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古書店街の魔女  作者: 田丸 彬禰


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 After story Ⅱ 世界一幸福な洋菓子店主

「新字」の後日談的話となります

 東京都国立市にある高級洋菓子店「ソハーグ」。

 この店と天野川夜見子率いるあの組織との関係はこの店の店主が偶然手に入れた一冊の書がきっかけであることは紛れもない事実である。

 だが、普段であれば目的の書を手に入れた後は元の所有者と一切関りを持たないその組織が今もこの店と密接な関係を持ち続けているのには訳がある。

 かつて源氏物語の一部として存在したとされる幻の一巻に与えられたものと同じ名を持つ究極の洋菓子「輝く日の宮」。

 それが彼らとその店を繋ぐ理由なのである。


 もちろん話はそこで終わらない。

 たしかに「輝く日の宮」はすべての点においてこの洋菓子店の頂点に輝くものなのだが、この店の商品ケースには「輝く日の宮」以外にも他の店であれば間違いなくエース扱いになるほどの素晴らしい洋菓子がずらりと並んでいるのだ。

 つまり、この店は全国にファンがいる名だたる菓子店と肩を並べるだけの実力を持っていると言っても大げさな言葉にはならない。

 しかし、実際はどうかといえば、一部の例外を除けば、いまだその人気は店周辺のごく限られた地域に留まっており、その実力とは大きな隔たりがあると言わざるを得ない。

 前世紀までならともかく玉石混交様々な情報が飛び交うこの時代にあってなぜそのようなことになっているのか?

 その答えは誰の目にもあきらかだ。

 言うまでもなく、それはすべて店主である向山紘一郎の職人気質を通り越した頑固な性格に帰結していた。

 なにしろ、彼は自らが命名した洋菓子に不似合いなそのユニークな名と、その名に相応しい上品な味に引き寄せられた多くのグルメ雑誌の取材申し込みをけんもほろろに断ったことから始まり、有名百貨店からの一等地での出店依頼どころか、催しものの目玉としての臨時出店の依頼さえ一刀両断にしていた。

 当然ながら彼にとって通販などもってのほかの代物であり、予約も取らないため、彼がつくる菓子を堪能したければ店のある国立市までやってこなければならず、「輝く日の宮」のような人気の品や限定品が目当てならば早朝からできる行列に加わるしかない。

