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経済の話

世界から戦争がなくなっていき、協調行動に至ることを示す理論的な根拠 ~或いは、ウクライナ侵攻によるロシアへの対抗処置でそれは加速するかもしれません

 「世界から永遠に戦争はなくならない」

 そんな言葉を耳にした事はありませんか?

 「戦争がなくなる」といった考えは、現実的ではない理想論に過ぎず、甘い願望でしかない……

 そういった主張は、なんとなく虚無主義のようでシニカルに人間社会を捉えていてカッコよく思えるかもしれません。

 

 ――が、本当にそれは正しいのでしょうか?

 

 一度、少し冷静に考えてみませんか?

 例えば、この日本社会です。かつては戦乱の世が周期的に訪れ、国と国が離合集散を繰り返していました(江戸時代という安定した状態が200年以上も続いた特異な期間がありましたが、例外と見做すべきでしょう)。しかし、現在は日本国内で戦争が起きるなど考えられないくらいの状態になっています。

 これはアメリカやEU、中国といった多くの国でも似たような傾向にあります。かつては国内やその地域内で戦争が起こっていましたが、今では戦争など考えられないくらいに安定しています。

 つまり、「実際に戦争はなくなっている」のですね。

 実はこれは生物の世界でも起こっている出来事なのです。

 「何の事?」と思った人もいるかもしれませんが、動物や植物などは多細胞生物ですが、大元の大元は単細胞生物です。単細胞生物同士は互いに敵対し合い、競い合っていたライバルでした。それが協調し、“一つの生物”と見做せるほどの進化を遂げたのです。

 僕はこの生物の進化で起こった出来事を、単なるアナロジーではないと考えています。それは抽象的に捉えるのなら、人間社会で起こって来た“社会の協調”と近似の現象であるばかりでなく、進化として繋がっているのではないでしょうか?

 この説明では何の事なのか分からない人の方が多いでしょうから、もう少し詳しく説明していきます。

 

 ■生物の拡大と進化を“作業の分化”という観点から捉える

 

 知っての通り、生物の始まりは原核生物です。それがある時に寄り集まって、ミトコンドリアは酸素をエネルギーに変換する役割、周りを取り囲む大きな細胞膜を持つ生物は防御と攻撃の役割、べん毛をもつ生物は移動の役割などなどと“作業を分化”し始めたのです。それにより真核生物が誕生しました。

 更にそれら真核生物同士で群れ始めて細胞群体となり、その細胞群体の中で各細胞が役割を分化して多細胞生物となったのです。通常の生物学ではここまでしか教えていないかもしれませんが、この続きもあります。

 多細胞生物同士で群れ始めたのですね。そして、その群れ始めた多細胞生物同士でも“作業の分化”が起こります。アリなどの新社会性の動物を観れば明らかですが、巣の構築や餌の収集、子育てなどを担当する働きアリ、防御と攻撃を担当する兵隊アリ、生殖と産卵を担当する女王アリとそれぞれで作業を分化しています(因みに、巣全体で“脳”です)。

 もちろん、これは人間社会にも当て嵌る考えです。

 食糧生産を担当する畜産農業漁業関係者、防御や攻撃などを担当する軍隊、住居や仕事場を構築する建設業者、生産した商品を運搬する物流業者…… それぞれが作業を担っている…… つまり、作業を分化しています。

 社会の一つの単位は今のところは“国”であると見做して良いでしょう(境界線は随分と曖昧になって来ていますが)。

 この作業の分化は、そのまま経済の発展としても捉えられます。何故なら、新たな産業の発展は、そのまま経済成長と見做せるからです。

 そして、国の集まりでもそれぞれに役割を分化しつつあります。農業国、製品加工の国、金融取引に特化した国、エネルギー資源国、資源国といった様に。

 防御と攻撃を担う国は見出しく難いですが、或いは、EU内の軍事力が高い国がそれに当たるかもしれません。

 

 このように“作業の分化”から生物の拡大と進化を捉えるのなら、社会経済の発展も生物の拡大進化の延長線上にあると捉えられるのです。

 現在という時代は、国と国で作業を分化し、協調行動を執る事で一つになろうとしている過程の時期に当たるのではないかと思われます。

 こう考えるのなら、やがては世界中の国々が完全に協調するようになり、現在、日本国内での戦争がほぼ有り得ない状態であるのと同じ様に、やがては世界全体でも戦争など考えられない時代がやって来るのではないでしょうか?

