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古書店街の魔女  作者: 田丸 彬禰


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76/104

新字

 JR東京駅八重洲地下中央口から広がる広大な地下街。

 そこはこの地下街そのものを目的としてやってきても十分に楽しい時間を過ごすことができるほど様々な店が並ぶエンターテインメントゾーンとなっているのだが、この巨大な地下空間が実は名称の異なるいくつかのエリアが結合している複合商業施設である事実はあまり知られていない。

 もっとも、そこを利用する者の大部分にとってそれは全くもってどうでもいいことであり、実際自由に行き来ができるため利用者がそれを意識することなどほぼ皆無と言っていいだろう。

 そして、この地下迷宮を構成する一ピースである「八重洲地下街」と呼ばれているエリアで営業する「ハトヌブ」という名の一軒の店。

 そこが今回の舞台となる。


 古風な佇まいのその店は人通りの激しい店外とは別世界のような落ち着いた雰囲気と職人気質のマスターが淹れるコーヒーの味に魅せられた常連と呼ばれる客を多数抱えている。

 つまり、その店は喫茶店。

 もちろんただの喫茶店ではない。

 名店と呼ばれるだけの資格を十分に有している。

 そのような店なのである。


 さて、そのすばらしい喫茶店「ハトヌブ」であるが、実はこの店にはなんとも言えぬ不可思議な空間が存在していた。


 どれほど混雑していても常連の呼ばれる客でさえ利用できない場所。


 それがその空間である。

 謎席と呼ばれているそこは、常に「予約席」の札が置かれ、数年前に利用を断られた常連のひとりがそれを「この店の七不思議筆頭」と呼び始め、ほどなくその他の常連もそれに追認したことからその称号は現在も使用されている。

 もちろんこの店に本当に不思議が七つもあるのかは定かではない。

 だが、命名者でもあるその常連によれば、ある日「あの席がこの店のなかで特別魅力的な場所とも思えないし、そもそもあの席を利用している客を見たことがない。なぜあの場所をいつも指定席としてあけておくのだ?」と問われたマスターはそれには答えず、ただ静かな笑みとともに問い質したその男にコーヒーが出した。

 それを黙って飲みながら彼はこう思ったのだという。

 ……これは触ってはいけない案件だ。

 そして、その話を彼から伝えられて以降、常連客がそれについて話題にすることはなくなったのだという。


 その日の午後、謎席には年が少々離れたサラリーマン風の男がふたり座っていた。

 もちろんふたりは蒐書官。

 つまり、この店も蒐書官の主である天野川夜見子が属するあの組織が関わっており、日々職人技を披露するマスターも元蒐書官。

 というより、実はそのキャリアの始まりは立花家直属のエリート集団として知られる蒐集官であるというつわものだった。

 そして、彼らが座る謎席とは言うまでもなく蒐書官たちの打ち合わせに使用されるために用意されたものであり、当然会話が漏れない特別な仕掛けが施されている。


「相変わらず素晴らしいですね。ここのコーヒーは」

 その席に座るふたりのうち年少の蒐書官がコーヒーを口に入れた瞬間にその素晴らしさに思わず感想を漏らすと、彼はそれに同意するように大きく頷き、それから心に溜め込んでいたある思いを吐き出すために口を開く。

「実はそれについてひとこと言いたいことがある」

「どうぞ」

 後輩の言葉を聞いた彼は手にしたコーヒーカップをソーサーに戻し、途切れた言葉の続きを語り始める。

「半年前に、家でもこの味のコーヒーが飲みたくて、高い金を出してここで使用しているプロ用の道具を揃えた。もちろん豆も」

「さすが凝り性の桐ケ谷さん。それで今では不自由なく美味しいコーヒーを飲んでいると。つまり、自慢ですね」

 もちろんそれは心からの言葉である。

 だが、後輩のそれは彼の癇に障った。

「それは嫌味か?」

「ということは、違うのですか?」

「もし、私が淹れるものがこの店よりも美味かったら、もう少し嬉しそうに話をすると思うのだが」

「確かに」

 ……つまり、そうではないということか。

 だが、纏う微妙な空気に含まれる彼の心情を正確に読んだ後輩蒐書官がそれを口にすることはない。

 黙ったままの後輩に向けた彼の言葉は続く。

「道具も豆も同じ。それなのになぜこうも違うものが出来上がるのかさっぱりわからん」

「そこがプロの味というものなのではないかと。ちなみに、同じ味が出なかったその残念な道具はとりあえず今でも使っているのですか?」

「いや。目障りなのですぐに手放した。今はあそこに並んでいる」

 彼が忌々しそうに送る視線を辿った相棒は見つけた。

 わざらしく「寄贈」と飾り立てられた金文字ともに彼の名が記されたそれを。

「……なるほど」


 桐ケ谷裕也。

 それが餅は餅屋ということわざを自らの身をもって実践した蒐書官の名である。

「あの時私はできもしないことに金をかけるのは愚行だと注意喚起した。だが、君は聞き耳を持たず猛進し結果私の予想通りのことが起きた。罪を擦りつけられたくないので先に言っておくが他人の金で備品を増やしたくて私が君をそそのかしたという事実は存在しない」

