After story Ⅲ ある小説家の隠し事
「須磨」の後日談的話となります
東京都青梅市西部。
多摩川沿いに連なる山の麓にへばりつくように建てられた屋敷と言ってもいいくらいの大きな家。
「芦名」という表札がかけられたその家から数人の男が恐縮しながら出ていくと、屋敷の主らしい男が嫌な仕事からようやく解放されたかのように大きなため息をついた。
「孫の世話が忙しいからここには絶対に来るなと言っておいたのに、こちらの事情も考えず押しかけてくるとは本当に無粋な奴らだ。もし、総一郎がいたときだったらどうするつもりだったのだ。ボケ。おい、塩だ。塩を撒け」
「お断りします」
男が口にしたお約束のような言葉に即座に返ってきたそれは女性のものだった。
「何だと」
当然のように男の不機嫌のギアは上がるものの、女性のすました声はあくまで軽やかである。
「あの人たちは仕事だからこんな田舎に来たのですよ。しかも、美味しいお菓子まで持って。そのような方々に対して塩を撒くなどできるわけがないでしょう。だいたいあなたが孫と一緒にいたいばかりにこちらに引きこもり、さらにそれまで以上に約束の期限を守らなくなったからこうなったのですから、塩を撒かれなければならないのはあなたです。いっそのこと塩を振られて浄化されてはいかがですか」
「言ってくれるではないか。ということは、響。おまえは私ではなくあいつらの肩を持つということか」
「当然です」
これだけでふたりの力関係が一方に傾いたままであることがわかるその会話を男と交わした響という名のその女性は彼の妻であった。
「おっと。こんなところで引きこもりの爺さん相手に時間を潰している暇はなかったのだった」
いつものように夫をあっという間に黙らせた彼女が鼻歌まじりにその場から去ると、代わってやってきたのは小さな子供たちであった。
「爺ちゃん。また喧嘩に負けたの?」
「本当に弱いね。爺ちゃんは」
「……いや」
天敵が視界から消えたことを確認すると急激に息を吹き返した男はその言葉を口にした孫たちの憐れみを帯びた視線を力強く否定する。
「翔太。風花。それは違う。爺ちゃんは負けたのではなく、ただ負けたふりをしただけだ。実は爺ちゃんはすごく強い」
「本当に?」
「もちろん。なんと言っても爺ちゃんは無敵なのだから」
「無敵?すごいね」
「本当にすごいね。爺ちゃん」
だが、目の前にいる子供たちにだけこっそり言ったつもりだったその大本営発表は届いてはいけない場所にまで届いていた。
当然のようにそれを聞きつけたあの人物の声がすぐさま彼のもとにやってくる。
「では、そのすごい爺ちゃんにお願いします。私は由美子さんと買い物に行ってきますからふたりの面倒をお願いします」
「お、おう」
「それから、そこの片付けもお願いしますが、この前のような手抜きは絶対にしないようにお願いしますよ。ちゃんとやっていなかったら何度でもやり直しさせますからね。わかりましたか。無敵お爺ちゃん」
「……」
「返事が聞こえませんよ。わかりましたか?」
「……はい」
さて、無敵が聞いて呆れる威厳のかけらもないその男だが、もう何年かすれば六十歳に手が届く彼は芦名権蔵といういかつい顔にふさわしい古めかしい名を持っていた。
だが、実を言うと、彼には人には言えないもうひとつの名があり、さきほどの男たちはそちらの名に用があり、都心からわざわざこの山奥までやってきていた。
神楽坂甘楽。
それがその名であり、ついでに言えば、神楽坂甘楽というその奇妙な名は乙女心満載の甘い恋愛小説を書くことで知られる有名な女流作家と同じ名前でもある。
そう。
つまり、彼はこの神楽坂甘楽という名を使い小説を書いていた。
女性として。
ことの始まりは、学園祭で売られていた彼の作品を読み、その文才を絶賛した立花という先輩の勧めですでに執筆活動を始めていた学生時代に遡る。
酔った勢いで一気に書き上げたそれを読みなおした彼は思った。
……こんな女々しいものを芦名権蔵の名前で出すわけにはいかない。
実は彼が目指していたのは壮大な歴史絵巻。
いわゆる硬派小説を書く作家だった。
だが、目の前にある実際に自分が書いたものといえば、それとは天と地ほども離れた歯が浮きそう恋愛小説。
……廃棄か?