 (多少、SFじみた発想かもしれませんが、もし今後、人間が宇宙へとその生息域を広げていくのなら、或いは星によって役割を分化するような時代が来るのかもしれません)

 

 ――ただし、人間社会から戦争が消えるのにはとても長い時間がかかると考えた方が良さそうです。

 

 原始生物の誕生は、海ができてからわずか5億年しかかりませんでした。ですが、その後、真核生物まで進化した生物が細胞群体となり、その細胞群体が連携し合って多細胞生物となるまでには、なんと15億年もかかっているのです。

 生命誕生の三倍です。

 それだけライバル同士が協調行動を執るようになるのは困難なのですね。

 もちろん、“長い時間がかかる”というだけで決して不可能ではありませんが。

 

 ■協調行動が可能になる条件 富と権力の集中を防ぐ

 

 “長い時間がかかる”と説明しましたが、もちろん、何も変化がなければ、人間社会が協調行動を執るようになるはずがありません。

 前述したように、人間社会の多くは安定と戦乱の時代を周期的に繰り返していました。日本の江戸時代は例外的に200年以上も続きましたが、それはかなり特殊な条件下でのことです。歴史の教科書などでは、それは参勤交代などの制度のお陰だと説明されていたりしますが、見逃せない要因がもう一つあります。

 江戸時代に実は日本では貨幣経済が発展したのですが、その貨幣経済に武士階級は適応できなかったのです。最も貨幣経済に適応したのは商人で、結果として富は商人が握り、権力は武士が握るという“権力と富の分散”が起こったのです。

 歴史を鑑みると、一部の階級に富と権力が集中することで社会全体に負荷がかかり、それが臨界点に達すると反乱が起き、戦乱の世の中が始まるといったケースが多いようですが、江戸時代は武士階級が貨幣経済に適応できなかったが為に偶然にもこれを回避できたのですね。

 この点を考えると、“一部に富と権力が集中し過ぎるのを回避する”事が安定した世の中を実現するのに必要であると分かると思います。そして、資本主義にも民主主義にもその効果があります。

 資本主義は誰でも自由に商売を始められ、しかも商品の売買を活性化させます。そして、通常の実体経済の売買は、貧富の格差を減少させるというシミュレーション結果があるのです(参考文献:「複雑な世界、単純な法則 著者:マーク・ブキャナン 草思社 311ページ辺りから」。

 ……ただし、金融経済には逆に富を一部に集中させてしまう効果があります)

 民主主義は国民が投票する事で政治家を変えられます。その為、もし、権力が集中し過ぎ、国民が不満を抱くようになれば、政治家が変わって“権力の集中”が抑えられます。

 民主主義や資本主義を採用した国々が比較的安定しているように見えるのは恐らく単なる偶然ではないでしょう(もっとも、必ずしも盤石な体制といった訳ではないようですが)。

 

 ■協調行動が可能になる条件 一つの主体となれる範囲の拡大

 

 一つの社会について言うのなら、社会を安定させる為には“極端な富と権力の集中を抑える”事が効果的であると分かったと思います。しかし、そもそも別の社会であったのなら、その論は成り立ちません。他の社会に対して戦争をしかけるといった事がどうしたって起こり得るでしょう。

 

 ……では、一体何が起これば、社会同士は協調行動をし始めるのでしょう?

