梅壺の大将
愛知県名古屋市名東区。
その日の朝、間違いなく名古屋市内ではあるものの、その地のランドマーク的存在である有名な名古屋城が聳え立つ中心部からはかなり離れたその場所にある古風な喫茶店で、当地の名物である「モーニング」を鬼川と夏野というふたりの蒐書官が堪能していた理由。
言うまでもなく、それは彼らの主である天野川夜見子が望む書を手に入れるためにこの地にやってきてからだ。
そして、こうしてのんびりとした時間を過ごしているということは、いつもようにすでにターゲットとなる書とその所有者は特定されているということなのだが、いつもとは少々違うところもある。
実は彼らが名古屋にやってきた段階で、本番である買い取り交渉に比べれば圧倒的に地味だが、実は難易度が高く、その技術の良し悪しで蒐書官のランクがわかるとさえいわれる相手の屋敷に入る段取りが終了していた。
交渉する者にとって物心ともにこれは非常に大きいことだった。
なにしろ今回の相手は、多少のことが許される自他とも認める日の当たらない世界の住人ではなく、譲渡交渉が始まるまでに最低でも数度は門前払いされる一般人だったのだから。
では、なぜそうなったのかといえば、理由は簡単。
相手から交渉を持ち掛けられたからだ。
この世界の表と裏両方に多くの情報網を持つ彼ら蒐書官だが、実は彼らの目的の書を持つ相手から商品を売りたいと連絡されることは多くはない。
特に日の当たらない世界と関りが少ない一般人となればなおさらである。
今回比較的経験の少ないふたり組に通常ならベテラン蒐書官があたるはずの一般人との交渉役を任せられたのは、そのような特別な事情によるところが大きいといえるだろう。
「一応罠ではないところまで調べてあるが、売却希望の依頼主である土岐慶子氏について他にわかっていることはあるのかな」
厚切りトーストを食べ終わったところで、先輩蒐書官が口を開くと、後輩である夏野がコーヒーカップを持ったままそれに応じる。
「先日ご主人が亡くなったいわゆる未亡人です。相続税を支払うための現金が必要なようです」
「現金がなくても土地持ちなら土地を渡すという手もあるだろうに」
「まあ、それはそうなのですが、どうやらうまくいかなかったようですね。物納に値するような価値がついているのは子供たちを住まわせている名古屋駅前の一等地と自宅がある敷地だけのようですから」
「なるほど。それで秘蔵の宝を売るというわけか。だが、それだけのものなら我々ではなく然るべきところに出しても……なるほど」
「そう。入手経路等々の事情を抜いても、それを日の当たる場所で売れば、当然それにも多額の税金がかかるということです。その点、相手が我々であれば、そのような雑事はすべてなくなるというわけです。加えて我々は値引きなしの現金一括支払いが約束されている」
「たしかに、我々相手の取引では、たとえ役人どもがその取引の情報を掴んでも、一方がアンタッチャブルである以上、もう一方にも手が出せない」
「そういうことになります。そこまで考えてのことかはわかりませんが、亡くなったご主人はそれを手に入れていることを公表していなかったのが幸いでした」
「まあ、入手先がそれを躊躇させたのだろうが、所詮相手の事情だ。我々にとってはそれが本当に手に入れるべきものなのかというところだけが問題だ。では、そろそろ見せてもらうとするか。その商品『梅壺の大将』を……」
二年先輩の蒐書官鬼川は立ち上がりかけたところで店内を見渡す。
「それにしても……」
「はい?」
「名古屋というのは本当にいいところだな」
「地元民である私にとっては驚くものなどありませんが、名古屋のモーニングがそんなに気に入りましたか?鬼川さん」
「もちろん。東京の高いだけのモーニングとは雲泥の差だ。噂によればこの地にはそれ以外にも美味いものがたくさんあるとのことなので、今回名古屋に滞在する間はそれを十分満喫することにするよ」
「……これは」
喫茶店をあとにしてやってきたそこで先輩蒐書官に続き、それを手にした夏野は思わず呻く。
……見た目だけで判断すべきではないと思い確認したが、これはひどい。
……たしかにこれは古く見える和紙だ。
……だが、それは素人が騙される程度のものであり、どう古く見積もっても百年は遡れない。
……つまり、偽物。
少々がっかりした彼は自らの判断の正しさを確認するように隣の先輩の顔を見る。
だが……。
……ん?
