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古書店街の魔女  作者: 田丸 彬禰


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 After story Ⅰ あらたな宴

「ロイヤルワディ写本」の後日談的話となります

本編で語られなかった話と言ったほうが正しいのでしょうが

 エジプトの首都カイロ。

 旅行でエジプトを訪れた多くの日本人の感覚では、カイロ考古学博物館があるタハリール広場を中心とした周辺すべてがこの国の首都カイロである。

 だが、正確にはカイロと呼べるのはそのうちナイル河の東岸に属する部分だけであり、対岸はすべてギザ県という別の行政区となっており、パッケージツアーでカイロ市内の宿泊場所として利用する五つ星ホテルのいくつかの所在地は実はカイロではないのである。

 もっとも、都市圏という概念に基づいた大カイロなどという呼び名もあり、それに当てはめればギザもカイロの一部となるのだが、これは言ってしまえば、川を渡った先にある埼玉や千葉を大きな意味では東京ですと言っているようなものであり、内実を知ってしまうと、現地でその呼び名を使うのは少々恥ずかしくはなる。


 さて、今回の話は正真正銘のカイロ市内にある建物の一室から始まる。

 西野たちがアマルナで新たに発見した墓のクリーニング作業が始まって二日目。

「せっかくだからアマルナにいる西野君からの報告がやってくる前に聞いておこうか。君はどう思う?」

 その部屋の主であり、この国の蒐書官のトップを務める男にそう訊ねられたのは、ある報告をするためにここを訪れていた蒐書官という肩書は所有しているものの、その肩書を有する者が必ず手にしているあの特別な能力はなく、その代わりとして並外れた考古学知識があるという些か風変わりな経歴を持つ男だった。

 もちろんそれを問うた男が望むものが何かを知るその男は簡素な言葉に対する自らの見解を述べるために口を開く。

「封鎖壁が破られている以上、さすがに埋葬されているものが無傷というわけにはいかないでしょうね」

「つまり、空振りというわけか」

「いいえ」

 能力だけではなく多くの蒐書官が纏う精悍さというものもまったく感じられないその男はかぶりを振る。

「元々空墓だということでもないかぎり、どれほど荒らされても何らかの痕跡は残ります。それに……」

「それに?」

「すでに十分な成果が出ているではありませんか」

「……そういえばそうだったな」

 ……彼の言葉は正しい。

 その墓で本来発見されるべきもので頭がいっぱいになっていた男は自らの記憶から抜け落ちていたものがあることを思い出し苦笑する。

「……それは写本のことだな」

「はい。ですから、予定とは違ったものの、『すべてを癒す場所』の主力を早々に送り込んでいたのは正解だったということです」

「だが、西野君からの報告では数枚のパピルス以外は深刻なダメージを負っていたものはなく、派遣された『すべてを癒す場所』の連中はいつもの職人技を披露する機会はほとんどなく半ば遊んでいるそうだ」

「それはよかったことではないですか」

 明るく語る彼の言葉どおり本来その事実は自らの主に商品を手早く届けることができるので男にとっても悪いことでない。

 だが、彼の上司にあたるその男の表情はなぜか暗い。

 渋い表情のまま男が口を開く。

「まあ、すぐに中身を確かめたい清水君的にはそうなるのだろうな。だが、彼らに現場に出向くように要請した立場ではこれからやってくる厄介ごとで頭がいっぱいになり、そのような気楽な言葉を口にはできないな」

「彼らの仕事がなかったことに何か問題でも?」

「ある。いや、大ありと言ったほうがいいな」

「……つまり、大急ぎで『すべてを癒す場所』を呼びつけておいて仕事がないでは済まないということですか?」

「最近はそのようなことがなかったので君が知らないのも無理はないことなのだが、まあ、簡単に言ってしまえばそういうことだ」

「やってきた『すべてを癒す場所』のメンバーと西野さんがトラブルになると?」

「いや。仕事好きな彼らのことだ。多少は苦情が出るだろうが、知らぬ仲でもなし。西野君ならやってきた連中を好きなだけ飲み食いさせて丸く収めるだろう。私が言っている厄介ごととは現場に来た彼らに由来するものではない」

「と、言いますと?」

「もちろんギザの女主人だ」

 ……なるほど。

 上司にあたる男が口にした妙に古代エジプト風な響きがある言葉が指し示すその人物の美しい外見に騙され誘いの言葉をかけてひどい目に遭った悲しい過去を思い出し、彼は思わず身を震わす。

