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「いやっ!」
黒い髪に緑の瞳のマティアス様にのしかかられて、あの夜の記憶が蘇ります。
実際はあの男には触れられずに済みました。使用人が改心したのではありません。
たまたま通りかかったレオンハルト様──マティアス様の異母弟でアーデルハイト様のお子様、私よりもひとつ年下で氷属性魔術の天才と呼ばれる彼が助けてくださったのです。
もちろん使用人も罰を受けました。
なのに、あれから何度も夢を見ました。
あのならず者にのしかかられる夢です。
いつも触れられる前に目覚めるのですが、それでも恐怖で全身に汗をかいていて心臓の動悸が激しくなっています。
──嫌な嫌な夢です。
思わずマティアス様の胸を押し退けようとした私に、彼の顔色が変わりました。
「やはりレオンハルトのことが好きなのだな。ラオビアの言った通りだ。どこのだれともわからない女が産んだ私のことなど軽蔑しているのだろう」
「……ち、違います、マティアス様」
ラオビアの名前を出されてカッとなり言ってはいけないことを言ってしまいましたが、私はマティアス様を愛しています。
初めて出会った八歳のときからお慕いしているのです。
お慕いしているからこそラオビアの名前を出されることが、彼女の発言を信じるようなことを言われたのが悲しかったのです。
黙れ黙れと怒鳴りながら、マティアス様が私にのしかかってきます。
天才魔術師で研究者肌の細身なレオンハルト様と違い、マティアス様は武人です。
逞しい体の重みに私は身動き出来ません。
寝間着の襟を掴まれて、息も苦しくなっていきます。
激しい体格差をわかっているからこそ、暴力を振るうことはなかったマティアス様なのですが、今は頭に血が上っているようです。
「ルーツィエ、お前は俺の妻だ。どんなにレオンハルトを慕おうとも、ヤツには絶対渡さない。わかったか、ルーツィエ!……ルーツィエ?」
マティアス様の声が、なんだか酷く遠くから聞こえてきます。
視界がぼやけていきます。なにか言葉を返したいのに唇から声が出せません。
やがて──私は意識を手放しました。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「……お嬢様」
懐かしい声がします。
母が子どものころから仕えてくれていた侍女の声です。
彼女はラオビア達が我がケーラー伯爵家に入り込んだ後、彼女達の不興を買って追い出されたはずなのですけれど──
「お嬢様、ルーツィエ様、お目覚めください。奥様はもう応接室でお待ちですよ」
「……お母様?」
飛び起きて、私は違和感に気づきました。
ベッドを始めとする部屋の家具が大きくなっているのです。
どういうことなのでしょう?
それに『奥様』?
ラオビアは使用人達を誘惑したり脅したりして支配していましたが、彼女の母親が『奥様』と呼ばれることはありませんでした。
だから『奥様』と聞いたとき、母のことだと思ったのです。
そんなことがあるはずありません。
母はもう三年も前に亡くなっているのですから。
ラオビア達を連れて来たときの父の緩んだ顔を思い出し、吐き気がしました。最初から金さえ貰えばだれにでも体を許す娼婦だった女に情人がいたことを知ったくらいで気鬱の病になった、間抜けな父の思い出です。
私の母を失って悲しみに沈んでいたときにラオビアの母親と再会して慰められ、娘がいたことも知って家に迎え入れたとか言っていましたが、そんなの言い訳にもなりません。
悲しみに沈んでいたと言いながら娼館に行く元気はあったのではないですか。
ずっと父親の存在を知らなかったラオビアは可哀相なのだから、姉として気を遣ってやりなさいとも言われました。突然現れた異母妹とその母親に、生まれ育った大切な家を滅茶苦茶にされ、婚約者を奪われかけた私は可哀相ではないのでしょうか。
「……」
「お嬢様?」
マティアス様との初夜の光景が頭に浮かびました。
そうなのですね。私はきっとあのとき死んでしまったのでしょう。
マティアス様に寝間着の襟を掴まれて、首を絞めつけられていたことを思い出します。とても息が苦しくて、私は意識を手放してしまいました。
死んだから、私は子どもの姿に戻っているのでしょう。
朝の光らしきものに照らされた私の体は、幼いころに戻っているようです。
それで部屋の中の家具が大きく見えたのでしょう。
そして……お母様!
先にいらしたお母様が待っていてくださったようです。
侍女は元気だと聞いていたのですが、どうしたのでしょう。ラオビア達になにかされたのでなければ良いのですけれど。
「ごめんなさい、すぐ起きるわ!」
部屋の柱時計が、チクタクと針を進めています。
生きているときの感覚なら、とっくにお寝坊の時間です。
子どもの体なのに勉強の時間を寝過ごして許されたのは、ここが死後の世界だからなのですね。
私は侍女に着替えさせてもらうと、お母様の待つ応接室へ急ぎました。