 新しいコーヒーを手にしてやってきたマスターは冷ややかな視線を彼に送りながら、視線以上に冷たい言葉を加える。

「それはそうでしょう」

 三人のなかで最年少の蒐書官は当然のように頷くが、その言葉を聞いた彼は急いでかぶりを振る。

「武藤君。この人の言葉を鵜呑みにしてはいけない」

「どういうことですか?」

「言うまでもないことだ。今はこのように人のよさそうな顔をしているが、前職が何かを考えたまえ」

 前職。

 それは、つまり彼らと同じ蒐書官である。

「現役時代は他人を脅し、その人の貴重な品を巻き上げていた男だぞ。いたいけな後輩を言葉巧みに騙して金品を差し出させるくらい平気でおこなうということだ」

「桐ケ谷さん。さすがにそれは言い過ぎですよ」

 後輩蒐書官はこのままではふたりの会話が破綻するだけではなく、さらに不幸な結末へ向かうと仲裁を申し出るが、マスターは笑顔のままでそれを制す。

「自分が普段おこなっていることをそこまで貶めることができるとは君は至上最高の蒐書官になる資格がありそうだ」

「失礼なことを言わないでください。私の成果はあくまで紳士的な交渉結果によるものです。あなたではあるまいし、暴力と脅しだけでターゲットを手に入れるようなことはしませんよ」

「言ってくれる。それに何だね。毒を砂糖に見せかけようとするその安い芸は。そのようなはしたないことを私は教えたおぼえはないぞ」

 後輩蒐書官は、ここでようやく理解する。

 ふたりが以前ペアを組み、マスターが桐ケ谷の指導役をしていたことを。

「さて」

 急所をピンポイントに指摘され、渋い表情になった彼を放置し、マスターは後輩に視線をやる。

「武藤君にいいことを教えてやろう。今はこうして先輩面をして威張っているが、この男が君の立場だったときは本当に出来が悪く、私を日々困らせていたものだ。私は早々に引退したのはこの男の不出来が原因だったと言っても過言ではない」

「本当ですか?」

「もちろん。それは本当に涙なしには語れないくらいつらい毎日だった」

「いやいや。それは耄碌による被害妄想というものでしょう。何なら、私があなたを助けた実例をふたつ、みっつ挙げてみせましょうか」

「ほう。それはおもしろい。そういうことなら、その逆の例を君の十倍挙げてみせてやっても構わんよ。たとえば……おっと、客が来た。命拾いをした桐ケ谷君はあの客に感謝すべきだな。ということで、あなたの支払いはすべてあの男にさせるので遠慮なく一番高いものを思う存分注文してくれと彼に言っておくよ」

 出かかった言葉を止めてその捨て台詞とともに彼らから離れていくマスターと、最悪の事態を免れたらしい彼が胸を撫でおろす様子を何度も見比べ、マスターの言葉が事実であること、それから、ふたりには大きな格の違いがあることを感じた後輩蒐書官は少しだけ意地悪そうな笑みを浮かべる。

「マスターは桐ケ谷さんの指導役だったわけですか」

 あらたにやってきたコーヒーで口を潤した現相棒が訊ねると、彼は渋々という表情で白状し始める。

「そうなるな」

「どういう人だったのですか?」

「見てのとおりだ。今もまったく変わっていない。ひょうひょうとしているが、肝心なところは絶対に見逃さない。言いたくはないが、彼は蒐書官としての私の手本だ」

「なるほど」

 その言葉を口にしながら、後輩蒐書官は思った。

 ……確かに似ている。


「マスターとはどれくらいペアを組んでいたのですか?」

「五年と少しというところか」

 ……つまり、私の前任者である須木さんの前のパートナーがマスターというわけですか。

 コーヒーをゆっくりと味わいながら、彼は欠けたピースを埋めるように先輩蒐書官の時間を補っていく。

 そして、当然辿り着くその疑問を彼が口にする。

「ところで、聞きづらいことですが、なぜマスターは蒐書官をやめたのですか?まさか、本当に桐ケ谷さんのせいなのですか?」

「そのようなことがあるわけがないだろう。彼は実につまらん理由で蒐書官をやめた」

「つまらん理由?」

「本人は色々言っているが、それはすべて本当の理由をカモフラージュするためだ。もっとも、全然それが隠されていないが」

「どういうことですか?」

「マスターの名前だよ」

「……裏滝幸一」

「幸一とは実に平凡な名前だ。だが、問題は幸一ではない」

「ということは裏滝ということですか。裏滝に何か問題でも?」

「それは偽名だ。彼が名乗るべき本当の姓は北浦だ」

「北浦?……もしかして」

「そう。彼は北浦女史の年の離れた兄だ。つけくわえれば、彼女の才能を見抜き、この世界に引き込んだのも彼だ」

「ですが、それでマスターが蒐書官をやめなければならないのですか?」

「だから、くだらんと言ったのだ。ちなみに、日本を含むアジア地区の統括官になると噂があった彼が蒐書官をやめたのは妹が上級書籍鑑定官になった直後。本人はそれについて口にしたことはないが兄妹で組織の高い地位を占めるのはよろしくないと彼が考えたと思って間違いない」

「……潔い。というか古風ですね」

「徹底した能力主義であるこの組織で上位に就く人間はそれだけのものがあるということであり、そのような配慮などまったく必要ない。それなのに彼はやめた」

「……だから、くだらんと」

「そうだ」

「夜見子様や鮎原さんは止めなかったのですか?」

「さあな。だが、蒐書官をやめたにもかかわらず今でもこうやって繋がっている。未練がましいことだ」

 ……ですが、桐ケ谷さん。本気でそう思っていないことは顔に出ていますよ。

 彼の表情を眺めながら後輩蒐書官は心の中で呟く。

 それから、心の声とは別の言葉を口にする。

「いいではないですか。マスターは桐ケ谷さんと違って美味しいコーヒーを淹れられる特技があり、また彼がこの店を開いてくれたおかげで我々はこうして素敵な時間を過ごすことができているのですから」