「……『すべてを癒す場所』第二工房の責任者如月麗。たしかにやっかいですね」

「その口ぶりでは清水君も苦手なのかね」

「苦手というわけではありませんが、あの人の前に立つとなぜか学生時代の苦い思い出が蘇ります」

「それは苦手だということだろう。もっとも、彼女を上手に扱うことができるのは鮎原さんくらいだが」

 彼の苦みを帯びた自白に、小さく頷いた男が言葉を続ける。

「職人気質が強い工房幹部たちが我々を格下に見ているのは今に始まったことではないのだが、特にあの人はその傾向が強い。もっとも、立花家一族の人間を除けば彼女が唯一おとなしく指示に従う鮎原さんは上級書籍鑑定官のふたりに理由もなく毎日噛みつかれているそうだから、少なくてもそれなりの理由がある我々は如月女史の冷たい言葉に耐える義務があるかもしれない。だが、そうは言っても彼女の小言を長時間聞かなければならないのは厳しい。率直に言って本当に気が重い」

「そうですね。新池谷さんの明るい明日のために是が非でも『すべてを癒す場所』が喜びそうな何かが残っていてほしいものですね」

「本末転倒だが、その願うばかりだ。それから、ついでに言っておけば、その明るい未来を願うのは私だけではなく君自身のためでもあることをつけ加えておこうか」

「どういうことですか?」

「決まっているだろう。アマルナでの結果のいかんにかかわらず、今回は君も彼女の館に同行するのだよ」

「えっ?」


 翌日。

 ふたりの姿はギザ台地に向かう車中にあった。

 カイロ中心部からギザに聳え立つ三つのピラミッドを左に見ながら車を走らせ、その荒涼とした砂漠地帯に見えてきたのはコンクリート製の周壁に囲まれた倉庫群だった。

 そして、そこが彼らふたりの目的地。


「広いですね」

 鉄門から敷地中に入り、目の前に広がるその光景に思わず口にしてしまった彼の言葉どおり、到着したそこは監視塔を中心とした頑丈さだけが取り柄のような数棟の倉庫が並ぶだけにしては驚くほど広かった。

 だが、その言葉だけではその広さを半分も表現できてはいない。

 ……砂漠にポツンと建つだけでも不自然なこの建物群に辿り着くには私たちがいるこの門から三百メートルはある一本道を進むしかない。

 ……しかも敷地を囲む三メートルはあると思われる高い壁から中心に建つ建物と周壁までは草一本生えぬ砂地。

 ……これでは世界一の修復技術者が集まった工房というよりも、凶悪な囚人を閉じ込めるためにつくられた脱出不可能な監獄と言ったほうがお似合いだな。

 心の中でその建物の異様さに毒づく彼の表情を興味深そうに眺めていた彼の上司があることに気づき言葉をかける。

「その様子ではここに来るのは初めてのようだな」

「はい。ありがたいことにこれまでは来る機会はありませんでした」

「では、もしかして聞いたことがないのかな。如月女史の驚くべき武勇伝を」

「美人ではありますが神経質そのもののような彼女にそのようなものがあるのですか?」

「ある。それもこの地の蒐書官の誰もが成し遂げていないような特大のものが」

「それは興味深いです。どのようなものかをお聞かせいただいてもよろしいでしょうか?」

「もちろん。では、聞いてもらおうか。その武勇伝を。今世紀に起こったこの国二度目の革命時に、お調子者がドサクサ紛れにあちこちで略奪をおこなったのは君も知っているとおりだ。実はここもそのときの標的になった。彼女の武勇伝とはその時のものだ」

「それで?」

「もちろん相手は数がいるだけの素人だ。頑丈な建物の中の人間は無傷だった。ただし、武装集団の襲撃を受けているという連絡を受けて我々が駆けつけたときには、このゲートは吹き飛び、ここを中心とした周壁の内側もハチの巣になっている凄まじい状況だったよ」

