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ケーラー伯爵家の令嬢ルーツィエ──家を継いだばかりの若い女伯爵が初夜の床で、婿養子に入ったクライン侯爵家の庶子マティアスに絞殺されたという醜聞は、あっという間に社交界に広がった。
最終的には事故であったと見なされマティアスは解放されたものの、彼の勾留中におこなわれたルーツィエの葬儀の参列者はまばらであった。
彼女は哀れな被害者であったけれど、二年前の事件のこともありケーラー伯爵家とクライン侯爵家の名誉は失墜していたのだ。
だれも両家に関わりたいとは思っていなかった。二年前にルーツィエをお茶会に招いた彼女の友達だけが、棺に抱き着いて泣きじゃくり女伯爵の短過ぎる人生を嘆いていた。
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レオンハルトは毎日、ケーラー伯爵家の墓所に通っている。
二年前に父から受け継いだクライン伯爵家の屋敷は、伯爵領との領境のすぐ側にあるのだ。領境にある両家の墓所は、屋敷から朝の遠乗りのついでに通うのにちょうど良い。
いや、どんなに遠い距離にあったとしても侯爵としての仕事を代官に任せてでも、レオンハルトはルーツィエの墓所へ通ったことだろう。
レオンハルトはひとつ年上のルーツィエ、異母兄マティアスの婚約者で彼の妻となり、最終的に殺されてしまった少女を愛していたのだ。
赤みを帯びた茶色い髪を風になびかせ、紫色の瞳にレオンハルトを映して微笑む少女を。
異母兄と彼女の婚約前の顔見せで出会ったときから、ずっとずっとずっと──
「……ちっ」
ケーラー伯爵家の墓所の前で跪いている男の姿に気づき、レオンハルトは舌打ちを漏らした。
黒い髪に緑の瞳、逞しい体躯を持つ異母兄のマティアスだ。
勾留からの解放後、クライン侯爵家から籍を抜き神殿に押し込んだのに、鍛えた体を駆使して逃げ出してきたらしい。今さら亡きルーツィエに許しを請うつもりだろうか。
「本当なら二年前に放り出すべきだったんだ」
レオンハルトは馬から降りた。
墓所の扉に頭を当てて跪いた姿勢のマティアスは、ぴくりとも動かない。
二年前、マティアスはルーツィエの襲撃に関与していなかったけれど、その時間彼はルーツィエの異母妹ラオビアとお楽しみだったこと、捕縛されたならず者が彼の母親の情人でもあったことがわかって、侯爵家から籍を抜くべきだという意見が出た。強硬に反対したのは父親である先代侯爵だ。結局、父がすぐに爵位をレオンハルトに譲って引退することを条件に、除籍派は意見を退けた。
残念なことにクライン侯爵も黒髪で緑の瞳だ。
マティアスがどちらの子どもなのかはわからない。
実際のところ、侯爵の種だろうとレオンハルトは思っている。異母兄は昔から父に顔立ちがそっくりだった。幼いころは父に溺愛される異母兄が羨ましくて、銀の髪に青い瞳の自分そっくりな母を恨んだこともある。
「……人は愚かだ」
草を踏んで墓所へと歩を進めながら、レオンハルトは呟く。
レオンハルトの腕の中には、屋敷の庭で摘んできたばかりの赤い薔薇の花束がある。
ルーツィエが好きだった花だ。彼女自身はどちらかというと地味でおとなしい少女だったのだが、華やかな赤い薔薇がマティアスを思い出すと言って気に入っていた。レオンハルトは白い薔薇のようだと言ってくれたけれど、白い薔薇が好きだとは聞いていない。
父は愛人が自分から去っていったのは婚約者だった母のせいだと信じて、母を受け入れなかった。婚約者のいる身で娼婦を買って夢中になっていた自分の行いは顧みていない。
結婚後も母に恨み言を言い続けていたらしい。
レオンハルトを作ったことを恩に着せ、常にマティアスを優先していた。捕まったならず者の口から愛人のことを聞いて、どんな気持ちでいたのだろうか。
マティアスの母親は、レオンハルトの祖父から金をもらって父の前から去った。
一旦離れても息子が成長すれば侯爵家を乗っ取れると思っていたのだ。
レオンハルトの父と別れてすぐに流行り病で死んだようだが、そうでなければケーラー伯爵家のように乗り込んできたに違いない。まだ結果は出ていないものの、レオンハルトはルーツィエの母の死因についても調べ始めていた。
別れ際の愛人に吹き込まれた悪口を真に受けた父に冷遇を受けていた母は、嫡子としてのレオンハルトを守るため侯爵家に留まった。
事情を知らぬ我が子に恨まれても愛し続けてくれた。
これからはレオンハルトが母を幸せにしなくてはいけない。……いいのよ、あなたが幸せになりなさい、と母は微笑んでくれるけれど。
ルーツィエは──レオンハルトが愛した少女は、初めての対面からずっとマティアスを愛していた。
異母妹が現れる前の少しガサツだが異母弟にも優しかったマティアスも、異母妹が現れた後の冷たいマティアスも、ルーツィエは愛し続けていた。
もし二年前異母兄がクライン侯爵家から除籍されていたとしても、彼女は伯爵家の重臣達を説得して夫に迎えたのではないだろうか。
「……兄さん」
どんなに足音を立てても顔を上げない兄を呼んで、レオンハルトは気づいた。
マティアスは短刀で首を掻き切って死んでいた。流れた血は服に染み込み、乾いて泥汚れのように見えていた。
レオンハルトは手で顔を覆って溜息をついた。
「兄さんはズルいよ。そんなことで彼女に許されるつもりなの? ううん、彼女は許すんだ。だって兄さんを愛しているから。……何度殺されても、彼女は兄さんを愛するんだ」
異母兄の死体を地面に横たえた後、レオンハルトは踵を返した。
ルーツィエの死後ケーラー伯爵家を継いだ人間にも報告しなければいけないが、先触れもなしに訪れたのでは迷惑をかける。墓所訪問の許可を受けているからといって伯爵家の屋敷にまでは押しかけられない。まずはクライン侯爵家の屋敷へ帰って家臣達と対応を相談するべきだ。
もしかしたらレオンハルトが異母兄を殺したと疑われるかもしれなかった。
馬に乗り、走り出す。赤い薔薇の花束はマティアスの遺体に手向けてきた。
一番愚かなのは自分だと、レオンハルトは思う。
心から願っているのだ。苦労してきた母を幸せにしたい。愛し愛されることの出来る人を見つけて自分も幸せになりたいし、母に孫を抱かせてあげたい、と。
だけど、レオンハルトはまた時計の針を戻してしまう。
期待して、裏切られて、彼女が選ぶのは異母兄だと思い知らされたのに、それでもレオンハルトは針を戻す。
決して自分を愛してくれないとわかっていても、愛するルーツィエが幸せになるまで何度でも──