 

 この答えは非常にシンプルなのではないかと思われます。

 “同じ社会”と見做せる程に、社会と社会が結び付けば良いのです。そして、情報交通技術が発達し、交流が盛んになっていけば、社会の同一化は可能ではないかと思われます。

 その典型例はアメリカかもしれません。

 アメリカではかつては同一地域内で激しい戦争が起こっていました。しかし、鉄道が整備され、情報や物資の交流が盛んになるとそれが減っていき、遂には“合衆国”という一つの国になりました。EUもこれに準ずるでしょう、

 つまり、交流の活性化の程度によって、社会と社会の関係は以下のように変容するのではないかと考えられるのです。

 

 1.交流“低”の状態 → 当然ながら関係性はほとんどなし

 2.交流“中程度” → 良好な関係を築く場合もあるが、戦争に至る可能性もある

 3.交流“強” → 一つの社会となった状態で、負荷がかからない限り協調行動を続ける

 

 言うまでもなく、現代は情報技術に関しては既に充分な域まで達しています。もちろん、言語の差がありますから、それでも“活発な交流が可能な状態”とまではなりませんが、AIによる翻訳技術の発達などにより、その垣根も徐々になくなり始めています。また、貿易も盛んで、物流を通して世界中が繋がっています。

 このまま順調に進むのなら、上記の「交流“強”」の状態に至るとするのは、決して楽観的な見通しではないでしょう。

 

 ■戦争は損の方が大きい ~戦争をする方略は劣った方略

 

 前節の説明を読んで、このような疑問を持たれた方もいるのではないかと思います。

 「交流によって社会と社会が強く結びついたとしても、必ずしも戦争がなくなるとは限らないのではないか?」

 当然の疑問だろうと思いますが、“戦争による損害の大きさ”と“遺伝的アルゴリズムの発想”を勘案すれば、戦争はなくなっていくという予想が立てられるのです。

 戦争をするという方略は基本的には社会全体に損害が出る劣った方略です。ですから、長い時間が経てば淘汰されていき、協調する方略が生き残るようになるのではないかと考えられるのですね。近代兵器は威力が凄まじいですが、これにより戦争による社会の破壊規模が大きくなり、その傾向は近年益々顕著になっています。

 (「女性や子供を犠牲にする戦争など望んでいない」といった主張をしている人がいましたが、近代戦で女性や子供を犠牲にせずに済ませる手段は恐らくありません。女性や子供を犠牲にしたくないのなら、戦争に反対するしかないでしょう。そもそも、どうして大人の男性なら戦争の犠牲にしても構わないと考えているのかがまず分かりませんが)

 これは中国とロシアの事例が分かり易いかもしれません。中国とロシアは国境紛争を起こしていましたが、双方に甚大な被害が出るとの予測から現在は合意が成立しているのです。

 つまり、近代においては、今までのところ、戦争をすると社会全体の損害が大きくなり過ぎてしまうので、デメリットの方が大きくなってしまっているのです(参考文献:「大不平等 エレファントカーブが予測する未来 著者:ブランコ・ミラノヴィッチ みすず書房 59ページ辺り」)。情報技術の発達などにより、現実の土地の重要性は低下しているので、戦争のコストパフォーマンスは今後益々悪くなっていくものと思われます。

 “土地を欲しがる”というのは動物的な縄張り争いの本能なのでしょうが、技術の発達はその動物的な本能とは合致しない現実を産み出しているのですね。

 戦争をするような損害の方が大きくなる方略を執り続ければ、生き残りに不利なのは当たり前に分かるでしょう。だから、そんな社会は発展しないのです(戦争は互いに足を引っ張り合っているので、それは自明なのですが)。

 これは何よりも人間社会の歴史が証明しています。

 ヨーロッパ、アメリカ、日本などなど。戦争がほとんど起こっていない地域では、社会が発展していますが、アフリカや中東など戦争が頻繁に起こっている地域では社会があまり発展していません。

 

 因みに、戦争は社会を大規模に破壊するので、それによって格差が縮小されます。金持ちの方が富をたくさん持っているのが普通ですから、より損害が大きくなって格差が縮まるのです。早い話が皆が貧乏になるってことです。

 これを望む人はあまりいないのじゃないでしょうか?