「つまり、激しい銃撃戦があったのですか?」

「あれを銃撃戦と呼べるのかは怪しいところだが、とにかくそれと似たようなことが起こったのは間違いない」

「しかし、これだけ広い敷地を侵入者から守るのはかなりの人手が必要だったでしょう。しかも、夜間に襲われては。当時は相当な人員を配備していたのですか?」

「いや。今と変わらない。専任の警備はごく少数だ」

「では、どうやって……」

「まず、この無駄に広い敷地は建物を地雷で守るためのものだ。つまり、建物を囲む砂地は地雷原だ。しかも、埋められているものの大部分はただの地雷ではない」

「対人地雷」

「それも多くの国で使用禁止になっている最高級のものだ。当然壁を乗り越えて侵入した奴らは残らずそれの餌食だ。散々ひどい目にあった略奪グループは裏口から侵入するのを諦め、正面から突入してきた。それしかあの建物に辿り着くことができないのだから撤退という選択をしなければ当然そうなるのだが、そこで待ち構えていたのが、ガトリング砲だった。結果は言うまでもない」

 ……なるほど。

 彼はここでようやく隣の男が口にした歯に物が挟まったような言葉の意味がわかった。

 ……つまり、機関砲による一方的な殺戮がおこなわれたということですか。

 ……たしかにそれは銃撃戦とは呼べませんね。 

「ですが、エジプト各地に出向いておこなう普段の仕事を見ているかぎり、工房関係者にはそのような素養があるとは思いませんが。年齢の高い方や女性も多いですし」

「そのとおり。だが、海外で活動する以上銃くらいは扱えなければならないとそれなりの訓練は受けている。まあ、ひとりを除けば平均より二段階ほど劣るレベルといったところではあるのだが。そして、人手と技術の不足は戦術と武器の性能で補うというわけだ」

「なるほど。それで、除くと言われたそのひとりとは?」

「もちろん如月女史のことだ。直前に新設されたこの施設のトップに就任した彼女は一連の戦闘を指揮しただけではなく乗用車で敷地に乗り込もうとしていた奴らをロケット弾でゲートごと吹き飛ばす芸当を披露し、最後に略奪を諦めて逃げるトラックにもう一発お見舞いしてその夜の宴を締めくくった。その能力は間違いなく他の者とは頭三つ分くらい秀でている」

「乗用車相手にロケットランチャーとは随分物騒なものを持ち出したのですね」

「蒐書官でもそのようなものを実戦では扱ったことのある者はほぼいないだろうし、君の言うとおり乗用車に鉄板を張る程度なら機関銃でも十分対応できたはずなのにそれを使ったということはよほど扱いに自信があったのだろう。要するに、彼女は工房有数の繊細な修復技術を持つ修復士であると同時に優秀な戦闘指揮者かつ戦闘員でもあるということだ。だからこそ、鮎原さんが彼女にここを任せているのだが。ちなみに、彼女に関しては鮎原さんが直々に近接戦の基礎を教えている。だから、本業に差し支えるので普段は見せることはないが、女史がその気になれば戦闘訓練を受けていない君の首と胴体は一瞬で離れるだろうよ。つまり……」

「……言葉には十分に気をつけます」

「では、遅刻するわけにはいかないので少し急ごうか。時間に厳しい主が待つ伏魔殿へ」


「新池谷さん。そのようなつまらない話よりも今回の失態について弁明を聞かせてください」

 執務室に通された新池谷の挨拶の言葉を面倒くさそうに右手で遮ったその部屋の主である女性の口が開き、詰問するかのようなその言葉がさっそくふたりのもとにやってくる。

 そう。

 前日の彼らの願いは空しく宙を漂い、その夜必然のように彼女から新池谷へ呼び出しの電話があったのだ。

 しかも、時間指定で。

「では……」

 ふたりのうち年長の男が彼女にうやうやしく一礼すると口を開く。

「失態と言われましても、新しい墓が見つかった以上はミイラや早期に保存措置が必要なものが発見されることを前提に行動するのは当然だと思うのですが。今回はたまたまそうならなかっただけで……」

 男のほぼ正しいといえるその言葉にも彼女は揺るがない。

 年上の者に対するものとは思えないさらに冷たさが増した容赦のない言葉が彼女の口から再び吐き出される。

「甘い。甘すぎます」

「甘いですか?」

「当然です。今あなたが語った戯言が現場担当者のものであるのなら当然のものとして私も許します。ですが、あなたは部下から上がってくる言葉を取捨選択するために置かれた者。状況を正確に把握し彼の言葉を精査したうえで私に要請を出すべきだったのに、それを怠り要請を右から左に流した。つまり、今回の失態はすべてあなたの職務怠慢から起こったもの。その結果大至急かつ大規模にというあなたの希望どおりに送り出した私のスタッフの大部分が機材とともに手持無沙汰のままアマルナに今も滞在し続けているのです。不条理なことだとは思いませんか?」

