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古書店街の魔女  作者: 田丸 彬禰


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85/104

ロイヤルワディ写本

 ミニヤ。

 それはエジプト中部の都市の名である。

 通常の観光ルートからはずれているため多くの日本人には馴染みがないが、実はそこからは比較的距離も近く、また周辺では唯一と言ってもいい一定の水準に達した宿泊場所とそれなりの商業施設が揃っている場所であることからアマルナ観光をおこなう際にはここを拠点とすることが多い。

 そして、活動時間の大半をアマルナ周辺で過ごすふたりの蒐書官が移動時間だけを考えれば圧倒的に有利な対岸のマラウィではなく、ここミニヤを根城に選んでいるのもこの都市が持つそのような高い利便性にあると言ってもいいだろう。


 その日の朝。

 ミニヤではトップではあるものの日本人の基準ではとても四つ星とは思えないそのホテルの質量ともに寂しい朝食を無言で貪り、頼んでいた昼食が入った大きな紙箱を受け取った後輩蒐書官、と言っても彼も十分にベテランの部類に入るのだが、その蒐書官河合が入り口で警備をしているツーリストポリスたちと談笑をしていると、準備を整えた彼の先輩にあたる人物がやってくる。

「では、行こうか」

 そう言っていつものように愛想のいいツーリストポリスたちに見送られてスタッフのひとりが運転する車に乗って彼らはアマルナへと出かける。

 これが彼らにとっての日常となる。

 だが、もし彼らが普通の観光客であれば、こうはいかない。

 まず、外国人がこの周辺を出歩く場合、前日のうちにツーリストポリスに翌日の目的場所を申告し、当日は彼らのうちから何人かを同行させなければならないことになっている。

 もちろん出発は彼らの都合に合わせなければならないうえに食事と日当を提供しなければならないのだ。

「それで安全が買えるなら安いものだろう」

 先輩蒐書官はそう言って笑うものの、その彼らにはツーリストポリスの誰も同行しない。

「まあ、我々は自分の身は自分で守れるからな」

 紛れもない事実である先輩蒐書官の言葉に彼も続く。

「それに、彼らはすでに私たちから十分過ぎる金をもらっている。うまくカモがやってくれば別の誰かからも護衛代がもらえてその日は二組分のチップが手に入る。金に汚い彼らがそのようなおいしい話を見逃すはずがない。そして、もうひとつ。我々が歩く場所は通常の観光ルートどころか彼らの訓練よりも厳しい。上から我々は自由にさせてよいと通達が出ていれば怠け者の彼らはついてきませんよ」

 彼が口にしたことは実に辛辣であり、また一方的な主張でもあったのだが、まったくの的外れというわけではなかった。

 だが、後輩の言葉を聞き流した隣の男は少しだけ表情を険しくしてもう一度口を開く。

「まあ、そう言うな。私だって彼らの立場で一度あの苦行を経験し、同行しなくて済むと言われたら大喜びをするだろう。人それぞれ立場というものがある。それが事実であっても口を慎むところは慎んだほうがいいだろう。ところで……変わらんな。これは」

 少ない言葉で後輩の口を封じた先輩蒐書官だったが、紙箱の中身を確かめるとあきらかに落胆の表情を浮かべボヤキとも思える言葉を口にする。

「どうしましたか?西野さん」

 彼は薄く笑いながら声をかける。

 もちろん彼も気づいている。

 先輩のボヤキの理由を。

 そして、火の粉が自分のもとにやってこないように入念な予防線を張る。

「一応十ドル上乗せしてオーダーはしておきましたよ。昼食はもう少し豪華にと」

「つまり、その結果がこれということなのかな?」

 箱の中身である残った朝食をかき集めてつくったようなサンドウィッチと小さな紙パックジュース。それからヨーグルトとポテトチップスを先輩は恨めしそうに睨みつける。

「昨日までのものよりヨーグルトが増えていますから、彼らとしてはリクエストに応えたつもりなのでしょう」

「なるほど。つまり十ドル上乗せするとヨーグルトがひとつ付くというわけか。では、仕方がないな。どこにでもありそうなパッケージだが、きっと中身はとてつもなく美味しいものなのだろうから味わって食べることにしよう」

