雲に梯 二
橙色の空へと伸びる石階段には両面にゆらゆらと揺れる草木が茂っており、まるで異世界に足を踏み入れる心地がした。涼しい風の吹く中、顔に掻き始めた汗を腕で拭う。拭いても拭いても浮かんでくる汗はかえって寒気を催すほどであった。登り切って振り返ると、紺色と橙色、そしてほんのり水色が入り混じる空の下に帰宅をする人々や生活の営み、そしてずっと遠くで右から左へと街を横切る電車が一望できた。日常的かつ幻想的な景色に少年は感動し、はぁ、と感嘆が漏れ出すと、直後にサァッと爽やかで冷たく美しい風が頬を撫でたのを感じた。
「こんにちは」
女の声が後ろ、つまり神社の方から聞こえた。優しくて静かな声であった。少年は振り向いて見ると、森に囲まれた社の前を箒で掃きながら、こちらに微笑みかけている女性を確認した。一見すると神社は、大きな空間の中にあるわけでは無く、施設についても正面にある一つの御社殿とそのすぐ横にある社務所しかない、とても簡素で古びた印象だった。小さくポツンとした陰気な神社である。だが、それは日本的、古典的情緒を好む少年の心を掴むには充足しすぎるほどであった。
「こんにちは」
女性が再び微笑みかけた。少年はその古風で地味な空間に夢中で、挨拶を返すことを忘れてしまっていた。少年は神社の空間から女性へと視線を移した。涼しげな奥二重を持つ、背の高い女性であった。彼女は緋袴を履いている。どうやらこの神社の巫女のようだった。気取りなく、ポテッというくらいに厚いその唇は両端を上げ、少年を迎えていた。そして少年は、やっと「こんにちは」と発した。女性はその言葉を聞くと視線を箒に移し、掃除に戻った。
少年はこの時、自身の胸に何かが突き刺さり、二度と回復できないような苦しい痛みに襲われていた。そして、その女性から目を離すことができなくなったのである。しばらく目を奪われているうちに、巫女が視線に気づいたようで、再び少年に微笑みかけた。その美しい笑みにハッと我に帰り、なんだか気まずくて一気に階段を駆け降りたが、未だ深い催眠のようなものにかかり続けている心地がしてならなかった。
帰宅した後も、あの巫女の顔を無意識のうちに思い出しては高騰する体温に襲われてしまい、その繰り返しが、少年を元の生活に戻らせなかった。それからというもの、あの神社に通って、あの巫女を観察するという奇妙な習慣が生まれた。少年は栗田と源田の下校を確認してから少しばかり、学校で時間が経過するのを待ち、毎日同じ時刻に神社へ通った。参拝者として通う分には、特に不純な点はないのだが、少年はあの巫女に見られることを嫌がったので、森に身を隠し、社務所から女性が出てくるのを待った。そして、皺一つ無い緋袴を纏った凛とした女性の掃除という作業だけをただ食い入るように、大きな目でジィ、と見ていたのである。どんなに寒い風が吹こうと、豪雨が邪魔をしようが、少年のその習慣を已む理由になりはし得なかった。丸い目でジィィと、それはもう執拗に観察した。少年は、自身と巫女だけの空間を自覚し、夢中になって巫女という一点のみを集中した。古く小さな神社には、夕方時ということも相まり、参拝者は滅多にいなかった。二週間に一人いるかどうか、という程度であった。だから、少年は好きなだけこの狂気じみた行動ができたのである。風が葉を揺らし擦るようなサァーという音と、巫女の地を払う音が響き渡る。草木が作り出す幻想的で威圧的で魅惑的な自然の音と、現実的で柔和的で神秘的な巫女の作り出す地を擦る音は少年に大いなる安らぎと興奮を与えていた。
巫女は少年に気づくことなく、掃除という彼女の習慣を休むことなく行っていた。さらさらという擬音が正しい様子で歩き、はらりはらりと地を掃く。少年の日々の疲れも一緒に払われるようだった。
冬休みに入り、少年は一時その習慣を切らざるを得なかった。少年は母と共に、新潟にある彼女の実家に帰省することになっていたからだ。28日から1月3日までの間、祖父母の家には従兄弟や再従兄弟も集まった。1年に1度しか会えない彼らだったが、少年は賑やかな空間の中、心底疲弊しながらも顔を作って馴染んでいた。
その7日間が速く過ぎ去ることを少年は熱望し、一日一日を遅く、それはものすごく遅く感じながらも、ついに帰省から帰ってきたのである。家に帰宅したのは午後3時になる頃だったが、1時間ほど待って習慣を再開させた。雪が降り積もった道は少々滑りやすく、常に足に力を入れていないと簡単に転んでしまうほどのものだった。しかし、少年は7日振りの習慣に胸が躍り、興奮で震え上がる体を以て慎重な歩きなんてできやしなかった。全身で歩く心地だった。