「不条理?」

「やるべきことを怠ったのは新池谷さん。あなたです。それなのに、不利益を被ったのは諸悪の根源であるあなたではなく私。これを不条理と言わず何を不条理というのですか」

「なるほど。結果的にはたしかにそのとおりです」

「結果的に?これまで私はあなたがたも私たちと同じ結果がすべてであるという世界に住んでいると思っていましたが、今のあなたの言葉を聞くかぎりどうやらそうではないようです。蒐書官は私たちとは別の、実に甘い世界の住人だったようですね」

「いいえ、そのようなことはありません。同じ世界に住む私たちは同じ価値観を共有しております。ご迷惑をおかけしたことは本当に申しわけなく思っています」

 一瞬の、いや、それよりももう少しだけ時間が空いたところで、彼女が大きくため息をつく。

「それが心からのものではないことはわかっていますが、あなたも私と同じ鮎原さんの弟子。これ以上問題を大きくして鮎原さんを困らせるわけにはいきません。それを受け入れることにしましょう。それで、あなたは自らが犯した今回の罪をどのように償うつもりなのですか?」

「大いなる謝罪の意志。それから今回の『すべてを癒す場所』が動いたことによる経費のすべてを負担し、さらにあなたがたの業務に支障を来たしたことに対する相応の補償をおこなう。そして、近い将来『すべてを癒す場所』の皆さまが腕を振るうことができる仕事を間違いなく提供することを約束するということで許していただければ幸いです」

「いつもと変わらぬ素晴らしい逃げ足ですね。いいでしょう。その申し出を受けることにします。いつになるかわからぬその素晴らしい仕事がやってくることを期待していますので一層精進してください」

 ……このような形で使いたくはなかったが仕方がないか。

 ここまで一方的に押しまくられていた彼はようやく引き当てた目の前の人物の傲慢そのものというその言葉に心の中で呟く。

「実はその件についてひとつよいお話があります」

「……ほう」

 男の言葉に彼女は目を細める。

 ……あなたがやられたままで終わるとは思っていませんでしたが、ようやく来ましたね。

 ……つまり、これが今回の切り札。

 ……さて、どのようなものを手土産として懐に隠し持っているのか楽しみです。

 ……聞きましょう。

「さっそく穴埋めをしたいと申し出るとは殊勝な心掛けですが、間に合わせのようなもので本当にできるのですか?この大きな穴を埋めることが」

「もちろん。我々が用意したものは、今回の件を忘れてしまえるほどであることをお約束します」

「では、伺いましょうか。その大言壮語を」

「ありがとうございます。清水君。話したまえ」


「……終わりましたね」

 緊張を強いられた二時間が終わり、ようやく外の空気を吸うことができた彼は短いながらも嬉しさに満ち溢れた言葉を口にする。

「それにしても、『イチ・タウィ』の話をしたとたんに態度どころか表情まで急変するとは思いませんでした。こんなことなら最初に話せばよかったのではないでしょうか」

 そうすれば、嫌味を言わなかったうえに大金も巻き上げられることもなかったのではないかと彼の言葉は言っていた。

 だが、彼の上司がそれは違うといわんばかりに小さくかぶりを振る。

 ……仕事の虫である彼女に対する一番のエサは新たなプロジェクトを示すことなのはすでに実証済みなのだから、効果は抜群であることはわかっていた。

 ……だが、交渉とはそう簡単なものではないのだよ。

 他の蒐書官と違い、そのような訓練を受けていない彼の素直な言葉を苦笑いとともに受け止めた上司の男が口を開く。

「物事には順番というものがある。それを間違えると、同じ切り札を出しても効果はまったく違うものとなる」

「つまり、あれでよかったのだと」

「そういうことだ。たとえば、彼女が拳を振り上げたときにあれを出したら、彼女の拳はどうなる?」

 挙げた拳は行先を求め、まとまる話もまとまらなくなる。

 男はそう言っているのだ。

「それに彼女の言い分も誇張はあるものの、おおよそ間違っていない。そして、彼女の言葉を素直に受け入れ謝罪する一番の理由とは先ほど話した次回の仕事は間違いなく『すべてを癒す場所』の手を借りなければならないことだ。負の感情を仕事より優先させる愚かな行為を彼女がするとは思えないが、それでもここで組織を束ねる彼女と関係を悪くするわけにはいかないのだよ」