 もちろん事実はそのようなことはなく、これはいわゆるぼったくりなのだが、先輩蒐書官はこれ以上話を大きくする気はなさそうだった。

 ……ちょっと待ってください。

 実は自身もその内容にまったく納得していなかった彼が慌てて口を開く。

「随分あきらめがいいのですね」

 彼の言葉に先輩が答える。

「もちろんだ。我々はピクニックにいくわけではないのだからな。飲み食いができなくなるのであればたしかに困るが、最低限が保証されている以上、金にあかせてそれ以上のものを求めず与えられたもので満足すべきだ。それに、こうなったのはほぼ君のせいともいえるのだから、相手に一方的に責を負わせるのは不公平というものだろう」

 いずれ来るとは思っていたものの予定よりも早くやってきたそれに彼は顔を顰める。

「……それは少し言いがかりのような気もしますが?」

「そのようなことはないだろう。先ほど君はこう指示をしたと言った。『昼食はもう少し豪華に』。違うかな」

「そうですが」

「そうであれば、彼らは君のその言葉に忠実に従ったとも言えなくもない」

「……それはどういうことですか?」

「なぜ、『上乗せした十ドルに見合うように質量ともに豪華にしてくれ』と言わなかったかということだよ。つまり、『もう少し』という言葉は不要だったということだ」


 ミニヤからアマルナまでは約一時間の行程となる。

 以前はナイル河西岸を運河に沿って南下し、対岸から地元住民に混ざって「満員になり次第出港」というすばらしいスケジュールで運行される艀に乗りアマルナに乗り込むというのが唯一のルートだったのだが、最近はミニヤから東岸に渡り砂漠道路を一気に走りアマルナに入ることもできるようになったので往復時間の大幅な短縮が実現している。

 もっとも、警備上の理由によりいつもそのルートを利用するわけにはいかず、この日のように先輩蒐書官が愛する昔ながらの眺めを見ることもあるのだが、たとえそのルートを利用しても彼らは実際にその眺めを楽しむということはほとんどなく、この時間を利用して打ち合わせをおこなうというのが作業場所に行くまでのルーティンとなる。

「ところで、君はどう思う?」

 先輩蒐書官の簡素な言葉でこの日のそれは始まった。

 もちろん、彼にとっては先輩の意図を察するのにはそれだけで十分だった。

「これから作業をするあの墓は誰が被葬者であるかということですか?」

「それ以外に今ここで私が君に訊ねることはあるのかな?」

「未盗掘かどうかというのはいかがですか?」

「大いに期待したいところだが、入口の前にクリスチャンの活動痕跡と思われるものがあったのだ。さすがにそれは無理だろう」

「では、やはり被葬者は誰かということで」

「よろしい。それではそれに沿って話を進めてもらおうか」


 ……彼らの話にあがったそれはアクエンアテン王墓があるロイヤルワディと呼ばれる枯れ谷で偶然発見されたものだった。

 三日前。

「ステラTを含めてこれまで発見された境界碑が示すアケトアテン範囲にはアクエンアテン王墓が収まらないので付近に境界碑はあるかもしれないとは思って探していたわけですが、まさかまだ知られていない墓があるとは思いませんでした」

「まったくだ。だが、これは大きな教訓になる。やはり、過去の調査報告書を鵜呑みにするのではなく、そこを歩き、そして、自らの目で現場を確認することが大事なのだということだな」

 発見したばかりのそれを眺めながら興奮気味に言葉を並べ立てる後輩を諭す西野であったが、もちろん彼自身も心の内では驚きを隠せない。

 ……ピートリーたちが活躍した「大発見時代」の調査ならともかく、近年にも何度も調査がおこなわれたにもかかわらず発見されなかったということは、これまでよほど巧妙に土砂に埋もれていたということなのだろう。

 ……つまり、先日の豪雨のときに起きた山津波が原因で露出したか。

 ……だが、ここまで露わになってしまえば、いくら観光用道路からは見えにくい場所とはいえ、発見されるのは時間の問題だ。そうなればせっかくの発見も無に帰す我々にとっての大惨事になることは避けられない。