鬼川の顔はあきらかに何かを迷っていた。
……これは間違いなく偽物。何を躊躇うことがあるのだろうか。
「鬼川さん……」
思わず声をかける彼を制した先輩蒐書官は交渉相手に視線を送ると口を開く。
「土岐様。これを他の方に見せたことはありますか?」
年配の女性はその言葉に同意するように小さく頷く。
「相手は何と言っていましたか?」
「これは幻の書である『梅壺の大将』を騙った偽物であり、買い取りはできないと言われました」
……当然だろう。
……もし、この程度の出来の悪い小細工も見破ることができないのなら、その業者はモグリというものだ。
女性の言葉に彼は心の中で大いに頷く。
……私だけではなく、それを鑑定した業者とやらでさえ見抜けるようなものを鬼川さんは何を判断に手間取っているのだろうか。
彼の思いを無視するかのように先輩蒐書はさらに問う。
「ちなみに、土岐様はこれをどのくらいで売りたいと考えているのでしょうか?」
「できれば十億円。そうすればこの土地を切り売りしなくても済み、少しだけ余裕を持って余生を送ることができますから」
「……なるほど」
「き、鬼川さん」
「夏野君。君が言いたいことは十分に理解している。だが、ここは私に任せてもらおうか」
後輩を再び制した鬼川は交渉相手が提示した額に動揺する様子を見せることなく言葉を続ける。
「要望承りました。その額で商品を引き取れるかを確認し明日お伺いしたときにお話いたします。ですが、これだけはお約束いたします。十億円はともかく、それなりの金額は必ず確保すると」
先ほどとは別の喫茶店。
すでに昼近くであり、この店でのモーニングセットを注文できる時間はとうに過ぎていた。
だが、どこでそのような情報を入手してきたのかは知らないが、名古屋では一日中それがあるものだと思っていた彼の先輩は店員によく聞こえるように不平を漏らす。
とはいっても、それによって突如注文できるようになるわけでもなく、盛大にがっかりしている先輩の代わりにふたり分のブレンドコーヒーを少し濃く淹れるように注文すると、彼はすぐさま問い質す。
「当然説明をしていただけるのでしょうね。鬼川さん」
もちろんそれは、あきらかに偽物である書を高値で買い取ることを先輩蒐書官が約束した件についてである。
彼の言葉は先輩に対してとは思えぬほど強いものだったが、鬼川はさほど気にする様子もなくそれに応じる。
「もちろんだ。だが、その前に君に問いたい。彼女は我々に偽物を売りつけようとしていたと思うか?」
「いいえ」
「理由は?」
「一番は業者に買い取りを断られたことを白状していたことでしょうか。もし、その気があるのなら私たちの警戒心を高めるようなことは絶対に言わないでしょうから」
「そのとおりだ。しかも、それにもかかわらず我々に交渉を持ち掛けてきたということは、少なくても彼女はあれを本気で本物だと信じている」
「まあ、そうでしょうね。ですが、残念ながらあれはあきらかな偽物」
「なるほど。君はあれを偽物だと思っているのか」
「もちろんです」
「甘いな」
「甘い?どこがですか」
先輩のその言葉に当然納得のいかない彼は先ほどよりさらに強い言葉を吐きだすが、先輩はそうなることを予想していたかのように潮が満ちるように表情が薄い笑みへと変わる。
「では、君があれを偽物と判断した根拠を聞かせてくれ」
「言うまでもないこと。紙が新しすぎます」
「紙が新しい。それだけか?」
「それ以上の理由が必要ですか?」
「君にとってはそうなのだろうな。だが、それでは彼女が鑑定を依頼したというポンコツ業者とレベルが同じということになる」
「どういうことですか?」
「君は本の本質というものを忘れているということだよ。もう少しわかりやすく言おう。本とは読むものだ。そして、私には先ほど君はあの本を読んでいたように見えたのだが、違うかな」
「間違いありません。紙質を確かめながら読みました」
「なるほど。では、その言葉を信じて改めて問おう。感想を、いや、あそこに書かれた高尚な文章をどこかで目の当たりにしたことがあるかね」
……なるほど。そういうことか。
彼はここでようやく納得した。
先輩蒐書官があれだけ判断を迷っていた理由を。