 日頃やり込められている憂さ晴らしとばかりに練り上げたその言葉を投げかけ、先輩蒐書官を黙らせると、後輩蒐書官は満足そうに言葉を続ける。

「マスターと仕事をしているときに、桐ケ谷さんはどのようなものを手に入れたのですか?」

 それは回顧の時間から先輩を呼び戻すものだった。

 もちろんそれは彼も気づく。

 ……似合いもしない小さな気遣いのつもりか。

 ……だが、礼は言わん。

 彼は何も気づかぬふりをして後輩の誘いに乗ることにした。

「そうだな。愚かな男の不毛な話をしてもコーヒーがまずくなるだけだ。もう少し実のあるものについて語ろうか?」

 そう言った彼は、元先輩におかわりを催促するため上品とは程遠い仕草でいつのまにか空になっていたコーヒーカップを振った。


「せっかくだから、私がしようか。その昔話を」

「いいのですか?」

「もちろんだ。この男に自分の都合のいいように事実を捻じ曲げられて手柄を横取りされてはかなわないからな」

 ふたりの会話をあの距離からどうやって聞いていたのかはわからないのだが、彼らの三杯目のコーヒーをテーブルに並べながら、そう前置きしたマスターは今から八年ほど前の話を始めた。


 八年前。

 つまり、すでに蒐書官を束ねる地位に就いていたものの、まだ大学に籍を置き、のちに立花家次期当主に指名される新当主の孫娘博子の語学教師をしていた夜見子が頻繁に千葉に通っていたころ。

「『新字』?そのようなものがあるのですか?北浦さん」

 出来たばかりのコーヒーチェーン店のおすすめコーヒーを飲みながら先輩蒐書官北浦幸一にそう訊ねたのは若き日の桐ケ谷だった。

 ふたり分の香り立つ湯気越しに彼を眺めなおした先輩蒐書官が口を開く。

「その口ぶりだと『新字』を知らないな」

「はい」

「相変わらずの博識だ。国内で活動するのであれば、主な古典を読破するだけではなく、逸書についての知識も学者以上に持っていなければならないと言っているだろう」

「……はい。ですが、そうは言っても日々の仕事が膨大で……」

「まあ、そうだろうな」

 先輩蒐書官の意外なくらいに寛容な言葉に彼は一瞬だけ気が緩む。

 だが、その瞬間を狙いすましたようにそれとは対照的な言葉がやってくる。

「では、桐ケ谷君に問おう。同じだけの仕事を持っている他の新人蒐書官はどうやって君が持っていない知識を得ているのかな」

「それは……」

 もちろん彼には答えることができない。

 いや、答えられるはずがない。

 先輩蒐書官はわざとらしくつくった渋い表情で言葉を吐きだす。

「君が答えられないのなら、代わりに私が答える。つまり、君は努力が足りないのだ。しかも、その努力不足は驚くべきものだ」

「申しわけありません」

「私が欲しいのは謝罪の言葉ではなく行動だ。だが、君はすでに蒐書官として私とペアを組んでいる身。私の傍らで給料に見合った仕事をしてもらわなければならない」

「はい」

「当然私の持っている知識は共有してもらう。では、今回のターゲットである『新字』についての基礎知識を与えるので残りは自らの手で肉付けしたまえ」

「お願いします」

 頭を下げた彼に先輩が好みに合わない軽い味のコーヒーを不味そうに飲みながらあらたな知識を授ける。

 そう。

 実は北浦の厳しい言葉に反し、この時点で彼は他の新人蒐書官よりも遥かに多くの知識を手に入れていたのだが、そのほぼすべてがこのような形でおこなわれる先輩からの情報提供によるものだった。

 つまり先ほど後輩の勉強不足を嘆いて北浦だったが、その主な原因はその先輩自身にあったと言ってもいいだろう。

 もっとも、甘やかす先輩、甘やかされる後輩、双方にその自覚はなかったようではあるが。


 それから三十分後。

「つまり、『新字』とは日本最古の辞書ということなのですか?」

「簡単にいえばそうなる」

「そのようなものが突然出てくるとは怪しいですね。本物でしょうか?」

「それを確かめるのが我々の仕事だろう。だが、そのためにはまずそれを手に入れなければならない」

「そうですね。それで、それはどこに?」

「情報によれば無名の商人が闇市場に出入りしているコレクターたちに『新字』の一部が手に入ったと触れを出しているらしい」

「無名の商人?怪しいですね。闇市場を闊歩しているコレクター相手に偽物を売りつけて一儲けをしようとしているのではありませんか?」

「その可能性が高いと私も思う。なにしろ『新字』はこの世から消えてから長い月日が経ち、それがどのようなものかもおぼろげだ。そのようなものを一介の闇商人がどうやって見分けられたのだ。だが、その情報の怪しさだけで切り捨てるほど『新字』の価値は低くない。それに、もしこれが本物で、手に入れたコレクターが存在を公表するようなことになれば我々は永久にそれを手に入れることができなくなる。それだけはなんとしても避けなければならない」

「つまりコレクターの手に渡る前にそれを押さえるということですね」

「真贋検査でハズレであれば適当な理由をつけて手放してやればいい。あとはその男が贋作を高く売ろうが、手に入れた者が偽物を世紀の発見だと騒いで恥を掻こうが我々の預かり知らぬこと」

「なるほど。何にしてもまずその闇商人を見つけ出さなければなりませんね」

「そういうことだ。さっそく捜索を始めてくれ」


 彼らが動き出してから二日が経ったその日の深夜。

 彼らが滞在していたホテルの一室に呼び出されたその男は精神衛生上好ましくない汗を何度も拭いていた。

「箱田さんは汗かきのようですね」

「まったくだ。私たちには涼しいくらいですが、もう少し室温を下げましょうか?」

「い、いや。その……」

 ふたりからの嫌味も耳に入らないくらい動揺するこの男こそ幻の書「新字」を売りに出していた者である。

 箱田勝敏の言う名のこの商人をわずか二日で特定し見つけ出したのはもちろん桐ケ谷の手柄であり、先輩蒐書官には常に落第点をつけられているものの彼が有能であることの証左といえるだろう。

