雲に梯 六
「あ、うん」
少年は源田に「先帰ってていいよ」と伝え、彼とは手を振って別れた。観言はスタスタと隣のクラスに入って行く。少年もまた後に続いた。隣の教室には少年等以外は残っておらず、電気も教室の廊下側半分だけついているだけで、微妙な明るさだった。
「あのさ」
観言は教室の真ん中あたりの机に腰掛けると、初めて顔を上げた。少年は、まともに観言と話すのはこの時が初めてであった。何を話されるのか、少年の胸には緊張が走った。きっと、あの巫女のことだろう。「僕と巫女がどんな関係なのか」を聞いてくるに違いない。どうこうと言える関係ではないが、特別な関係ではあるのだから、どのように説明をすればよいのだろうか、と少年は悩みに悩んでいた。そのような少年の苦悩をお構いなしに観言は、スラスラ話し始めた。
「君、学年委員だよね。えーっと、何先生だったかな。うーん…まあいいや。担当の先生が、今週の金曜日に初めての学年委員集会があるから、って。伝言しろって言われてさ」
「あ、そうなんだ」
少年は不意を突かれたようで、心を撫で下ろした。「なんだ、そんなことか」と思ったのだ。少年は、朗らかに笑い「伝えてくれてありがとう」と言った。観言は、前髪越しに、力の入っていない目のまま、そんな少年を食い入って観察していた。だがわかりやすく安心している少年は、その視線に気づかなかった。
「もう帰っても平気かい?」
少年にはかの毎日の習慣があるため、なんとしてももう帰らねばいけない時間になっていた。しかし例より20分以上下校が遅れてしまっている。あの巫女とは今日はもう話せないかもしれない。完璧主義な少年にとってルーティンが崩れるというのは忌避すべき事態であった。だが、観言は黙ったまま何も言わない。焦る少年とは反対に、観言は少年を未だじっくりと観ているだけだった。
「清重君?」
少年は不思議に思って、観言の顔を覗き込んだ。互いの顔の距離が近くなっても観言は動じずに、少年の瞳の奥をジィィと捕らえていた。少年は、観言と至近距離に接したことで初めて、彼の見たこともないほどの真黒な目を確認した。まるで黒い渦巻きだ。見ていれば見ているだけ、自分がその中へ吸い取られていき、最期には跡形もなく消されそうな恐ろしいもののように思えた。そして少心身の身震いを自覚すると、体のあちこちを机にガンガンとぶつけながら、懸命に教室から逃げ出した。
———
学校から逃げるように、例の神社へ向かった。観言への恐怖の感情は残っていたものの、神社へ近づけば近づくほどに巫女への喜びの感情が大きくなり、次第に恐怖の感情も巫女への狂気的な喜びを支える感情として変化していった。上がる息をハーフー・ハーフーと整えながら、神社へと続く階段を登っていく。
「あ、こんにちは」
巫女はどうやら階段のすぐ上を掃除していたようだった。すでに毎日のように顔を合わせているものだから、巫女は少年を認識していた。少年が「こんにちは」と例の如く挨拶をすると、巫女は今日も美しく笑いかけた。少年はその顔を見ると、何とも言えない気持ちになっていた。心が生ぬるい液体になったような、今までに経験したことがない興奮を感じていたのだ。そして、少年はやはりニヤニヤする顔をどうにか抑えて神の前に手を合わせた。
「濱矢君…だよね?」
5秒間ほどの手合わせが終わり、階段のほうに体を向けると、地を掃く手を止め、少年に向かって首を傾げながら尋ねる巫女の姿を確認した。少年は、自身の情報を知っている巫女の、自身への興味を認めるとともに特別な好意を感じた。
「何で知っているんですか」
少年はムタムタと溶けるように上がる口角と目を筋肉でどうにか下がらせている。
「観言が教え」
「お姉さんの名前は何て言うのですか」
巫女との会話に集中する少年は、観言という男の名により、巫女との尊い会話が汚されてしまったように感じ、それを何より悔しく思う少年は、食いついて話題を変えた。
「透子、私の名前。透けるに子供の子」
「綺麗な名前ですね」
少年は一番大人らしい表情を作り上げ、魅力的に微笑みかけようと試みた。
だが巫女(以降透子)は、少年の笑顔に特に意味を見出すことなく、社交として「ありがとう」と言った。そしてすぐに少年の後方に何かを察知したようで、大きく手を振った。少年も釣られて振り返ると、そこには最後の一段を上がってきていた観言の姿があった。またもや透子との会話を彼によって邪魔された少年は、瞭らかに不機嫌になった。風が強く吹き、それが少年の目を射ったが、少年は瞬きの一つもせずに鋭く淀った目で観言を睨みつけた。
「観言、おかえり」
おかえり、という言葉が少年の脳味噌に突き刺さった。どうやら二人がただならぬ関係の仲であることを悟った。少年はその事実を信じようとはしなかった。いや、信じられなかった。観言は少年と同い年であり無論、勉学でも友人の数でも少年に劣る者であった。つまり、巫女との関係において、少年と同じ土俵に立てる条件というものが観言には備わっていなかった。だからこそ自分が何事にも同級生に劣ることは無いと自負している少年は、自分よりも透子との関係性が構築されているという事実を、誠に悔しく思ったのであった。自分より劣っている者がなぜ透子との関係性において優位に立っていることを認められようか。少年のその尊い自信へ、無自覚に欠壊した理性が急激に越流し、心の最奥に強く衝突しては引く。どうにかその器自体が割れる手前で、これでもか、という程にゆっくりと一呼吸した。
観言は少年の足から頭までを一通り三白眼でジロジロと眺めながら、「ただいま」と返事をした。
「観言君、さっき振りだね」
「……うん。」
「この神社に何の用?」
「用っていうか、透子ちゃんに会いにきて」
その言葉で少年はいよいよ狂ってしまった。少年は腕で自身の頭を覆い、後頭部に生える髪を強く引っ張り始めた。ふーふー、と息を荒げたと思うと、アアァァァァァ!と空に向かって発狂した。そして、重心が保てなくなり、左右に揺れる体を支えるように小刻みに歩いた。ブチブチと音を立てながら抜ける髪を気にすることなく引っ張り続けている。抜けた髪は追い風で透子の元へと飛んでいっていた。観言は、少年の狂気的な行動から明からさまに敵意のある目を向けながら、急いで少年と透子の間に入り、少年を興奮させることなく、透子に下がることを要求するため、ゆっくりと後退りを始めると、巫女もその意図を汲めたのか、後退りを始めた。