 つまり、彼は全国展開して実利を伴った名声を得ようとするものとはおよそ真逆の選択をしていたのだ。

 それは自らがつくりだす菓子に絶対的な自信があるあらわれともいえるが、その名が全国に浸透しないことの大きな理由ともなっていたというわけである。

 もっとも、彼はそのようなことには興味はなく、また彼がつくる菓子をこよなく愛する地元の者たちにとっても、その状況は実は喜ばしいことではあったのだが。


 さて、人気と実力が大幅に乖離する洋菓子店「ソハーグ」のある日の朝。

 工房に姿を現した店主向山紘一郎が朝一番にやらなければならないこと。

 それは工房の副責任者で経理担当も兼ねる長男の紘太にあることを訊ねることだった。

「神保町からの予約はいくつだ?」

「『輝く日の宮』が六個。それから、『夕顔』と『葵』がひとつずつです」

 彼の問いに対して打てば響くように即座に返ってくる息子の言葉。

 気が長くない彼にとってそれは非常に心地よいものだった。

 彼は満足そうに頷き、それから次代の店主に指名しているその男に指示を出す。

「では、今日は予定していた『須磨』と『明石』の代わりにそのふたつを加えた九種類をつくる。材料の準備を始めろ」

 そう。

 すべてに優先させて厳格に守られているはずの彼の規範には実はひとつだけ例外があったのだ。

 そして、時の権力者の要求すら蹴り飛ばす天下無敵の頑固者のような彼が自らの主義をあっさりと曲げ、忖度する相手。

 それが先ほど彼が口にした「神保町」であり、その言葉が指し示し、かつ、その地に居住している彼にとって特別な人物こそ蒐書官を統べる存在、天野川夜見子その人だった。


 約束時間の五分前。

 いつもどおりその店の裏手に現れたふたりの蒐書官鈴川と先崎は商品と引き換えに主から託された手紙を店主に渡しながらひとつの言葉を添える。

「これに対する返答をもらってくるようにと主から指示されております」

 つまり、ここでその手紙を読み返答せよ。

 そう彼らは言っているのだ。

 もし、これが他の者の言葉であれば、彼らはすぐさま「無礼者」という罵声とともに男に敷地から追い出されたことだろう。

 だが、その男は顔色ひとつ変えることなく「わかった」という言葉と共に頷き、手紙を読むとおもむろに口を開く。

「技術的に若干詰めなければならない部分はあるが、基本的なことは了解した。そう伝えてくれ」

 即答。

 しかも、その答えは要求を受け入れるというものだった。

 もし、普段の彼を知る者が男のこの様子を見たら「あり得ない」という言葉を残して卒倒していたかもしれない。

 それはそれくらいの驚くべき光景だった。

 実を言うとふたりの蒐書官にとってもそれは同じ、いや、彼らの場合はそれ以上の驚きだったともいえるかもしれない。

 なぜならふたりは知っていたのだ。

 その手紙に書かれている内容を。


「この手紙で私は『輝く日の宮』を橘花グループの喫茶店に下すように向山紘一郎に指示をします。それから、あなたがたも知ってのとおり向山紘一郎は自らの店の商品を他店で販売することを頑なに拒否しています。ですので、もしかしたらあの男はそれを拒絶するかもしれません。その場合は交渉し必ず承諾させてきなさい」


 ……これは難問だ。


 それが主の指示に対するふたりの共通した意見だった。

 まず、相手があの向山紘一郎であること。

 そして、こちらには交渉における有利な手札がまったくないこと。


 ……それでも、これが蒐書であれば、最終手段という手もあるが、今回はそれも使えない。

 ……厄介だ。

 ……だが、やるしかない。


 そのような覚悟で彼らはこの場にやってきていた。

 それがあっさりと是と決まってしまい、やや気抜けしたふたりは恐る恐る目の前の男に問いかける。

「お訊ねしてよろしいでしょうか?」

「……どうやら腑に落ちないようだな。だが、私が承諾するのは当然のことだ。その理由はこれだ」

 ふたりの表情を眺め、それを察した男は表現するには難しい微妙な笑顔を浮かべてそう言うと、持っていた手紙の最後に書かれた一文を指さす。

「おまえたちの主はどうしたら私が要求を断らないのかをよく心得ている。たいしたものだ」

「……なるほど。そういうことですか」

 男が指し示し、ふたりの蒐書官が納得したもの。

 そこにはこう書かれていた。


「……なお、この事業が開始されたあとに、協力のお礼として源氏物語第九帖『花宴』のレプリカを進呈いたします」


「第九帖『花宴』。真実を知る者だけしか味わえない実に素晴らしい響きのある言葉だ」

 男の言葉にその意味を理解しているふたりが頷くと、満足そうに男は言葉を続ける。

「これまで受け取った『輝く日の宮』を含めた八帖のレプリカはどれも本物ではないかと思える素晴らしい出来であり、私の最高の宝である。これがさらに増える機会をどうやって断ることができようか。それどころか、一刻も早くコンプリートするためにもっと多くの要求をしてもらいたいくらいだ」

 そう語る男の顔に浮かぶのは恍惚とはこのようなことをいうのではないかというようなものにしか見えない何かに酔いしれる表情だった。

 男の言葉続く。

「私は何と幸せな者なのだろう。なにしろ私は人に喜ばれるものをつくることでき、そして、その技術のためにほかの誰もが手にすることができない素晴らしい源氏物語の写本に囲まれて生活できるのだから」


「そのとおりです。あなたは日本一、いや、世界一幸せな洋菓子店の店主です」


 ……あれらは加工を施して古く見せてはいるものの紙も墨も現代のものを使っている「すべてを写す場所」の基準ではレベルEといわれる程度の低いレプリカだ。


 言葉を尽くして自らの喜びを表現する菓子職人を褒め称えながら、ふたりの蒐書官は心のなかでそう呟いていた。


 ……だが、そうであっても今度あなたに届く「花宴」はその存在を我々以外の誰にも知られていないその原書を汚れや破損までよく再現したものですから、間違いなくあなたにとってその写本は宝であり、あなたが主張する世界一幸せな洋菓子店の店主という称号は正しいといえるでしょう。

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