篝火
アメリカ合衆国ジョージア州の州都アトランタ。
夏季オリンピックも開催されたこともあるこの都市にもうすぐ夏がやってくるというその日、市の中心部から少しだけ離れた一角にある邸宅で特別な人々だけが招かれた催しがおこなわれていた。
闇オークション。
それがその催し物を表現するのに最適な言葉である。
もっとも、実際にはその響きからは想像できないくらいに明るく、そして堂々としたものではあったのだが。
オークション開始間際。
はた目にはパーティーがおこなわれているとしか見えないその会場にひとりの老人が姿を現した。
エリオット・エマーソン。
蒐書官たちと友好関係にあるあの男である。
そして、アンチオカルトグッズを専門に蒐集する者として知られている彼が屋敷のあるニューヨークからアトランタまでわざわざやってくるということは、当然今日のオークションでそのようなものが出品されるということである。
そこから、この話は始まる。
「わざわざお越しいただきありがとうございました。エマーソン様。本来ならお望みの品をすぐにでもお譲りすべきところなのですが、今回は内部で色々事情があったようで……」
「構わんよ」
彼を見つけて飛んできた関係者のひとりでもあるその男の言い訳を途中で遮るように彼が口を挟んだのにはわけがある。
……昔と違い、今はニューヨークにいてもアメリカどころか世界中の品物を手に入れることができる時代。このような機会がなければ外に出ることはない。
……だから、必要に迫られて移動するのは気晴らしにはちょうどいいのだ。
……まあ、私のような者を参加させてこのオークションに箔をつけたいというオークショニアの気持ちが透けて見えなくもないが、私にとっては商品が手に入ればいいだけのことであり、この男の腹のうちなどどうでもいいことだ。
心の中でそう呟いた彼がもう一度口を開く。
「出品される商品の情報がもらえただけで感謝している。せいぜい高く買わせてもらおう」
恐縮する男をその言葉と右手によって追い払ってから彼は辺りを見回す。
そこは日の当たる場所でのそれとは違い、オークションという言葉を聞いて一般の人が想像するような参加者が一同に会す光景が広がる。
当然彼の視界に入るのは見知った顔ばかりであるが、彼はそのなかから自分がここに来なければならなくなった原因のひとつを発見する。
……あれはイアン・スチュアート。なるほど。つまり、今回のことはあの男が横やりを入れた結果ということか。
彼が心の中でその名を呟いた男、イアン・スチュアートとは過去のオークションにおいて何度も彼のライバルとなった人物である。
そして、このスチュアートは超自然現象の熱烈な信奉者。
いや、その教祖ともいえる人物で、そのようなものを忌み嫌う彼にとっては、荒唐無稽な話を世界中にばら撒くこの世でもっとも忌避すべき種類の人種に属する。
だが、スチュアートにはその話術に引き込まれ彼の言葉を信じる支持者が多数おり、その資金力は馬鹿にできなかった。
……とにかくやつに貴重な商品を渡さないというだけでも、私がここに来た価値があるというものだ。
……だが、また途方もない買値になりそうだ。
彼はそう呟いた。
その主張と大きな矛盾があるのだが、実は、彼、エリオット・エマーソンは間違いなく他に代えがたい特別な才を持ち、そして、それに見合うだけの権力と権限を日の当たらない世界から賦与されている。
だが、そうは言っても、すべてが彼の思い通りになるわけでもなく、やりたいことだけができるわけでもない。
……だから、おもしろいのではないか。
……知識と経験、そして努力によってそれを克服し、乗り越えてこそ人間は成長するのであり、この世にあらざる力を使ってすべてが思い通りになる世界が楽しいなどと妄想するのは愚かで怠惰な者だけだ。
……だが、そのような力を使ってでも、できればこの状況だけは避けたかったものだな。
自らの主張を舌の値が乾かぬうちにそっくり否定するようなことを心の中で語った彼。
その彼が持てる力のすべてを使ってでも避けたかったそれは目の前に人間の形として具現化されていた。
「ミスターエマーソン。お久しぶりです」
「こちらこそ久しぶりだ。スチュアート。まあ、久しぶりと言っても半年ほど前にも同じ会場にいたのだが」
その具現化されたものからの言葉に対して、さすがにここでは彼も二度と会いたくなかったなどとは口にせず、極めて凡庸な言葉を返す。
だが、そこで終わらせなかったのは、やはり彼も感情を有した生き物であるという証左と言えるだろう。
彼がもう一度口を開く。
「それで、わざわざ顔も見たくない相手のもとにやってきたということは何か用事があるのだろう。さっさと言ったらどうだ?」
「では……」
嫌なことをさっさと済ませたい彼に促されたスチュアートが右手でVサインをつくると彼の目の前に差し出す。
「何のまねだ?」
「もちろん勝利宣言ですよ」
「何?」
「どうせ今までどおり今日も勝った気でいるのでしょうが、そうはいかないということをお知らせしにきました。今日は私の完勝です」
「なるほど。とりあえずおまえの意気込みは承知した。それで、それをわざわざ知らせにきたのか」
「はい」
「では、試みに問おう。これまでの戦いのすべてに敗北しているおまえがそこまで言い切る根拠は何だ?」
「それはすぐにわかります。それでは」
「言いたいことだけ言って去っていきましたね」
スチュアートが立ち去ると、それと入れ替わりに現れた男が背後から彼に声をかける。
もちろんその声が誰のものかを知る彼は振り向かぬまま答える。
「まったくだ。だが、わざわざそう宣言するということは余程自信があるのだろう。それで、あの不快な男が答えなかった根拠が何かがおまえはわかるか?」
「……そうですね」
男は少しだけ沈黙し、それから口を開ける。
「常識的にいけば、有力なスポンサーがついたのではないでしょうか」
その言葉の意外さに彼はやや黒味を帯びた笑みを浮かべる。
