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古書店街の魔女  作者: 田丸 彬禰


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ヴァイキングの航海日誌

 千葉県成田市成田国際空港。

 海外からの旅行者数や就航数だけでいえばいまだ日本最大といえるものの、欧米の主要都市からの就航を羽田空港に奪われ、国際空港として地位が急速に下がっているこの空港にオスロからのチャーター便がやってくることになっていたこの日。

 その到着に合わせたかのように、多くの蒐書官がこの空港に姿を現し、密かにだが物々しい警戒態勢に入っていた。


「植草さん。なぜ羽田ではなく、東京から遠い成田なのですか?」


 やってきた蒐書官のひとりであり、第二ターミナルへの配置が指示された羽鳥はペアを組む植草にぼやくと、千葉県出身の植草はその問いに胸を張って答える。


「どうやら君はこの空港の良さがまったくわかっていないようだな」

「成田が羽田よりも優れている点など本当にあるのですか?」

「ある。特に警備をする者にとっては」

「というと?」

「ターミナルが狭い。そして、なによりも利用者が圧倒的に少ない」

「それ、本気で言っていますか?私には空港関係者に喧嘩を売っているようにしか聞こえませんが」

「もちろん本気だ。それに、何もなければ夜見子様が好んで成田を利用するわけがないだろう」

「まあ、何か理由がなければわざわざ遠い空港を選ぶことはないのは確かですが、なるほどそういう理由だったのですか」


 彼はそう言って先輩蒐書官の言葉に納得したのだが、夜見子をはじめとした橘花グループ幹部が海外に出かけるときにこの空港を利用するのには先輩蒐書官が口にしたもっともらしい理由よりももっと大きなわけがあった。


 ……だが、ここが警備の本筋から外れていると知ったら気を抜くかもしれない。

 ……やはり、彼に本当の理由を教えるのはこのミッションが終わってからでいいだろう。


 真実を知る先輩蒐書官は心の中で呟いた。


 さて、彼らの主である天野川夜見子自身が海外に出かけるわけでもないにもかかわらず、これだけ多くの蒐書官が集まっていた理由。

 それはその飛行機には夜見子を訪ねてやってくるある人物が乗っていたことだった。

 もっとも、彼ら蒐書官の護衛の主たるターゲットはその人物を出迎えるために成田にやってくる彼らの主であり、ノルウェーからの客人は彼らにとってはそのついでのようなものでしかなかったのだが。


 そして、客人を乗せた飛行機が到着する一時間前。

 彼女が側近とともに空港施設のひとつに現れると蒐書官の警戒レベルは数段階上がる。


「まるで夜見子様の城の住人がそっくり成田に移動したようだ」


 蒐書官のひとりが呟いたそれはその状況を端的に表す言葉だった。


「夜見子様」


 警備につく蒐書官と数人の係員以外には誰もいないそのターミナルのロビーを軽やかに歩く彼女の左隣を進む上級書籍鑑定官北浦美奈子が口を開きかけると、彼女は左手を上げてそれを制する。


「あなたが言いたいことはわかっています。ですが、これだけの準備をしたにもかかわらず、理由もなく客人を出迎えもせずに帰ったら時間と経費の無駄使いと鮎原に笑われるだけではなく、空港で出迎えると連絡した相手に対しても失礼というものでしょう」


 彼女としては、このひとことでケリをつけたいところだったのだが、そうはいかなかった。

 表情に厳しさを増した隣の女性が再び口を開く。


「もし鮎原が本当にそのような無礼な言葉を吐いたら私がそれに相応しい罰を与えます。それに理由など急病でも急用でもいくらでもつけられます。とにかく今からでも遅くはありません。戻りましょう」


 この数日繰り返し聞いていたその言葉に少しだけうんざりした彼女は自身がその度に何度も口にした言葉を返す。


「あなたが心配してくれるのはありがたいのですが、鮎原が直々に警備の指揮をとっているのですから問題は起こりようがないと私は考えます。もしかして、あなたは鮎原や彼直属の蒐書官たちの能力を疑っているのですか?」