 ……まあ、ありがたいことに我々の作業は調査が目的ではない。

 ……問題ない。

 ……数日でいける。

「河合君。これを一気に掘り出す」

 もちろん短期間に作業を完了するためには彼らが抱える作業員の集中投入をおこなわなければならない。

 それは言うまでもなく本来の目的である境界碑探しが一時的に中断されることを意味するのだが、これまで知られていなかった墓の入り口を見つけたのだから、彼のこの決定は当然といえば当然である。

 もちろん後輩蒐書官も先輩の決定に異存はない。

「承知しました。すぐに手配します。それから、万が一のこともあるのでギザにいるあの方々にも来ていただきましょう……」


 話をアマルナへ向かう車内でのふたりの会話に戻そう。

「では……」

 先輩蒐書官に促された彼が口を開く。

「まず、その墓がアマルナ時代のものということであれば、この墓の被葬者または被葬予定者だった人物は間違いなくアクエンアテンに繋がるものでしょう」

「つまり、王族であると言いたいわけか」

「ロイヤルワディという場所を考えればそうなります」

「わかった。では、君が想定するその王族とは誰になるのかな」

「やはり、アクエンアテンの八人の娘。そのなかでツタンカーメン王妃であり彼によるアマルナ放棄時点で生存が確認できている三女アンケセナーメン以外の七人が候補になるでしょう」

「アクエンアテンの娘は六人ではなく八人なのだね」

「メリトアテンとアマルナ時代はアンケセパーテンと名乗っていたアンケセナーメンにはひとりずつ自らの名前を冠した娘がいたようなのでそのふたりを加えました」

「なるほど。だが、次女はアクエンアテン王墓に葬儀の様子が描かれている。彼女を除外しないのはなぜなのかな?」

「墓にレリーフは残されていますが、アクエンアテンや母親ティイのものはアクエンアテン王墓内に数多く発見されているにもかかわらず彼女の葬送品は破片すらほとんど発見されていませんので」

「それについては異議ありだな。ツタンカーメンのアマルナ放棄の際に彼の指示によって王族のミイラはその葬送品の多くとともにルクソールを移送されたと私は思っている。だから、アクエンアテン王墓で次女メケトアテンの葬送品がなくてもそれほどおかしいとは思わない」

「では、メケトアテンよりも先に亡くなったと思われる五女と六女についても同じですか?」

「いや。そのふたりについては候補者に残す」

 ……これはおかしい。

 だが、討論の場であっても、このような話で罠を張る理由はないことに彼はすぐに気づく。

 ……ということは考古学的な知見に基づいた理由があるということか。

「それでは矛盾があるように思えますが、次女は落としたが、年少のふたりを候補者として残す理由とはどのようなものなのでしょうか?」

 彼の問いに、ペットボトルの入った水を飲みながら先輩蒐書官が答える。

「簡単なことだ。まずアクエンアテン王墓のレイアウトを想像してみたまえ。メケトアテンが埋葬されたとされる葬送レリーフが残るガンマ室に行くにはアルファ室とベータ室を通らなければならない。埋葬の儀式時ならともかく、レリーフを彫るための作業員がふたりの王女が眠っている部屋に何日も立ち入ることを彼女たちの両親が許すことなどありえない。だが、ここ以外にふたりの埋葬に使用できる部屋はアクエンアテン王墓にはない」

 ……なるほど。そういうことですか。

 彼が納得する表情に満足し、先輩蒐書官はさらに言葉をつけ加える。

「ついでに候補者をもうひとり追加しておこうか」

「誰ですか?」

「ベケトアテン。アメンヘテプ三世の娘で彼の娘のなかでアマルナにやってきたことが確認できる唯一の人物。我々は彼女を忘れてはいけない」

「たしかに王族の一員ですから、ロイヤルワディに埋葬される権利はありますね。では、アクエンアテンの第二夫人とされるキヤも追加しましょう」

「もちろんアクエンアテン治世前半に消えた彼女も候補者だろう。しかも、貴族の墓などでは彼女は一切描かれていないから、アクエンアテン王墓に埋葬される可能性は極めて低い。もしかしたら、ピンポイントで彼女の墓かもしれないな」