「つまり、紙はあれほど新しいにもかかわらず、内容が『梅壺の大将』と名乗るにふさわしいものだった。しかも、その文章は他の書から抜き出したものでもないオリジナル。この差異をどう解釈すべきか鬼川さんは考えていたということですか?」
「そのとおり」
「その答えは?」
「紙だけでなく墨も新しいものであることから、もちろんあれの古さは近年に書かれたものを隠すための見せかけであり、そこだけで判断するならあれは紛れもなくまがい物。だが、その中身は金に不自由しない余程の素養のある書き手が趣味で書いたということでなければ、ほぼ間違いなく本物を書き写したものだ」
「それで、これからどうしますか?」
「もちろん我々が帰ったあとに何かしらのアクションがあるかもしれないので、それを見張る。そのためにある仕掛けをしてきた」
先輩蒐書官はそっと見せたのは彼らが好んで使用する盗聴装置だった。
「だが、どちらにしてもこれについては我々だけでは判断できない。至急神保町に連絡し指示を仰ぐしかならないだろうな。それにこれはまったく根拠のないただの勘なのだが、どこがどうのとはいえないものの上品な見た目とは裏腹にどうも胡散臭い。あの夫人は」
東京都千代田区神田神保町。
紅茶の香りに、その半分ほどのコーヒーのそれが溶けこむ部屋。
「それにしても鬼川という蒐書官はそれほど経験がないにもかかわらずなかなか優秀ですね」
「まったくです」
名古屋からの詳細報告を受け取った主が呟いたその言葉の意味をすぐに理解した年長の男は言葉とともに大きく頷いたが、同じく彼女の側近であるふたりの女性には彼女の言葉は表面上の意味しか伝わらなかった。
「それは無理せず処置をどうするか判断を仰いだからですか?」
深く考えないまま口にした女性のひとりである上級書籍鑑定官という肩書持つ北浦美奈子の言葉に主に代わって男が答える。
「それもあります。ですが、より重要なのは彼がそこにいたる判断をした根拠ですね」
「どういうことですか?」
「つまり、あの技術をマスターしたての蒐書官の多くが一度は犯す紙質だけで本の真偽を判断してしまう失敗のことを言っているのです。今回の件、間違いなく紙は現代のものだということです。そうなると、若い蒐書官ならすぐに偽物と断定したくなる。だが、彼は書かれた内容からこれは本物を書き写したものではないかと疑った。実に素晴らしい資質であり、夜見子様が指摘したのもそのことです。もっとも、私は彼がベテラン蒐書官と同じように今回のような判断ができることを知っていて送り出したわけではなかったので、これはあくまで偶然の産物であり、もう少しでせっかく提供するといわれた『梅壺の大将』を門前払いにするところでした。つまり、今回は簡単な仕事だからと油断して経験不足の蒐書官を送り出した私は彼の適格な判断に救われたということになります」
自らの判断に大きな誤りがあったと男が認めると、ふたりの女性は嬉しそうに目を合わせ、それぞれが口を開く。
「なるほど。珍しく殊勝ですね。鮎原。とにかく大いに反省してください」
「まったくです。それだけの……」
同僚に続き調子に乗ったもうひとりの女性がさらなる言葉を加えようするのを遮ったのは主の言葉だった。
「そういうことなら、今回の担当を彼らにした最終判断は私がおこなったわけですから、あなたがたは私にこそその責任を求めるべきですね」
「よ、夜見子様」
「さて、とりあえず前置きはこれくらいにして、本題である鬼川からの報告についてどう対処すべきか意見を聞きましょうか?」
相手がその男となると普段の冷静さがまったくなくなるふたり女性から出かかったつまらぬ責任論をたったひとことで葬り去った彼女がそのまま視線によって意見を求めたのは、先ほど反省の言葉を口にしたその場で一番の年長者である男だった。
「まずはその『梅壺の大将』のコピーを手に入れることから始めるべきでしょう」
一礼した男がそう言うと先ほど主に瞬殺された女のひとりがそれに抗するように言葉を発する。
「つまり、それに十億円を出すということですか?」
男は頷き、それを肯定する。
「相手の希望金額がそうである以上それなりのものは支払うべきでしょう。それに実際にそれ以上の価値があるわけですから問題ないと思いますが」
「私は反対です」
「同じく」