「いいえ。それについては微塵も心配しておりません」


 ……あら、珍しい。てっきりそのとおりと言うのかと思っていました。


 彼女はその素直な言葉に少しだけ驚く。


 ……まあ、堅苦しい美奈子さんが気にしているのはもちろん警備のことではなく……。


「では、わざわざ日本まで私に会いにやってくる客人を出迎えることが無駄だと言いたいのですか?」

「そういうわけではありませんが、夜見子様自身が空港まで出迎えるまでは必要ないのではありませんか。そのために鮎原や私がいるのです」


 そう。

 彼女の想像どおりこの女性は客への過度な厚遇は彼我の立場にいらぬ上下関係をつけることになることを懸念していたのだ。

 そして、彼女のこの言い分は一般的に見てもそう的外れというわけではない。

 だが、彼女の主は笑顔でそれを否定する。


「それについてはあると言っておきましょう」

「どういうことですか?」

「つまり、私は一刻も早く彼の土産の中身が知りたいのです。これほどの理由は他にありますか?」

「……いいえ」


 上級書籍鑑定官は心の中で思った。


 ……なるほど。確かにそれはあなたにとって最高の理由です。


「ですが、具体的に何を持参しているのかを聞かされていないのであれば、北欧土産の定番であるスモークサーモンやピンクキャビアの可能性もあるのではないでしょうか?」

「スモークサーモンにピンクキャビア?いいですね。もし、彼が持ち込むお土産がそのようなものだというのなら是非クジラ肉も追加してもらいたいものです。ノルウェーで食べたクジラのステーキは非常においしかったですから」

「夜見子様」

「食べるために牛や豚を平気で殺すビーガンでもない人、それどころか楽しみだけに笑いながら動物を殺す同族には抗議のひとつもしない人にクジラを食べるのはかわいそうなどとは言われたくないですね」

「私はクジラを食することへの可否を言ったわけではありません」

「もちろんわかっています。ですが、彼は自身のためだけにチャーター機を仕立ててやってくるのですから、少し考えれば彼の持ち込むものがスモークサーモンなどではないことはすぐに想像できると思いますが」


 ……たしかに。


 納得はしたものの、男の目的が何なのかということまでは彼女にはわからない。


 ……少し説明が必要なようですね。


 彼女の表情からそれを理解した主が再び口を開く。


「商談と言いながら、彼は持参するものに対する支払いは日本のアンティークでお願いしたいと伝えてきています。つまり、そのチャーター機は帰りに荷物を積むためのもの。ということは、飛行機の特大荷物ルームが必要になるくらいのアンティークと同程度の価値があるものを彼は持って来るということになります。そして、私が相手に対してそれだけのものを差し出すものといえば?」

「貴重な書」

「いいえ。ただの貴重な書ではなく、驚くべきとつけ加えなければならないくらいの貴重な書となります」

「なるほど。そのようなものなら早く確かめたいという夜見子様の気持ちはわかります。それで、夜見子様。夜見子様はそれがどのようなものだと思っているのですか?」

「以前私は彼に対してヴァイキングの航海日誌を所望しました。もしかしたら、彼はそれを見つけたのかもしれません」

「ヴァイキングの航海日誌?そのようなものが存在するのですか?」

「聞いたことがないですね。ですが、それが見つかったというのなら、飛行機に入り切れないくらいのアンティークと同等の価値があると言われても驚きません」

「なるほど。ところで、そのアンティークは誰に用意させますか?やはり鮎原ですか?」

「それだけのアンティークを短期間に手に入れるとなると表の世界だけを探したのでは間に合いません。多くの貴重品が動いている闇市場に相当のコネとその真贋を見極める目が必要となります。もちろん鮎原ならそれが可能ですが、その仕事を担わせるほど彼は暇ではありません」

「では、誰に?」

「いるでしょう。私たちの身近にそのようなことを生業としている者が」

 そう言われた女性は頭の中にある人名録を大急ぎで捲り続け、やがてひとりの男に辿り着く。

「……もしかして、例の闇商人ですか?」

「そのとおりです」

「ですが、信用できるのですか?」

「木村恭次は金には汚いですがそれに見合った能力があるうえに、裏世界で生き抜いてきた商売人らしく一度取り決めた約束は律儀に守るので心配ありません。そして、なによりも彼の傍らには真紀がいる」