 そして、喫茶店で桐ケ谷が北浦を助けたと自慢していた話には当然この一件が含まれていたのだが、実を言うと、そこにはいまだ彼が知らない裏話が存在していた。

 彼から差し出されたその情報を受け取った北浦はたいした驚きも見せず、そのままその男を呼び出す準備を進めるように指示していたのは、後輩蒐書官の能力を知りつくしていた以外にもその裏話に北浦自身が大きく関わっていたからなのだが、それに気づかなかった彼は先輩が自らの功を褒めなかったことを不満に思い、今でも小さな棘としてそのことを心に残していた。

 そして、それが喫茶店での言葉として現れたというわけなのだが、それについてはいずれ時が来た時に詳しく語ることとして話を先に進めよう。


 ……面倒な準備だけをさせて、実った果実を頂くようになって桐ケ谷君には申しわけないが、やはり少しは見える部分でも仕事をしなければならない。

 ……それに、ここからは汚い仕事だ。

 ……やはり、そのようなことは先輩である私がやるべきだろう。

 すべてを後輩に任せ手柄を挙げさせようと一度は考えた彼だったが、持ち前の勤勉さと責任感が鎌首をもたげ、最終的な仕上げは自らおこなうことにした。

 桐ケ谷を隣においた彼が口を開く。

「一応断っておきます。あなたの耳に我々蒐書官がどのような存在と伝わっているのかは知りませんが、我々は巷に流れる噂のような暴力集団ではありません。つまり、穏便な交渉がおこなわれているかぎり、あなたと私たちはあくまで対等です」

 ここでの彼の言葉はほんの少しだけ脅す程度のものだったのだが、それはあくまで脅す側の論理であり、裏の世界で広がる真偽取り混ぜた蒐書官による数々の武勇伝を聞かされている相手が同じような感性でそれを受け取るとは限らない。

 そして、当然のようそれは起こる。

「お、お願いがあります」

「何でしょうか」

「私には家族がいます。……命だけは」

 涙ながらにおこなわれたそれは間違いなく命乞いであり、彼は恐れおののく相手を見て自分たちがそのような存在に見られていることに少しだけ困惑する。

 ……勘違いも甚だしい。

 ……だが、その恐れ。おおいに利用させてもらう。

 薄く笑みを浮かべた北浦がそれに答える。

「我々の呼び出しに素直に応じてくれたあなたに感謝することはあっても害することなどありえません。もちろん交渉がうまくいき、我々が満足する結果が得られればあなたは大金を手に無事家族のもとに戻れることをお約束します」

 つまり、呼び出しに応じなければその限りではなかった。

 そして、これからおこなわれる交渉においても自分たちの満足する結果が得られなければどうなるかわからない。

 北浦の口は言外にそう言っていた。

 もちろんそのようなことに敏感になっている男はその隠された言葉の意味をすぐに理解し、愛想笑いを浮かべ大きく頷く。

「さて、箱田さん。肝心の要件ですが、その……」

「これです。どうぞ」

 彼の言葉が半分も終わらぬうちに箱田が差し出したものは、桐製の箱だった。

「……ありがとうございます」

 形ばかりの礼を言ってそれを受け取り、蓋を開け出てきたものは一片の、いや実際には数枚の古い紙きれだった。

 ……見た目はそれらしい。

「では、確認させていただきます」

 まず北浦、その後に後輩である桐ケ谷がそれを確認する。

 ……驚きだ。

 ……紙の年代からいっておそらくこれは原本ではない。

 ……そうではないが……間違いない。

 それが一瞬で年代測定を終えたふたりの共通した感想だった。

「いいものですね。もちろん買い取らせていただきます。おいくらですか?」

「……十億。いえ、五億円でいかがでしょう」

 箱田は値を一気に半値にしたのは一瞬見せたふたりの殺意に似た視線を感じたからである。

 ……他愛もない。

 ……それがたとえ蒐書官のものとはいえ、一睨みでこれではとても一流の商売人にはなれない。

 桐ケ谷はその姿に黒い笑みを浮かべ、北浦も冷ややかに彼を眺めながら軽い笑みを浮かべる。

 ……写本とはいえ本物の「新字」。これは紛う方なきその一部だ。

 ……消えたはずの歴史的資料の一部。本来なら十億円でも安いくらいだ。

 ……それをわずか五億円で売るとは。

 ……たとえ駆け出しであっても商人と名乗るのなら滅多に手に入らない貴重な商品を簡単に安売りしてはいけないと思いますよ。箱田さん。

 北浦はどこにも出すことない言葉でそう呟く。

 彼の心の声は続く。

 ……もちろんこれは買いだ。

 ……だが、少々疑問がある。

 ……それを解明するまで残念だが彼の試練は終わらない。

 そう。

 このような交渉では相手に絶対に弱みを見せてはいけない。

 たとえ虚勢でもあくまで強く出て対等以上に持ち込まなければならないのだ。

 そうでなければ毟られる。

 この日の彼のように。

 そして、始まる。

 本当のショータームが。

「結構です。では、そちらの希望どおり五億円で契約させていただきます。支払いは現金でよろしいでしょうか」

「……それでお願いします」

「では、契約の証しとして握手を」

 ……仲間に聞いていたとおり握手による契約完了。

 ……悪逆非道な蒐書官だが、一度結ばれた契約を反故にはしないという。

 ……つまり、これで一安心。

 ……大幅な値引きとなったが命があるだけよしとすべきだ。

 差し出された手を握り、箱田はほっと胸を撫でおろす。

 確かに彼が聞いていたその噂は本当である。

 だが、この日に限ってはその握手はその幕開けの儀式にしか過ぎなかった。

 小動物を眺めるように箱田を見ていた北浦が再び口を開く。

「ところで、箱田さん」

「はい」

「ここからはオプションとなるわけですが」

「オプション?」

「我々の質問に答えていただければ買い取り価格に追加料金を加えて支払わせていただきます。すべてを語っていただければ私たちがここに持ち込んだ二十億円をそっくり自宅に持ち帰ることだってできますよ」

