第一章 彼女の生い立ち
第一章 彼女の生い立ち
「おかあさま…。だっこ…」
幼いルキアは母の胸に抱かれることをいつも望んでいた。彼女の二つ違いの兄がいつも占領した場所を…。
「乳母にお願いしなさい…。私は忙しいの…」
兄の髪を優しく撫でながら、長椅子へ腰をかけて本を読み聞かせている母…。
「わたくしもいっしょに見たい…」
ルキアは小さな手と足を駆使して長椅子へよじ登った。それを認めた母は兄の両脇へ手を差しこみ胸へ寄せて立ち上がる。
「乳母に読んでもらいなさい。グイドがお昼寝の時間だから失礼するわね…」
寂しそうな眼差しでルキアは母の背中を見送った。母が歩くたび、純白のドレスの裾が踊る。ルキアを残して、速やかに母は部屋から退出した。
「お嬢様…。ばあやがご本を読んでさしあげますね…」
乳母がルキアを宥める。瑠璃色の双眸から大粒の涙を零しルキアは主張した。
「いやっ…。おかあさまがいいのぉっ!おかあさまっ!」
ルキアは両手両足を広げてジタバタと振り回して喚いた。母へルキアの訴えは届かない。
「ううっ!おかあさまっ!おかあさまっ!なんでっ…。うくっ…」
癇癪を起こしたルキアを乳母はただ見守ることしかできなかった。乳母はルキアの願望を叶えられない。ルキアが欲しているのは母の愛情だ。
「ふうっ…。うっ…。うっ…。…」
そのうち泣き疲れてルキアは眠りにつく。小さく寝息は立てているのに嗚咽が収まらない。
「こんなに愛らしいのに…」
乳母はルキアを抱きあげ上下する肩を確認する。ルキアの銀色の真っ直ぐな髪が揺れる。絹のように優美な光沢が煌めいた。
母はルキアへ暴言や暴力を振るうことはなかったが、全く知らない他人の子供が何処からか紛れて屋敷に住みついているかのような扱いで、ルキアに無関心だった。
ルキア・アークトゥルスは、春の大陸、アストラ王国マルクス王の臣下アークトゥルス侯爵アマデウスの長女であり、正真正銘、侯爵夫人マリアから産まれ落ちた子供だ。
アークトゥルス侯爵家はポラリス王家のアストラ建国から現存する由緒正しい貴族の名家である。
この世界には春、夏、秋、冬、四つの大陸があり、春の大陸は東へ位置していた。
春の大陸はいくつかの王国で成り立っているのだが、アストラ王国はその中でも際立つ存在だ。
その昔、冬の大陸から飛来する魔獣を、ポラリス王家の始祖が聖なる力により、人には見えざる障壁で防ぎ侵入を拒んだと伝承があり、アークトゥルス家はその頃からポラリス王家の忠臣であった。
「旦那様…。差し出がましいことを申し上げますが…」
アークトゥルス侯爵の当主アマデウスへ、侯爵家の乳母ヨハンナが恭しく発言の許しを請う。
三月に一度は忙しくても領地へ帰ってくるアマデウスだが、侍従が意見する機会は少ない。それでも、身分の低い乳母相手へ耳を傾ける主人は貴重だ。
「何だい?ヨハンナ?」
「お嬢様は領地ではなく、王都のお屋敷で旦那様とお過ごしになられる方が宜しいかと思います…」
ヨハンナの申し出に少しばかりアマデウスは戸惑った。
「それは…。難しいね…」
アマデウスの銀色の前髪がサラサラと滑る。凪いだ海のような爽やかな青い眼差しは何か思いあぐねていた。
年齢は重ねているが品位があり色香が漂う。一昔前、社交会で甘いマスクと人気のあったアマデウス。ルキアの美しい風貌は父親譲りだとヨハンナは改めて認識する。
「ルキアが王都に来ても僕は政務で忙しいから構ってあげれないし…。子供は母親と一緒がいいと思うんだが…」