「つまり真紀に目付をさせるということですね。今回真紀を同行させなかったのはそのためだったのですか?出迎えに同行させては客人の口から彼女が私たちの側の人間であることが漏れるから」

「そういうことです。それよりも、あれの準備は大丈夫でしょうか?」

「あれ?」

「もちろん宴の支度のことです」


 それから一時間と少しだけ過ぎた同じ場所。


「それにしても……」


 到着した飛行機から降りた男は係員に案内されてやってきたそのターミナルロビーの異様な光景に思わずその言葉を口にした。


「まことに静かですな」


 空港関係者と思われる者以外には彼を出迎えた者たちだけしかいない。

 それがその状況を過不足なく表現する言葉だった。


「そのとおり。そして、それこそがここの良さとなります。ようこそ成田空港ターミナルゼロへ」


 彼の言葉にそう応えたのは、自身よりも少々長身の年長の女性を従えるようにして立つ三十歳よりも少しだけ若い女性だった。


「ターミナルゼロ?」

「はい。そして、ここはあなたのような私たちのお客様をおもてなしするためにつくられたものです」


 もちろん彼女のこの言葉は嘘である。

 いや、嘘という言葉はさすがに言い過ぎであり、説明の言葉を意図的に減らしていると言ったほうがよいだろう。

 正確に近い表現で説明すれば、彼らはその名で呼び、空港関係者の間ではその管理する者たちのイニシャルからとられた「ターミナルK」と呼ばれているここは彼女が属する組織がすべてを管理しており、彼らの幹部の出入国にもここが利用されている場所である。

 もちろんそれだけではない。

 蒐書官が海外で不法に手に入れた多くの商品の多くもここを通って国内に持ち込まれている。

 つまり、ここはそのような場所。

 そして、彼女天野川夜見子をはじめとした橘花グループ幹部が成田空港を利用する理由がこのターミナルが存在しているからなのである。


 ……オスロでの一件をもみ消しただけではなく、他国で大規模な報道規制までおこなわせる組織だ。かなりの力があるのはわかっていたが、ここまでとは思わなかった。

 ……だが、これでわかった。

 ……あれに対する十分な見返りが期待できるということが。


 滲み出る表情を見るだけでその思いが読み解ける彼を眺めながら一度言葉を切った彼女は最高の笑顔をつくり直すと、再び口を開いた。


「お久しぶりです。ミスターハーゲン。そして、奥様。それから誕生したという話は聞いていましたが娘さんも大きくなられましたね」


 エドヴァルト・ハーゲン。

 以前彼女がイギリスから帰国する前に立ちよったオスロで知り合った暗闇に半分足を踏み入れた骨董商兼コレクターである。


「まあ、そういうことで、ここは出入国のスピード最優先の施設なので、一般旅行者が利用するターミナルのような気の利いた設備がない極めて簡素な場所です。ご不便をおかけしますがご容赦ください」


 そう言って、彼女は軽く頭を下げた。

 だが、それはあくまで謙遜であり、免税店のようなものがないというだけで、そこはそれ以外の必要なものはすべて揃っており、人員と設備が配置されれば空港の最高級ラウンジからさらにもう一段階上げたサービスを受けることができる場所へと変えることもできる。

 そして、彼女とハーゲンの商談をおこなうための準備が整えられた今日の姿がまさにそれだった。


「さて、ミスターハーゲン。連絡にあった私への手土産を見せていただきましょうか?」


 笑顔での挨拶で始まったその商談の様子が一変したのは彼女がその言葉を口にした瞬間だった。

 その言葉とともに周囲にいる蒐書官から笑顔が消えその代わりに異様な雰囲気が漂い始める。

 言うまでもない。

 この男がつまらぬものを取り出したらすぐさま行動を起こす。

 言葉にしなくてもその空気はそう語っていた。


 ……殺気か?

