第七章 王太子妃の回想
「貴女が王太子妃になるのよ…。ルキアではなくヘレナ…。貴女がね…」
初めて王妃のお茶会へ招かれたとき、確信めいた言葉でモニカは告げた。
ヘレナはモニカに認められたのが嬉しくて、これでヴィクトル母親公認の恋人になれると浮かれたのだが、思い起こすと可笑しな発言だった。
その後、モニカから何度かお茶会へ誘われ、偶然、同席した魔導士から王家の人間である可能性が高いと進言されたときも、ヴィクトルと自分は運命で繋がれた恋人なのだとヘレナは無邪気に喜んだ。
物語のような…。運命的な赤い糸で結ばれた恋人…。しかも、恋のお相手は一国の王子様である。
仕組まれた筋書きだと気づかず、ヘレナは一人の少女を死に追いやった。
それはアガタから提案されたものだった…。
「確実にヴィクトル殿下をヘレナ様のものにできますわよ…」
アガタから貰った毒を自身の飲み物へ混入したのはヘレナ自身だ。それでも、ルキアを死なせるつもりはつゆほどもなかった。
「ヘレナ様は男爵でいらっしゃるでしょう…。身分違いもございますし、アークトゥルス侯爵家と交わした誓約もごさいます。マルクス王は婚姻を許されないと思いますわ…」
貴族令嬢は眉を顰めてヘレナを詰めよるも、アガタのようにヘレナの恋を応援してくれるような人はいない。
漆黒の豊かな髪とルビーのような鮮やかな瞳が印象的なアガタは、少女というより洗練された大人の女性のように妖艶な美女である。
アガタはヴィクトルの婚約者のルキアとも仲良くしており、そのアガタが何故ヘレナへ味方を申し出るのか、ヘレナには謎であった…。
「ですから、ルキア様へ罪を着せるのです。恋敵の死を望むご令嬢とヴィクトル殿下の婚約を陛下が望むとは思えませんわ…。ヘレナ様にも王太子妃の機会がございましてよ…」
赤い唇が艶めいた。アガタはその唇へ人差し指をあてて頬を綻ばせる。
「ヘレナ様がルキア様の免罪をヴィクトル様へ願いでれば、可愛いヘレナ様が仰ることです。ルキア様が死罪になることはございません。お許しくださいますでしょう…」
上手くいけば、邪魔な婚約者は国外追放になるでしょうねとアガタは付け加えた。
ヘレナは訝しみ不安になってアガタへ尋ねた。
「アガタ様はルキア様のご友人ですよね?それでも信じろと?」
制服のスカートの裾を翻しながら、アガタは踊るような足取りを繰り返す。
「さようでごさいますね。女性の私からみても、ルキア様はとても素敵な方だと思いますのよ…。ですけど…。ほら…。派閥が違いますでしょ?」
ルキアの父アークトゥルス侯爵は亡きペラギアの意向を尊重して王派である。対して、アガタの父デネボラ公爵は貴族派だ。
友人を陥れる算段をしながら、彼女の表情は楽しそうだった。
裕福とはいえなかったが、愛情だけはたっぷり両親から与えられたヘレナには、アガタの心情に考えも及ばない。
孤児として彷徨っていたヘレナを保護してくれ、親身なって実の子のように育ててくれた両親には感謝しかなかった。
「ふふ…。私は貴族派である父の意志に従うのみですのよ。この謀が成就した暁には貴族派へのご尽力を願いますわ…。私とヘレナ様は一蓮托生といったところでしょうか…」
友人の策略を知る由もないルキアを可哀想だとヘレナは思った。だが、ヴィクトルとの婚姻を諦めきれないヘレナはその計画へ加わることにした。
まさか…。ルキアが毒を自ら飲み干すと誰が想像しただろう…。
アガタがルキアへも毒を渡していたことは予め知っていた。ヘレナを毒殺するよう仄めかしていたのも承知の上だ。
だが、ルキアはヘレナの飲み物へ毒を混入しなかった…。手元へ残った毒で命を絶ったのだ。
ルキアのことは好きではなかった。愛するヴィクトルの婚約者だ。
好意を持てるはずもないが、ルキアだって一人の生身の人間であることをヘレナは理解していた。自分たちのせいで孤立していくルキアへヘレナは罪悪感を抱いてはいた。