もちろん彼女たちの口からその言葉がやってくることを予想していた男は慌てることなくコーヒーで口を十分に潤し、それから口を開く。
「ほう。では、おふたりにその理由を教えてもらいましょうか」
「もちろんそのようなものに支払う価値がないからです」
「それは中身を確認したのが経験の浅い蒐書官だからということですか?」
「それ以前の問題です。大金を叩いてそのようなまがいものに手を出すくらいならその婆さんを締め上げて出どころを聞き出し、本物を手に入れればいいでしょう」
「……なるほど」
その短い会話で目の前にいるふたりの心をあっさりと見抜いた男が小さなため息をついた後に再び口を開く。
「どうやら真紀さんたちは現代の紙に書かれていることが気に入らないようですが、それでもそれが現在手に入れることができる唯一の『梅壺の大将』の写本ということを忘れてはいませんか」
「唯一の写本?写本とは笑わせますね。鮎原」
日本の古典を専門とするふたりの上級書籍鑑定官にとっては当然の言葉である。
だが、男は動じない。
そして、ここで言葉を発したのは三人とは別の人物だった。
「いいえ。鮎原のいうとおりで響きはやや異としますがそれも写本のひとつと考えられます。鬼川の報告では彼らが帰ったあともその女性は特別に変わった様子もなく背後に誰かがいる様子もないとのこと。そうである以上出どころは簡単に辿れず彼女が手にしている現代の写本の原本にあたるものはすぐには手に入らない可能性もありますので程度はどうであってもまずはそれを手に入れておくべきでしょう」
「ですが、夜見子様。そうであってもそこまで気前よく大金を払わずとも手に入れることは可能です」
「それは年寄りを襲い奪うということですか?売りたいと申し出ている相手に力を行使するなどありえないことです」
正論であり、何よりも主の決定でもあるためふたりの女性は渋々同意し、それと同時に冷ややかに自分たちを眺め、主の判断は当然のこととして黒い含み笑みを浮かべながら頷く男を悔しそうに睨みつける。
だが、その程度のことを気にするはずがないその男はその黒い笑みをたたえたまま言葉を続ける。
「では、そちらについては支払いをするということで進めますが、次のステップに進む前にひとつケリをつけなければならない重要なことがあります」
「何でしょうか?」
「名古屋からの報告を見るかぎり所有者の女性の言動にはやや怪しげなところがあります。敵意があるというわけでありませんが相当なやり手に思えます」
「それで?」
「交渉は鬼川君たちだけに任せるのではなくサポート役を送り込む必要があるのではないかと」
「……そのとおり」
全員の耳に届いたその声は、彼女たちの視線の先でコーヒーカップを掲げる護衛役の女性ととともに紅茶を飲みながら四人の会話を聞いていた少女からのものだった。
「……お嬢様」
「黙っているつもりでしたが、あまりにも興味深い話題だったので、口を挟んでしまいました。続けて、話してもよろしいですか?」
「もちろんです」
「では、話をします。まず言わなければならないことは、私は鮎原の意見に賛成だということです。その女性はただの素人だと思っていると足を掬われる可能性がありますので」
「と言いますと?」
「今の報告を聞いて引っ掛かったのは、やはり『梅壺の大将』の入手ルートとそれを隠し持っていた点。それから、彼女の言葉の矛盾です」
「ですが、売り手はほぼ間違いなく闇市場の者でしょうから、売り手との関係から売るに売れなかったということではないのですか?」
これまでの多くの事例から考えれば少女の元語学教師のその言葉は正しいと言えるだろう。
だが……。
「もし、そうであれば、まず鑑定に出したという話は消え、今度はやってきた蒐書官になぜそのようなことを言ったのかというあらたな疑問が浮かびあがります」
少女はそう言って彼女の言葉をあっさりと退ける。
そして、そこにさらに重要な事実をつけ加える。
「そのほかにも彼女の言葉には色々と疑問が残ります。ですが、今の私たちにとって一番大事なこととは、彼女が清少納言が『枕草子』でその名を取り上げたことだけしかわからぬ日本における幻の書のひとつである『梅壺の大将』のコピーの所有者であること。そして、彼女がそれを売る意志があるということではないでしょうか」