本来、領民第一主義のアークトゥルス侯爵家は中央政府と疎遠であった。姉ペラギアがポラリス王家の王太后であったためか、マルクス王が即位した際、アマデウスは宰相として抜擢された。
アマデウスは悪戦苦闘しながら、政治の中枢で何とか指揮をとり、多忙な日々を極めている。
「お許しいただけるのなら、私がお嬢様とご一緒いたします…」
マリアは社交界での活動を放棄しており、王都で夫の補佐をすることはない。年中、領地のアークトゥルス侯爵邸へ引き籠もっているのだ。
マリアから引き離した方が、ルキアの精神は安定するのではないか…。日頃からヨハンナは考えていた。
「ヨハンナが居なくなったら、グイドが寂しがるんじゃないかな?」
ヨハンナはグイドの乳母でもあったが、マリアが始終グイドの側を離れず世話をしていた。ヨハンナはお呼びでない。グイドがヨハンナを乳母として慕っているとは到底思えない。
「それにマリアが子供を手放さないよ…」
ルキアがマリアからどんな仕打ちを受けているのか、アマデウスは報告を聞いていたものの、深刻な状態であると感じていなかった。
子供に対する母親の愛情は絶対のものだと信じていたのだ。記憶の母は自分や姉を分け隔てなく慈しみ育ててくれた。
両親を事故で亡くしたとき、アマデウスは身が裂かれる想いだった。だから、母子を引き離すつもりはない。
「承知いたしました…。私の戯言と忘れてくださいませ…」
ヨハンナはこれ以上の進言は無駄だと引きさがった。
アマデウスはマリアを心から愛していた。だが、マリアの心へアマデウスはいない。
アマデウスとマリアの出会いはアストラ王国の建国を祝う舞踏会だ。
「アークトゥルス侯爵閣下へご挨拶申し上げます」
リブラ子爵の腕に軽く手をかけ、マリアはアマデウスの前へと進みでた。マリアの真珠のような艶めく肌を紺碧のドレスが引き立てていた。
「リブラ子爵…。結婚したと聞き及んでいたが…」
亜麻色の後れ毛が風と戯れる。人を魅了する大きなブラウンの瞳、小さく赤い唇が溌剌とした白肌に浮かび、マリアが微笑むだけでアマデウスの視線は奪われた。
マリアへ一目惚れしたのだ。忙しさにかまけて仕事一筋だったアマデウスの遅い純愛だった。
「私の妻です…。可愛らしいでしょう?」
恥ずかしげもなく、リブラ子爵はマリアの愛らしさをアマデウスへ自慢した。
当時、マリアはリブラ子爵と結婚したばかりだった。貴族間では珍しい恋愛結婚だ。マリアが人妻だったこともあり、アマデウスは心のうちへ密かに想いを燻らせるだけであった…。
しかし、数年後、リブラ子爵が病に倒れ、この世を去る。アマデウスは寡婦となったマリアへ援助を申し出た。婚姻を願ったのだ。
亡くなった夫を心から愛していたマリアは二十も歳の離れた侯爵へ嫁ぐ気持ちは更々なかった。アークトゥルス家との婚姻は、亡き夫の家族の策略で、マリアの気持ちを無視したまま進められたものだ。
アークトゥルス家へ迎えたマリアにアマデウスは必死で尽したが、マリアが心打ち解けることはなかった。
婚姻後、マリアが前夫との間に子を身籠っていたことに気づくも、それを承知の上でアマデウスは実子として国へ届けでた。
「おにいさま…」
リブラ子爵の忘れ形見であり、ルキアの異父兄、グイド・アークトゥルスは冷めた眼差しでルキアを見咎めた。
「…」
アークトゥルス家の邸宅前には大きな庭園があった。
以前は領民も気軽に見学できたのだが、人を嫌ったマリアの気持ちをアマデウスが慮り、今は家人しか踏みいれない場所となった。
