は断食芸人を見ようと詰めかけ、間近で見るために席を予約するものまで現れるほどだった。具体的な断食芸人の様子は、原文では子どもたちを主語とし、現在分詞を多用した非常に息の長い一文で描かれている。青白い顔色、肋骨を浮き上がらせた断食芸人は、椅子すら拒否して、檻の中に敷きつめた藁の上に座ってじっとしていたが、時に格子の隙間から片腕を伸ばし、どれだけやせ細っているかを触らせたりもし、檻の中には時計が置かれているばかりであるが、その音すら気にとめず、ほとんど目を閉じて虚空を見つめ、時々、水で唇を湿らす他は何も口にしない。そんなさまを子どもたちは口をぽかんと開け、互いに手をとりあって見守っていたと。わざわざ子どもの視点で描いていること、そしてその描写がとても具体的で生き生きしていることから、サーカスが大好きだったカフカが、幼年時代に実際に見た断食芸人の記憶に基づいて書いている可能性も大いにあり得るように思う。
人目に隠れて物を食べないようにと常時見張りが付いているが、芸に対して強い誇りを持っている断食芸人は、見張りが厳しければ厳しいほど喜んだ。興行は決められた日数である40日間続けられ、それが終われば華々しいファンファーレとともに見物客たちに出迎えられる。しかし断食芸人は、40日で断食をやめなければならないことに不満であった。もっと長く続けられるのにと。この40日という期間だが、作品では40日を過ぎると人々の関心、客の出入りが減少するという興行上の事情で設定されたと説明されている。実際の断食芸でも40日間が相場だったようで、医学上の理由もあるのだろう。ただそれ以上に、宗教的な含意が大きいのではないかと想像する。多くの論者が指摘しているように、40日という数字は聖書の「マタイ伝」でイエスが断食はした期間と一致する。イエスが悪魔に試みられた、有名な「荒野の誘惑」の場面である。キリスト教に限らず、世界中のありとあらゆる宗教が断食を修行、儀礼として取り入れている。それはなぜなのか。人が絶対的飢餓に直面した時、人肉食を避け餓死を選択するため、すなわち極限状況において人間が人間であるための訓練ではないかという、宗教学者の山折哲雄の所説にショックを受けた記憶がある。断食芸人は宗教に起源をもつ「聖なる苦行者」が、おそらくは近代以降、「俗なる芸能者」に頽落したものという仮説も成り立つのではないかと愚考する。
そんな断食芸人の栄光も今は昔、運命が暗転する。理由は定かではないは、断食芸の人気がある時を境に凋落し、誰も見向きもしなくなったのだ。断食芸人は興行主と別れ、サーカス一座と契約を結ばなければならなくなる。断食芸人の檻は動物小屋とともに並べられるが、珍しい動物が目当ての人々は素通りするだけで断食芸人には興味を示さない。そのうち見物客たちにも、一座にもすっかり忘れ去られてしまう。一方で40日を超えようと、今や自分が望むだけの断食を続けることができた。ある日のこと、一座の監督が断食芸人の檻に気がつく。どうして十分に使える檻を、腐りきった藁を入れたまま放置しているのかと。誰もその理由が分からないが、一人の団員が断食芸人のことを思い出す。皆で藁をかき回し、虫の息の断食芸人を見つけ、まだ断食を続けていたことに驚く。世界から忘れられ、見棄てられ、それでも独り報いなき苦行を、己との孤独な戦いを続けていた断食芸人――この辺りを読んでいると、切なくて胸が苦しくなる。具体的なことに触れるつもりはないが、長く勤めた新聞社を辞めざる得なくなった頃の私が、まさにこんな感じだった。人は簡単に人のことを見棄てる。その後もこの小説、この場面を読み返すたびに、ブラック職場であったり、ワンオペ介護であったり、その時々の状況に呼応した高いシンクロ率で、「切実さ」が胸に迫ってくる。
「断食芸人」はカフカ自身の自画像になっているのではないかとしばしば指摘される。すなわち、発表のあてもない膨大な小説を、文字通り身を削りながら、ストイックに書き続けたカフカの創作人生そのものの暗喩ではないかと。狭い文脈でいっても、自己の運命を予見したかのような作品だった。小説執筆当時(1922年2月頃)は結核の病状はまだそれほど深刻ではなかったが、その後、咽頭に転移した結核はどんどん進行し、病いの床で出版に向けた校正をしていた頃には、食事がのどを通らずガリガリにやせこけ、まさに断食芸人のようなあり様だった。涙まで流していたという。「カフカの目から、とめどなく大つぶの涙がこぼれた。つね日頃、超人的なまでに自制して人が、ただ一度、心のふるえをあらわにした」(池内紀『カフカのかなたへ』所収「食べない男」)。
どうして断食芸人などになったのか。そう監督に問われ、断食芸人はこう答える。大切なところなので原文を引き、私訳をつけてみる。
weil ich nicht die Speise finden konnte, die mir schmeckt. (Ein Hungerkünstler)
「なぜかって、私の口に合うような食べ物を見つけることができなかったからですよ」。食べたくなかったから食べなかった、もし食べたいものを見つけられたのなら、見世物などせず、みなと同じようにたっぷり食べていただろう。それが断食芸人の最後の言葉だった。この言葉は、前回取り上げた「掟の門」に対する、一つの自己回答になっていないだろうか。仮に「掟」が象徴するものが、四たび婚約を繰り返しながら生涯独身だったカフカにとって、婚姻を核とした当たり前の市民的生活といったものだったとして、件の田舎の男が、自分には向かないと思ったから門には入らなかった、入りたくなかったから入らなかったのだと言い放ったとしたら。文学に人生を捧げたカフカの総決算の言葉のようにも聞こえる。
断食芸人の遺体は、藁くずと一緒に粗末に埋葬される。カフカは1924年6月、世を去るが、そのわずか2か月後、死を間近にしたカフカが心を震わせ校正した本作を含む四編から成る短編集「断食芸人」が刊行され、カフカの意に反し、親友マックス・ブロートが遺稿を整理、編集した「審判」ほかの長編作品も続々と発表される。しかしその後、カフカの作品はすっかり世から忘れ去られてしまう。カフカが墓から甦り、「カフカ・ブーム」が訪れるのは第二次世界大戦中から戦後にかけてのことである。
作品は後日譚のような逸話でもって締めくくられる。断食芸人が始末された後の檻には、一頭の若い豹が入れられる。その溢れんばかりの生命力、高貴な身体に見物客たちは群がり、檻の前から動くことができない——「変身」の最後の場面との類似は明かだろう(やせ衰えたグレゴールの死と妹グレーテの若々しい肉体との対比)。前々回、「変身」のラストには違和感のようなものを感じると書いたが、「断食芸人」についてはまったく異なる感想をもつ。小説の終わり方としては完璧ではないか。その解釈については様々な可能性があり得よう。私は、苦悩する人間、悩み、苦しみうる生き物としての人間が退場し、憂いなき野獣が登場するというモチーフに、ニーチェ哲学との親縁性を感じる。