 ……私がミス天野川を害するなどと考えているのなら実に愚かだ。


 彼らから滲み出すそれを素早く察知したハーゲンは心の中で呟き、実際には皮肉を込めた言葉を口にする。


「これは心外」


 二重の意味が込められたその言葉とともにその特別に誂えたであろう小さなスーツケースからハーゲンが取り出したのは羊皮紙製の本だった。


「あなたがあのとき希望されたヴァイキングの航海日誌です。やっと手に入れたので持参しました。もしかして、数年前に発したご自分の言葉をお忘れでしたか?」


 ふたつの意味のうちのもうひとつを口にしたハーゲンに対して、彼女は微笑みで応える。


「いいえ。もちろん覚えていますとも。中身を確かめてもよろしいですか?」

「どうぞ」


 ハーゲンが頷くと、彼女はそれを手に取る。

 どちらかといえば古い紙束といえるそれをいつくしむように読み進めながら彼女はそれを確認して心の中で呟く。


 ……本物だ。

 ……それにしても、このようなものがよく残っていたものです。

 ……いや。よく存在したものだと言った方が正しいですね。


 彼女は会心の笑みを浮かべる。


「ところで、これをどこで……」

「それは答えられませんね」


 当然のように訊ねる彼女の言葉だったが、ハーゲンは笑顔のままそれに答えることを即座に拒絶する。

 その瞬間気の早い数人の蒐書官は武器に手をかけるが、彼女は無言でそれを制す。


「……なるほど。確かにそうですね」


 それから一瞬の静寂後、彼女が再び口を開く。


「あまりの驚きに思わず口にしてしまいましたが、このような品を取引する者にとってその言葉は禁句でした。申しわけありません」

「いえいえ。こちらももう少し言葉を選ぶべきでした。それから、それを口外してしまっては存在価値がなくなる私の立場を理解していただいたことにも感謝します」


 何事もなかったかのように語るふたりだったが、もちろん実際はそうではない。

 人生最大ともいえる生命の危機を脱した安堵の気持ちを隠すハーゲン。

 それを知りながら、気づかぬふりをする彼女。


 ……交渉を円滑に進めるためとはいえ、これではまるで狐と狸の馬鹿試合のようです。


 心の中でその一方は自嘲した。

 もちろん口にしたのはそれとは別のものだった。


「確かに受領いたしました。さて、今度はこちらからお聞きします。私たちから贈るあなたの来日記念の土産はどれほどのものを用意したらよろしいでしょうか?」


 言外に訊ねたのはもちろん羊皮紙の値段である。

 だが、ハーゲンが口にしたのは意外な言葉だった。


「お任せします」

「査定を任せる?受け取る側である私に?」


 彼女の問いにハーゲンは頷く。


「私は蒐書官の方々のすばらしい仕事ぶりを目の当たりにしております。今回持ち込んでいない残りの商品を含めてこれからもあなたと取引をおこないたい私が彼らの主であるあなたがつけた値に文句を言うはずがないではありませんか」

「なるほど。そこまで信用していただけるとはまさに光栄のきわみ」


 ……つまり、想像できるかぎりの最高額をつけろということですか。

 ……すばらしい商売人ともいえますが意外に食えない人ですね。


 彼女は思わず苦笑いを浮かべるが、ここはそれを受ける以外の選択肢はない。


「承知しました。精一杯査定させていただきます」


 彼女は契約成立を証しである握手を求めるためにハーゲンへと手を伸ばした。


 それから二時間後。

 成田から東京へと向かう車中。

 後を走る客人一家を乗せた車を忌々しそうに眺めながら、彼女の側近である上級書籍鑑定官が口を開く。


「夜見子様。あそこまでは折れる必要はなかったのではないでしょうか?」

「というと?」

「気前が良すぎです」

「つまり口が滑らかになりすぎたということですか?」

「端的にいえばそうなります」

「それはおかしいですね」

「何が、でしょうか?」

「鰻を食べたのはあの話をした後なもので」


 つまり、「鰻の油で口が滑ったわけではない」と言いたかったのだが、冗談であっても実に微妙な内容で相手を煙に巻き年長の女性を困らせてから、彼女は一気に話の核心を口にする。