「答え合わせが楽しみですね」

「そうだな。あとはどれだけ証拠が残されているかということだな」

「たしかに気がかりですよね。古代のキリスト教徒が使用した跡が残っていたことは」

「急勾配の形状から住居や家畜小屋には使用していないだろうが嫌な予感しかしないよ」


 運が悪いと一時間近く待つこともある対岸へ渡る艀の出発時間が乗り込んだ直後だったこともあり、ふたりは予定よりもかなり早く現場に着いたのだが、彼らが抱えるエジプト人スタッフはすでに勢ぞろいし彼らを待っていた。

 冗談交じりに「遅刻だ」「罰金だ」と騒ぐスタッフたちを宥めながら彼は思う。

 ……この様子だとどうやら段取りも終わっているようだな。

 ……時間にルーズなこの地では決められた時間に遅刻することなく全員が集まるだけも稀であることを考えれば、さすがエジプトで一番優秀な発掘作業員と自称するだけのことはある。

 満足そうな笑みを浮かべた彼が口を開く。

「……では、始めましょうか」

 いくつかの指示の後にやってきた彼のその言葉で始まったその作業は順調そのものだった。

 エジプト学者が仕切る考古学的見地に基づいた発掘作業であれば、掘り出した土砂も含めてそのすべてが情報の塊であるため、どのようなものであっても記録され丹念に調べられる。

 そのため作業が完了するには多くの時間が必要となるのだが、彼ら蒐書官がおこなうものは、言ってしまえば盗掘の類であり、どれほどよく言っても見つけることが目的だった「大発掘時代」に近いために驚くべきスピードですべてが進むのは当然といえば当然である。

 だが、そうは言っても、そのスピードが尋常ではないのは、投入される機材や作業員の能力だけではなく彼らのモチベーションが圧倒的に違うことも大きく影響しているのは間違いないだろう。

 とにかく、そういうことで作業スタッフ自身の言葉で表現するならば「志願兵と徴用兵との差」となるその機械のような効率的な作業によって、目の前にある場所からすぐにふたりが望むアマルナ時代の埋葬の痕跡が発見される。

 ……はずだった。

 だが、スタッフのひとりが掘り出した大きな壺のひとつを手にしたとき、ふたりの蒐書官は何とも言えぬ表情を顔に浮かび上がらせた。

「……西野さん。これは……」

「……壺を触った感触から年代は古いがアマルナ時代とは大きく異なる。まったくの予想外とまでは言わないが、予定外の代物であることは間違いない」

 彼にはわかる。

 言葉はそれなりに取り繕っているものの、すべての決定権を持つ先輩蒐書官の顔は「手に入れるべきではないものがやってきた」と言っていることを。

「ですが、これはこれで十分お宝と呼べる品物ですから、邪険にはするわけにはいきません」

 そのようなことは起こらないと思いつつ、念のために彼は言葉を添えると、当然すぎる言葉が返ってくる。

「わかっている。応急的な保存処理をしたうえでカイロにさっさと送り届けるのがいいのだろう」

「しかし、もしかしたらミイラが見つかるかもしれないと思い、それなりの準備と人手を用意しておいたことがこのような形で役立つとは思いませんでした」

「まったくだ。さて、どちらにしてもここから商品を取り出さなければならないのだから、とりあえず中身を確かめてみようではないか。いや、せっかく呼んでいるのだ。まもなくやってくる『すべてを癒す場所』の住人たちを到着次第ここへ呼んでもらおうか。そうすれば安心して確認作業ができる」

「そうですね。それにしても……」

「そうだな。壺から顔を覗かしている部分だけで判断するならば聖書の写本の類だろう。そして、書かれた時期は……最古とはいかなくても十分に古い」


 聖書。

 宗教に対する感心が薄いほとんどの日本人がその言葉を聞いた時すぐに思い出すのは、新約聖書というキリスト教の聖典のひとつであろう。

 だが、その新約聖書とはあくまでキリスト教徒的な物言いであることも、その源はユダヤ教徒の聖典であるという事実もそのような日本人にはあまり知られていない。

 当然ながら、キリスト教が広がる前となる最初期の聖書はほぼすべてユダヤ教徒が唯一の聖典としているいわゆる旧約聖書に属するものであり、最古の聖書として有名な死海文書が発見されているもののうちの約八割がヘブライ語、残りのほぼすべてが現在のイスラエル周辺地域で使用されていたアラム語を使用して書かれていることも、そのような事情を考えれば十分に理解できるであろう。