 (“戦争自体に価値を見出している”って人は別ですが)

 そういう観点からも戦争はなくなっていくのではないかと考えられます。

 更に言うと、戦争においては、戦費を調達する為に国が富裕層をターゲットにした重い税をかける傾向にもあるそうです。ですから、特にお金持ちの人達は、自分達の資産を守りたいのならば戦争には反対しておいた方が良さそうです。

 

 ■植物の方略と動物の方略

 

 今までの説明では方略の違いを考慮して来ませんでした。ですが、多細胞生物には大きく分けて二種類の方略が存在します。

 一つは、独立栄養生物。自ら栄養やエネルギーを生産する生物。つまりは主に植物です。もう一つは、従属栄養生物。他の生物から栄養を奪取する生物。つまりは主に動物です。

 協調行動を考えるのには、この方略の違いも考慮しなくてはなりません。

 植物も動物も単細胞生物同士が協調行動を執っている点は変わりませんが、植物と動物では性質がまるで違っています。そしてその差異が生まれる根本的な原因は、「自ら栄養やエネルギーを生産できるかどうか」でしょう。

 植物は動物と違って動きません。

 いえ、正確には動いているのですが、少なくとも人間の時間スケールで捉えるのなら動いていないように思えます。植物は“環境”との結びつきが動物に比べて重要で、だからこそ移動という手段を持とうとしなかったのでしょう。

 また、実は植物は動物ほど明確に“作業の分化”を行っていません。葉っぱ以外にも茎でも光合成を行っている種は多いですし、根で光合成を行う種もいます。サツマイモのツタを切って植えておくと、そこから完全に再生してしまう事がありますが、そういった事が可能なのも植物では動物ほど分化が明確ではないからです。

 他にもたくさん植物と動物の違いはあるのですが、説明が長くなり過ぎてしまうので割愛して、ここでこんな問いかけをしてみたいと思います。

 

 ――果たして、“人間社会”は動物なのでしょうか? 植物なのでしょうか?

 

 ■人間社会は植物になりかかっている

 

 人間自体はもちろん動物です。ですが、サンゴが植物を共生させることで植物的な特性を身に付けているように、“人間社会”が植物となる事は可能でしょう。

 例えば、農業。

 農作物を育てている人間社会は、“光合成を行っている”と表現する事が可能でしょう。

 ただ、現在の農業は化石エネルギーに多くを依存している為、“人間社会が植物化している”と表現するのは無理があるように思えます。化石エネルギーは有限で、採掘可能な地域も限られているので“奪い合い”が発生してしまいますからね。

 ですが、今後は分かりません。

 もし、エネルギー資源改革が起こって、再生可能エネルギーがメインとなれば、本当の意味で人間社会は“植物化”したと表現できるようになるかもしれません。

 太陽光発電、風力発電、地熱発電、小規模水力発電、雨滴発電、波力発電、夜間の放射冷却を利用した発電などなどと、様々な再生可能エネルギーが盛んに研究され、普及も進んでいて、発電の不安定さをカバーする蓄電技術もかなり進んでいます。これら発電手段を実現するだけの資源も充分にあり、既に理論上はエネルギー資源の再生可能エネルギーによる完全な代替は可能なところまで来ているそうです。

 つまり、後は経済をコントロールし、それを普及させるだけなのです。

 

 ■資源さえあれば、生産は可能

 

 実は資源さえあるのなら(労働資源も含みます)、財源がなくても、いくらでも生産物の生産は可能です。

 簡単なモデルでそれを説明しましょう。

 

 仮に商品Aを生産している5人の社会を想定します。ここに生産性の向上が起こり、たった一人で商品Aを5個生産できるようになったとしましょう。

 商品Aの需要限界が一人1個ならば、四人に仕事がなくなり、失業者となります。もちろんこれは社会問題なのですが、同時に“労働資源が余っている”という事でもあります。その余った労働資源で、新たな生産物Bを生産すれば、失業という社会問題が解決するばかりでなく、新たな生産物を得られるようにもなります。

 僕はこのモデルを“通貨循環モデル”と名付けています。

 ここでの注目ポイントは、新たな生産物Bの誕生によって増えるGDP分に関しては、通貨を新たに発行できるという点です。

 経済が成長すると通貨需要が生まれますが、その新たに生まれた通貨需要分に関しては通貨を発行できる…… と言うよりも、通貨を発行する必要があるのです。

 これは“成長通貨”と呼ばれていて、今までも行われています。

 

 ――では、ここで、新たに誕生させる生産物を、太陽光発電などの再生可能エネルギーにするとしたならどうでしょう?