「オークションで私に勝てるだけの資金を提供する?あれにか。だが、それが本当ならどこの誰なのかは知らないが随分な道楽だな。それに、それほど金に余裕があるのなら福祉団体にその金は寄付すべきだろう。そのほうがあの男に対して実りのない投資をするより千倍この世のためになる」
「ですが、過去の例から考えれば、人目につかない場所で酒池肉林に耽る彼自身に資金の余裕がないのはあきらかですから、彼の言葉が正しければそれ以外には考えられません」
「なるほど。たしかにそうだ。では、せっかくだから常識的ではないほうの話も聞いておこうか」
そう。
たしかにその話は筋だけは通っている。
だが、どう考えてもそれは日頃スチュアートが口にしているものと同じくらいに荒唐無稽な話であり、当然それは男の本命どころか選択肢にすらなりえない。
彼は言外にそう言っていた。
皮肉を込めた彼のその言葉に男も同じ香りのする笑みで応じる。
「ちなみに、今回のオークションでエリオット様がターゲットにしているものは何点ですか?」
「三点だ」
「彼が狙うものは?」
「まあ、同じだろう」
「三点のうち最重要ターゲットは?」
「もちろん最後のものだな」
「彼もエリオット様と同じ価値観を持っていることを前提に、私が彼なら……」
「どうする?」
「まず、あのように言っておりましたが、エリオット様相手にすべて勝つのは難しいことは彼だってわかっているはず。それどころかまともに勝負したのではすべてのステージで太刀打ちできないことは彼が『過去はすべて敗北した』と認めている事実からあきらかです。では、その彼にとっての最善の一手とは何か?私が彼の立場なら最初の二点で限界を超えて青天井まで勝負して負け、エリオット様が疲弊したところで本命の三点目を狙い撃つ」
「つまり、最初の二点をエサとして私に余計な金を支払わせ、三点目で軍敷金が底をついた私と勝負して、『普通』の価格で手に入れるということか」
「そういうことです。たしかにこれでは彼の言う完勝とは程遠い結果ではありますが、最重要アイテムをかすめ取ってエリオット様に一矢報いることで十分な満足感が得られるというわけです」
「だが、その囮の段階で私が天井間際でレースから降りたら、奴は身分不相応な負債を抱えることになる」
「ですから、そうならないようにわざわざ煽りにきたのでしょう」
「なるほど。それはたしかに悪くない策だ。だが、残念ながらそれでも何も変わらん。なぜなら、奴は肝心なところで勘違いしている。いや、この場合は読み違いと言ったほうがよいのかもしれん。むろんおまえはわかっているのだろうが……」
言葉を一度切り、男に一瞬だけ目をやってから、彼は言葉を続ける。
「だが、そうでない奴は私のサイフに入っている金がどれくらいなのかを知らない。まあ、これまでのオークションでの結果に基づいて推測しているのだろうが、あれが私の底だと思ったら大間違いだ。せっかくだ。奴がこの策を用いてきたらそれを教えてやることにしよう。ところで、それはそれとして、おまえにはやってもらいたいことがある」
「何なりと。それで、具体的は何を?」
「言うまでもない。オークション後におこなわれる宴の準備だ」
「つまり、ニューヨークに帰る前に大言壮語を吐いたあの男に罰を与えるということですか?」
「冗談を言うな。目障りというだけであのような小物をいちいち消していたらキリがない。私が言っているのは、奴が仕掛けてくる可能性の話だ。先ほどおまえが言ったスマートな方法は私の好みではあるが、単細胞で外道でもある奴なら入札した私から商品を奪うほうが手っ取り早いと考えるのではないかと思ったのだ。もちろん根拠などない。つまり、念のためだ」
「なるほど。たしかに色々よからぬ噂のあるあの御仁ならあり得る話ですね。では、それについてはすべて私にお任せを。エマーソン様が満足するようなすばらしい余興をご覧にいれてみせましょう。さっそく準備をさせていただきます」
そう言うと男の気配は消えた。
「……それにしてもやってくれるな」
ふたりの会話が終わってからまもなく始まったオークションも終盤に入った頃。
彼は盛大に苦虫を嚙みつぶし、そう呟いていた。
もちろん予定通り彼は最初の二品を手に入れた。
だが、それを手に入れるために彼が支払うことになった金は、常に高額な落札価格を叩きだす彼にとっても尋常なとは言えないものだった。
そして、この三品目も……。
「……これは予想以上ですね」
ようやく戻ってきた先ほどの男はその額のあまりの大きさに思わず苦笑いを浮かべた。
いや、浮かべざるを得ない。
それは、それほどまでに途方もないものだった。
一方、それまでも不愉快が服を着たようと表現できそうな彼だったが、待ちわびていた聞き手の登場にその言葉はさらに厳しいものとなる。
「どう見ても私に余計な金を支払わせるためだけに値を釣り上げているとしか思えん」
「ですが、そうは言っても、ここでレースから降りてしまっては支払いが可能かどうかはともかく、形の上では商品は彼のものになります」
「わかっている。だが、先ほどのおまえの話では本命を手に入れるために最初の二品の値を上げるのではなかったのか。これではまるで奴の本命は四品目であるかのようだ」
「そうですね。……ですが、こうなってくると、もしかしたら……」
右隣でそう呟いた男の言葉に彼が振り向く。
「何か思い当たることでもあるのか?」
「宴の準備は無駄にならなくても済むかもしれません」
「それは奴が強奪にやってくるということか?」
「はい。しかも、この状況を勘案すると、オークション関係者もこのたくらみに加わっているものと思われます」
その言葉に彼は顔を顰める。
「オークション関係者が?……そう主張する根拠は何だ?」
「これはさすがに嫌がらせにしては度が過ぎます。では、落札する意図もなく彼がこれだけ値を上げてくるのは他にどのような理由があるのか?それはもちろんオークション主催者の利益のためです。そうなれば、彼らのほうも然るべき利益を彼に供与していると考えるべきでしょう」