 そして、これはその副作用的要素ではあるが、蒐書官の特殊能力による測定と比べれば遥かに精度は劣るものの、古い聖書に関しては使用された文字を見るだけで引き算式の年代測定をおこなうことも可能ではある。

「残念ながら、ヘブライ語でもアラム語でもないですね」

「だが、コプト語でもない。これはこの地におけるキリスト教徒の活動を考えれば少し驚きだ」

「ですが、それはこの羊皮紙の年代とも合致しています」

「そのとおりだ」

 そこに使用された文字は少々意外であったものの、これは自分たちが発見していたいくつかも加えた過去に発見された聖書の写本と同じく何かの事情で持ち歩いていた聖書をそこに隠し、そして忘れ去られたものである。

 ふたりは目の前に待つ本来の目的に取り掛かるため、発見した写本の物語をそう締めくくり、その保存を依頼してこれに関する自分たちの仕事を終了しようとしたのは、蒐書官としては間違った判断とはいえない。

 だが、このあと先輩蒐書官がそれを見つけたことでその状況は変化する。

「少し困った事態になった」

「何でしょうか?」

「河合君に問う」

 それを見つけてからしばらくは中を覗き込んだまま硬直していた先輩蒐書官が意を決したようにツボの底に押し込まれていたものとは思えぬ驚くほど保存状態がよいそれを取り出す。

「これは何かね?」

 先輩蒐書官が大雑把とは程遠い手つきで扱うそれの名をもちろん彼は知っている。

 そして、それは品質さえ問わなければ現在のエジプトでもそう珍しいものではないことも。

「……パピルス」

 もちろんたとえ誰であっても知ってさえいればそれを見せられてパピルス以外のものだと言うことはないだろう。

 だが、彼らが持つ知識では、それはそこにあってはならぬものであったため、心なしか訝しげな口調となった彼の言葉に先輩は頷く。

「たしかにこれはどう見ても羊皮紙には見えないな」

 彼と同じ気持ちだった先輩蒐書官は少しひねくれた物言いによってそれを肯定する。

「問題はこのパピルスがなぜ古い羊皮紙製の聖書に混じりこの壺の底に入っていたかということなのだが、年代の測定の前に聞いておこう。この状況を君はどう考える?」

「聖書の文面らしきものがギリシア文字で書いてあるものの羊皮紙ではないということは、まず羊皮紙の代用品または習作として書いたものを詰め物として使用したということが考えられます。ですが、保存状態はそれを否定するようでもあり、羊皮紙が普及する前のものという年代の古さを表しているということも考えられますので、そのパピルスも羊皮紙製の他の写本と同じ扱いをされており、何かの事情による隠蔽または廃棄を目的にここに埋められたということも十分にあり得ることではないかと」

 自らの問いに対する彼の言葉に先輩蒐書官は苦笑する。

「それだけ可能性があるものを並べ立てればそのうちのひとつは当たりだろうな。とりあえずこれはこの壺に入っていた写本でも特別に古い。完品ではないもののそれでも羊皮紙のものより一世代前と思われるパピルス製の古い聖書の写本。私は聖書の専門家ではないのでそれ以上の分析は清水君に任せるしかないが、付録にしては十分にアタリではあるだろう。さて……」


「君と同様私もこれを読み込み、さらに内容を確認したいところなのだが、我々には作業を再開させなければならない事情がある」

 一瞬の間が開いてから、彼を、そして自らを促すような先輩蒐書官の言葉が彼の耳に届く。

 言うまでもないことだが、彼らがおこなっているのは宝探しを目的とした無許可の発掘、世間一般でいうところの盗掘行為である。

 関係者には事前に金を掴ませて見なかったことにさせてはいるものの、いわゆる部外者である観光客や研究者の誰かに見つかれば当然揉め事になる。

 もちろん最終的にはなかったことにできるものの、それでもそのようなことはないにこしたことはない。

 そういうことで、誰かに見られずに作業を完了させなければならないために悠長に作業はできない。

 むろん彼もそのことは十分に承知している。

 残念な気持ちはあったものの、それを読みこむのは作業がすべて終わってからの楽しみとし、三つの壺に入れられていた多数の写本は、今回の作業のためにギザの工房から呼びよせていた保存と復元のスペシャリスト集団である「すべてを癒す場所」に引き渡され、その墓の掘り出し作業は再開される。

