カフカに倣いて(一) 引きこもりとヤングケアラーの物語
Als Gregor Samsa eines Morgens aus unruhigen Träumen erwachte, fand er sich in seinem Bett zu einem ungeheueren Ungeziefer verwandelt.
ある朝、グレゴール・ザムザが不安な夢から目覚めると、ベッドの中で巨大な毒虫に変身していることに気づいたという、世界で最も有名な小説の書き出し、フランツ・カフカの「変身」(1912年)の冒頭部分である。unruhigen(不安な、落ち着きのない)、ungeheueren(巨大な、化け物じみた)、そしてこの小説の最重要語であるが、ここにしか登場しないUngeziefer(害虫、虫けら)。ドイツ語の否定辞un のつく単語を畳みかけるという一見して明らかな意図、その重い響きは頭韻的な効果を生み、不穏な空気感を醸しだす。「異変」の前には不安定な夢、おそらくは悪夢が先行してことが情報として示されるが、その内容は明示されない。
続けざまに、丸みを帯び、茶色で、弓なりの腹部や、たくさんのか細い肢がうごめく様など、そのグロテスクな外貌が、グレゴール本人の視点から、すなわち映画でいうところの主観ショットで描写される。主人公の視線と読者のそれを同一化させることで、読み手をこの異常事態に一気に投げ込み、三人称で描かれながら、一人称に近い小説であることが予示される。カフカに特徴的な文体である。カフカと映画というのも興味深いテーマであろう。
「変身」のあらすじは今さら詳しく書くまでもなかろう。巨大な虫に変身したしがないセールスマンのグレゴール・ザムザ。彼の変わり果てた姿を見てパニックになる家族。グレゴールは自室に閉じ込められ、妹のグレーテがもっぱらその世話をすることになる。やがてグレゴールはこの異常な状況に適応するが、父親にリンゴを投げつけられて負傷し、動くことが困難になる。家族の重荷となるグレゴール。次第に妹の世話もおざなりになっていく。そしてとうとう家族から見捨てられ、やせ衰え、そのまま静かに息を引き取る――。
あまりに有名なその冒頭に比べ、この小説の結末は意外と思い出せないのではないか。あるいは勘違いされているかもしれない。グレゴールの惨めな死で終わると。実際にはエピローグのような場面が続く。グレゴールから解放された両親と妹は、自分たちのこれまでの辛苦を労うように、仕事を休み、電車に乗って郊外にピクニックに出かける。これまで物語は室内で進行していたが、初めて屋外でのシーンとなる。将来について語り合う三人。楽観的な展望が開ける。そして視点はザムザ夫妻へ。美しくなったグレーテに気づき、娘の縁談に思いを巡らせる。
Und es war ihnen wie eine Bestätigung ihrer neuen Träume und guten Absichten, als am Ziele ihrer Fahrt die Tochter als erste sich erhob und ihren jungen Körper dehnte.
目的地の駅に着き、娘が真っ先に立ち上がって若い肢体をぐっと伸ばした時、夫妻は自分たちの新しい夢や良き意図が認められたような気がした——最後は夫妻の主観ショット、視線の先にはグレーテの若々しく伸びきった身体、干からびたように死んでいったグレゴールとは対照的である。また、unruhigen Träumen(不安な夢)から始まった物語が、neuen Träume(新しい夢)で閉じられるのも見事といえば見事なのかもしれないが、初めてこの小説を読んだ時、この結末にどこか居心地の悪さを覚え、蛇足ではないかとすら思ったように記憶している。
「変身」の新訳が評判になっているという川島隆氏は、この小説を今日の問題に引き寄せ、「引きこもり」と「ヤングケアラー」という二つのキーワードを中心に読み解いている。すなわち、引きこもる兄グレゴールと、その世話を一手に背負う17歳の妹グレーテの物語として。説得力があると思う。
よく指摘されることだが、虫に変身したグレゴールはこの尋常ならざる状況に苦悩するかと思いきや、会社や仕事のことばかり気にしている。この辺りの描写はリアルだと思う。朝起きたら虫に変身していたことがあるという人は多くないと思うが、朝目覚めてもなぜだか起き上がれない、原因はよく分からないという体験をした人なら少なくないかもしれない。その場合、そうした深刻な状況そのものよりも、刻一刻と進む時計の針とか、今乗っているはずの満員電車とか、自分のいない職場や学校の様子のことばかりに気を取られていなかったであろうか。
嫌いな仕事に行かなくてよくなったグレゴールは、ひっそりと自室にこもって暮らすことになる。グレーテが献身的に食事など身辺の世話をする。グレゴールは意外にもこうした生活や、味覚など自身の感覚の変化に適応する。「人間はどんなことにも慣れる存在だ」。ドストエフスキーがシベリア流刑という極限状態で得た人間理解を思い起こさせる。グレゴールは壁や天井を這い回ることに喜びすら感じるようになる。そんな兄のために、もっと広いスペースを作ってあげようと、グレーテは兄の部屋から家具を撤去することを思い立ち、母と二人で実際に運び出すが、それはグレゴールに不安をもたらす。思い出が詰まった家具を持ち去られてしまったら、自分が人間だった過去まで忘れ去ってしまうのではなかろうかと――人間を追い詰め、絶望させ、人間性まで奪ってしまうのは、「虫に変身した」というような、有無を言わさぬ絶対的な<大情況>ではなく、「家族が家具を持ち出してしまった」というような、他者の介在した具体的で時に些細な<人間的状況>であるということを示唆していないだろうか。
グレゴールの抵抗、母の卒倒、帰宅した父は状況も分からず息子にリンゴを投げつけ、グレゴールは背中に大けがを負い、衰弱していく。そして、紆余曲折、ドタバタを経て、孤立した家族の忍耐は限界に達し、最も心を通わせていたはずの妹の口から決定的な一言が発せられる。「わたしたち、アレを厄介払いしなくちゃいけないわ」。家族への愛を思い返すグレゴール、誰にも看取られることなく最期を迎える――。
こうしてみると小説の重心はグレゴールからグレーテに静かに移動しており、この作品の結末も決して不自然というわけではなさそうだ。カフカは兄を健気に介護した妹の未来を祝福し、希望を描いた——わけはなく、グレゴールの死の不条理性を一層際立たせると同時に、世の物語のいわゆるハッピーエンドの欺瞞を浮き彫りにし、そうした「異化」の効果に、私は居心地の悪さを覚えたのではないかと今になって想像する。カフカ自身はこのエンディングを気に入っていなかったという。