「……さすがにその論理はやや飛躍し過ぎる気がするが」
買いを示す札を掲げながら囁くように伝える彼の言葉に男はかぶりを振る。
「いいえ。そのようなことはありません。たとえば、いつものように主催者の仲介で出品者とエマーソン様が取り引きしてしまえば、あの男が商品を手に入れる可能性はゼロになります。彼が商品を手に入れるためには、まずオークションを開かれそこで商品取引をおこなう必要がありました。そして、たいした理由もなく彼にとって都合よくエリオット様と彼が競合する商品がオークションにかけられることになったのですから、彼の利益のために主催者が動いたと考えるべきです。そもそも彼がこのオークションに参加すること自体がそれなりのシンパが関係者のなかにいるということを示しています」
「たしかに開催の経緯については不自然さがあるが、それでもそれだけで主催者が強奪の共犯というのには無理がある。それに、それだけのコネがあるのなら、あの男が私の代わりにオークション主催者の仲介で出品者と直接交渉すれば話は終わりになるではないか」
「そのとおりです。ですが、それをしなかったということは双方にとってそれでは都合が悪いことがあったということです」
「都合が悪いこと?たとえばどのようなことだ?」
「直接交渉をすれば、当然彼は希望商品がすべて手に入れることができるのですが、その分支払いは莫大なものになります。どうやら彼の前には気前よく金をくれる奇特なスポンサーなど現れなかったらしく、資金にそれほど余裕がない彼にはエリオット様のような値では商品を買い取ることができない。一方のオークション主催者もそうなった場合には大幅に手数料も減るわけです。それでも彼に協力するのかといえば……」
「オークション主催者が利益を減らしてまで奴に協力するはずがない。だが、実際にはオークションはこうして開かれているわけだから、そうではなかった。つまり、あの男が持ちかけたプランはオークション主催者も奴に手を貸したくなるくらいに安全かつ確実に莫大な利益が得られるものだったということか?」
彼の言葉に男は頷き、そのカラクリを口にする。
「はい。彼の提案の概要はおそらくこうです。まず、自分の代わりに大枚を叩いて落札したエリオット様から暴力によって落札商品のすべてを手に入れるためにオークションを開いてもらう。その代わりに自分はオークションにおいてはエリオット様と限界を超えて争い、通常よりもはるかに高額でエマーソン様に落札させる。これによってオークション主催者はいつも以上に多くの利益が得られる。さらにオークションが終了し、支払い契約が結ばれ商品引き渡しまで終わったあとにことを起こすのだから、預かり知らぬところで起きたそれについてはオークション主催者の落ち度はなく責任は回避できる。オークション主催者にとってはオークションを開催するだけで膨大な利益を得ることができるのですから濡れ手で粟のようなものです。もちろんあの男も手間はかかるものの、圧倒的に安く、しかもすべての商品が手に入るというわけです」
「たしかにおまえの話の筋は通っており、状況にも合致しているが、それではあの男だけでなくオークション主催者もこれまで多額の手数料を支払い今後もそうなる金の卵を産む私を生贄にして、目の前にぶら下がるわずかな利益を得ようとしているということになる」
「まったく愚かなことですが、今の状況を見るかぎりそう思えます。それが正しいかどうかについては、あの男がこの商品をどのような形で諦めるかで確認できるでしょう」
「では、試してみるか。奴が本気で商品を落とす気があるのかを」
「それがよろしいでしょう。すでに彼のサイフに対する負担は限界を大幅に超えていますから、こちらが下りる素振りをみせれば何かしらのアクションを起こすと思われます」
「……わかった」
それから三十分後。
「……決まりだな」
「はい」
「では、帰り道に出迎えてくれる客たちには遠慮なしに精一杯のもてなしをすることにしよう。さて、とりあえず欲しいものはすべて手に入ったのだからすぐにでも帰りたいところだが……」
「主催者に通知しますか?」
「いや。決まりは決まりだ。最後まで会場に留まることにしよう。それに、まだ挨拶を済ませていない者たちが数人いる。それもおこなわなければならぬからな」
「承知しました。では、私は宴の最終チェックをおこないますので、お暇いただきます。オークション終了直前にお迎えにあがります……」
その言葉とともにその男の気配が再び消える。
「せわしない奴だ」
一度振り返った彼はそう呟くと、自らが口にした目的を果たすためにまだ続くオークションを眺めながら歩き出す。
そうして、出くわす。
それに。
翌日のニューヨーク州。
初めてアメリカにやってきた日本人がここを訪れることがあれば、本当にここがあのニューヨークなのかと疑うに違いないうっそうとした緑の中に佇むその建物にやってきたのは、北米地区を活動拠点にする蒐書官を束ねる統括官秋島新だった。
「お招きいただきありがとうございます。ミスターエマーソン。それと、何やら暴漢に襲撃されたとか。お怪我がなかったのは幸いでした」
男の言葉に彼が応える。
「いや。こちらこそ助かった。だが、暴漢というよりも強盗だな。あれは。それよりも、おまえを呼んだのはそのようなつまらぬ世間話をするためではない。時間が惜しいので本題に入る」
「はい」
そうして、語られたのが昨日オークション会場で彼が見たものに関するものだった。
「……つまり、そのオークションに源氏物語の『篝火』が出品されていたと?」
それを聞き終わった秋島が驚き、そして、絞り出すように吐き出した言葉に男は小さく頷き、それから少しだけ言葉を添える。
「そうだ。ただし、私は日本文学の専門家ではないので、それが説明通り本当に平安時代の写本なのかはわからない。いや。それどころか源氏物語という名は知っていても『篝火』なるものがその一部なのかどうかもわからなかった」