 そして、膨大な量の土砂が取り除かれると当然のようにそれが現れたわけなのだが、それを見た瞬間ふたりは大いなる失望を隠せなかった。


「やはりというべきなのでしょうが、封鎖壁は破られていますね。しかも、自然の力というよりも意図的な破壊の痕跡が確認できます」

「期待し過ぎた分反動も大きいな。自分が思っていた以上に。王家の谷で発掘していた連中の気持ちがよくわかる」

 状況は彼らの言葉どおりだった。

 墓内部への侵入を防ぐために設けられた封鎖壁が破壊されていること。

 それは、すなわちこの墓の内部に侵入した先客がいるということを意味する。

 しかも、再封鎖がおこなわれていないということは中にあったものがどうなっているのかは想像できる。

 だが、そうは言っても、どのような場合でも得るものがまったくないというわけではない。

 特に貴金属が一番の目的ではない者にとっては。

 破壊を免れた封鎖壁を丹念に眺めていた彼はそれを見つけニヤリと笑う。

「ありました。『ジャッカルと九人の捕虜』。これによってこの墓を封印したのはロイヤルネクロポリスの管理者で間違いありません。ここがロイヤルワディであることを考えれば、この墓には王族が埋葬されていたと確定してもいいのではないでしょうか」

「そうだな」

「それで、どうしますか?」

「聞くまでもないだろう。当然落ちた破片を含めてすべて回収だ。この状況では中はそっくりカラという可能性ということも考えられるのだから、手に入れられるものはすべて持ち帰る」


 そして、その翌日。

 先輩蒐書官が口にした不吉な言葉は現実のものとなる。

「カラですね」

 彼の言葉どおり驚くくらいに封鎖壁の先には何も残されていなかった。

 ……どうやらこのまま作業は徒労に終わりそうだ。

 だが、それを言葉にすることは懸命に瓦礫を取り除く作業員のモチベーションを一気に下げることに直結する。

 過去の苦い経験によってそれをよく知る彼は強引にそれを押さえつけ代わりの言葉を探す。

 ……新しい墓を見つけただけでもよしとすべきだな。

 そして、悶々とした時間を過ごした彼がようやく感情と感性の折り合いがつけられる言葉を見つけたところで、それは突然やってくる。

「どうやら君はここに押し入った盗賊は実によい仕事をしたと賞賛したいようだが、それは大きな間違いだと断言しておこう」

 予想もしなかったその言葉に驚いた彼が凝視した先輩蒐書官の顔にはなぜか目の前の状況にはまったくふさわしくない会心の笑みが浮かんでいた。

「……どういうことですか?」

 彼が口にした心の声そのものという言葉に先輩蒐書官は望んだものを手に入れたかのように笑みを深め、宙を見つけながら言葉を紡ぐ。

「まず問おう。このパーフェクトな墓泥棒はいつここを襲ったと君は考えるのかな?」

「それはもちろんツタンカーメンによってアマルナが放棄されてから後でしょう」

「だが、ルクソールの王家の谷にある第五十五号墓で発見されたアクエンアテンの母ティイの厨子は元々アマルナのアクエンアテン王墓にあったものだ。そして、昨日君が言ったようにメケトアテンの葬送品が彼女の墓所であるアクエンアテン王墓ではほぼ発見されていない。これを合わせて考えたまえ」

 ……なるほど。

 ようやく先輩蒐書官の言葉の先にあるものを理解した彼は心の中でそう呟く。

「もしかして……」

「そう。現代の調査隊がおこなうようなきれいな回収は墓泥棒の仕業ではない。状況をより正確に説明するとすれば、我々よりも先にやってきたかもしれない墓泥棒にはさらに先客がおり、この素晴らしい仕事は最初の訪問者によるものだ。そして、その先客とは……」