「つまり、ガス抜きですか」

「表現が直接的過ぎるが、そのようなものだ。だが、手っ取り早く女史の機嫌を直す手が他になかったとはいえ、見つかる見込みが完全に立ったわけではないこの段階で『イチ・タウィ』を持ち出してしまったのはやはり失敗だった」

「……見つかりませんでしたでは済まなくなったからということですか?」

「そうだ。そういうわけでこれから君が出す調査結果の重要さがさらに増すことになった。二十日間の調査に基づいて君がつくったマップによって我々はすでに王都の概要は掴んでいるものの、さすがにあの広大な土地を手当たり次第に掘り起こすわけにはいかない。そこで改めて命じる。我々が望むものが発見できそうな場所を数か所ピンポイントで選び出してもらいたい。これは元エジプト学者である清水君以外にはできない仕事なのだが、いくら君が有能でも短期間にそこまで絞り込むのはさすがに無理か?」

「いいえ。可能です。お任せあれ」


「工房長。本当にあれでよかったのですか?」

 ふたりの男が退室した装飾と呼べるものが一切ない無機質なその部屋の主である女性に声をかけたのは先ほどまでおこなわれていた話し合いにも同席していた彼女配下の技官のひとりで三十五歳の彼女よりも三つ年上の女性である。

 ……ということは、あなたは不満があるわけですね。

 ガラス製の器に砂糖のたっぷりと入ったエジプトスタイルの紅茶を一口飲むと砂糖を入れ過ぎたことを少々後悔しながらその部屋の主が大きく頷く。

「もちろんです」

 そこで一度言葉を切った彼女は年長者を見上げる。

「たしかに彼らを増長させてはならない。そのためことあるごとに上下関係をハッキリさせる必要がある。それは正しいことです。ですが、蒐書官たちは私たちの敵ではないのです。それどころか私たちに素晴らしい商品を運ぶ働きバチのような存在。だから、あれでいいのです」

 そう言ってから心の中で彼女は盛大にため息をつく。

 ……交渉中の私の言葉とその結果に大きな乖離があるにもかかわらず、私が上機嫌であることに戸惑っているのですね。

 ……やはり彼女は典型的な職人。

 ……つまり、交渉というものには無縁の存在。

 ……だから、目の前で起こった初歩の初歩ともいえる先ほどの駆け引きも理解できないのだ。

 ……もっとも、それは彼女に限ったことではない。

 ……そう。この工房の関係者全員が彼女と同じ交渉に関しては素人。いや、プライドの高さと融通の利かなさを加味したらそれ以下の存在。

 ……だから、今回のような簡単な交渉さえ私がおこなわなければならないのだ。

 ……せめてあのような雑用を任せられる新池谷さんクラスの専門の交渉人が配下にいれば私は些事に惑わされることがなくなるのだが。

 この地の蒐書官を従え多くの猛者たちと渡り合う統括官に雑用を仰せつけたいなどというとんでもなく贅沢な望みを心の中で語った工房の責任者だったが、さすがにこのままこの話を続けていてはその心の声が漏れ出てしまうため、さりげなく話題を変える。

「それはそれとして、先ほどの話が本当であれば、新池谷さんに同行した彼は不本意でしょうね」

「彼というのは清水とかいう穴埋め策を説明した蒐書官のことですね。なぜですか?」

「彼らが見つけ出したという『イチ・タウィ』とは多くのエジプト学者が探し求めていた幻の都の名です。もし、この発見を学会で発表すれば彼の名前は永遠にエジプト学の歴史に刻まれる。ですが、今の彼は自らが発見したそのような素晴らしい事実を公表できないどころか、かつての天敵である盗掘者の同類ともいえる蒐書官の先兵として働き、宝探しのためにおこなわれる貴重な遺構の破壊を手伝わなければならない。不本意などという生ぬるい言葉では彼の心情は表せないのかもしれません」

「なるほど。では、名誉欲に駆られて逃げ出すこともあるということでしょうか?」

「さあ、それはどうでしょうか。ただし……」

「はい?」

「私たちまで動くというこの段階でそのようなことをすれば間違いなく彼は消されるでしょう」

「まあ、そうでしょうね。私が統括官の地位にあるのならそう指示するでしょうから。ところで、先ほど話が本当であればとのことでしたが……」

「……それですか」

 彼女はどちらかといえば黒味が多く含まれる笑みを少しだけ浮かべる。

「彼らが幻の首都を発見したのはまちがいないことでしょう。ですが、どこに私たちが修復をおこなうような商品があるかなど、掘り出しをおこなっていない段階でどうやってわかるのですか?」