「なるほど」
……そうであっても、とりあえず手に入れてくれたらよかったものを。そうすれば……。
「なぜ購入しなかったと言いたそうだな」
「いいえ。そうようなことは……」
漏れ出した心の声を拾われた秋島が少々慌てる様子を楽しそうに眺めた老人はニヤリと笑い、コーヒーをひと口含むと言葉を続ける。
「そうしたかったところなのだが、知ってのとおり、こちらもその前にひどい戦いを繰り広げたもので、少々資金が足りなかった。それに、先ほど言ったようにそれが本物の写本なのかも見分けがつかなかったもので、購入したはいいが、これは偽物だから引き取らないと言われかねない代物に大金を出すわけにはいかなかったのだ」
「なるほど」
「だが、購入者と購入金額は控えてある。利用してくれ」
「ありがとうございます。では、この情報についてのお礼は……」
「それについて提案がある」
……やはりきたか。
自らの言葉に割って入るエマーソンのそれを秋島は予測していた。
なぜなら、エマーソンは同行していた蒐書官たちにはその件を一切知らせていなかったのだから。
……それを知った時点で情報を取引に使うつもりでいたのは間違いない。
……見かけによらず、この老人はなかなかの商売人だ。
……さて、追加料金はいくらになるのかな。
だが、その後に続く老人の言葉は彼にとってやや予想外なものだった。
「私の情報がどの程度有益なのかはその書を手に入れてから判断してもらおうか。偽物ならその情報料はもちろん不要。ただし、それがオークションでの説明通り十分に貴重なものなら報酬としておまえの主が所有する本を一冊いただきたい」
「本……ですか」
「そうだ」
「……具体的には?」
「それはその価値にふさわしいものをそちらで見繕ってくれればよい」
「……要望は承りました。しかし、それに対する答えはここで即答はできませんので保留ということでお願いします」
「承知した」
「それから、エマーソン様。もうひとつお伺いしたいことがあるのですが」
「何だ」
「その写本の実物はご覧になりましたか?」
「もちろん」
「では、表紙は何色でしたか?」
「そうだな。くすんだ紫といったところか」
「……紫。なるほど」
「それがどうした?」
「いいえ。東京に説明をするための参考程度に知っておきたかったもので……ありがとうございます」
秋島がエマーソン邸を出てから半日後の東京都千代田区神保町。
その建物には彼の主によって側近たちが集められていた。
三杯の紅茶と一杯のコーヒーの香りが漂うその部屋の主が口を開く。
「では、聞きましょうか。秋島からの情報について」
彼女に促され、まず口を開いたのは主のもとにその情報を持ち込んだ男だった。
「信じるに足りうるものといえるでしょう。エマーソン氏は信用できるものかはわからないと言ったとありますが、そのエマーソン氏が参加するような闇オークションです。検査は十分にされており信用できると思っていいでしょう。ただちに交渉開始のゴーサインを出すべきかと」
続いて意見を口にしたのは、上級書籍鑑定官の地位にあるふたりの女性たちである。
「そうね。私も鮎原の意見に同意します。表紙が紫というのも気になるし」
「しかも、くすんだ紫。写本どころか原本の可能性も十分にあるのではないでしょうか」
「つまり、全員が交渉入りに賛成するということですね。私もその点については言うことはありません。問題は彼が要求してきた情報に対する対価です」
いうまでもない。
彼女が議題にしたかったのは実はこちらだったのだ。
男が無言を貫くなか、彼女左隣に並ぶふたりの女性が口を開く。
「それにしても、夜見子様に対して本を要求するとは生意気な爺様ですね」
「でも、その爺様は本の選択はこちらに任せると言ったのだから、適当なレプリカをくれてやればいいでしょう」
「それがいいわね」
「鮎原は?」
「レプリカを差し出すという美奈子さんの意見には私も賛成です。というか、それしかないです。特に彼が望むようなものは夜見子様の本棚のなかでも貴重なものばかりなのですから。ただし、それについてははっきりと言うべきでしょう。原本は差し上げられないのでこれで勘弁してくれと。彼のような特別な才を持つ人間を軽く見て迂闊に騙そうとすると取り返しのつかないくらいの大やけどをしますから」
男の言葉に三人の主である彼女は頷き、紅茶を含み潤った口を開く。
「わかりました。では、報酬には『すべてを写す場所』の程よく再現されたレプリカを渡すことにするとして、肝心の彼に渡すレプリカの原本は何がいいと思いますか?」
男が口を開きかけたところで、その機先を制したのは女性たちだった。
「たしか、その男には一度レプリカを……」
「『ギザの大ピラミッド設計図』のレプリカだった。『アトランティスの真実が書かれた書』と交換で」
「そうだった。さらに、それのコピーもくれてやったわね」
ここでようやく男の口が開く。
「そのとおりです。それで、それが『篝火』の原本だとして、おふたりが考えるそれに報酬にふさわしい候補は何ですか?真紀さん。美奈子さん」
もちろん突然の問いに答えられるほどの用意がないふたりが即答できるはずもなく、もごもごと口を動かすだけだった。
そして、ようやく彼女たちの口から出てきた言葉は書名とはまったく縁のないものだった。
「こういうときの鮎原でしょう。私たちに訊ねる前にあなたがまず答えなさい」
「そうよ。それが常識でしょう」
ふたりの言葉に男は苦みの籠った笑いを浮かべる。
「ひどいですね。こういうときばかり一番に意見を求めるとは。ですが、そういうことなら、謹んでひとつ挙げさせていただきます」
「言ってみなさい」
「『ピーリー・レイースの地図』はいかがでしょうか?」
「南極が描かれているオーパーツだとオカルティストが騒いでいるものですか」