「では、『お言葉に甘えて』と言ってタダ同然でこれを手に入れるべきだったとあなたは言うのですか?」

「そうではありません。ですが、何事も限度というものがあります」

「限度?つまり、あなたはハーゲン氏が手に入れた『ヴァイキングの航海日誌』は私が提示した返礼品ほどの価値がないと言いたいのですか?」

「そのとおりです」

「……なるほど。確かにまだこれに目を通していないあなたがそう思うのは仕方がないことですね。しかし、ハッキリ言ってそれは大きな間違いです」

「ということは、それは『ヴァイキングの航海日誌』であるという存在そのもの以上にそこに書かれている内容に夜見子様が提示した対価に値する価値があるということですか?」

「そういうことです」

「内容をお伺いしてもよろしいですか?」


 彼女は頷き、それから少しだけ間を開けてから口を開く。


「彼らヴァイキングがアメリカ大陸に到達していた記録が残されていました」


 その女性の専門は日本の古典文学である。

 だが、主が抱えるその羊皮紙の塊の重要さがどれほどかがわからぬほど愚かではない。

 女性が見せる驚きの表情を十分に楽しんでから彼女がさらに言葉を添える。


「信じられませんか?」

「い、いいえ。ですが……」

「何ですか?」

「もちろんそれは歴史的に見れば事実のようなものでしたが、そのことがそのように文字資料として残っていたとは驚きです」

「そのとおり。彼がこれをどのようにして見つけ出したのかはわかりません。しかし、まちがいなくここには世界史を書き換えるくらいの驚くべき事実が書かれています。さらにいえば彼は自らの国の宝になりえるそのようなものを躊躇いなく私たちに提供したのです。それに比べれば私の申し出などほんの小さなものだとは思いませんか?」

「……おっしゃる通りです」

「さらに彼は会話のなかでこの書の仲間がまだあることを匂わせていました。つまり、彼は最初の取引での私の返品を見て残りの商談を進めるということです。私が言いたいことが何かはわかりますね」

「もちろんです。ですが、そういうことならご機嫌取りなどせずに今すぐあの男の口を割ればいいことではありませんか。そして、あの男から聞き出したそこに蒐書官を派遣すればすぐにでもすべてが夜見子様のものになります。ありがたいことに家族も同行しています。まずあれを人質に取って……」

「そうやって手に入れた後にどうするのですか?」

「それはあの男の口から悪評が広がるのではないかということでしょうか?そういうことであれば、聞き出したあとに口を封じますので、そのような問題は起こらないと断言できます」

「……美奈子さん」

「はい」

「それはつまり幼子を含めて全員を消すということですね?」

「そのとおりです」


 ……この人はまったくブレない。


 女性の躊躇いなく断言するその言葉を聞いた彼女は大きなため息をつく。


「確かにあなたのやり方は短期的にはもっとも効率的といえるかもしれません。ですが、長期的に見れば交渉相手は私たちを信用しなくなり、結果蒐書官は常に武力を使わざるを得ず、恨みを買った蒐書官は予想外の報復を受けて少なからぬ人的被害が出すことになります。あなたにわざわざ語る必要はないことですが、努力や経験では絶対に手に入れることができない特別な能力を持つ蒐書官は簡単に補充できるような人材ではないのですから、その彼らを不必要に失うような手段は避けるべきなのです。そもそも、今回のことでもわかるように、ハーゲン氏は私たちに対して好意的な相手です。しかも、武力など持っていない。金と時間でいくらでも解決できる相手に対してわざわざ武力を用いるなどありえぬことだとは思いませんか」


「すでに木村恭次には真紀さんとともに私の城にやってくるように伝えてありますので、ふたりはあちらで待っていると思います」


 気まずさがつくりだした無言の時間のなかで、主が仕事を依頼するという男とその妻である同僚が空港に現れなかったことを不審に思った女性の呟きに気づいた彼女のその言葉とともにふたりの会話が再び始まる。


「ちなみに夜見子様はあの闇画商といったいいくらの商いをおこなうつもりなのですか?」

「手数料と経費を除いて二百億円というところでしょうか。言うまでもないことですが、これがハーゲン氏への手土産代。つまり、彼らがアメリカ大陸に渡っていたことを記した『ヴァイキングの航海日誌』の代金となります」