「に、二十億円?」

「ええ。そこにあります」

 無造作に指さしたのは多数のダンボール箱である。

「それをそっくり私に下さるとおっしゃるのか?」

「そのとおりです。というか、そうしていただけると帰りが身軽になる我々も助かります。それから最初に言っておきますが、こちらの世界で商売をするあなたにも事情があることはわかっています。答えたくないものは答える必要はないです。もちろんそれによってあなたの指が一本ずつ体から離れることなどありませんから。……たぶん」

 笑顔で最後に短いひとことをつけ加えた北浦はどこまでも紳士然としている。

 だが、彼が何気なく加えたその最後の言葉に箱田は震える。

 いうまでもない。

 彼が聞いていた蒐書官の所業とは、まさにこれだったのだ。

 またも掻きたくもない汗が顔中から吹き出す箱田の耳にふたりの言葉が届く。

「では、最初の質問。あなたはこれをどうやって『新字』であるとわかったのですか。これは疑いようもない本物の『新字』の一部だ。だが、疑問もある。なにしろ、ここにあるのは怪しげな文字が書かれた数枚の紙。しかも、タイトルはない。つまり、これだけではこれらが古い文書ということまではわかっても『新字』の一部という正しい解に辿り着くのはとても無理だ。それなのに、あなたはこれを正確に『新字』と主張した。なぜか?答えはひとつ。あなたはこれ以外に何か情報を持っている。違いますか?」

「さあ、詳しくお答えください。箱田さん」

 高額の報酬と身の危険という究極の飴と鞭を目の前に提示され、混乱する箱田に考える間を与えずに始まったふたりの尋問。

 それは箱田にとって永遠と思えるくらいの長い夜の始まりだった。


 長い夜が明け、彼らが遅い朝食を取り始めた頃、抜け殻のようになった箱田の姿はホテルの玄関にあった。

 苦痛と、それからそれ以外のいくつの成分によって顔を歪ませた彼の足元には北浦が報酬だと言っていた蒐書官たちの部屋にあったいくつものダンボール箱が置かれていた。

 それが何を意味するのか?

 それは彼の表情を見ればあきらかというものであろう。


「彼が語ったあれが本当に彼の知るすべてなのでしょうか?」

 今しがた口に入れたベーコンの油でなめらかになったらしく寝ずに過ごしたとは思えないくらいに彼の口は良く動いていた。

 だが、蒐書活動中にはこのようなことは日常茶飯事である先輩蒐書官はさらに饒舌だった。

「そうだろうな。あの状況で隠し事ができるようなら将来彼は相当できた商人になるだろうし、その事実は彼にとってとても大きなものだと言わざるをえないが現実はそうでもない。どちらにしても、あれがギリギリだろうな。あれ以上やれば死体がひとつできあがる」

「そうですね」

「ところで、桐ケ谷君。君はこれからどうしたらよいと考えているかね」

「まず、手に入れたこの『新字』を夜見子様のもとに届けます」

「……なるほど。それから?」

「箱田がただ販売を依頼されただけとわかったのですから、当然『新字』の本当の持ち主を探します」

「まあ、それはそうだが、その方法はどうするのかな?というか、私はそれについて訊ねたつもりだったのだが、まさか夜見子様に手に入れた『新字』を届ける話を持ち出されるとは思わなかった」

 先輩の嘲りを含んだ言葉にようやく彼は自らの勘違いに気づく。

 だが、出た言葉を引っ込めるわけにいかない彼は急いで言い訳を考える。

「も、もちろん私だってそうだとはわかっていましたよ。ただ、いつも北浦さんに『君は過程を飛ばして話す』と指導されているので最初から話しただけです」

「悪かった。確かに桐ケ谷君の言うとおりだ。まあ、とにかく続けたまえ」

 北浦は笑いをこらえながら、顔を真っ赤にして陳腐な反論する後輩を宥め、それから言葉を続けるように促す。

 心の中で自らの考えをまとめながら。

 ……まず、「新字」は箱田が手に入れたものではなく、別の人物が彼を商人に仕立てて闇市場で売りさばこうとした。

 ……その人物が「新字」をどのようにして手に入れたのかは定かではないが、最低価格を示さなかったことから正当な取引によるものではない。もちろん、先祖伝来の品ということも考えられるが、状況を考えればその可能性は低いと思われる。

 ……この本来の所有者のさらに不可解な点は、すでに闇市場関係者のなかでは書物を高価で買い取ることで有名になっていた我々蒐書官に声をかけなかったこと。すなわち、その人物にとって今回の「新字」の売買は単純にそれを高値で売り、利益を得ることが目的ではない。

 ……その点については、どのような金額になろうとも売値の半分を箱田に渡す。しかも、交渉相手との妥結金額は箱田の申し立てた額という緩い契約からもあきらかである。

 ……一方で、現金取引が常で、取引相手の事情を深く詮索しないという暗黙のルールがある闇市場では異例ともいえるくらい買い取り者についての情報を詳細まで報告することを箱田に求めている。

 ……以上の点から、本来の所有者は「新字」を手放す気はなく、箱田がそれを売り払ってほどなく、回収するつもりだという可能性が高い。

 ……そして、もっとも重要な点。それは箱田が本来の所有者よりあれが「新字」という名の行方不明になってから長い月日が経つ貴重な書であることを聞かされていたことだ。つまり、この者またはこの者の上位者こそがそれが「新字」であることを知っていた人物である。

 ……そこで、このような状況でまず我々がやらなければならないのは「新字」奪還のためにやってくる襲撃者に備えることだが、それはすでに手配をしてあり、完璧な布陣ができている。