「そうです。最近もあるオカルト団体と学者の間で激しいが全くかみ合わない論争があったそうですので彼もこれなら気に入るのではないでしょうか」
「まあ、それはたしかにオカルト嫌いの爺さんにはピッタリのものではありますね。それでどちらの『ピーリー・レイースの地図』をコピーするというのですか?鮎原」
そう訊ねたのは闇画商の妻でもある上級書籍鑑定官のひとりだった。
男が口を開く。
少々毒のある言葉を吐くために。
「どちらの?と言いますと?」
「とぼけないでください。自らの先輩がその半身を手に入れていたことを知っていたあなたが『ピーリー・レイースの地図』を完品にするためトプカプ宮殿のものをレプリカと入れ替えただけではなく、さらにそれよりも古いもう一種も手に入れていたことくらい私だって知っています」
「……ほう」
怒りの色彩が濃い女の言葉に年長の男が薄く笑う。
「これは失礼しました。海外の書に関してはまったく興味を示さない真紀さんがまさかそこまでご存じだったとは。ですが、そういうことであれば話は早い」
男は主に顔を向け直し一礼すると口を開く。
「エマーソン氏に今回の報酬として差し出すレプリカは千五百十二年に作製された『ピーリー・レイースの地図』のものがよろしいと思います」
「……なるほど」
男の言葉に彼の主が笑みを浮かべて頷く。
「レプリカを作製するのは千五百十三年ではなく千五百十二年に作製された『ピーリー・レイースの地図』なのですね」
「そのとおりです。夜見子様」
「理由をうかがいましょう」
「まず、その対価となるもの情報の価値。おふたりが最初に指摘したとおりこれは源氏物語の原書の可能性があることです。もう一つの理由は、相手がエマーソン氏であること」
もちろん彼女はすべてを理解した。
だが、そうでない者も当然そこにいた。
「とりあえず、前者はすぐに理解できるからよしとしましょう。でも、後者は意味がさっぱりわからない」
「説明しなさい。鮎原」
さっそくやってきたふたりの女性の詰問に、実はそれを待ち構えっていた男が答える。
「もちろんですとも。ただし、答えは少しでも考える力があれば誰にでもわかる実に簡単なことなのですが」
「それはどういうことですか?また私たちを無能呼ばわりしましたね。鮎原」
「もったいぶらずにさっさと言いなさい。殺しますよ」
いつものように男がつけ加えた余計なひとことに女性陣が怒り出すという幕間劇が始まり、その嵐が通り過ぎるのを確認した男が再び口を開く。
「まずエマーソン氏なら『ピーリー・レイースの地図』の研究も間違いなくなくおこなっていることでしょう。つまり、程度の差はあるとはいえ、そのレプリカはすでに所有していると考えるべきです。そうなると、どれほど精巧なものでも世間でよく知られている『ピーリー・レイースの地図』のレプリカでは彼はそれほど感銘を受けない。なにしろこのエマーソンという人物は自らの研究が終われば『アトランティスの真実を記したプラトンの書』の原本さえ用済みとしてあっさりと手放すほどのお方なのですから。ですが、知られていないもうひとつの『ピーリー・レイースの地図』となれば、同じ『ピーリー・レイースの地図』でも話はまったく違うものになるというわけです」
「なるほど」
「そして、それに付随するものがもうひとつ。情報ひとつでこれほどのものを手に入るとなれば、学究の徒である彼であっても、いや、そうであるから、なおさら欲が出る。その結果、今後も彼からの積極的な情報提供が期待できるというわけです」
「さすが鮎原。最後はそこにいくわけですね」
「さきほど、あなたがレプリカを渡すことに反対しなかったことに私はやや意外な気がしていましたが、それはこの爺さんが真実さえ書かれていれば必ずしも原書にこだわらないことを踏まえていたということなのですか?」
「そういうことです」
もちろん口には出さない。
出さないものの、ふたりの女性は目の前に座る男の思慮遠望に舌を巻き、自分たちではとても太刀打ちできる相手ではないことを再認識する。
口惜しさを滲ませるふたりの表情から男の意見には異論がないことを確認した三人の主が口を開く。
「ふたりも納得したところでエマーソンには鮎原から提案どおり千五百十二年に作製された『ピーリー・レイースの地図』のレプリカを手渡すことにしましょう。もちろんこれは情報にあった書が『篝火』の原書であった場合ですから、それ以外の場合も考慮していくつかレプリカを用意しておくように。では、ニューヨークにはエマーソンからの条件を承諾し、あわせて所有者に対して交渉に入るように指示をすることとします」
神保町でそれが決定されてからまもなく、と言っても、それは日本とアメリカの時差によるトリックのようなもので実際の時間はあれからかなり過ぎていたアメリカ合衆国、オレゴン州ポートランド。
今も昔も西海岸にあるこの都市を目的地としてアメリカにやってくる日本人旅行者は少ないのだろうが、それでもかつてはこの都市にある空港はアメリカの主要玄関口のひとつであったためポートランドというその名は古くからアメリカに関わっている日本人には馴染みのあるものだといえるだろう。
雲が低く立ち込めたこの日。
ふたりの蒐書官がその都市に姿を現した。
「結城さんはここで仕事をしたことはありますか?」
「ないな。来るのも初めてだ。いや。初めて日本からアメリカに来たときに入国したのはここだったのだから来たことはあるといえる。そのときの記憶にはそれ以外はまったく残っていないが」
「私も似たようなものです。そもそも私たちの持ち場はアメリカの東側ということになっているはずです。その私たちに今の仕事を一時中断してすぐにタンパから西海岸のポートランドに向かえとは秋島さんも人使いが荒いです。仕事のために七時間も飛行機に乗ったのは久々ですよ」
空港で出迎えたスタッフから受け取った資料を確認するために、この地が発祥であるコーヒーチェーン店のひとつに入ると、後輩蒐書官はさっそくぶつぶつと移動時間に対する不満を口にし始める。
