<欲しいのは幸せだけ>
レオンハルトは毎日、王都にある王立魔術研究所へ通っている。
子どものころから天才氷属性魔術師と呼ばれてきた彼を国が求めているのもあるが、レオンハルト自身にも進めたい研究があるからだった。
(水が凍るのは、普段は自由に動き回っている水の魔力が動きを止めるからだ。氷属性というのは水属性の亜流ではない。止める力そのものなんだ。止めるだけでなく動かす方向をも自在に操ることが出来たら……)
思いながら、王都のケーラー伯爵邸へ戻る。
レオンハルトは実家のクライン侯爵家を異母兄に譲り、ケーラー伯爵家のルーツィエのところへ婿入りしたのだ。
今のケーラー伯爵家はルーツィエが継いでいる。
先代伯爵は二年前、後添えとその連れ子のラオビアを殺して自害した。
ラオビアが自分の娘でないとわかったことだけが殺害の理由ではない。
厩舎に自分の馬を連れてきて、レオンハルトはケーラー伯爵家のものではない黒馬を見つけて戦慄した。
黒馬の持ち主は知っている。
異母兄のマティアス、レオンハルトの妻ルーツィエの婚約者だった男だ。今はふたりの父亡き後のクライン侯爵家を継いでいる。
激しく胸が騒ぐ。
レオンハルトは屋敷に急いだが、すべては遅かった。
すべての男性に対して怯えるルーツィエのために、この屋敷に男の使用人はいない。
レオンハルトとも直接顔を合わせることはないけれど、ルーツィエは自分と結婚してケーラー伯爵家を運営しているレオンハルトに感謝してくれている。
屋敷内では扉越しにしか会話出来ないが、毎日自室の窓でレオンハルトの帰りを待っていて、目が合うと微笑んでくれる。
その一瞬が、レオンハルトの至福のときだった。
今日、いつものようにレオンハルトを待っていたルーツィエの瞳に映ったのは、二年前に自分を襲ったならず者と同じ黒髪に緑の瞳のマティアスだった。
そのならず者はラオビアの実父で、マティアスの実母の情人でもあった。
レオンハルトは、自室の鏡を割った破片で自害したルーツィエの遺体を抱いて泣き叫ぶマティアスを追い出した。逞しい異母兄は、女性の使用人達では阻めなかったのだ。
本当はマティアスを殺したかったが、殺人を犯して捕まっている時間が惜しい。
レオンハルトの研究は、ルーツィエのためのものなのだから。
(来るなと言ったのに、なんで来たんだ。そんなに彼女から愛されている自信があったのか? お前があの薄汚い女と乳繰り合っている間に、婚約者だったルーツィエはならず者に襲われたんだぞ?)
学園時代の友達の家へ泊る予定だったルーツィエに、伯爵邸へ婚約者のマティアスが突然来たとラオビアが伝え、夜の道を帰らせた。
ラオビアに誘惑されていた使用人が馬車を停めて、ならず者を引き入れた。
すべてはケーラー伯爵家を乗っ取るためだ。ルーツィエがならず者の子を孕めばその子に、子どもが出来ていなくても傷ついたルーツィエはマティアスを拒むだろうから、その場合はラオビアがマティアスの子を産んでその子を跡取りにしようと考えていたのだ。
ルーツィエは男性恐怖症になったが、泣き寝入りはしなかった。
ちゃんと証言をしてならず者を捕らえさせ、ラオビア達の計画を暴いた。
彼女はマティアスとの婚約を解消して神殿へ入ると言っていたのだけれど、その前に真実を知ったケーラー伯爵が、捕まっていたラオビア達と面会と称して会い、彼女達を殺して自害してしまった。
レオンハルトは、ケーラー伯爵家の将来を憂うルーツィエに求婚したのだ。
(触れないと、同じ家にいるだけだからと、ケーラー伯爵家を運営して、いつかしかるべき人に受け継いでもらうからと約束して、僕は……っ)
書類だけの結婚をして、一度も触れたことのなかった妻の遺体を抱いてレオンハルトは泣いた。
初めて会ったときからずっと恋していた少女の後を追うような真似はしなかった。憎いマティアスを殺すことさえ我慢したのだ。
絶対に研究を完成させてみせると心に誓った。
それから何年も、何十年も。
ルーツィエに罪はないけれど、彼女のことは忘れて幸せになりなさいと言ってくれる母アーデルハイトの言葉も聞かず、レオンハルトは研究に明け暮れた。ケーラー伯爵家のことは、ルーツィエの死後数年経って成人となった分家の青年に継いでもらっている。
レオンハルトの目的は時計の針を戻すこと。愛しい少女の不幸な過去を消し去ること。水属性の魔力の時を止める、氷属性と言われている自分の魔術でなら出来るはずだった。
──死の間際に、レオンハルトは研究を完成させた。
時計の針を戻した彼は、愛しいルーツィエと異母兄マティアスが婚約前の顔合わせをした日に帰っていた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
(二度目のとき、ルーツィエはまた兄さんを好きになった。あの悲劇は防げたけれど、それでも兄さんに殺された。だから、僕はまた時計の針を戻して……)
三度目の人生を送っていたレオンハルトの腕の中で、愛しい少女の妹が声を上げた。
「……ぷふ、オスカー……」
一度目と二度目はいなかったルーツィエの妹は、一度目と二度目はいなかったレオンハルトの弟を気に入っているらしい。寝言で呼ぶくらいなのだから。
今回の人生では奇跡が起こった。
ルーツィエはマティアスと婚約しなかったのだ。
今はレオンハルトの妻となっている。
一度目とは違い、形だけの結婚ではない。
ルーツィエのお腹にはレオンハルトの子どもがいる。
(もしかして二度目の記憶が残っているんだろうか。悲しい記憶は忘れさせてあげたいんだけどなあ)
レオンハルトの記憶は二度目も今回も残っている。
しかし、そもそも時間は戻せても戻る前の記憶がどうして残るのかはわかっていない。
忘れていたら二度目にルーツィエを救えなかったから、残っていて良かったのだが。レオンハルトは他愛のない会話を交わしながら、ふと彼女に気持ちを伝えてみた。
「あのね、ルーツィエ。もし辛いことがあったら、いつでも僕に言ってね。僕は、君の幸せのためならなんでもする。……本当に、なんでも」
「ありがとうございます、レオンハルト様。でも無理はなさらないでくださいね。今の私は幸せですわ」
「そうか、それなら良かったよ」
レオンハルトは、ルーツィエのためなら何度でも時計の針を戻すだろう。
でもそれは、自分が彼女を手に入れたいからではない。
もちろん愛してもらえたら嬉しい。嬉しいけれど──時計の針を戻してでも望むのは今も昔もいつだって、愛する人の幸せだけだ。