「ということは、お嬢様もそれを手に入れるべきだと考えているのですか?」
「実際に内容を確かめたわけではありませんが、蒐書官の言葉が正しければ当然そうなります。つけ加えるならば、たとえすぐに原本を入手できる目途がたったとしてもそのコピーは大金を払ってでも絶対に回収すべきです」
「理由は?」
「言うまでもなく幻の書である『梅壺の大将』のコピーを闇市場に関わりを持つ者の手に残しておくことは後々様々な問題が起きるからです。場合によっては何かの拍子に日の当たる場所に流れ出ることだって考えられます。私たちにとってそれは避けるべきものです。それから、それとは別にもうひとつ言わねばならないことがあります。それは、その『梅壺の大将』が現代につくられたコピーだということです。鮎原。これがどのような意味があるのかわかりますか?」
少女に指名された男が間髪入れず答える。
「『梅壺の大将』の原本がその時点で残っていた可能性があることでしょうか?」
「そのとおり。もちろんコピーのコピーや売り手もそれしかなかったという可能性はあります。ですが、ここはよいほうに考えましょう。それを踏まえて、この女性が『梅壺の大将』の原本ではなくコピーを持っていた理由をどう考えますか?」
「可能性が高いのは原本を持っていた所有者が出し惜しみをしたことでしょうか」
「おそらくそうでしょうね。ただし、いくら闇市場といえどもコピーであることを伝えていなければこれで商売できるのは一度だけですが。それと同時に出し惜しみをするということは手元にあるものは夫人が持つものよりも価値がある。すなわち原本は原書か写本かは別にしてもさらに古い可能性が十分にあるということです。では、彼女はこれが古い時代ではなく現代のコピーであることを知っていたかどうかについてはどうですか?」
「こうなってくると、購入時はともかく、現在は古いものでないことに気づいているのではないでしょうか。そういうことであれば、彼女にとってこれは貴重な書であると同時にジョーカーでもある。一刻も早く売り抜けたい。しかも、高値で。だが、諸事情により一番安全な相手には売れない。そうかと言って研究所の類は後者の条件を満たさないうえに、のちに前者についてもすぐにバレ揉め事になって売り手にまで延焼する可能性があり却下。その点価値を十分に理解している我々ならばこのようなものでも手を出す可能性が十分にあると思い取引を持ち掛けた。しかも、本来なら弱点となるはずのレプリカという情報を先に出しておけば後からそれについて言いがかりをつけられる心配はない。なかなか手の込んだ策を弄しますね。この婦人は」
「まったくです」
「お嬢様は女性が原本の持ち主を知っていると思いますか?」
自らに尋ねたこの建物の主の声に少女が答える。
「ほぼ確実に。もしかしたら、その情報についても商売にするつもりかもしれません。手に入れてから早い段階で気づいた蒐書官がもう一度やってくることを見込んでいることも考えられます。さすがに蒐書官が手に入れる前からすでにそれを見破っているとは思っていないでしょうが」
「なんともやっかいな婆様です」
「そうですね。ですが、安心してください。今回は私が彼らに同行しますから。必要があるようなら私が交渉のお手伝いしましょう」
「お、お嬢様が?」
つい口にしてしまった心の声に返ってきた少女の言葉に彼女は驚く。
だが、少女はすまして、さらに言葉を続ける。
「ありがたいことに明日は日曜日。当然学校は休みですので私が出向くことに支障はありません。早く明日になりその商売上手のマダムの顔が見たいものです」
そう言って少女はニコリと笑った。
翌日。
この日「梅壺の大将」の所有者である土岐慶子の屋敷に現れた訪問者は前日のふたりからそのふたり含めた六人に増えていた。
もちろんあらたに加わった四人のうちのひとりは前日ここにやってくることを宣言していた少女なのだが、残りの三人がここにやってきた経緯についても少々の説明をしておく必要があるだろう。
前日の少女の言葉の直後。
「そういうことであれば博子様の護衛をしなければならない私も当然名古屋に行く必要があるわね」
まず、そう宣言したのは少女の警護主任でもあるこの建物の主と同年齢である女性だった。
もちろん慌てたのはこの建物の主である。
