旅立ち
それは決して必要なことではなかった。いつも通りただ部屋を去るだけでよかった。
いまこの瞬間、目の前の屍に対する怒りや憎しみの感情はもはやどこかへ消えていたにも関わらず、無意識にそうしていた。
キースの体をつたって、火が少しずつ広がっていく。
階下へ戻ったナイトは倒れているユラを抱き抱えると、暗闇の方へと歩き出す。背後でパチパチと炎が音を立てていた。
西通り12番地。人気が少なく目立たない場所にその宿屋はあった。石造りで所々に草が生えているが、建物自体は手入れが行き届いていて、街にとてもよく馴染んでいる。
扉を開けると受付の灯りだけがついていて、そこに頬杖をついた男が目を瞑って座っていた。
「アスターさん、すぐにでも私の部屋へ医者を手配していただけますか。」
男は静かに目を開いた。
「ナイト....生憎だがそのよそ者を寝かせてやれる部屋はない。満室だ。」
「彼女は私の部屋で寝かせるつもりなので、問題ありません。」
男は抱えられたユラを一瞥するとこう言った。
「......そいつは一般人だろう。お前の友人でもなさそうだ。何処の馬の骨とも分からん若い娘を、この宿に置けと?」
「お願いします。絶対に目を離しませんから。」
男はため息をついたあと少し考えて諦めたのか、もう行けと言った風にシッシッと手を振ってみせた。
ナイトの部屋は2階のすぐ左手にあった。木造の階段は相変わらずギシギシと音を立てている。
手際よくユラをベッドへ寝かせると、ナイトはバスルームへ直行し、疲れた体をシャワーで洗い流した。
着替えも終わり一息つこうとしたとき、誰かが扉をノックした。
「ナイト、医者が来たぞ。」
入ってください。そう声を掛けると、聴診器を首からぶらさげた60代ほどの女性が入ってきた。
「彼女ですね。」
医者はユラの側に置いてある椅子に腰をかけ、ゆっくりと丁寧に診察をしていく。
「あざや火傷が体のあちこちにあります。服を着ていればまず誰にも気づかれないような場所に...。おそらく日常的に暴行を受けていたのでしょう。最低でも1週間は療養が必要です。」
そして少しの沈黙のあと、医者はこうつづけた。
「体の傷は月日が経てばいずれ目立たなくなります。だけど心の傷の方は.....」
医者はまっすぐな目をナイトへ向けた。
「私は精神科医ではありませんが、彼女の心の苦しみは安易に想像することができます。過去が引き金となって いつか自ら命を絶ってしまう可能性がある。生きていることがまた苦しみになってしまうかもしれない。それでも、あなたは彼女を救いたいと思いますか。」
やわらかい口調であったが、言葉に重みがあった。心の傷を背負って生きる。それは時に死よりも遥かに苦しく残酷なものであるとナイトは分かっていた。
だがキース暗殺の夜、共に殺すはずだったユラを生かした時から、ナイトの気持ちはとうに決まっていた。
治療が終わると医者は「塗り薬は毎日かかさずにね。」とだけ言い残して帰って行った。
外はすっかり朝日が顔を見せ始めていた。
ナイトは身支度を整えると、受付のアスターへと声をかける。
「帰ってくるのは昼頃になります。それまで彼女をよろしくお願いします。」
目を離さないとさっき言っていなかったか。まったく....。アスターが何やら小さな声でブツブツと呟いている。ナイトは聞こえないふりをした。
「....この時間帯は一層冷える。気をつけて行けよ。」
「ありがとう。」
ナイトは軽くお辞儀をし、宿の扉を開いた。朝の匂いがした。
ナイトが足早に訪れたのは、今回の依頼主アンナ・ラゲナリアの家だった。アンナの住む地域は住宅や出店などが密集しており、早朝でも通りは賑やかだ。寝癖のついた髪をゆらゆらと揺らしながら眠そうに歩いている人、千鳥足で飲食店に吸い込まれていく人、泣いている赤ん坊をあやしている人。