 ……それとともに、金の回収を兼ねて箱田の口封じのためにやってくる者たちへの備えもおこなう。まあ、こちらも問題ない。

 ……最後に襲撃者を捕まえ口を割り、そこから仕事の依頼者または「新字」の本来の所有者に辿り着く。

 ……今回の一連の不可思議な行動の目的や、「新字」の残りの有無については、辿り着いた先で訊ねればいいだろう。

 ……下手に探し回っては逆に蒐書官の勇名を恐れ逃げられる可能性がある。黙っていても向こうから会いにやってくるのだから我々はただそれを待っていればよい。

 ……つまり、それが解。

 ……さいわい、ここは橘花グループのホテル。宴の舞台としては最高だ。


 その日の夜。

 北浦の予測通りふたりのもとに五人の客がやってくる。

 彼らの来訪を待ち望んでいたふたりはもちろんそれを喜んで迎えたわけなのだが、訪問者にとってのそれは実に不本意なものとなった。

 なにしろ万全な体制で乗り込んだはずがあっという間に自分たちの倍する人数の蒐書官に拘束され、まるで荷物のように縛り上げられた状態でふたりの前に引き出されたのだから。

「貴様らはいったい何者だ」

 リーダーである男のその言葉はこの状況では単なる強がりとしか思えぬものであり、苦笑しながら北浦が答える。

「善良な市民の寝込みを襲うような輩に何者かと問われるとは思わなかった。そもそも君たちは私たちに面会しにきたのではないのかね。それにもかかわらず面会を果たせた相手におまえは誰だと問うというのは驚くべき認識だと言わざるを得ない。だが、せっかく会いに来てくれたのだ。その愚かな疑問にも答えてやろう。我々は君たちより格上の存在。そして、貴重な書を蒐集している者だ。ここまで言えば君たちがどれほど無知でも我々が誰かわかるだろう」

 男はすぐさま自らの頭にある紳士録を探し、ほどなく正解に辿り着く。

「……もしかして蒐書官なのか?」

「もしかしなくても蒐書官だね」

 もちろんそれは北浦本人のものではなく隣にいる男から届いた嘲りを込めた言葉だった。

「なぜ我々が来るのを知っていた?まさか箱田か」

「君たちはそこまでの情報を彼に伝えていないだろう。それなのにその罪まで擦り付けられたら彼がかわいそうというものだ。まあ、箱田氏には我々の職業を語ることなかれとは言っておいたのは事実なのだが。それよりも、そろそろこちらの質問に答えてもらってもいいかな」

 それまで淡々と語っていた言葉を一度切った北浦の口はすぐに動き始めるが、そこからは彼の纏う空気はまったく違うものに変化する。

「おまえたちの飼い主について知っていることすべてを今すぐ吐け。そうすれば、痛みを感じることを後悔させないでやろう」

 五人の男はその言葉の意味をすぐに理解した。

 だが、噂では聞いていたものの、本物の蒐書官を相対するのは初めてだった彼らは、北浦と、そして蒐書官という組織の恐ろしさを完全に見誤る。

「俺たちもプロだ」

 つまり、黙秘する。

 それが彼らの選択。

 ……これは単なる脅し。多少痛い目には遭うだろうが、さすがにここは日本だ。この程度では殺しはしない。

 ……それに、いざとなれば用意された虚偽情報を口にする。

 心にこっそりと罠を忍ばせ不敵な笑みを浮かべる五人の予定ではまずここで罵倒を受けるはずだった。

 だが、やってきたのは予想に反し、彼らの決意に対するにはあまりにも方向違いな「負の賞賛」だった。

「つまり、拒否ということですか」

「そうなりますね。見上げた覚悟とも言えますが、やはり愚かなことです。それとも、すすんで痛い思いをしたいということでしょうか。もしかしたら彼らは特別な趣味をお持ちの方々なのかもしれません」

「つまり、顔に似合わず被虐趣味ということですか。変態ですね」

「それはさすがにひどいな。葛葉君。たとえ相手が本当に過度の被虐趣味者であってもお仲間である君にだけはその趣味についてとやかく言われたくはないだろう」

「まったくだ」

「それこそひどいというものですよ。実益を兼ねた私の高尚な趣味とそのような悪辣な性癖を一緒にしないでください」

「一緒だよ」

「一緒だな」

「まちがいなく一緒だ」

 蒐書官たちが口々に並べる陽気な言葉をすべて聞き流した北浦はそのなかのひとりで仲間から袋叩きにあっていた男に視線を送る。

「葛葉君。彼らの決意が固い以上我々もそれなりのことをしなければ情報を得られない。申しわけないが君の尋問技術を見せてくれたまえ。まあ、そのために君たちのペアにもきてもらったのだが」

「承知しました」

 この時点でその技術においてはすでに蒐書官内でもトップクラスといわれているその男は、その言葉に目を輝かし、さっそく品定めに入る。

 そうして、選ばれたのは五人のなかで一番若い男だった。

「では、君からいきましょうか」

 この後、その男の身に何が起こったのかは言うまでもない。

 三十分後。

 遠慮や手加減といったものには無縁の世界で許しを請う言葉も聞き入れられず咆哮をあげ続けた男が静かになる。

 だが、幸か不幸か肉体の限界が来る前に彼の精神はすでにこと切れていた。

 仲間の前でおこなわれたそれは究極ともいえる驚くほどの技術を持った加虐趣味を持つ男によるリンチ以外のなにものでもなく、これでは情報を引き出すという本来の目的は達せられないように思えたのだが、実はそうではない。