「ちょっと待って。だいたいこれは私が扱う案件だし、蒐書官だけでもお嬢様の護衛はできるのだから由紀子は行かなくてもいいでしょう?」
「そうはいかん」
「いくわよ。とにかくあなたが行くなら私も行きます」
「まあ、夜見子がいくかどうかは私が決めることではないので行きたいのであれば行けばいいでしょう」
ということで、ふたりのアラサー女性が少女に同行することはあっという間に決まったのだが、ここからいつものようにあのふたりによる醜い争いが始まる。
「夜見子様が行くのなら、私も」
「真紀。あなたは愛する闇画商の世話があるでしょう。その点私は何も問題ないから安心して出かけられる」
「そういうことならあの男を今すぐ土に埋めるから私が行くことにも支障は何もないわよ」
「またまた」
ふたりの上級書籍鑑定官はお互いにまったく譲ることはなく、最終的には両者が参加ということでケリがつく流れかと思われたのだが、そこに横やりを入れ意外な形でその争いに決着をつけたのは少女の護衛役を務める女性だった。
人の悪そうな笑みを浮かべた彼女の口が開く。
「鮎原さん。少なくともあなたは行くべきだと私は思うわよ」
「私ですか?」
「そう。さっき、あなたは言ったでしょう。人選を誤ったと」
「はい」
「あなたのアドバイスを受けてその最終判断をした夜見子も行くことだし、あなたも同行してふたりで名誉挽回すべきだと私は思うのだけどいかがかしら?」
「……なるほど。それはいいわね」
たしかにその言葉だけを聞けば、きわめて妥当なものにも思え、言葉どおりに解釈した彼女の友人がその案を採用したため、ふたりの諍いが決着する前に、漁夫の利を得たようにまずその男が名古屋に行くことになったのだが、当然のように少女の護衛役であるその女性の言葉には別の意図が隠されていた。
……荒事をおこなうのならともかく、正規の交渉ではこの女どもがついて来てもまったく役に立たない。
……かといって、若手とはいえ蒐書官が苦戦するような相手では交渉の素人である私はもちろん夜見子だって相手になるかはわからない。
……そうなると、本当に博子様が交渉にあたらなければならなくなるだろう。
……もちろん博子様ならどんな相手であろうとも楽勝だ。
……だが、そうなればたとえその一部であっても部外者に博子様の能力を見せることになる。
……証拠隠滅をすれば済むことではあるが、それでは本末転倒だ。
……では、そうならない方法はあるのか?
……ある。
……それは……。
もちろん本来なら居残り組を指揮しなければならないその男がそれを承知したのは女性の意図を瞬時に汲み取ったからであるのだが、留守番役になるはずだったその男が名古屋に行く以上、それなりの地位の者が代わりに神保町に残らなければならない。
候補者はふたり。
もちろん当人たちもそれを十分承知している。
最後の枠をかけて一時中断していた醜い言い争いが再開される。
「こういうのはやはりリーダーシップがある美奈子の役目よね」
「いやいや、これなら東京から離れずに済むから仕事をしながらあの男の面倒を見られるというあなたに最適な仕事よ」
お互いにその役を相手に押し付ける、もとい慎み深く譲り合うふたりだったが、主の裁定は、「ふたりで」それをおこなうというものであった。
自分ひとりが留守番になるという最悪の事態は免れた。
だが、事実として居残りであることには変わらない。
そう。
ふたりのこの様子はまさに不完全燃焼。
「おふたりともよろしくお願いします。では、そろそろ行きましょうか。夜見子様」
そして、会心の笑みとともに放った鮎原の出かける前のこのひとことによってふたりの怒りが一気に爆発したのは言うまでもない。
さて、そろそろ話を本題に戻すことにしよう。
やってきた客が予想外に多かったことには少々戸惑ったものの、その屋敷の主土岐慶子はそれをもって今回の取引成功が確約されたとほくそ笑み、心の中でこう呟いた。
……ひとりを除けばやってきた彼らはまちがいなく幹部。つまり、これは彼らに売買契約を交わす意志があるということだ。
たしかに、彼女が場違いな者として除いたひとりを含めて追加でやってきた四人全員が幹部級であり、また訪問者たちの第一の目的は彼女が売買取引を持ち掛けた「梅壺の大将」の買い取りであるのだから、ある意味でそれは概ね正しいといえる。