 

 再生可能エネルギーが増えた分に関して増える通貨需要に対しては、通貨を新たに発行する事で賄えるはずではありませんか?

 具体的な制度としては、最初の一回分に関しては通貨を新たに発行して賄い、二回目以降は国民から料金(税金でも可)を徴収します。家計支出が増える事になりますが、再生可能エネルギー製造の経済効果によって収入は増えているはずなので、大きな問題はないはずです(もちろん、低所得者へは支払いを一部免除する等の対応は必要です)。

 このような事を行えば、再生可能エネルギーを生産した分のGDPが増え、更に再生可能エネルギーが発電した分でもGDPが増えるようになります。

 つまり、経済が成長するのですね。

 経済成長の為には消費を活発化…… つまり、“国民が商品を買う必要がある”とよく言われていますが、これは「それならば再生可能エネルギーを買ってしまえば良いのではないか?」という非常にシンプルな話です。

 そして、経済成長に合わせて通貨を発行できる点を考えるのなら、資源さえ余っているのなら、通貨の新たな発行が可能なのです。つまり、財源的な制約はありません(飽くまで、“経済成長”が約束されている分に関しての通貨発行である点はよく留意してください)。

 この方法が上手くいったのなら、環境問題対策を進めることで、経済成長を起こせるようになります。メリットとしては充分過ぎるのではないでしょうか?

 少なくとも試してみる価値は絶対にあると僕は考えています。

 因みに、現在日本は1千兆円以上の借金を抱えています(国債以外にも公債はあるので、国債だけで国の借金全体は把握できません)。近年その問題が顕在化し始めていますが、この問題を解決する為には経済成長が必要です。

 そして、この方法を使えば、その経済成長をほぼ確実に起こせるのです(恐らくですが、この方法以外に現在の日本の窮地を脱する手段はありません)。

 

 もしかしたら、ここまでを読んで「信じられない」という感想を持った人もいるかもしれませんが、これは経済のMMT派が唱えている就業保証プログラムと原理的には同じですし、更に、『政府は巨大化する 著者:マーク・ロビンソン 日本経済新聞出版 271ページ辺りから』にも同じ原理の説明があります(しかも、近年、このような考えを持つ経済学者が増えているとの説明がこの本にはあります)。

 先に挙げた“成長通貨”も同様の原理です。「経済成長分に関しては、通貨を新たに発行しなくてはならない」のですから。

 新たな試みではありますが、決して“トンデモ”な主張をしている訳ではありません。

 

 ――そして、繰り返しますが、日本は凄まじい規模の借金を国が抱えていて、現在その問題点が表面化し、人々の生活に負荷を与え始めています。

 むしろ、試してみなくてはいけないのではないでしょうか?

 

 もし、仮に日本がそれに成功したなら、世界への先例となり、世界中に広がっていく事になるかもしれません。

 仮にそうなったらのなら、恐らく戦争は更に減っていくだろうと思われます。再生可能エネルギーによって人間社会が自らエネルギーを生産できるようになるからです。

 人間社会に起きている戦争の多くは“資源の奪い合い”です。エネルギー資源がその中でも特に重要な位置を占めるのは、中東戦争などでも明らかでしょう。

 人間社会が自らエネルギーを生産できるようになれば、その“奪い合い”がなくなるのです。

 つまりは、植物化するって事です。

 植物も苛烈に争い合ってはいますが、動物のそれに比べれば随分とマイルドです。現在でも企業同士が競争し合っていますが、恐らくは植物化した人間社会での“争い”はそういったものになるのではないかと思われます。

 

 ■或いは、ウクライナ侵攻によるロシアへの対抗処置でそれは加速するかもしれません

 

 皆さんご存知の通り、2022年2月にロシアがウクライナへと侵攻をしました。僕はこれにより、戦争がなくなる流れが加速するのではないかと考えています。

 