 目の間で痛覚を持っていたことを心の底から後悔する凄惨な儀式を見せたあとに、甘い言葉をかける。

 これが葛葉の尋問方法。

 そして、相手も人間。

 大概の者ならこれで目的は達せられる。

 もちろん今回も。

 葛葉に指名された次の男が助かることを条件に、本来話すべき欺瞞情報ではなく知っている真実をすべて喋ると、続くふたりも彼と同じ生き残るための道を選択する。

 そうして、最後に残ったのはそのグループのリーダー格の男だった。

 葛葉は淀んで目でその男を眺める。

「リーダーであるあなたはさすがに先ほど程度の軽い尋問で口を割るとは思えない。あなたの身体には年に数回かしかおこなわないスペシャルサービスを施してあげましょう。もちろん簡単には殺さない。まず皮膚の薄皮のすべてを血が出ないように剥ぎ……」

「や、やめろ。すべてを話す。話すから許してくれ」

「言っておきますが、正直に話した彼らと矛盾があった場合には、死ぬより辛い厳しいお仕置きが待っていますよ。まあ、それによって楽しめる私はそれでもいいと思っていますが、そうなりたくなければ心して話してください」

 そこから他の仲間たちと同じように尋問をおこなうための別室に連れていかれた男は驚くほどあっさりと自白し、蒐書官たちは足りなかったピースをすべて回収することに成功する。

 だが、葛葉の尋問が終わった彼らに平穏な時間が訪れることはなかった。


「葛葉君。我々蒐書官に楯突いた者が最終的にどうなるかを彼らにしっかりと教えてやってくれ」


「馬鹿か。自分たちが命を狙った相手に命乞いをして聞き届けられることなどこの世界に存在するはずがないだろう。自分たちだけが生き残ろうした浅ましさを真っ先に地獄に行った仲間に詫びろ」

「そう言うな。彼らも助かりたいのだ。もちろんそれに応じるほど我々は優しくないが」

 桐ケ谷が吐き捨てる言葉にそう応えながら、北浦はそこでおこなわれる最終儀式の様子が眺め、「約束が違う」という四人分の叫び声が消えるのを確認してから、その場にいた全員とともに目的の場所へと向かった。


「そうして、その本来の所有者から『新字』の残りの部分も手際良く回収したというわけですね」

「……いや」

 何度も頷きながらその見事な武勇伝に聞き入っていた武藤が口にしたその問いに、それまで快調だった北浦の言葉が止まる。

「違うのですか?」

「残念ながら違う」

「どういうことなのですか?」

「肝心のもう一方の当事者からの言葉を聞いていないので詳しいことはわからない。ただ、我々が『新字』の大部分を手に入れそこなったことだけは確かだ」

「つまり、目的の人物が逃げた?それとも、彼らが口にしたのは欺瞞情報だったということですか?」

「正解は前者だ。彼らの情報は間違いなく正しかったのだから」

「そういうことです。それに、そもそも命を代償にしてまで守らなければならないほど彼らと雇い主は深い付き合いではなかったし」

「それはどういうこと意味ですか?桐ケ谷さん」

「哀れな最期を遂げた彼ら自身も箱田と同じ立場。つまり一時的に金で雇われていた者たちだったということだ」

「なるほど。ということは、待ち合わせ場所自体には彼らを雇っていた人物はいたものの、その人物はマスターたちがやってくることを察知して逃げたということですか?」

「それだけではない。かなり早い段階で彼らが失敗した情報を掴み、何ひとつ証拠を残さぬように待ち合わせ場所に火をかけた。あれは相当の手練れだな」

「どうしてそのように言えるのですか?」

「我々に尻尾さえ掴ませないその証拠隠滅技術など挙げればきりがないが、まず驚くべきはその情報収集能力だ。あの日多くの仲間がホテル周辺地域を散らばり監視していた。さらに盗聴もおこなっていたが、監視や結果報告をしている痕跡がなかった。それにもかかわらず情報を手に入れていたのだから相当に能力の高い相手といってもいいだろう。だが、その情報収集能力以上に恐れ入るのはその引き際の良さだ」

「つまり、逃げ上手ということですか?」

「まあ、言い方を変えればそういうことだ。なにしろ送り込まれた彼らの目的は間違いなく売った商品の回収だった。もちろんあれにはそれだけの価値があり、その人物にとってはどうしても取り戻したかったものだろう。それにもかかわらず回収を依頼した彼らが手間取っているとわかった瞬間に回収は失敗したと判断し、あっさりと回収することをあきらめ、逃げに入った。それだけではなくそれ以降も取り返しに来る気配がない。ハッキリ言ってこれは相当肝が据わっていなければできることではない。ついでにいえば、その者が持つ情報網であれば、その人物が送り込んだ彼らを仕留めたのが蒐書官であったことは容易に掴めるだろう。そうであれば彼我の実力差によって表立ってできなくても、嫌がらせのひとつくらいは起こしそうだ。当然我々も何かしらのコンタクトがあるはずだと思い、箱田氏周辺を含めて待ち構えていたのだが結果は音沙汰なしだ。我々にとって一番やりにくい相手とはこの手の輩だ」

「なるほど。確かに」

「どちらにしても、逃がした魚は大きいですね。参加した蒐書官にとっては忘れられない失敗としてあの夜のことは永遠に記憶に残るでしょうね」

「まったくだ」

「ですが、たとえほんの一部でも貴重な『新字』を手に入れたことは事実ですし、今の話ではこちらにはミスらしいものはありませんでしたから、そこまで言うのはどうなのでしょうか」

「いや、武藤君。それは違う。失敗には正しい行動をすればそうはならなかったという原因が必ずある。それを『偶然』とか『ついてなかった』として片付けているかぎり蒐書官が目指す完璧な成功はやってこないし、同じ失敗を何度も繰り返すことになる」

