After story Ⅰ タダより高いものはない
「消えた王都で発見された古代エジプト非公式文書」の後日談的話になります
本編で語られなかった話と言ったほうが正しいのですが
エジプトの首都カイロ。
その古さに起因する問題が多発し、近年ギザに建てられた新博物館に主だった収蔵物が移管され、特別な地位は失われつつあるものの、その趣のある外観は今でも十分に魅力的なカイロ考古学博物館を正面から眺めることができるホテル。
そのワンフロアを借り切りオフィスとして使用しているのは蒐書官とはライバル関係にある組織の中東地域を統括するスコット・ジェームスという名の男だった。
その日の朝、事務所に現れた彼に、部下の一人が声をかける。
「主席交渉官。ミスター新池谷からメッセージが届いています」
「朝一番から嫌なニュースを届けてくれるものだ」
冗談を口にしながらそれを受け取った彼だったが、それを読んで一時間後に行先も言わぬまま渋い表情で出かける彼を見送った部下たちが囁き合う。
「褒めてくれ。ボスの行先まではわからないが、会う相手は表情だけでわかるこの俺を」
「ほう。奇遇だな。実は私も同じだ」
「まあ、主席交渉官が蒐書官相手にどんな話をしているのか知らないが、とりあえず商品を手に入れてくるのだ。我々にとって損ではないのだろう」
「そうだな」
「だが、蒐書官どもが要求する見返りは何だ?」
「知るか」
湿った笑いが響くオフィス。
だが、彼らは知らない。
彼我の力関係は再び均衡を保つ位置まで戻すことなどもはや不可能な状況にまでなっていることを。
それからしばらく経った彼の事務所から一キロほど南に建つ高級ホテル内のレストラン。
「お呼び立てして申しわけありません。ミスタージェームス」
やってきた彼を大仰な言葉で出迎えたのはこの地の蒐書官を束ねる男だった。
……そう思っているなら呼びつけるな。
心の中でそう言ってはみたものの、今の自分がそのようなことなど言える立場にないことは彼自身が一番知っている。
何事もなかったかのように彼は答える。
嫌がらせを少しだけ薬味に加えた言葉によって。
「いえいえ、お気になさらずに。それよりも今日の要件は何でしょうか?少々やらなければならないことがありましてすぐに戻らなければなりません。できれば手早くお願いしたいものです」
主席交渉官という地位に就く彼が忙しいのは当然である。
だが、そのようなものはいくらでも調整は利く。
彼がこの場を離れたい理由は別にあったのだ。
……つまり、おまえと話すことなど時間の無駄以外の何物でもないのだとあなたは言いたいのですね。
……いいでしょう。
「そうでしょうね。お互い損な役を押しつけられたものです。では、さっそく要件に入ります」
滲み出る彼の心情を読み切った目の前の男だったが、それを気にする様子もなく応じる。
もちろんそれは、言葉の主である新池谷自身が彼と同じく相手に対する親愛の情など欠片ももっていなかったからである。
熱を感じさせない言葉でそれを伝える。
「まもなく我々は大規模な作業を入ります。今日は事前にその報告をさせていただくために来ていただきました」
「……なるほど」
……まあ、そういうことだと思ったよ。
彼は知っている。
この簡素な言葉には本当はどのような意味があるかということを。
……つまり、周辺で活動する我々のスタッフ、作業員を撤収させろということか。
「場所は?」
「リシュトにあるふたつのピラミッドの東のエリア」
「リシュト?」
「はい」
男が口にしたその場所のあまりの意外さに彼は驚く。
もちろんそこは有名な遺跡である。
だが……。
「たしか、あの場所は墓地が拡張されたうえに盗掘が頻繁におこなわれている。というか、そもそもその地域は長年発掘作業がおこなわれているはずだが」
「そのとおりです。そのこともあなたにお話する理由のひとつです。まあ、あなたができないということであれば、別の誰かにお願いすることになりますが」
……調査をおこなっているひとつは同じアメリカチーム。つまり、責任をもってその排除をおこなえ。その程度のこともできなければ分け前はないということか。
……しかし、なぜ今なのだ?