だが、幹部がやってきたことでほぼ確実となった取引が成立した後に手に入る大金のことで頭がいっぱいになっていた彼女は彼らと交渉する者にとって絶対に頭に入れておかなければならないある重要な項目を忘れてしまっていた。
いや、忘れていたのではなく、あまりにもことが順調に進み過ぎて相手を甘く見たために捨て去ったといったほうがいいかもしれない。
もちろん、それは……。
彼らは日の当たらない世界の生き物であるということ。
蒐書官とはターゲットを手に入れるために必要となればどのようなことでも平然とやってのける者たちと同義語の言葉であり、この時彼女の思考の前提になっていた「気前のよい買い取り業者」とは近いようでまったく遠い存在なのだ。
さらに、もうひとつ。
彼らには驚くべき情報網とそれを解析する分析能力がある。
そう。
彼らは一晩かけてかき集めた多くの噂からすでに土岐慶子夫妻の闇コレクションがどのようなものなのかを大まかにつかんでおり、その中に「梅壺の大将」以外にも少なくても数点は彼らが手に入れるべきものが含まれていることまでを把握していた。
そして、その情報を基に、彼らは当初の予定を変更し、スポンサー一族の次期当主が名古屋まで出向く駄賃代わりにこの交渉でそれらすべてを頂くことを決めていた。
つまり、交渉が始まらないこの時点で彼女のコレクションは蒐書官によって望まぬ形で解体されることが決まっていたのである。
もちろんそのようなことになっていることなど知らはずがない彼女は、商品である「梅壺の大将」を来訪者グループの中心で読みふける少女をぼんやりと眺めながら、自らのおこないを正当化し、ついでに永遠にやってくることはない「獲ったタヌキの皮算用」に耽っていた。
……たしかにあれはそれほど古いものではない。
……だが、それでも本物を写し取ったものであることにはほぼまちがいないのだから公正な取引であるといえる。
……問題は彼らがこれを夫が支払った金額である十億円の価値があると認めるかどうか。
……噂では蒐書官は値引き交渉をしないということだったが、それはあくまでそれが原本または古い写本の場合という可能性は捨てきれない。
……つまり、この場でこれが古いものと彼らに思わせられるかという一点が勝負の分かれ道。
……大概の相手なら十分いける。だが、今回の問題は………。
実は自らの交渉能力に自信を持っていた彼女は少女から視線を目の前に座る訪問者たちのなかで一番の年長者に移す。
……物腰は柔らかいが、昨日来た蒐書官たちとは纏う雰囲気がまったく違う。
……この男こそ今日の交渉の最大の難関になる。
慶子の見立てどおり、その男鮎原進は交渉のなかでの難敵、さらにいうならば残念ながら彼女よりもはるかに格上の交渉人であり、彼女がどれほど気をつけようともどうにかなる相手ではなかったのだが、彼女がおまけのように扱っていた少女こそこの場にいる誰よりも洞察力をもった人物であり、彼以上に注意すべき人物だった。
たとえばこれが鮎原や彼の弟子である橘花グループ経済部門のトップ一の谷和彦であるならば、その場違いな少女をもっと注視し、少女が何者か探りを入れ、対策を講じてから交渉を始めたことだろう。
そうしなかった彼女は所詮交渉人としてのランクはその程度であり、すぐに相手を侮った代償を支払うことになる。
「読み終わりました。なかなかよい内容でしたね」
嬉しそうにその言葉を口にした少女はそれをテーブルに置くと、両脇に座る年長の男女に耳打ちする。
……なるほど。そういうことですか。
始まる前からすでにこの交渉の敗者に確定している慶子だったが、ここでさらなる間違いを犯す。
この場にまったくふさわしくない存在に思えたその少女こそが蒐書官たちを統べる噂の天野川夜見子であり、残りは蒐書官のスポンサーの娘である彼女の取り巻きだと誤解したのだ。
そして、その彼女には少女の耳打ちが「買い」の指示に見えた。
実際に少女が耳打ちした言葉はそのようなものではなかったのだが、彼女が浮かべた笑みは心の中で叫んだ「よし」と言葉が聞こえてきそうなものだった。
もちろんそれを男が見逃すはずはなく、速やかに計画は実行に移される。
「さて、商品の確認が済みましたので、そろそろ買い取り交渉を始めましょうか」