「……栗林君」
とりあえず彼が語るグチにつきあっていたものの、それが延々と続くものと感じた彼の先輩にあたる人物は資料から後輩へと視線を移しコーヒーで潤った口を開く。
「では、ヨーロッパ大陸への転属願いを出したらどうだ。あちらは一時間も飛べば大概の場所にはいける。そして、そこはまったく違う言語を使う国というオマケつきだ。加えてかの地の上司はあの朱雀さん。その下で働く蒐書官も当然朱雀さんの薫陶よろしく武闘派の超やり手ばかりという実にやりがいのある場所だ。それとも、自分に厳しく他人にはさらに厳しいという絶対零度の異名を持つ蒲原さんのもとで規律とノルマがもっとも厳しいといわれるイギリスでの暮らしを満喫するか。まあ、どちらにしても君が望む短時間での移動が可能というだけではなく蒐書官として充実した日々を送れること請け合いだ。私からも秋島さんへお願いしてやるからこの仕事が終わるまでにどちらに行きたいのか決めておいてくれ」
そう。
これはいわゆる瞬殺。
まあ、そう表現するにはその言葉は少々長かったのだが。
とにかくそのひとことで沈黙させられた後輩から資料に意識を戻した先輩蒐書官はさらに言葉を続ける。
「さて、意気地なしの栗林君の叶わぬ願いの話はさておき、ロスに滞在している連中を差し置いて我々がここに送り込まれたということは、今回もそれなりの仕事だということだ」
「やはり、そうなりますか」
「秋島さんが日々過酷な業務に精励する我々に報いるためにコーヒー好きの聖地でもあるここに特別に派遣してくれたのでなければ当然そうなる。とにかく、つまらぬ夢物語を語る前にまずは資料に目を通し情報をしっかり頭に叩き込みたまえ」
「……資料の最初に嫌な言葉が書かれています。職業、自らを祖とする宗教指導者。最悪です」
過去の苦い経験を思いださせる目に飛び込んできたその文字に思わずそう呟いた後輩に、同じ経験を共有している先輩蒐書官が含むところが多分にある笑みとともに言葉を重ねる。
「過去のトラウマに囚われ、宗教に過敏に反応する君にいいことを教えてやろう」
「何でしょうか?」
「どの宗教も目的は人々の心に安寧をもたらすことだ。だが、たとえそれがそうなっていなくても、それは宗教そのものが悪いのではなく、それを自分たちにとって都合のいいように解釈し支配の道具に利用する人間が悪いのだというを知るべきだ。もっとも、それは宗教に限らない。どれほど良い道具であろうがすばらしいシステムであろうが、使い手がヘボであれば、結果はろくでもないものにしかならないのは古今東西多くの事象で証明されている」
「それはたしかに」
「そして、我々がこれから会うジョン・ローガンだが、私に言わせれば彼は宗教を本来のものとは別の目的で利用する先ほど言った許されざる者たちの代表のような男だ」
「具体的には?」
「資料に目をやりたまえ。そこに答えがある」
「はい」
自分の問いに対する答えとなる先輩の言葉に栗林は従い資料を読み始める。
「……この男の収入は信者からの寄付、グッズ販売の利益、その他とありますね。ちなみにグッズというのは何でしょうか?」
「神の祝福を受けた何かだろう。なにしろこの男は自称ではあるが、神に愛され、神と対話できる者。そして、なんといっても自分は神のお告げに従って数々の奇跡を起こしたと称しているらしいからな」
「胡散臭い。実に胡散臭いです」
「宗教そのものに拒絶反応が強い君なら当然そうなるな。だが、そうはいっても彼の言葉をありがたく思っている者は驚くほど多いのも事実だ」
「そして、彼はそれを利用して信者から寄付と称して金を巻き上げている。それで結城さんはローガンを悪党の同類だと言ったのですか?」
「いや。私自身は特定の宗教を信じているわけではないが、君と違って宗教の意義は十分に理解しているし、まして他人の信仰や金の使い道に口を挟むほど無粋でもない。私が問題にしているのは別のことだ」
「と言いますと?」
「彼が唱える教義は極端とまではいかないものの非常に禁欲的で保守的だとある。彼にどのような趣味や嗜好があるのかは知らないが、信者にそのような教えを説く者が彼らから集めた浄財を手にして特別な者しか参加できないような怪しげな闇オークション会場に出入りしているとはこれ如何に」
「なるほど。言いたいことはわかりました。ですが、それについては、たしかバチカンも秘密組織をつかって闇オークションに……」
「彼らの場合は、あくまで彼らの教えに沿って必要なものを集めているだけだ。彼のような個人的利益で動いているわけではない。ん?もしかして、ここでバチカンの名を出すということは、君はローガンもバチカンと同じ目的で貴重な書を手に入れたと思っているのかね?」
「いいえ。さすがに日本の古典がローガンとやらの宗教に関わっているとは思えませんから、彼個人の利益のためでしょうね。とにかく他人には清貧を説きながら自らは俗世に塗れていることが彼を結城さんが好んでいない理由であることはよくわかりました。ですが、そうであってもそれが我々の出張る理由にはなりませんよね」
「栗林君。言葉を口にするのは資料を最後まで読んでからにすべきであろう」
先輩に強い言葉で促され、視線を再び資料に戻した栗林は、エマーソンからの警告という注釈付きで書かれたあることについての説明文まできたところで小さく声をあげる。
「これは……」
「多くの人がこのようなペテン師の言葉をありがたく受け止め、それを信じて今でも多額の寄付をおこなっているのですか?」
「そういうことになる。それにしても、騙すといっても相手はひとりやふたりではない。それだけの数の信者に対して長年にわたって自らの影を完全に隠し通しているというのは、彼は非常に優秀だな」
「いやいや、そこは褒めるところではないでしょう。これは立派な詐欺です」
