雲に梯 四
それからというもの、冬休みが終わるまで「こんにちは」という挨拶の為に神社に赴いては、神に手を合わせた。掃除の観察だけ済んでいた巫女に対する好奇心は、打って代わって、上記の行為のように直接接触しないと満たされぬ面倒な物に変わっていった。「見る」から「話しかける」という習慣の移行は、巫女が少年のことを「個体」として認識できるほどの密な関係に成り変わり始めていたのだった。
冬休み最終日、巫女は少年に「君、偉いわね。毎日来ているでしょう。信心深いことは良いことだわ」と話しかけた。非常に麗らかな日であった。風は涼しく吹くものの、太陽の光は少年の肌だけでなく、巫女の美しい笑みを燦々と照らし、二人を穏やかな様子で囲っていた。少年は、予想だにせぬ挨拶以外の言葉の交流に、新たなる階段を登ったという喜びで顔を真っ赤にしながら「は、はい」と答えた。
「何歳?」
巫女が少年について尋ねたのは初めてで、少年はどうしようもなく動揺し、同時に興奮した。
巫女は少年の背と同じくらいにしゃがんだ。その際に少年は、彼女の重なり合った首元、襟のその隙間から、神秘的な肌の小さな膨らみ、つまり女の谷間を捉えてしまった。反射的に目線を移した少年だったが、巫女は美しく、妖艶な雰囲気の持ち主である。したがって、生々しく映ったその光景が、中学2年生の少年の頭の中にこびりついて離れなくなるのも無理が無かった。また、巫女のプルプルと光を放つ唇の少年の目前にあることも、さらなる興奮を呼び、ドッドッと心臓を激しく脈打たせていた。さらには、追い風によって流れてきた彼女の香り、その肉体的かつ官能的かつ柔らかな香りに少年は狂ったように魅了されてしまい、体の穴という穴からスぅスぅスぅ…ズズズズハぁと露骨な息の下蓄え、その全てを自身の体中に留めた。
「透子ちゃん、何してるの」
どうにもでき兼ねる幸福感が少年を殊更狂気じみた男にしていた時、巫女の後ろから、彼と同じほどの背丈で、彼にとって見覚えのある男子が歩いてきた。清重 観言だった。隣のクラスの観言は、常に冷静で、自身の主張を取り繕うことなくストレートに伝えてしまう癖があった。その為、それに耐えかねた観言の友人らは彼の側を離れていき、現在は常に一人で生活をしている。少年と観言は同級生ではあるが、あまり話したことがない。にも関わらず、少年は観言を嫌っていた。その原因は少年が栗原の話を聞きながら適当に掃除をしていたところを観言に「ちゃんと掃除してくれない?」と冷えた目で言われたことに起因する。
「観言」
先程まで少年を映していた巫女の目は今や観言に向けられていた。少年は巫女との会話を邪魔されただけでなく、二人の馴れ馴れしく名前を呼び合うほどの親密さ、それもかの敬遠している清重観言とこの美しい巫女との親密さを間のあたりにした。少年は、ぐつぐつと湧き上がってくる怒りにより無自覚に片胸を握り潰し、その手が左右前後に大きく震えるほどの力だったことから、もう一方の手でその手を上から押さえ、観言への殺意にもなり得る一歩手前で、自身の溢れかえるような怒りを自覚した。観言はその殺意に気づいているのか、冷然と蔑むような、その上偉そうな視線を少年に注いでいた。
「観言、知り合い?」
観言は首を横に振った。しかし、少年は納得ができない。前述した通り、少年は「ちゃんと掃除してくれない?」と言われた時から観言を認知し、同時から嫌悪していた。自身の方が賢く、誰からも注意や命令を受けるのをよしとしなかった少年が観言を嫌悪するには、側から見たら些細なことではあるものの、少年にとっては十分過ぎる出来事であった。そのような刺激的な出来事をいかにも覚えていないように振る舞う観言に気を害した少年は、嫌に笑いながら彼に歩み寄り手を差し出した。
「清重くんだよね。僕、隣のクラスの濱矢だよ」
観言はその手を見もせず、左上の空虚な空に焦点を当て、何秒後かに「ああ。そういえばそんな人いたな」とボソッと呟いた。この行動から、観言にとって自身は、本当に気付かぬ存在であったことを知らしめた。少年は憤慨した。観言にとって少年がそれほど存在感のない者であったという事実や、少年が未だ根に持つ掃除のことを一切覚えていない様子を少年は全く気に入らなかった。観言に笑いかけた表情筋がピキピキと引き攣っている。
観言はそんな少年を傍目で見ながら、巫女に「ちょっと来て」と彼女の腕を引いて社務所に引き下がった。少年はあまりにも自然な二人の触れ合いを茫茫と眺めた。少年に反論の余地も与えないほど自然で素早い動作だったのだ。観言に奪われた巫女との時間や、彼らの触れ合いに、少年はまるで般若のように眉を引き上げ、鼻の穴を広げ、口をへの字にして、蒸気でもでるのではないかと思うほどに顔を真っ赤にした。少年は消化不良に終わった会話に地団駄を踏んだ。くそ、くそ、くそ、とこれでもかというくらいに、力一杯踏んだ。