「……ツタンカーメン」

「そういうことだ。もちろんやってきたのは彼本人ではなく、彼の指示でアマルナに眠る王族の遺体をルクソールへ移送するために派遣された彼の家臣たちなのだろうが」

「つまり、ここに眠っていた王族も他の墓と同様ルクソールに用意された新しい安住の地に移されたということですね」

「そうだ。そして、ありがたいことに彼らは我々にメッセージを残してくれた。そこにあるから感謝しながら見るといい」

 先輩が右手の人最指で指さす先にある丁寧に漆喰が塗られてはいるものの埋葬者を示す装飾は一切ない白い壁面に目をやった彼はそこに崩し文字で走り書きされていることに気づく。

「……素晴らしい」

 ある王の治世年まで加わったそれに思わず彼が声を漏らすと、それに同意するように先輩蒐書官も頷く。

「まったくだ。さて、これはアマルナのロイヤルネクロポリスの解体について書かれたもので間違いなく、さらに治世年からその時期も確定したわけなのだが、これについての君の感想を聞こうか」

「これが示す日付が作業の最初なのか最後なのかはわかりませんが、ツタンカーメンがその治世最初期にアマルナを離れたことを考えればどちらにしても驚くほど遅いのですね」

「そう。そして、それはもうひとつの可能性にも言及できる」

「聞きましょう」

「ツタンカーメンの本当の墓の話だよ。十年近い治世期間がありながら、あの粗末な墓しか用意できなかったことは実に不可思議なことだ。なにしろ治世年数が彼とたいして変わらぬトトメス四世が規模だけを考えれば治世年が三倍近くある父王以上の墓が用意できたのだから。そして、王墓の造営は最優先事業であることを考えれば、そこには特別な事情がなければならないのだが、これがそれに対する答えにもなる。まあ、アクエンアテン王墓やこの墓などアマルナに残された墓がネクロポリス解体まで荒らされることなく残っていたこと。そして、それにこの墓に残された移送時期を組み合わせれば容易に導けるものなのだが」

「西野さんが考えるその答えとは?」

「ツタンカーメンは自らの王墓をアマルナに造営していた。つまり、アマルナは王都ではなくなったが、彼は新しい王家の谷として残すつもりだったということだ。これはアマルナの墓職人たちの村に治世最初期にアマルナを離れた彼の痕跡が大量に残っていたことともこのことを補完する証拠となる」

「……なるほど」

 相槌を打ったものの、その表情から彼がそれに完全同意をしていないのはあきらかだった。

 そして、それだけではなく彼が納得していない最大の理由まで把握していた先輩蒐書官がさらに言葉を重ねる。

「君が言いたいことは想像できるが、念のために聞いておこう。疑問は何かな」

「では、その本来の王墓となるはずだったものとは?」

「もちろんアマルナ第二十七号墓。その工事の中止と時を同じくして彼の血族のルクソール移送が決まった。その時点でツタンカーメンの健康状態がどうだったのかまではわからないが、ルクソールでの王墓造営が始まってまもなく彼は死亡し、不本意にも王のものとは思えぬあの狭い場所へ押し込められた。これがツタンカーメンの王墓に関する真相だろう」


 彼らがそれを手に入れてから三か月と少しだけ経った東京。

 アマルナで彼らが手に入れた遺物はこの直後リシュト付近でおこなわれた大掛かりな作業によって発見された貴重なパピルスなどとともにカイロを経由してこの都市に送られていた。

 もっとも、アマルナから持ち帰ったものの数は少なく、見栄えのよいものといえば、本来見つけるはずではなかった「ロイヤルワディ写本」と彼らが名付けた古い聖書だけだった。

