雲に梯 一
緋袴がさらりと風に靡く女性を木々の影から覗く少年が一人。
少年は自身の悴んだ手に息を吹きかけ、擦り合わせていた。真冬の風のために手が温まることはなく、仕方なくもう一度、自身のズボンのポケットに両手を突っ込んだ。少年が目を奪われている女性は、所謂巫女であった。長い髪が位置低く一つに束ねられており、彼女が動くたびにその艶が揺れる。彼女は、その可憐な手に握られている大きな箒で、サッサと砂利を払っている最中である。
この日は、非常に良い天気であった。しかし、雲の無い空、薄ら飄々と吹く風、白光った陽の下は、積極的に外を嫌う少年の背中を押すには、それでもまだまだ力なかった。
少年は元来、どうしようもなく家の外が嫌いな質だ。家というのは、単身赴任の父と、パートで朝早くそして夜遅く帰ってくる母を持つ少年にとって、世界そのものであった。人に合わせることなく、そして何より、誰にも話しかけられることなく自分の好きなことを好きなだけすることの許される家という空間は、自立心が高く孤独を愛する少年にとって、最も安寧できる場所であるのだ。人一倍規律を嫌い、人一倍規律を重視する少年は、社会という「家の外」に気疲れしていたのだ。だから、わざわざ自分から外に出ることに納得できる理由はなく、それに加え、冬休みという期間は登校の必要がない、ということで少年の、家への執着は強まるはずだった。
ではなぜ、一月四日の九時にも満たないこの時刻から出歩いているか。答えは簡単だ。少年は、初めての恋をしていたのだ。俗に言う、一目惚れというやつだった。だが、少年の歳・14歳という年齢は非常に厄介で、中二病、という言葉があるくらいに融通が利かないものだ。だから少年は自身の気持ちを自覚することができなかった、いや認められなかったのだ。
少年は、学校の知人達と自分は全くの違う個体だと思っていた。わかりやすく言うと、知人達を蔑んでいたのだ。成績優秀な少年は、中学2年生であるのにもかかわらず、他学年の学習範囲を自力で終わらせており、教師からも県上位の高校は現状でも確実と言えるだろう、と期待されていた。少年は勉学に確固たる自信を持っている。中学生にして学歴至上主義であったのだ。自分が一番優れており、同級生は自分ほどの価値をまるで持たず、年齢だけ重ねた幼稚園生だとか思っていた。そんなものだから、少年が自ら彼らに話しかけることはなかった。
そんな少年が唯一、自ら話しかける時というのは自身の気持ちよさのためにわざと知人に、蓋然性が高いだとか、あみの目に風とまるだとか、大人でも使わないような難しい表現をして、あたかもそれらが自分にとって普遍的な言葉だと取り繕う時であった。その反応を見て愉しむことを少年は好んでいた。少年の持つ自尊心は、そのような、人を見下す際に現れるものであった。
そんな厄介な性格を持つ少年だが、面白いことに、同級生の間では人あたりの良いことで評判であった。他人を良く思わないくせして、他人から良く思われないことをひどく恐れていたのだ。社会の中の孤独を嫌がっていることを少年も自覚していた。自分は自分であって、他人からどうこう言われてもそれを気にする必要は無いと理解しているものの、やはり無意識下では他人の目を気にしないわけにはいかなかったのだ。だから少年は、組の中で自分より一・二番下の成績を持つ者が好んで寄ってきたところ、それを拒まずして彼らで外壁を囲うようにしていた。彼らの成績は少年よりほんの少し、誤差の程度、差異があるだけであったが、少年を抜き出たことはなかった。彼らというのは栗田と源田であった。
栗田とは、丸い眼鏡をかけた、だがそれが全く似合わない長身の男であった。彼は口が達者で、褒め上手で、そして何より、気の非常に利かない性格の持ち主であった。源田は茶髪茶目で、くりくりした目が特徴的な寡黙な男であった。注意しなければならないのは、彼らは少年の友人では無く、知人であるという点だ。側から見れば、3人のことを友人だと認めることができるかもしれないが、少年はそれを許さなかったのだ。どんなに親しく話そうが、どんなに成績が優秀だろうが、少年は自身に成績の及ばない者を友人とすることは全く認めなかったのだ。ただ、そんな彼らであっても唯一、少年に認められていたことがあった。それは、少年視点で彼ら二人だけが、幼稚園生から小学生上級学年に昇格できている、という点だった。