「そういうことです。そこにひとこと付け加えるならば、あの失敗はオペを指揮したこの人の責任が大きい」

「ふむ。私とともにその場にいてろくな仕事もせずひたすら捕らぬ狸の皮算用に勤しんでいた者の言葉だ。それについてはまったく反論できん」

 ……ここぞとばかりの桐ケ谷さんの言葉だったが、こうもあっさりと返り討ちにされるところを見ると、ふたりには依然相当な差があるようだ。もちろん私など足元にも及ばない。

 ふたりのやりとりを少しだけ羨みながら笑みを浮かべた後輩蒐書官が訊ねる。

「……それで、マスターにひとつお伺いしてもよろしいですか?」

「では、逃げられた原因は何かということだろう。これの正解は本人に訊ねるしかないのだが、私なりに推測をすれば、まず相手は我々の行動をかなり遠くから監視していた。もちろん千里眼などという得体のしれないものではなく、高性能の望遠鏡で。それから、おそらく君も考えついているのだろうから、ひとことそれにつけ加えておけば、内部協力者説は鮎原さんのその後の調査によってその可能性は完全に消えている」

「安心しました」

「さて、武藤君が納得したところ話を戻そう。それでは、あの時に訪問者の処理を後回しにして情報を手に入れた時点で行動を起こせば間に合ったのかといえば、それでも少々足りなかったように思える」

「と言いますと?」

「相手は取引が終了した箱田氏の報告から、箱田氏に接触したのが蒐書官だと気がついていたのではないか。これは証拠隠滅が慌ててやったものには思えない完璧な仕事だったことからも想像できる。そういうことから考えると、正解は商品を一度返還して依頼者にもとに向かう訪問者たちをこっそりと追走し、本来の所有者が現れたところを取り押さえることだった。それくらいでなければ、あの相手には逃げられる。つまり、あの件において反省しなければならぬこととは相手を甘く見た点ということになるかもしれない。だが、そうであれば、それはひとつの手がかりとなる」

「何の手がかりですか?」

「もちろんその人物の特定だ。その者はおそらく一度は蒐書官がお世話になっている人物。言い換えれば、蒐書官にひどい目に遭わされている経験がある者」

「羹に懲りてあえ物を吹く」

「まあ、そこまで言わなくても、過去の苦い経験がなければお宝を捨ててあれほど潔く逃げ出すことはできなかっただろうし、結果的にそれがその者の身を助けた。そして、もうひとつの条件がその人物がそれなりの組織を抱えているか、本人がよほどの切れ者で、さらに資金があること」

「なるほど。それで、具体的にその人物の特定はできたのですか?」

「現状が語っているとおり該当者があまりにも多くて絞り切れなかった。それに、今それをおこなうべきは引退した私ではなくこの男だ。まあ、私がその人選を誤ってこの男に頼んだために今もって進展がないわけで、御菩薩木君か朝霧君のペアに頼めばよかったと本当に後悔しているよ」

 そう言って北浦は師匠が出来の悪い弟子を見るように昔の相棒にじっとりとした視線を送ると、それに気づいたその人物は彼の言葉は事実無根でそのようなことでいわれなき非難を受けるなど迷惑千万といわんばかりの表情をつくり、たっぷりと熨斗をついた言葉を送り返すために口を開く。

「辛い仕事からさっさと逃げておきながらこの言い草。武藤君。これがこの人の本性だ。そして、君はおおいに感謝すべきだ。君とペアを組んでいるのが、後輩イジメを生業としていたろくでなしのこの人ではなく人格者である私であることを」

 もちろん彼としては、この言葉で自らの元指導役にトドメを刺したつもりでいた。

 だが、実際にはそうはならなかった。

 いや、その逆であった。

 そう

 この世界では若さや勢いよりも経験がはるかに重要である。

 それが証明される場面がこの後すぐにやってくる。

「以前よりもさらに磨きがかかった笑えないジョークを面白おかしく言う君の特技は本当に賞賛に値する。だが、どうやら君は人格者という言葉の意味がわかっていないようだ。今後のためにそこだけは訂正しておこう」

「いいえ。よくわかっていますよ」

 そう言って、年長者の挑発に乗り、むきになった彼が長々と辞書に書かれた人格者の意味を語ると、元先輩蒐書官は目を細める。

 ……まだまだ甘い。

 その心の声が聞こえそうな黒い笑みを浮かべてから彼の元指導者が口を開く。

 その仕上げに向かうために。

「ほう。では、聞こう。君のどこを見たらその意味に該当する部分に辿り着くのかね」

「もちろん体全体から涌き出しています。見えませんか?私を取り巻くこの凄まじい量のオーラを」

「いや。君の周りに漂っているそれはオーラではなく体臭だ。少なくても後輩の前で君自身の清潔観念とそれにともなう信用を貶めるそのような自慢はすべきものではないと思うぞ」

 ……勝負あり。

 だが、審判役の後輩蒐書官のその言葉のあとも潔さの欠片もない教え子とそれにあえてつきあう師匠のたわいもない諍いは続き、当事者であるふたりだけではなく先輩蒐書官の隠された一面を見ることができた武藤にとってもそれは予想外に楽しい時間だった。

 そして、そこで話題にのぼった「新字」という名の逸書。

 初めてその存在を知った武藤を除いた年長のふたりは、ともにいつの日かあの日取り逃がしたその書の所有者を突き止め、多くの蒐書官の心に傷として残る「新字」に関わるすべてを決着させたいと願っていた。

 だが、それとともに現実主義者である彼らは、そこまでの道のりは大変困難なものであり、そこに辿り着くためには驚くような幸運が必要であることも知っていた。

 ……つまり、残念ながらそれを実現させるのは相当難しい。

 あの日の思い出を口にしながら北浦が心のなかで語ったその言葉こそ、この時点での彼らの本音であったのは間違いない。

 だが、この日からそう時間が経たないある日、やってくるはずがないと思われたその幸運は思いがけない場所から突如舞い込んでくることになる。

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