 長い沈黙後、その言葉の意味を理解した女性の表情は急激に変わっていく。

「つ、つまり、無礼な蒐書官どもの頭目は工房長に対してハッタリを噛ましたということですか?」

「わざわざ彼を連れてきたのですから新池谷さんは最初からその話をするつもりだったのでしょう。ですから騙すというよりは、状況が好転しないため、本来なら自分たちが有利になってから、最低でもイーブンに戻してから話したかったあれをやむを得ずあの状況で切り札として使ったといったほうがいいでしょう。当然ながら新池谷さんたちは今頃後悔している。そして、思い悩む。いったいこの広いエリアのどこに自分たちが語ったその場所があるのだろうと」

「いい気味ではないですか」

「そうですね。ですが、少し楽しみでもあります」

「それが見つかることがということですか?」

「当然それもありますが、これが先ほどの彼が噂どおりのものなのかを確かめられるチャンスだということのほうが大きいですね」

「噂?それはどのような噂なのですか?」

 女性の問いに黒さを増した笑みを浮かべた彼女は大きく息を吸い込み、まるで呪文を唱えるかのようにその言葉を口にする。


「……かの者、エジプト学者の頂きにもっとも近き存在である」


「随分大仰な肩書ですが、もしかしてそれは自称ですか?」

「本人もそう思っているのかもしれませんが、それを言ったのは別の人物のようです」

「それでそれを確かめるとはどういうことですか?」

「すでに試掘はしたのでしょうが、そうであっても本格的な掘り出しをおこなっていない段階で地下深くに埋まる都市の概要を導きだすなどという芸当は知識豊富なエジプト学者といえどもそう簡単にできるものではありません。まして私たちが探し求めるものが隠された場所を地上からの調査データだけでピンポイントに特定するなど考古学者としてのあらゆる知識をかき集めてもできません。それ以上の何かがなければ」

「難しいと」

「そう。しかも、それもかなりという形容詞つきです。そのようなことが可能な者はもう人知を超えた異能の持ち主くらいのものでしょう」

「ということは、万が一、彼がそのポイントを本当に見つけ出した場合は……」

「偶然であっても噂は本当だと認めざるをえませんね。彼のたいそうな肩書も。そして、もちろん……」

 ……彼の異能を早くから見抜き、私たちの側に引き入れた慧眼の持ち主も驚くべき才の持ち主だと言わざるを得ませんね。


 それからわずか二日後。

「これでいかがでしょうか?」

 それはカイロ市内の事務所に戻ってからほぼ二日間ろくな休憩を取らず自室に閉じこもって検討を重ねた彼が出したものだった。

「さすがに仕事が早いな。ところで、君はこれに自信はあるかね」

「もちろん」

「結構。では、さっそく準備に入ろう」

 彼の提出した計画書を受け取った上司にあたる男は軽く目を通しただけですぐにそれを承認する。

 もちろん彼は言葉どおり自らのプランに自信がある。

 だから、本来なら計画が承認されたことは喜ぶべきことである。

 だが、これは彼にとっていささか拍子抜けであった。

 なぜなら、それは明確な失態とは言えぬものの大掛かりな準備をしたにもかかわらずほぼ空振りに終わったアマルナでの作業を完璧にとりかえすものであると「すべてを癒す場所」の責任者如月麗に彼の上司である目の前の男が大見えを切ったものなのだから。

 ……もう少し慎重にことを進めるべきではないのだろうか。

 ……自信があると言っても、あれは……。

 いつもの寸分の隙がない言動が今回ばかりは微塵も感じられない目の前の男の言葉に彼は不安を覚える。

「……自分で自信ありと言って提出してから言うのもおかしいのですが、承認する前にもう少し検討してはいかがですか?」

 心の声を実際に出すことはなかったものの、不安がありありとわかる彼の言葉に男は笑顔で応える。

「いや、これでいい。なにしろ君が自信を持って提出したものなのだから」

「しかし……」

「わかった。では、君が抱える心配の種を取り去るためにひとつ種明かしをしよう」

「種明かし?」

「私が君のプランを簡単に承認した根拠だよ」

 この地の蒐書官を束ねるその男はそこまで言うと言葉を切り、コーヒーで口を潤すと再び口を開きそれを語り始める。

「まず、あそこが『イチ・タウィ』であることは夜見子様の言葉と君がおこなった調査結果ですでに保証されている。さらに主要建築物の位置も君がつくったマップによって明らかになっている。ここまでわかれば、よほどのことがないかぎり、どこを掘っても何かしらのものが出るのは間違いない。唯一の問題は掘り出したそれが我々の望むものかどうかということだけだ」