 ――ただし、まず、断っておきます。

 ここでの僕の予測は短期的な視野での予測ではありません。長期的な視野での予測です。短期間では、却って戦争が増えてしまう可能性もあり、それは予測不能です。

 カオス理論では、予測の不可能性が証明されているのですが、短期間の事象に対する予測は当にその予測不可能な“規模”に合致してしまうのです。だから予測はできません。

 これを天気予報を事例に軽く説明しましょう。

 

 極短期間の予測。これは比較的容易です。例えば明日の天気はよく当たります。が、これが一週間や一か月となると難しくなります。ところが規模を大きくして、季節単位とするとまた予測が容易になります。

 冬より夏の方が気温は高いと簡単に予測できますし、露の時期に雨が多くなる事も簡単に予測できるでしょう。

 が、更に規模を多くして年単位となるとまた予測が難しくなります。来年の方が暑くなるのか? 雨量が多くなるのかなど、予測するのは困難です。

 ところがまた更に規模を大きくしていくと、温暖化の影響で気温が上がっていくだろうと簡単に予測できますし、飽和水蒸気量の増加で地球全体の雨量も増えていくだろうと予測できます。

 つまり、規模やその時期の不安定さによって予測可能かどうかが分かれるのです。

 

 今回の予測もこれと同じです。

 短期的にはどうなるか分かりませんが、長期的には予測が可能になるのです。

 

 では、話を元に戻します。

 

 ロシアのウクライナへの軍事侵攻は、世界中から非難をされ、2022年4月現在、対抗処置としてロシアからのエネルギー資源輸入を止める国も現れています。

 もちろんこれはロシア経済へ深刻なダメージを与えるだろうと考えられる訳ですが、同時に資源価格の高騰をもたらしていて、資源を持たない国に深刻な経済ダメージを与えてしまいます。当然ながら、他にエネルギーを得られる手段が必要になって来ます。

 原子力発電がその代替手段の一つとして挙げられてもいますが、ウクライナ侵攻においてロシアが原子力発電を攻撃対象とした点を考慮に入れるのなら、大きなリスクがあると判断せざるを得ません。また、原子力発電は核廃棄物の処理を考えると、将来世代へ重すぎる負担を強いてしまいます。

 (因みに、日本の原子力発電所は周辺の土地を中国が買っているそうです)

 それを考慮するのなら、代替エネルギーとして、もっとも好ましいのは再生可能エネルギーである点は言うまでもないでしょう。

 しかし、再生可能エネルギーの設備を大規模に整えるのには財源が足らない…… という事に今までのところはなっています。

 がしかし、ここで先の話を思い出してください。

 資源があるのであれば、財源的な制約は受けないのです。そしてその主張を前述したように多くの経済学者達が述べ始めてもいるのです(参考文献『政府は巨大化する 著者:マーク・ロビンソン 日本経済新聞出版』)。

 もし、何処か一国でもその“資源があるのであれば、財源的な制約は受けない”という主張を採用し、活用し始めたのなら、一気に広まる可能性があります(“国の借金”の大きさを考えるのであれば、その最初の一国は日本であるべきだと僕は思うのですが)。

 すると、先程述べたような“人間社会が植物化した状態”に近付き、戦争はなくなっていくのではないでしょうか?

 

 ここでの注意点は、エネルギー資源に依存していた国への扱いです。特にロシアのように核兵器を保有している国を放置すると、経済の悪化によってウクライナ侵攻以上の暴挙に出るリスクもあります。

 考えたくはありませんが、核を使用されてしまうというリスクだってあるでしょう。

 ですから、何らかの手段で救済する必要があると考えられます。

 

 以前、世界大戦が起こってしまった大きな要因の一つは、閉鎖的経済ブロックだと言われています。

 同じ過ちを繰り返さない為にも、何か策を考えておくべきでしょう。

 仮にこのエッセイで述べたような方法を用いなくても、再生可能エネルギーの普及は、着実に進んでいるのですから。

 

 或いは、世界各国が執るロシアへの対応が、今後、人間社会全体がどのような道を進むかの分水嶺になるかもしれません。

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