雲に梯 五
冬休み明けの教室に栗田が勢いよく「おはよう」と登校してくるや否や、すでに登校していた少年と源田のもとにやってきて、「おい!」と2人に顔を近づけた。源田との集合場所である少年の机が栗田の突進により、若干弾き飛ばされていたので、少年は、はぁと小さなため息をついて机を直したが、そんなこと気にする由もない栗田は、小声になって話し始めていた。栗田は寒さからか、それとも恋悩みからか、若干頬を赤らめ、源田等の返事に期待をしていた。だが、源田は興味がなさそうにそっぽを向いて、より近づいてきた栗田から身体を離した。
「なあ源田。俺はどうにも涼宮さんのことが気に入ってしまってね、告白しようと思っているのだけど、どう思うかね」
「…俺にはどうにも言えないよ」
栗田は面白くなさそうに、口を尖らせた。
「そうかい源田。じゃあ、濱矢。お前はどう思う?」
「いいんじゃない?お似合いじゃないか」
少年は心底興味のない様子を表に出さないように注意し、にこやかに言った。間髪入れずに答えた少年に栗田は目を輝かせて、わかりやすく満面に笑った。
どうせ栗田は、「やめたほうがいい」と言ったとしても、自我を押し通すやつだ。人の意見を聞きながらも、それらを全く受け入れる気の無い面倒なやつなのだ。だからこそ少年は、栗田の話を真剣に聞いたり、まともに助言をしたり、とにかく栗田に正面から向き合ったことがなかった。それに、一年中異性に気を取られ、成績が一向に上がる様子のない栗田が少年には馬鹿らしく見えて仕方がなかった。
「だよな!今日告白してみることにするよ」
栗田は、少年の肯定的意見に喜んで口角をあげ、気分の良さそうな軽い足取りで自席に座った。栗田は自身の意見を否定されると「でも、でも」と強引に肯定させる方向に持っていき、肯定されると輝かしい笑顔で上機嫌になるという、いかにも分かり易い人間だ。
少年はあまりにも呆れて笑ってしまっていた。
———
栗田の放課後の告白はどうやら上手くいったようだった。栗田に始めての彼女ができてしまっていたのだった。その高揚させるべき事実が、栗田に今日が清掃当番の日だという事実を忘れさせた。少年は、栗田が彼女と手を握り、その握り合った手を振ってぷんぷんと帰宅する様子を生気なく窓越しに見届けた。そしてやはり、あまりの可笑しさに失笑してしまった。恋をして何の徳があるのだ、と思ったのだった。そもそも、中学生が付き合ったとしても将来性も少しのメリットも無い。付き合うことにどんな意味があるのだろう。少年が栗田を深く嫌う条件は只今、充足してしまった。もう知人でも何でも無い、ただの同級生に成り下がった。これからは、源田だけが少年の最も近しい人間になったのだった。
「なあ源田君。源田君は、中学生としての責務に全うするよね」
下校前の清掃の時間、少年は箒を掃きながら変わらない様子で言った。源田は少年の目を真直ぐ見て、何の表情もつけずに「うん」と言うと、その光に当たって一層透き通る茶目をすぐに逸らしたが、その間少年は、自身の心にある黒い底面を見透かされているような気がした。源田は時々、この茶色の目でスゥッと少年の真黒い目を見つめるのだ。少年はそれが嫌だった。自身の心を占める大きな自己愛を見透かされ、軽蔑されているような気持ちがしていたのだ。
「そういえば、隣のクラスの清重が濱矢君をさっき探してたよ」
キーンコーンと清掃終了の合図の鐘が廊下に鳴り響いた。源田は教室の隅にある掃除用具入れに自身のモップを入れると、少年の手からもサッと箒を取り、一緒に仕舞った。そして、スタスタと自身のリュックを背負った。
「そうなんだ。今日はもう下校して、居ないと思うから明日聞いてみるよ。教えてくれてありがとう」
少年も源田の背を追って急いでリュックを背負い、帰宅のため廊下へ出た。すると、少年の教室と隣の教室の間の壁に、腕を組みながらそこへ寄りかかっていた観言が一人立っていた。二人は驚いて、肩を跳ねさせた。
「濱矢君。少し時間ある?」
彼は少しも顔を上げず、右に目を伏したまま少年を呼び留めた。目にかかる前髪が全顔の影となり、さらに彼の後ろの窓から入る白い光も彼の顔をより暗く見せていた。