少年は、ある日の学校帰り、栗田に連れられ源田の家に向かっていた。源田が熱で学校を欠席したため、その日に使用した授業資料を届けに行くためであった。どうせ明日にでも自身で学校に来るだろうからと、自分たちがわざわざ資料を届けに行く必要性を全く感じることの無かった少年は、すこぶる帰りたい気持ちだったが、お人好しで、少年の本当の内面を知る由も無かった栗田が強引に少年のリュックを押して、帰路とは反対方向の源田宅への道へと向かわせた。徒歩で10分程度なのだが、それでも少年にとって面倒な事柄であることに間違いなかった。
橙色の空、ささやか程度に吹く秋風、車道側に立つ木々から、ハラ、ハラと落ちる紅葉した葉が、少年の心の隙に埋り込むと同時に、憂鬱な気分を放り出した。少年はこのように風流な秋容が見えるのならば、今という時間の浪費も悪く無いと思うことができた。だが、その情感につけ込めたのはほんの一瞬で、栗田の話し声がどうにも邪魔をした。何をそんなにぺちゃくちゃと話すことがあろうか、僕の優美なる鑑賞を邪魔するな、と少年は心の極表面で思った。「3組の合田さんが可愛いくて好きになりそう」だとか「4組の園川さんに告白された」だとか、少年にとって最もどうでも良い類の話を随分と饒舌に話していた。しかし少年は、恋という感情が全く馬鹿らしく見えていた。中学生にして恋に惑わされた輩共はまるで、「学生としての本分、つまり勉学に勤しむことができない、低俗かつ卑しい不良のなりかけ」であることを自分から公言していることに、気づこうにも気づけない愚人であると感じていた。少年は、栗田の頭の良さについて、他の同級生に比べると少し優っていることを評価していたために、それ以外の性質が残念でたまらなかった。少年が認めた人間であったからこそ、嫌に軽蔑の対象でもあったのだ。
「君にはどのような女の子が魅力的に映るのだ」
栗田が興味津々に言った。「そうだな」と少年は考える振りをした。恋をしたことも、しようとしたこともまるでなかった少年は車道にバイクが通り過ぎるのとほとんど同時に、自分にも聞こえないほどの小さなため息をついた。信号待ちで長蛇の列を作っている車の数々を横目で見ながら、少年たちは歩道の上に乗り上げた。
「理路整然としている人かな」
少年は適当に言った。栗田は「へー」と心底興味のなさそうな声で反応した。普段と変わらず、恋話においても真面目な少年の態度と返答が気に入らなかったのだろう。栗田は道に落ちている小砂利と落ち葉を蹴って、信号のために止まった。
「好きな人はいないのかい?」
栗田は再び興味津々の顔に戻って尋ねた。僕が変わらず真顔で「いたらいいね」と返すと、栗田は「なんだよ」とつまらなそうに言った。それから数秒して信号が青に変わると、少年らはまた進み始めた。今までは車道の片側、少年らの歩いている側にのみ木々が立ち並んでいたが、ここからは車道の両側にそれらが連なっていた。夕陽に葉がザラザラ、と揺らされている木々に閉じ込められ、少年らはその中を歩んでいく。
「君、モテるじゃないか。昨日だってあの西川さんに告白されていたように見えたが。なのに、なぜそんなにも自慢せずにいられるのか」
少年は「あはは」と目を笑わせ、「全く興味深い価値観だ」と心の中で嘲笑った。西川というのは、学年のマドンナ的存在である。ものすごい美少女で、学年の内ほとんどの男が彼女に好意を寄せている。彼女は成績も中の上辺りだったので、少年からの評価も同級生の中では可もなく不可もなくという状況だった。だが、少年に勇気を出して告白をした際、少年の彼女に対する評価は地に落ちた。「中学生としての本分を理解していないのだ、この愉快な女は」と少年は思ったのだった。「恋をする暇があるのなら、中学生として、その中の上の成績を上げることの方が、優先度は高いはずだ。にも関わらず、なぜこの女はそれをせず、付き合おうだなんて中途半端で浅はかな考えを持っているのだろうか」と評価するに至ったのだった。それからは、栗田が再び話を自身語りに戻し、少年は耳だけ貸してやった。
源田宅に到着すると、少年らの対応のために彼の母親が出てきた。源田の母だけあって、寡黙で無駄な話をしない人だった。だからすぐに用は済み、帰り際に源田の母がそれぞれに持たせてくれたみかんジュースを飲みながら帰路についた。栗田はその近所に住んでいるため、その場で解散をした。
源田の家の隣には古い神社があった。高崖神社といって、鳥居まで物凄く長く、崖のように不安定に石の並べられた階段を登らなければ着かない神社であった。少年は、その名前だけは聞いたことがあったが、行ったことはなかった。神社好きの源田がよく訪れる神社だそうで、夕暮れ時の展望は何かに言い表すことのできないくらいに幻想的であるそうだ。少年はもう暗くなり始めていたこの時、帰路を歩いていた足を神社への階段に向かわせた。