「それにしても、あなたがたがそこまでして大規模な作業をおこなうほどあの地域が魅力的だったとは知りませんでした」
彼は感想という形をした問いを投げかける。
もちろん答えを得られるなど毛頭考えていなかったのだが、思いがけずそれはやってくる。
「まあ、私たちが実際に作業をおこなうのはそれよりも少し東になりますが」
「東?」
「具体的にはいくつかの町を含むナイル河西岸に広がる耕作地帯になります。そして、我々の目的地のことですが、あなたも知っているでしょう。あの地にあるはずの我々が作業をおこなうだけの価値がある場所の名を」
「はて」
惚けてみたものの、もちろん彼にはその名に心当たりはある。
しかし、その場所は、研究者どころか、多くの場所で彼らよりも早くその場を探し当てる熟達した盗掘者たちでさえその痕跡すら掴んでいない。
……だが、それしかないだろう。
絞り出すように彼が思い当たる言葉を吐きだす。
「……もしかして『イチ・タウィ』?」
「さすがです。そこが我々の目的の場所になります」
「……つまり、あれの痕跡を見つけたということなのですか?」
「いいえ。本格的調査はこれからですので具体的なものはまだ何も手に入れていません」
……いや、それはありえないことだ。
彼は男の言葉を心の中で即座に否定した。
……確定的な証拠もなしにやみくも蒐書官がそれほど大規模な作業をおこなうはずがない。
……つまり、それをおこなうということ自体、決断するだけの重要な何かを手に入れたことを意味するのだ。
彼のその判断はまちがってはいない。
だが、この場合にかぎり、残念ながら正しかったのは彼ではなく蒐書官を束ねる目の前に座る男の言葉だった。
もっとも、実はこの世にありうべからざる力を持った少女の言葉だけが彼ら蒐書官が動く根拠だったというその正解に辿りつける者など常人のなかにいるはずもなく、同じ状況を提示されれば誰もが彼と同じ結論を導きだすことになるわけで、それを一瞬で判断出来た彼はやはり有能だといえるだろう。
……仕方がない。
とにかく、そういうことで、実はまったくの的外れだったその結論を根拠に彼は思考する。
……そこまでのものを持って作業をする蒐書官の妨害をすれば、彼らとの全面対決を引き起し、勝ち目がない戦いに引きずり込まれるうえに、万が一彼らを追い出したとしても、彼らの代わりにそこを掘り起こす力が自分たちには残っていないだろう。
……つまり、妨害は失うものはあっても得るものは何もないのだ。
……それであれば、取引に応じ相応のものを手に入れたほうが遥かに利になる。
すぐさまそう損得計算をおこなった彼の口を開く。
「……その点は承知した。それで、それをおこなって我々はどのような利が得られるのかな。申し出を受けるかどうかはそれからだ」
彼がライバルに報酬として提示されたものが具体的に何かはわからなくても、それが屈辱と忍耐に見合う十分だったものだったことは誰の目にもあきらかだった。
なにしろオフィスに戻ってきた男の顔は相変わらず不機嫌だったものの、その行動は間違いなく相手の依頼に基づいたものだったのだから。
彼は口を開き、次々に指示を送る。
「グレン。リシュトのピラミッドから半径三十キロ圏内で活動しているスタッフ全員のカイロへの引き揚げを指示してくれ。大至急だ」
簡潔に言えば、それは自らの仕事を放棄しろというものであり、一見すると彼が出した命令は実に奇妙なものだったのだが、過去を知り、今日彼が誰と会っていたかも知るスタッフにとってそれはそれほど驚くものではなかった。
……これは間違いなく大量のプレゼントが届いたメンフィスのときと同じ。
……つまり、話し合いは成功ということか。
……だが、それは本当に成功といえるのか?
……何もせず貴重な品が手に入る。これを成功と言わず何を成功と言うのだ。
賛否両論多くの心の声が飛び交う中、彼に指名された男が確認のために言葉を返す。
「対象は交渉官ということでよろしいですか?」
「いや。調査員と作業員を含めてだ。それから私の指示があるまで立ち入り禁止を続けるように徹底してくれ」
「期間は?」
「八週間の予定だが、もう少し延びるかもしれない」
「承知しました」
「では、あとは頼む。私はこれからリシュトに出かける」
「リシュトですか?……何のために」
「もちろん仕事だ」
それだけ言って彼は書類に目を通しながら部屋を出ていったため、スタッフにはその声は届かなかったのだが、実は彼の言葉には続きがあった。
「まったく嫌な役だ。……だが、これも仕事だ。なんとしてでもやり遂げなければならない。それにしても……」
……何度か顔を合わせたことはあるが、ここに書かれた情報通りこれから会う調査隊を率いるトーマス・フェルナーは超がつくほどの変わり者だ。
……しかも、奴には我々と同類のバックがついているだけに資金力はある。
……端金で動くとは思えぬ。
……最終的にはたっぷりと脅したうえで大金を掴ませるしかないだろうな。
……そして、その次に会うのはさらに高いハードルか……。
彼はこれから会う人物についての情報が紙面いっぱいに書かれたレポートを眺め、目の前に迫った明るくない未来を想像した。
そして、大きく息を吐きだしもう一度呟く。
「……これも仕事だ」
もちろん有能な彼はこの後に自らの責務を完璧に果たしたのだが、当然ながら、それは軽蔑と憎悪の視線に晒されたうえ罵声を浴びせられるという多大な出費に見合わぬ冷たい仕打ちを受けたことを意味する。
「こうなることはわかっていたが、それでもそうしなければならないとはまったく損な役回りだ。だが……」
最後の交渉が終わると逃げ込むように乗り込んだカイロに戻る車の中で疲れ切った彼が自らを慰めるようにあの言葉を再び呟いたのは言うまでもない。
「これも私の仕事だ」