それからわずか三十分後。
交渉はあっさりと終わり、その女性の目の前には希望額の倍にあたる二十億円の現金が積み上げられていた。
だが、勝者になったはずの彼女の顔からは完全に血の気が失せていた。
「どうして……どうしてこうなったのでしょう?」
絞り出すように言葉を口にした彼女の自問に答えたのは、それまですべてを支配していた鮎原から残務整理をおこなうように指名された昨日もやってきた男たちだった。
「土岐様。どうやらあなたは我々を少々甘く見過ぎていたようですね」
「そして、欲張り過ぎた。……まあ、それでもよかったではないですか。これだけ予想外の大金を手にできたのですから」
「わ、私のコレクションの価値はこんなものではありません」
自らの言葉にようやく返ってきた老婦人の言葉にその男が淡々という言葉がふさわしい返答をおこなう。
「そうかもしれません。ですが、『梅壺の大将』に対する提示額五億円に不満を示したあなたに対して『闇市場から購入したコレクションすべてを売ってくだされば希望の十億円になる』と答えた我々にご自分が何とおっしゃったのかを忘れてはいませんか?本来ならあなたの言葉どおり十億円ですべてを手に入れてもよかったのですよ」
「それは……でも、まさかあれだけではないことを知っていたとは……隠し場所まで」
「それが我々蒐書官であり、蒐書官を取引で出し抜こうとしたらこのようなことになるのです」
「そうであってもやはり納得できない。コレクションにふさわしいだけの額を支払わなければ警察に行って洗いざらい……」
老婦人がその言葉を口にした瞬間、その場の空気が変わる。
その言葉を口にした本人も気づくほどに。
彼が先ほどから数段階冷たさを加えた声で話しかける。
「それはやめたほうがいいでしょう。そうなれば傷つくのはあなただけだ。それに、僅かでもそのような様子を本当にみせればあなたは手にした大金を使うことなくこの世を去ることになりますよ。なにしろ私たちは一度取引をした相手は常に監視しているですから」
彼に続くのは彼の後輩にあたる人物である。
「というか、取引上のトラブルでは警察の世話にはならないというのは闇市場で取引をおこなう者の鉄則でもありますから、私たちが手を出さなくてもそのようなことをすればすぐに刺客はやってきます。それはそれとして、マダムは代金を上乗せしなければ警察に行きすべてを話すなどと我々を脅しにかかっていますがどうしますか?夜見子様」
慶子の言葉を遮るように忠告するふたりの男が口にした言葉は、言外にこの場で老婦人の処断をおこなうことを求めたものであり、当然それは実行されるものと誰もが思った。
だが、彼女が下した決定は一同にとって意外なものだった。
「まあ、これだけ多くの商品を格安で譲っていただいただけではなく、私たちが一番欲しかった貴重な情報も提供していただいたことを考慮して、今の言葉は聞かなかったことにしておきましょう」
「……ところで鮎原」
すべてが終わってから数十分後。
少女は自らの語学教師である女性が少しだけ場を離れた時を狙い話しかけると、少女の真意をすでに察していた男が口を開く。
「お嬢様のおっしゃりたいことはわかっております。一度その言葉を口にした者は遅かれ早かれ必ずそれを実行する。もちろん、それで我々が傷つくことなどない。だが、官憲が介入した闇市場はひどく傷つき、結果として我々もそこから商品や情報を手に入れることが困難になる。そのようなことが起こらぬよう不安要素は小さな芽のうちに刈り取るべきだ」
「さすがですね。そのとおりです」
「ですが、その点については闇市場の関係者がすぐに処理に動くようにマダムが口にした言葉に少々色をつけたうえ我々からとわからないように流しますのでご心配なきよう。ただし、情報を流すのは我々がおこなう最後の仕事が完了してからとなりますが」
「当然ですね。では、そのようにお願いします」
「ところで、先ほどお嬢様はあの書は十一年前に書かれたものとおっしゃっておりましたが、その原本はまだ彼の手元に残っているとお思いですか?」
「日の当たる世界はもちろん闇市場にも流れていないのですから、当然手元に置いているでしょう。所有者がわかったからには必ず手に入れてください」
「……承知しました」