銀杏の葉っぱが道へ舞い落ち、黄色の絨毯を作っていた。落ち葉を踏み締めて音を立てながら、グイドはあてもなく彷徨うように庭園を散策していた。グイドの跡をルキアはつきまとう。
「おにいさま…」
諦めればよいのに、幼い妹は狭い歩幅でグイドを懸命に追いかけた。
空が茜色へと染まり、瞬く間に星々が輝きを放ちだす。
「さむいです…」
「なら、ついてくるなよ」
グイドはまだ言葉も理解できない赤子の頃からマリアの恨み節を聞かされ育った。
アマデウスがマリアのために用意した支度金はリブラ子爵家が着服し、マリアは身一つでアークトゥルス侯爵へ嫁いだ。
マリアはアマデウスが傷心の自分をリブラ子爵家から金で買ったと思っており、何度も繰り返し母の嘆きを聞いたグイドは、義父アマデウスばかりか罪もないルキアまでも恨むようになった。
「おかあさまのところへ、かえりましょう…」
もみじような小さな手のひらがグイドの服を捕まえようと伸びる。
「触るなっ!」
咄嗟にその手を払うと、ルキアはバランスを崩して尻餅をついた。
「ふっ…。うぇっ…。うわぁーーーん」
痛みよりもグイドの行動へ呆気に取られたルキアの頬に止めどなく涙が伝う。
握った拳で何度も肌を擦りつけるので、ルキアの目元がいっそう赤くなる。ルキアの泣き顔を見せつけられたグイドは心苦しくなった。
ルキアに限らず、子供はみな愛らしいものだ。手や足はふっくらとしてモチモチしており、ルキアはグイドにとっても庇いたくなる幼子なのだ。
それに加えて、グイドもアークトゥルス侯爵令息として、最近、紳士の立ち振舞いを習い始めた。
女性しかも幼児に対して、あるまじき行動だったと反省するも、泣きじゃくる妹に対して、グイドはどう対応したら良いか分からない。狼狽えているうちにグイドの涙腺もゆるんだ。
「何をしてるのっ⁉︎グイド!大丈夫っ‼︎」
邸宅へ戻ってこない息子を心配して、庭園を探索していたマリアは、グイドを発見すると急いで駆け寄る。
鳶色の艶めく髪の毛、柔らかな栗色のクリっとした瞳…。グイドの容姿は自分を残して死んでしまった夫にそっくりだった。
大切な息子が瞳を濡らしている。マリアは地面へ座りこんでいるルキアを睨み、手を高くふりあげた。ルキアは驚きあまり涙が止まる。
「奥様っ!」
ヨハンナが叫んだことで、マリアは我に返った。
ヨハンナは子供たちの様子を遠くから伺っていた。小さな兄妹なのだ。喧嘩をすることで距離も縮まることもあるだろうと見守っていたのだ。
手をあげることはなかったが、マリアの視線がルキアを射抜く。
何故、母親がルキアへ憎しみの眼差しを送ってくるのか、ルキアは理解できなかった。
ルキアは肉体的な痛みを感じることはなかったが、心へ修復できそうにない大きな傷を負った。
おかあさまの子は、おにいさまだけ…。
わたくしはいらない子なのだわ…。
マリアはアマデウス似たルキアを愛することなく、死んだ夫の亡霊を追うようにグイドばかりを可愛がった。
ヨハンナはこの事件後、王太后ペラギアへ一通の書状をしたためる。
以前、ヨハンナとペラギアは侍女と侯爵令嬢の身分を超えて友情を育んでいた。
ルキアの状況を伝えれば、ペラギアならば打開策を講じてくれるに違いないとヨハンナは信じたのだった。
ご報告いただき誤字訂正を致しました。
ありがとうございます。
誤字脱字が多いと自覚しております。
至らないことも多々ございますが今後とも宜しくお願いいたします。