だが、それよりも…。ヘレナはヴィクトルからの愛を独り占めしたかった。ただ、それだけなのだ…。
だけど…。死ぬなんて…。私を殺せたのに、私に毒を使わなかった…。私のことが憎かったでしょうに…。
私のせいで…。私のせいで…。
ヘレナが片棒を担いだこの計画で、ルキアは自殺を図った。この事実は一生消えない…。
このことはヴィクトルへも打ち明けることのできないヘレナの秘め事となった。知っているのは共犯のアガタだけである。
ある麗らかな午後…。
あれから月日が過ぎ、春が巡ってきた。小鳥たちが木々の彼方此方で囀り、庭園の花々の蕾が開き、柔らかな日差しが降り注ぐ。
宰相であるアマデウスが去ったあと、混乱はあったものの、それでも平穏な日々が戻ってきている。王太子の婚約者となったヘレナは日々、妃教育へと励んでいた。
ヘレナは亡くなったルキアへの償いもあり、国のためにこの身を尽くそうと寝る間も惜しんだ。
宮中にある庭園の一角、テーブルのうえに湯気をたてたハーブティーが用意されて、りんごに似た甘い香りが漂う。
久しぶりにモニカからお茶会へ呼ばれたヘレナは、束の間、目蓋へ落ちる陽光に癒され心を休めていた。
モニカからとある事実を告白をされるまでは…。
「元々、ヘレナの誘拐は茶番なの…。私が企てたことなのよ…。私の従者であったスピカ男爵へ秘密裏に貴女を匿ってもらったの…」
唐突に始まったモニカの話はあまりにも衝撃でヘレナの思考が追いつかない。
何を…。この人は言っているのだろうか…。
悪びた様子もなくモニカの話は続いていた。天真爛漫な子供のように屈託なく笑っている女を空恐ろしくヘレナは眺めた。
「ヴィクトルの初恋はヘレナでね…。貴女を好みの女の子に育てあげ、運命の出会いを果たしたのよ…。素敵だったでしょう…。だって、ヘレナはあの子の理想そのも…」
途中から内容が入ってこない…。
運命だと思っていたのは全てこの人の演出?
それよりもそれが本当であれば、スピカ男爵夫妻はモニカに命じられて、ヘレナを我が子として育てただけだ。主君の命に背けないのは臣下の性である。
ヘレナが信じた親子の情は何だったのだろうか…。ヘレナが過ごしてきた幼少期の温かな家庭は作られた偽物だったのだろうか…。
嘘よ…。
「だからね…。私の愛する息子と貴女を取り持った私へのご褒美をいただきたいの…。王太子妃になったら、色々な利権を融通してもらいたいっていうか…。近頃、陛下は私に厳しいのよね…。昔は甘えれば何でも与えてくれたのよ。目の上のたん瘤が死んだっていうのに、上手くいかないものよね…。けど、私には王太子や王太子妃がいるから…。ふふっ…」
嘘だと言って…。
ヘレナの願いは虚しく、モニカの満面の笑顔が現実だと物語っていた。
ヘレナはモニカを告発することはできなかった。それをすれば、スピカ男爵家も懲罰の対象となる。
ヘレナにそれは耐えきれなかった。
さりとて、モニカの傀儡になるつもりはない。モニカが何か要求するつもりでれば、事の真相を明るみにするとヘレナはモニカを脅したのであった。
モニカは沈黙するしかなかった。明るみになれば罪に問われ、モニカは間違いなく失脚してしまうからだった。
ヘレナ・ポラリス(旧ヘレナ・スピカ)
彼女はアストラ王国歴史上賢王と誉れ高いヴィクトル王の王妃である。王が側妃を娶ることはなかった。
彼女は王を支えながら、国母として国民にも愛され、二人の王子にも恵まれ、満たされた日々を送ったと史書へ記されている。
だが、彼女が最も切望したことは生涯叶わなかった。それは、王の御心を彼女で占めること…。
彼女は知っていた。
彼女のいない場所で王が悔やんでいることを…。結局、亡くなった元婚約者を王の心から追いだす事はできなかったのだ。
ご報告いただき誤字訂正を致しました。
ありがとうございます。
誤字脱字が多いと自覚しております。
至らないことも多々ございますが今後とも宜しくお願いいたします。