「まあ、それが罪に問われるのかどうかはともかくモラル的にはたしかに問題だ。だが、宗教指導者が信者に説教していることを自らはまったく実践していないことなどこの男に限ったことではない。信者にとっては一大事ではあるが、部外者である我々が大騒ぎすることではないだろう。本当の問題は……」
彼がそう言うと、ふたりはそれぞれの資料にある同じ部分に目をやる。
そこに書かれていたこと。
それは……。
「ですが、ここにある彼の副業リストを見ればマフィアが神父の服を着ているようではありませんか」
「いい表現だ。だが、これでこの男の闇オークション通いのカラクリがあきらかになった。さすがにどれほど多額とはいえ、一般庶民の寄付だけを元手に闇オークションで商品を手に入れるには相当無理する必要があり、収支出内容に疑問を持つ信者も出るはずなのだが、これなら信者とな無縁な場所から十分な軍資金が手に入るのでばれる心配はない」
「……そして、その副業関係者にこれだけの怪しげな者たちが並べば私たちが出向くだけの理由になる」
「残念だがそれについても否定できない」
「ですが、引きこもりの蒐集家エマーソンがなぜここまで詳しくローガンのことを知っていたのでしょうか」
「おそらくオークションでの常連で将来のライバルになりそうなローガンに興味を持ったエマーソンが自らの後ろ盾になっている組織に調査を依頼したのだろう。さて、彼に関するおおよその情報が手に入ったところで、君ならここからどうする?」
「もちろん交渉し我々のターゲットを手に入れます」
「彼自身については?」
「素直に交渉に応じれば放置します。場合によっては手駒に加えます」
「義憤に駆られて彼に対して天誅を加えることはないのかな」
「ありませんね。彼がこれまで何をしようが、彼のおこないとは無縁の存在である我々にとって彼はただの交渉相手でしかない。つまらぬ私情に流されてはいけない。と、私は結城さんに教わっています」
「そのとおり。実にすばらしい回答だ」
「そのようなことをわざわざ訊ねるということは、もしかして今回は例外にするつもりだったのですか?そうであるのなら、お手伝いしますよ。もちろん有料で」
「いらん。それに、もし商品を手に入れるついでに自称神の代弁者を主の御許に送ってやる特別サービスを施してやるのであれば、公平を期すためにまず全米各地で百人ほどは昇天させる必要が出てくるだろう。これまでこの男よりも重い咎人を散々見逃してきた身としては」
「さすがにそれは面倒くさいです」
「そういうことだ」
「ただし、相手が武器を持ち出したときには話は別です」
「当然そうなるな。だが、ローガンが余程男気溢れる人物でもないかぎりそうはならないだろう」
「我々の目的が強奪ではなく大金を支払う買い取り交渉だからですか?」
「それもある。だが、秋島さんからの資料には今回の交渉があっさりと実現したのはアメリカの裏社会では有名なエマーソンの口添えがあったからと書かれている。これは大きい」
ひと呼吸入れた先輩の言葉は続く。
「闇オークションに出入りしている連中はよほどの馬鹿でもないかぎり他の客をチェックしている。そして、エマーソンと同様当然ローガンも毎回大金を支払うエマーソンをチェックしていたのは疑いようもない。しかも、彼の周辺には巨大な裏組織が存在している。その正体は完全につかめなくても彼のうしろにとんでもなく巨大な組織が蠢いていることくらいはすぐにわかる。そのエマーソンの紹介状を持った我々を襲ったら彼の顔に泥を塗ったことに等しく、それはすなわち裏世界に君臨する大組織のひとつを敵に回すことを意味する。そうなった場合には万に一つも助からない。そして、その前に報復としてやってくるのは清き身でなければならない彼の素顔の公表であり、これひとつで彼は破滅だ。それくらいはローガンの知能がサル程度でもわかる」
「そうですね。もっとも、そうなる前に私たちがその男と取り巻き全部を返り討ちにしていますが。ですが、心配の種をひとつ挙げれば、ローガン氏が自らを神の子孫だと本気で信じていたいつかの御仁のような人物だった場合ですが」
後輩の言葉に数年前に起きた悪夢のような出来事が思い出した彼は唸る。
「あれはたしかにひどかった。だが、ローガンはこれだけ人生を楽しんでいるのだ。さすがにそれはないだろう。というか、そのようなおかしな自己暗示にかかった男が闇オークションに真面目に参加しているはずがないだろう」
「そうですね。そういうことであれば安心です」
「さて、そろそろ下見を兼ねてローガン邸を見学しに出かけることにしようか。それにしても、この店は……」
先輩蒐書官がは名残惜しそうに眺めているのはカラになったカップだった
「チェーン店とは思えぬコーヒーの味だ。さすがコーヒー好きの聖地であるポートランドを本拠地にしているだけのことはある」
実感が籠った先輩の言葉に同じくコーヒー好きの後輩蒐書官がニヤリと笑う。
「同感ですね。そして、それについてひとつ朗報があります」
「何かな」
「私もたった今知ったのですが、どうやらニューヨークにも店があるようですよ」
そう言って彼が差し出したのは店を紹介するパンフレットだった。
「それはすばらしい。もしかしたら、今の言葉がこれまで君から聞いたなかで一番の重要情報だったかもしれないな」
結城たちがポートランドに姿を現してから一週間が経った東京都千代田区神田神保町。
ひとりの男がふた回りほど年下の自らの主にある報告をするために、その建物の一室にやってきていた。
男は自らの好みであるコクのあるコーヒーで潤された口を開く。
「秋島君から連絡がありました。すべてが完了したことが確認できたので今朝エリオット氏にお礼の品を手渡したとのことです」
それはいつもどおりの事実だけを述べる簡素な報告だったため、彼女は小さく頷くものの、やや物足りなさそうにその言葉を口にする。
「それで……エマーソンは何と言って受け取ったのですか。あれを」
もちろんそれはエマーソンに対する報酬に関する問いだった。
それに応じる男の口が再び開く。