だが、改めて読んでみるとこれが意外にも面白く、ゴミ箱に放り込むのはさすがにもったいない。
……やはり、使おう。
……いや、私のプライドがこのようなものを世に出すことを許さない。
その原稿は彼の心情を反映するかのように机とゴミ箱を何度も往復する。
……そうだ。
原稿が三日間計三十四度往復をしたところで、すべてがうまくいく解決策として彼が思いついたのが、女性の名前を使ったペンネームだった。
……これなら、これを無駄にせず、かつ将来偉大な作家となるこの芦名権蔵という名を汚すことはない。
彼は自らのアイデアを盛大に自画自賛すると、当時住んでいた地である神楽坂と、たまたま目の前にあった菓子箱から取ったその名を作者欄に書き込み某雑誌のコンテストに応募した。
それから三十年以上もその名を使い続けることになるなどとは爪の先ほどにも思うことなく。
それから二年後。
彼は人生最大のピンチに直面していた。
様々な手違いにより、人気作家神楽坂甘楽の初めてのサイン会が盛大に開催されることになったのだ。
もちろん人気が出たことで調子に乗り、出版された単行本のあとがきにまで女性らしさを前面に出していた彼がいまさら実は男でしたと言うわけにはいかない。
困った彼が泣きついたのはあの先輩だった。
「……わかった」
彼が涙ながらに説明するまでもなく、一瞬でそのサイン会なるものに彼自身が出席できない事情を察した先輩が用意した一策がいわゆる身代わりだった。
「心配するな。我が家の家令の娘で才女の呼び声の高い彼女なら君以上にその女流作家を演じてくれる。もちろん君がよく知る有能な姉にも手伝ってもらうから顔に似合わず小心者の君が心配するようなことは一切起きないことを私が保証しよう」
サイン会そのものを中止するよう各所に圧力をかけてもらうとした権蔵の要望を笑って拒絶した先輩のその言葉は現実のものとなる。
そして、彼、いや彼女の最初で最後となるそのサイン会当日。
会場に現れた神楽坂甘楽は学校の制服を来た可憐な少女だった。
もちろん彼女は権蔵とは似ても似つかぬ別人。
だが、外見内面すべてにおいて自分たちが思い描いていた神楽坂甘楽そのものである彼女を会場にやってきたファンは誰一人として偽物だとは思わない。
薄く微笑むその少女に次々に新しく買いなおした彼女の作品を差し出す。
会えた喜びと作品に対する深い愛情の言葉を添えて。
そして、長く伸びたその列の最後のひとりまでその少女は笑顔を絶やすことなく神楽坂甘楽としてサインをし続け、権蔵はどうにかこの窮地を脱することに成功する。
だが、その代償は大きかった。
なぜなら、その別人、つまり当時はまだ中学生で、現在は天野川夜見子のもとで辣腕を振るう鮎原進の妻となっている彩宮岬の敏腕マネジャーよろしくその場のすべてを取り仕切っていたのは岬の八つ年上の姉で権蔵の妻でもある響だったのだから。
そして、あの忌まわしき日からさらに八年と少しが過ぎたある日。
彼は再び窮地に立たされていた。
今度の原因は厳しく育てたひとり息子総一郎がこう訊ねたことだった。
「お父さんの仕事は何?」
答えはもちろん人気「女流」作家なのだが、それを言ってしまうと、たとえ不本意な諸事情があるとはいえ女々しい物語を女性の名前を騙って書き続けていることが息子にばれ、厳格な父親のイメージが崩壊してしまう。
……ここは、作家とだけ言っておくべきか?
……だが、そう答えてしまえば、次に何を書いていると訊ねられ、最終的にはすべてが知られてしまう。
激しい葛藤の末、彼が口にしたのはこれだった。
「働いていない。つまり、無職だ」
そして、親の威厳を保つ、いや、多感な年ごろの子供に対して自分は無職だと言い張ることが親の威厳が保つことにはならないので、あくまで自分のつまらぬプライドを守るという一点のために自らの職業を隠した彼はこのときから現在にいたるまで、公式には仕事もせず家に引きこもるダメ親父ということになっている。
その日の午後。
自称無職の父親が口を開く。
「そういえば総一郎はどうした?」
「もちろん仕事ですよ。ダメな父親の代わりに家族五人を養うために必死なのですよ。あの子は」
「天職とはいえご苦労なことだな。それにしても、いまだに親父がまったく稼ぎがないと思っているとはどこまで愚かなのだ。あれは。あれでよく洞察力が人並み以上でなければならない蒐書官の仕事が務まるものだ。立花先輩や鮎原氏の苦労が……」
「それについてはご心配なく。彼を橘花に紹介した私が彼は蒐書官にふさわしい能力を持っていることを保証します。それに、あの子があなたの女装趣味に気づかないのは能力に問題があるのではなく、ほとんど家にいないことと、奥さんである由美子さんがあなたに気を遣って夫に何も言っていないことが原因なのですから勘違いしないでください」
「何が女装だ。私にはそのような奇怪な趣味など……ん?ちょっと待て。その話は初めて聞いたが、つまり、由美子さんは私の仕事を知っていると?」
「もちろん。由美子さんがこの家に来てすぐに私が教えましたから。最近ようやくあなたが書き散らかした『内容はないが量だけはある』つまらぬ妄想小説をすべて読み終えたらしく、『お父さんはあの顔でこういうものを書くのですか』と孫相手に威張りまくるあなたを遠くから眺めて笑っていましたよ」
……なるほど。
男にはそれについて心当たりがあった。
……最近自分を見る彼女の視線がめっきり冷たく、というよりも嘲りの成分が濃くなっていたのは、てっきり日々私をこき下ろすこいつの悪影響によるものかと思っていたのだがそういうことだったとは……。
「ま、まったく余計なことをしてくれた」
「いいえ。それを言うのなら、当然のことをしてくれてありがとう、です」
……どこが当然なのだ。
……しかも、そこでなぜ感謝しなければならんのだ。
彼は心の中でそう叫んだものの、言い争っても勝ち目がないのはわかっているため、すごすごと矛を収める。
「ま、まあ、言ってしまったことは仕方がない。だが、そうであっても気づかないとはやはりやつは愚かだ」
「いいのですか?頑張っている自分の息子に対してそんなことを言って」
「当然だ。事実を言って何が悪い」
「わかりました。事実なら何を言ってもいいというのであれば、私もそろそろあの子に事実を言うことにします。あなたのお父さんはあの有名な女装作家の……」
「や、やめろ……さすがにそれは少し困る。というか、私は女装作家などではない」
「違うのですか?」
「違うに決まっているだろう」
「それは失礼しました。あのようなものを三十年も書いているのでてっきり女装願望があるのかと思っていました。まあ、それはさておき、少しだけしか困らないというのであれば……」
「いや、待て。早まるな。そ、そう。単なる言い間違えた。大変、大変困るから内緒にしておいてくれ。……これでいいか」
「結構です。とりあえずは言葉を使う仕事をしているのですから、たとえ耄碌しても表現には十分に注意してください」
「……はい」