「そのとおりです」

「だが、実際のところそれが我々の望むものかどうかなど掘り出してみなければわからない。如月女史もそんなことは百も承知だ。盛大な空振りをしないかぎり、小言は言っても責任を取って腹を切れとは言うまい。つまり、君の責任が重大だと言ったのはあくまで君の手抜き防止のためだ」

 ……さすが。

 自分の上司はやはりまったく揺るぎのない男だと納得した彼が口を開く。

「……まあ、どちらにしても確率が高いことに越したことがないわけですから私の件はそれで構いませんが、如月女史の腹の虫に関しては少々不安が残るのではありませんか?」

「疑い深いな。どこでとまでは聞かぬが、どうやら君は彼女によほどひどい目に遭わされたと見える。だが、君の懸念どおりに収拾がつかなくなる可能性もなくはない。そのときには奥の手を出す」

「奥の手?」

「鮎原さんだ。如月女史は鮎原さんに心酔している。その鮎原さんが仲裁に入れば女史はどれほど不満に思っていても間違いなく鉾を納める。だから、心配はいらないというわけだ。それよりも、君が選び出したポイントについて少し説明をしてもらえるかな。話したいのだろう。実は」

 そう言って彼の目の前にいる男はニヤリと笑った。


 それから二杯のコーヒーとともに三十分の時が過ぎた。

 彼の言葉をすべて聞き終えた上司の男は大きく頷く。

「つまり、第一ポイントが王宮の書庫。そして、第二ポイントが行政区画の書庫ということはわかった。では、これに狙いをつけた理由は?」

「王宮に関しては王族に関する情報や儀式に関する資料、第二ポイントはもちろん公文書がターゲットです。ただし、これらは重要書類ですので、王都を放棄する際に持ち出されている可能性が高く、その場合はそっくり消えています。また、残っていてもあの地が乾燥地帯ではないため保存状態はかなり悪いと思われます」

「後者に関してはそのための『すべてを癒す場所』だ。それから君の言う持ち出しがおこなわれている可能性はたしかに十分考慮すべき案件だ。それ以外にもジェームス氏に報酬として約束した『幻の都からの逸品』を手に入れる必要もある。もう数か所追加で掘ることもあるのでそのポイントも選んでおいてくれ」

「承知しました。では、その場合は神殿地区がいいでしょう。重くて運べない大小さまざまな石像が残っていることは十分考えられますから」

「すでに策定済か。では、しばらく休んでくれ。私は如月女史に仕事の依頼をしてくる。こういうことは電話ではだめだから。特にあの女史の場合は」

「作業を指揮する西野さんに連絡をしなくてよろしいのですか?」

「もちろんする。だが、それは女史との話がついてからだ」

「……もしかして、それも順番が大事だと」

「そのとおり。それに女史の許可をとらずにアマルナに滞在している『すべてを癒す場所』を西野君と一緒にリシュトに移動させるわけにはいかないからな」

「ですが、逆に自分が知らない情報を『すべてを癒す場所』のメンバーが知っていたら西野さんが気分を害するということはないのですか?」

「それはないな」

「ない?その理由を聞いてもいいでしょうか?」

「彼と私は長い付き合いだ。もし、そうなればそうする理由があったのだとすぐに察する。彼はそういう男だ。しかも、相手が相手。だから、そのような心配はまったくないということだ」


「私です。あなたがたの休暇は終わりました。新たな、そして私たちにふさわしい仕事が始まりますのでその地にいる蒐書官たちとともに移動する準備を開始しなさい。今回は私も作業に立ち会いますので現場であるリシュトで会いましょう」


「西野君へ。新たな宴の準備ができた。君が抱える全スタッフ及びアマルナに滞在している『すべてを癒す場所』諸君とともに大至急リシュトに来られたし。なお宴の詳細は現場で清水君に確認のこと」

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