8. 意味深で不気味な第一王子
自ら人前で眼鏡を外すのはいつ以来かしら?
そんな事を思いながらそっと眼鏡を外した。
「よし、もう少し近付いて顔を見せろ」
「は、はい」
そう言われてしまったので私はヴィルヘルム殿下の元へと歩み寄り、ボンヤリした視界の中でおそらく目の前にいるであろうヴィルヘルム殿下をじっと見つめた。
視界がボンヤリしすぎて殿下がどんな表情をしているのかはさっぱり分からない。
だけど殿下は無言。
さらに殿下の護衛も誰も言葉を発さなかったのでその場にはしばしの静寂が訪れた。
「……おい! 眼鏡娘。向いてる方向が違う! それは銅像だ。何故そっちに顔を向けたのだ!?」
「ど、銅像!? も、申し訳ございません……」
苛立ったようなヴィルヘルム殿下の声にハッとする。
あれ? そのまま前に向かって歩いていたのだと思ったけど? 違っていた?
まさか、銅像と見つめ合っていたとは……
(だから静まり返っていたのね……)
……やってしまったわ。
言われた通りの方向を向き、気を取り直して今度こそ私はヴィルヘルム殿下(と思われる人)を見つめた。
「……」
「……」
また、静寂な時間が訪れた。
よく分からないけれど、すごくマジマジと顔を見られている気がする。
「フハッ……! そうか! やはり君か。そういう事だったのか!! フハハハハ!!」
「?」
すると、ヴィルヘルム殿下が突然、笑い出した。
アーネスト様といい、ヴィルヘルム殿下といいよく笑う方達だ。
王族は笑い上戸なのかもしれないわね。などとどうでもいい感想が頭に浮かぶ。
「おい! そこの眼鏡娘! 名は何と言う?」
「ク、クリスティーナ・トリントン。トリントン伯爵家の次女でございます……」
「トリントン伯爵家の娘か。……なるほどな。だからか……」
一人でうんうんと頷くヴィルヘルム殿下。
さっきから、ヴィルヘルム殿下は何に納得しているのかしら?
「俺とした事が……な。まぁ、仕方がない……その眼鏡のせいだな。フッ……まぁ、良いだろう。今からでも遅くは無いからな。しかし、アーネストのヤツめ……」
そして、今度はヴィルヘルム殿下がブツブツ何か独り言を呟いている。
声だけで表情が分からないので正直、不気味だった。
「……」
だけど、何かしら? すごくすごく嫌な予感がする。
(それに、ヴィルヘルム殿下の言っていたアーネスト様の好きな人も気になるわ……)
私の心は一気に落ち着かなくなった。
アーネスト様の求婚は受け入れられない。断りたい。
そう思っているはずなのに。
アーネスト様に本当にお好きな方がいるなら「その方と幸せになって下さい!」そう言って私はさっさと婚約者候補から降りればいいはずなのに。
──何故かそう口に出来ない……したくないなんて思ってしまっている私がいる……
「眼鏡娘!」
「は、はい!」
ついついアーネスト様の事を考えてしまっていたから、目の前のヴィルヘルム殿下の存在を一瞬忘れかけてしまっていた。
呼ばれてハッとする。
「もう行って構わない。引き止めて悪かった」
「い、いえ……」
「そうか。ではな──また会おう。クリスティーナ」
──え?
また会おう? 何故?
それは、弟の婚約者として……?