住宅の屋根の上ではオレンジ色の猫が気持ちよさそうに日向ぼっこをしている。
「ごめんください。」
ノックをして少しの間があったあと、はい。と扉の隙間からアンナが顔を見せた。
「依頼の報酬を受け取....」
受け取りに伺いました。と言い終わるのを待たずに、アンナは早くしてと言わんばかりにナイトに家の中へ入るよう促した。
「いまお金を持ってくるわ。」
リビングへ案内され待っていると、5分ほどしてアンナが袋を持ってやってきた。
「2人分 この中にきっちり入っているわ。それで、夫とあの女は死んだのね?証拠はどこかしら。」
「証拠..... 証拠など持ってはいません。そしてあなたがそれを知る必要はない。あなたも今から夫と同じ所へいくのだから。」
アンナはナイトが言っていることが全く理解できなかった。
「あなた.....何を言っているの?」
ナイトは表情を変えることなく言い放った。
「お前が知る必要はないと言ったんだ。」
声をあげる暇など与えられなかった。アンナの頭と胴体が2つに分かれ、床に転げ落ちる。
「2人分、報酬はたしかに受け取ったよ。」
________ユラが目を覚ましたのは、それから6日後のことだった。
窓から差し込む光が眩しい。微かに目を開けるとすぐそばに若い女性が座っていて、こちらを見つめていた。
「気分はどうですか。」
「...あなたは誰..?ここは、どこなの....?」
「私の名前はナイト。ここは私の部屋です。」
「......そう。」
知らない部屋に知らない人と2人きり。たとえ相手が女性でも、こんな状況だと大抵の人は不安になるだろう。パニックを起こすかもしれない。だがユラはなぜかあたたかく、ここが安全な場所だと感じた。
「夢なのか、現実なのか...。私は.....自分の家が燃えているのを見たわ。」
ナイトはあの時ユラの意識があったことに内心驚きつつ、彼女の言葉に黙って耳を傾けた。
「これは私の勘なのだけれど........あなたは....彼を知っている気がする。そして私のことも。キースは、彼はもういないのね....?」
「確かに、彼はもうこの世にはいません。でもなぜそう思ったのですか。」
「だって彼が生きていたら・・・私を逃がすはずがないもの。どこにいたって、どうなったって私を追いかけてくるはずよ。思い切り手を掴んで、そうして...」
ユラの顔がだんだんと赤みを帯びて、目には涙が浮かんでいる。いまにも溢れ出しそうだ。
「あの人を愛してしまったこと、それが悪夢の始まりだった。...いろんなことをされたわ。殴る蹴るは当たり前で、ときに熱湯をかけられたり...。」
ユラはゆっくりと語り始めた。
「妻子がいると知ったのは出会って数ヶ月が経った頃だった。彼らの息子のことは.... 彼は妻が殺したと言っていたけれど、多分嘘。...ただただ恐怖だったわ。私はいつこの人に殺されるんだろうって。逃げたくても、逃げられなかった。死にたい、そう何度思ったことか。死んで楽になりたかった。.....でも神様はそれを許してくれなかったわ。だから、いつの間にか死ぬことすら諦めた。彼にとって都合のいい道具であり続けた。ただ、耐えて..........わたし.....私はっ.....」
ナイトは痩せ細ったユラの手を優しく握りしめた。
「ユラ、よく聞いてください。明日の早朝ここへ馬車を呼びます。あなたはそれに乗って南へ向かうんです。ここよりずっと、暖かい場所へ。」
「ここより、暖かい場所.....。行って、どうするの。私はもう生きる意味すら分からないというのに。」
ユラは困惑していた。
「とにかく今日はまだゆっくり休んでください。」
そう言って布団を掛け直した。
(私も少し眠ろう...。)