 だが、その建物の主である女性が多くの語学を教えているひと回りほど年下の少女がまず手に取ったのは、多くの者にとっては「ただの石ころ」にしか見えない漆喰の塊だった。

「これですね。なるほどたしかに素晴らしいです」

 短い感想とともに少女が慈しむような目で石材を見つめているのはもちろん単なる気まぐれなどではない。

 ……そうなりますよね。

 少女がそれを選ぶことを予想していた彼女は心の中で言葉を漏らす。

「お嬢様はこれについてどう思われますか?」

 彼女が口に出して訊ねたのは墓内部で発見された唯一の戦利品として壁面から丁寧に引きはがされたその塊に書かれた短い文章についてだった。

 そう。

 その一文こそ、この塊にとてつもない価値を与えているものなのだ。

 最高の笑みを浮かべた小柄な少女が再び口を開く。

「レポートをつけてきた蒐書官の言葉どおり、疑いようもなくこれはツタンカーメンの治世年を示しています」

「理由はどのようなものでしょうか?」

「まず、閉鎖壁に押されたスタンプにはアクエンアテンの名が含まれていましたから、埋葬は彼の治世中におこなわれたことは間違いありません。ですが、墓内部に残されたこちらのものもアクエンアテンの治世中のものとしたら、ここに書かれた治世年はアクエンアテンがアマルナに遷都した直後にあたり、ここに書かれている内容とは矛盾します。では、他の候補者であるアイやネフェルネフェルウアテンはどうかといえば、彼らにここまでの治世年があるという証拠が確認できません。もし、これがそれを示す新しい証拠であるのならば、たいへん素晴らしいことなのですが、やはり、私たちに『ここで完璧な仕事をした』と書置きを残してくれた彼の主はツタンカーメンとするのが妥当といえるでしょう」

「これの掘り出しを指揮した西野はツタンカーメンの墓もアマルナに造営されたと考えているようですが、これについては?」

「明確に否定する根拠がないと言っておきましょう。そして、もし彼の説が正しければ前任者もアマルナに自らの墓所を用意しようとしたと考えるべきなのですが、ロイヤルワディにはアクエンアテン王墓のほかにふたつの王墓候補があるという事実はその可能性は大いにあるといえるではないでしょうか」

「ちなみに前任者とはネフェルネフェルウアテン王のことでしょうか?」

「そのとおり。そして、二つの墓の工事の進み具合を考えればアマルナにおけるこの王の墓の造営もツタンカーメンが担っていたのかもしれません。そうなれば、実はその墓が完成するまでのネフェルネフェルウアテン王の仮墓が現在ツタンカーメンの墓所となっている王家の谷第六十二号墓だったという可能性もあります」

「では、最後に、今回見つけた墓に埋葬されていた者に関して。被葬者は誰だとお嬢様は思っていらっしゃるのですか?」

「他の墓との距離を考慮すれば、やはりキヤとしておくのが妥当なところではないでしょうか」

 少女はそこまでも話し終わると、言葉を切り、紅茶が注がれたティーカップに手を伸ばす。

「それにしても、かの者はもう少しこの地に留まるべきだったのではないでしょうか。あれではまるで私たちに会うためだけに姿を現したかのようですから」

 少しだけ残念そうに少女が口にしたそれはある事実について語ったものであるのだが、あまりにも詩的かつ抽象的な表現を使用したため、少女と初めて接する者がそれを聞いたら、何についての言葉なのかすぐにはわからず戸惑うことになったであろう。

 だが、幸いにもこのような比喩を多用する少女の難解な言葉に普段から接していたため、その真の意味をすぐに理解したこの部屋にいるふたりのうちのもうひとりは小さく頷く。

「そうですね。最初に起こった山津波のおかげで私たちはあの墓を見つけることができたのですが、結局作業完了直後に起こった二度目のそれによってすべては再び消えてしまいました。調べにいったスタッフの話では落下した大きな岩が入り口を塞ぎ、盛大に掘り返した痕跡も完全になくなっていたそうです」

「そうであれば、あの場にそれがあることを知る関係者以外の者の目に触れるのはいつになるのかはわかりませんね」

「……ですが、それはつまり私たちの作業の痕跡が世間に知られるのが遠い未来となるともいえるわけで……」

「すべて悪いというわけではないということですか。願って状況が変わるわけでもなし。それを素直に受け入れよということですね。どちらにしても、墓の存在以外のすべてはここにあるわけですから、たとえ発見できても、いつもように後付け理屈を並べた討論をするだけで終わってしまうのですから自然の摂理に従うのもよいことかもしれませんね」

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