「これで研究がさらに進む。ありがとうとのことです」
「渡されたものが原本ではなくレプリカだったことについては?」
「秋島君に語った彼の言葉をそのまま引用すれば、『人それぞれ執着するものがある。おまえの主人は本そのものに執着しているのだ。あの程度の情報ひとつで貴重な本を手放すわけにはいかないことは承知している。その点、私が執着しているものは知識だ。これがあらたな真実を記したものであるのならレプリカだろうが私にとってまったく問題ない』とのことです」
「……さすが鮎原。読み通りでしたね」
「恐れ入ります。ところで……」
主の言葉に一礼した男が見つめていたのはテーブルに置かれていた古い書だった。
男に続いて彼女もそれに視線を落とす。
「闇オークションを通じてローガンなる者が手に入れた本は疑いようもない『篝火』の原本。つまり、これは紫式部の手による源氏物語のひとつでまちがいありません」
「それはよろしゅうございました」
だが、彼女の説明に応える男の言葉には、その言葉どおりの感情が込められていないのはあきらかだった。
……組織の運営者としては、これだけの成果よりもそちらの方が気になるわけですね。
……さすがです。
「言いたいことはわかっています。いつどうやってこれがアメリカに渡ったのかということでしょう?」
彼女の言葉に男が答える。
「当然それもありますが、さらに問題なのは、やはりその本が突如オークションに現れたことでしょうか」
男の言葉は彼女にとって少しだけ予想外だった。
「というと?」
「エマーソン氏からの連絡があるまで我々は存在をまったく気づかなかったということに問題がなかったとはいえません。その後の秋島君の処置は完璧なものではありましたが、それでも、もう少し交渉開始が遅くなれば、『篝火』の存在は公のものとなり我々の手が及ばない場所にいくところでした」
苦みを帯びた男の言葉に彼女が答える。
「ですが、あなたはそのような場所からも多くのものを手に入れてきました」
「もちろんそうなっても手に入れる手段はあります。ですが、そのような手段をとらないことこそ最良なのです」
男の言葉に彼女はもう一度頷くものの、必ずしもそれに納得したわけではなかった。
彼女の口が開く。
「そうは言いますが、私たちは地元の日本でさえ闇市場を全部把握しているわけではありません。さらに広大なアメリカの隅から隅まで商品の流れを把握するなど不可能なことではありませんか?」
「現実はそのとおりです。ですが、だからといって問題点を把握しながら何も改善の手立てもせず放置するわけにはいきません。実はそれに関連したことについて、秋島君から夜見子様に検討していただきたいという案件が持ち込まれております」
「何でしょうか?」
「あらたな協力者の登用」
「エマーソンとの協力関係強化ではないのですか?」
「それについては現在でも十分にできています。秋島君が裁可を求めてきたのは今回結城君たちが交渉したローガン氏のことです」
「ローガン……神の代弁者などと名乗るあのペテン師を協力者の列に加えるというのですか?」
その言葉はあきらかに負の感情が支配するものだった。
だが、男はそれを肯定するように頷き、さらに言葉を続ける。
「説明の言葉を少々加えるならば、エマーソン氏は我々と対等の立場であり間違いなく協力者だといえますが、ローガン氏は協力者というよりは便利な道具に近いでしょう。もちろん正しき道へと人々を導くという本来の彼の使命を考えれば、信者に対する背徳行為をおこなっている彼は忌避すべき人物であり、信用できないという夜見子様の指摘は正しいです。ですが、幸いなことに我々が求めているのは清く正しい宗教指導者としての彼ではない」
彼女はそれには何も答えず、さらに続く男の言葉だけが部屋に広がっていく。
「彼は表面上の立場によって多くの信者を抱えているだけではなく、副業を通じて裏社会の知り合いも多い。情報網が足りない我々にとってはこの大きなネットワークは捨てがたい。しかも、仮面の下に隠された彼の素顔といえば聖職者とは対極ともいえる最高級の俗物。我々は彼の知られてはいけないその秘密も握っている。その有用性と扱いやすさは我々にとってこれ以上ないほどのすばらしい道具です。ただ、秋島君は石橋を叩いても渡らぬ慎重な性格ですから、当初はそのつもりで北米地区においては、この手の輩を扱うことにかけて右に出る者はいない結城君たちをポートランドに送り込んだものの、結城君から報告を受けたローガン氏の汚れ具合が予想以上にひどく、不安になったためにわざわざこちらに問い合わせをしてきたものと思われます」
「なるほど。問い合わせの概要は承知しました。私はそのような者とはたとえ形だけであっても協力関係になりたいとは思いませんが、その話しぶりから察するに、あなたは秋島の要請を承認すべきだと考えているわけですね」
「夜見子様もご承知であることは十分に承知しておりますが、あえて言わせていただきます。残念ながら我々の探し求めているものの大部分は日の当たらない場所にある以上、明るい場所を歩く高潔な人物だけではなく日の当たらぬ世界を住処とする薄汚れた者も利用しなければなりません。それにローガン氏はエマーソン氏と違い夜見子様と直接的な協力関係を持つわけではなく、あくまで結城君の配下となりますので、少しでも関係にほころびを見せれば結城君が容赦なく切り捨てます。ご心配なく」
「……わかりました。あなたがそこまで太鼓判を押すのならその男を道具として利用することを許可することにします。そのようにニューヨークに伝えてください」
言葉には出さなかったものの、もちろん彼女は気づいていた。
目の前の男がこの程度のことをなぜわざわざ自分に許可を得ようとしたのかということを。
……いつもながらの細やかな気配り。本当に感謝しています。鮎原。
……そして、これからも私が道を誤らぬようにご指導よろしくお願いします。