1日動き詰めだった為か、ナイトの体には疲れが溜まっていた。
仮眠を取るつもりが、ナイトの目が覚めたのは翌日の早朝4時だった。椅子に座ったまま寝たせいで体の節々が痛かった。
ふとベッドへ目をやる。そこにはユラの姿はなかった。
「しまった....。」
ナイトは急いで部屋の外へ飛び出した。1階から話し声が聞こえる。アスターとユラの声だ。
「...あの娘は君と同じだよ。過去という鎖に繋がれ自由になることができない。暗闇から、ずっと抜け出せないでいる。」
誰の話をしているのだろうか。いや、それよりもユラがすぐそこにいたことにナイトは安堵した。
階段を降りながら2人に向けて声をかける。
「何をしているんですか。」
ユラがこちらを振り向く。
「あら、おはよう。2時間ほど前に目が覚めて鈍った体を動かしてたの。アスターさんが手伝ってくれたわ。」
「そうですか。」
「薬が効いてくれてるおかげね。体はもうすっかり元気よ。」
昨日よく眠れたのか、ユラの顔色は大分よくなっている。
「それはよかったです。ところで、馬車はもう来ましたか。」
アスターは さっき来たところだと返事をした。
「着替えやらの荷物はもう乗せたから、いつでも出発できるぞ。」
「そうですか。では私は一度部屋に戻ります。またすぐ降りてきますから、馬車へ乗って待っていてください。」
分かったわ。そう言ってユラは外へ出て行った。
ナイトは自分の部屋の引き出しからユラへ渡そうと思っていた袋を取り出す。
1階へ戻ると受付にはいつも通りタバコをふかしながら新聞とにらめっこしているアスターがいた。
それを横目にナイトも馬車へ向かった。声はかけなかった。
扉を開けると道向かいに馬車が停まっていた。
ユラが荷台からこちらに手を振っている。
「待たせてすみません。これを渡したくて。」
ナイトは持ってきた袋を差し出した。
「これは...?」
「今のあなたに必要なものです。これでしばらくは生活に困らない。新しい街で、自分の為に生きてください。」
ユラは動揺した。袋を開けるとそこには大金が入っていたのだ。
「....分からない。なぜ私なんかにここまでしてくれるの?」
ナイトはまっすぐにユラの目を見つめて言った。
「あなたには、幸せになってほしい。」
それはナイトの切実な願いだった。ユラの体が小刻みに震え出す。
「あぁ、もう泣かないと決めたのに...。」
顔を覆った両手の指の隙間から、次から次へと涙がこぼれ落ちた。
「ナイト。以前私の過去を話したとき、あなたはなぜかとても寂しそうな顔をしていた。今朝もアスターさんが言っていたわ。....あなたも、私と同じなの...?あなたも苦しんでいるの?」
「いいえ。苦しんでなどいませんよ。」
ユラにはその言葉が嘘だと分かった。だが気取られぬよう笑顔を向けるナイトに、それ以上声をかけらるのは憚られた。
「...そう。ならいいのよ。おかしなことを言ってごめんなさい。」
そう言って涙を拭うと、ユラも小さく笑顔を返してみせた。
「...じゃあ、体には気をつけて。」
「ええ、色々とありがとう。あなたも体は大切に...。」
挨拶を済ませると、ナイトは前方の御者に一言出してください。と声をかけた。馬車がゆっくりと動き出す。
さようなら。お互いにそう呟いた。
あっという間に小さくなっていく馬車を、ナイトは道の向こうに見えなくなるまで見つめていた。
ユラもまた、そうしていた。
(ナイト...あなたの苦しみを、私は癒してあげることができない。あぁ...どうか彼女に、神のご加護を。)
(ユラ...。あなたに、幸せが訪れますように。)
2人は胸の中でそれぞれの幸福を静かに願った。
ユラは馬車に揺られながら、自分の頬が濡れているのに気づいた。
ナイトもまた、溢れ出す涙を止めることができなかった。