(違う気がする……)
何だかそんな風には聞こえなくて、私はフハハハハと笑いながらご機嫌に去っていくヴィルヘルム殿下の背中(と思われるもの)をボンヤリした視界のまま見送った。
◇◇◇
「兄上に会ったと聞いた」
そして翌日。
何故か今日は王宮に呼び出されず、なんとアーネスト様が我が家を訪ねて来た。
まさかの王子様の訪れに屋敷は大パニックに陥ってしまう。
また、そのせいで実は使用人の間でも本当か嘘か判別できず常に話題になっていた、
“眼鏡のお嬢様が王子に求婚されているらしい”
という噂は本当だった! とちょっと騒ぎになった。
…………いや、そんな事より仕事しましょうよ。と、私は言いたい。
「は、はい。昨日の帰り際に偶然お会いしまして」
「……くっ」
私がそう答えるとアーネスト様は苦虫を噛み潰したような表情になった。
彼がこのような顔をするのは珍しい。
「……失敗した……僕が最後まで見送るべきだった……」
「アーネスト様?」
「ごめん、声をかけられて驚いたよね? 兄上はちょっと高圧的な所があるからさ」
「いえ、大丈夫……でした」
何度も眼鏡娘って呼ばれたけれど気にしないわ。本当の事だしね。
「……」
「……」
何故か黙ってしまうアーネスト様。
どうしたのかしら? 今日の彼は一段と様子がおかしい。
(そうよ! アーネスト様の好きな人!)
私はその事を聞かないと……と思い口を開く。
「あ、あ、あの、アーネスト様。アーネスト様には……その昔からお好きな方がいる、と耳にしたのですが……」
「!?」
ガタンッ
私のその言葉にアーネスト様が物音を立てて大きく動揺した。
「そ、そ、それは、まさか兄上が……?」
「え、ええ……はい」
「っっ!」
私が目を伏せながらそう答えると、アーネスト様が黙ってしまった。
否定の言葉が出ない……それこそがこの話を肯定していると言っているようなもので、私の心の中にモヤッとしたものが生まれる。
「そ、そんな方がいるのなら、なぜ私に求婚などしたのですか……?」
「っっ! 待って、クリスティーナ。違うんだ……! そ、その人は、」
焦りだしたアーネスト様が何かを語ろうとしたその時──
コンコンと部屋の扉をノックする音が聞こえたので私達はそのまま黙り込んだ。
「あの……お話中のところ、大変申し訳ございません。お嬢様に至急確認して頂かなくてはならない事がありまして……」
「え?」
そう言って部屋に入ってきたのは我が家の執事。
アーネスト様がいらっしゃっているというのに優先しなくてはならない確認事とは何かしら?
よほど重大な案件でなければ許されないわよ?
「実は…………第一王子、ヴィルヘルム殿下からお嬢様へのお手紙と贈り物が届いているのです」
「「!?」」
私とアーネスト様が同時に息を呑む。
「……っ、あ、兄上……が? な、何でだ?」
アーネスト様が酷く動揺しだした。その顔色はとても悪くて真っ青。
そして、すぐに何かに気付いたかのように勢いよく私に振り返った。
「クリスティーナ。昨日、君は……もしかしてあ、兄上の前で眼鏡を取った?」
アーネスト様が顔を真っ青にしたまま、震える声で尋ねて来る。
「は、はい。その、アーネスト様には申し訳ないと思ったのですが……すみません」
「!!」
アーネスト様が衝撃を受けたのが分かった。
やっぱり、あまり私に素顔を晒して欲しくなかったのだなと分かる。
「ごめんなさい……」
「いや……違う。謝らないでくれ。クリスティーナは悪くない、悪くないんだ……単なる僕の個人的なワガママなお願いだったのだから」
「でも……」
「ずっと人前で眼鏡を掛けたままでいる事が出来ないのは当然だよ。それは分かっていたけれど……だけど……兄上は……兄上だけは……」
そう呟きながら悔しそうに唇を噛んで下を向くアーネスト様。
どうしたというの? 本当に彼の様子がおかしい。
「アーネスト様?」
その後の“兄上だけは……”の後が聞き取れなかった。
項垂れたままのアーネスト様。
そんなアーネスト様に戸惑う私。
そして、私たちの様子に手紙と贈り物を持ったまま困惑する執事。
部屋の空気が妙な事になってしまった。
そんな空気にいたたまれず、チラリと執事の手元を見ると、手紙と共に届いたというヴィルヘルム殿下からの贈り物は、赤い薔薇の花束だった──……