「なるほど。それで、その商売をおこなうとあの男にはどれくらいの金が入るのですか?」

「最終的にはその一割」

「つまり、二十億円ということですか?」

「まず手付としてその十分の一。残りは成功報酬という形で支払いますが、おそらく彼はすべてを手にするつもりで仕事をすることでしょう」

「ですが、あの男の専門は盗難絵画。コソ泥の仲間が本当にこちらの希望するような仕事ができるのですか?」

「もちろん。今あなたが言ったでしょう。彼の専門を」

「絵画……ではなく盗難品を扱うという意味でしょうか?」

「そういうことです。それからもうひとつ。たしかに彼自身は絵画を扱っている。ですが、知り合いもすべて同じとは限らない」

「つまり、それ以外のものを扱っている者があの男の近くにいるということですか?」

「そういうことです」

「そういえば、以前私たちがおこなった蔵開けで手に入れた骨董品もあの男を通じて闇市場に流しましたね」

「そのとおり。そして、それは彼も同じです。つまり、そちらの市場関係者にも彼は多くの知り合いがいるということです」

「ですが、所詮悪党。その仲間と組んで値を不当に釣り上げることはありませんか?」

「その心配ないでしょう。なにしろあの男は私たち相手に手抜きやいかさまをやったらどうなるかということを知っています。それに加えて、今回の仕事は愛する妻の前で仕事を依頼されるのですよ。そうなれば……」

「なるほど。確かにあの男が真紀にいいところを見せようと張り切る様子が目に浮かびます」

「その愛する妻には実はまったく愛されていないことも知らずに。男とは本当に愚かな生き物ですね」

「まったくです」


 そう言ってふたりは笑った。

 それは同じ種類の、そして明るさとは無縁のものだった。


 それから五日後。

 ハーゲンは予定よりも早く離日する。

 その見送りは、蒐書官たちの主が来なかったために出迎えの時とは打って変わり、実に静かなものとなった。

 もっとも、一般客に紛れての第二ターミナルからの出国は彼らと同じように自由に買い物ができるためハーゲン夫人は大いに喜んだのだが。


「予定よりも早い帰国ということは、ハーゲン氏は夜見子様が手配したものに不満を持ったということでしょうか?」


 見学デッキでハーゲン一家が乗る飛行機が無事飛び立ったことを確認し、一息ついた後輩蒐書官に声をかけられると、彼は後輩蒐書官の表情を確かめる。

 そして、後輩が本気であることを確認すると、やや皮肉を込めて言葉を返す。


「羽鳥君。君はハーゲン氏の顔を見なかったのかね」

「もちろん見ました。鮎原さんとがっちりと握手をしていたときに」

「君にはあの表情がつくりものに見えたのかな」

「いいえ」

「では、答えはひとつしかないと思うのだが」

「……もしかして、逆ということですか?」

「それ以外にないだろう。手に入れたアンティークを早く屋敷に並べたいと彼の顔に書いてあったよ」

「ですが、あれは売り物ではないのですか?たしかそれが彼の生業だと」

「そうだ。だが、それと同時にそのコレクターでもある。いくつかは売りにだすのだろうが、おそらくその大半は彼のコレクションに収まることになるだろう。夜見子様が用意したものはそのようなものらしいから」

「なるほど。ですが、成田では税関をスルーできますが、あちらではそうはいかないのでは?」

「君は積み込まれたコンテナについていたものを見なかったようだね」

「何を?」

「これ」


 そう言って先輩蒐書官が指し示したものは襟についた彼らが蒐集官と呼ばれていた時代から使用されている蒐書官を示す橘の花をあしらったバッジだった。

 それは橘花グループに属する証であるのだが、それと同時に、マークの一部に橘の花があしらわれている他の組織と違い、橘花のみが描かれている彼らのものは立花家直属を示す特別なものであり、蒐書官の誇りの源となっている。


「なるほど。世界のどの空港であっても許可なく橘花のコンテナを触ることなどできるわけがないということですか」

「それにあれが降りるのはボードー空軍基地だから間違いは起きるはずはない。まあ、どちらにしてもこれで我々の任務は終わりだ。成田名物の鰻を食べて英気を養い、通常業務に戻るとしよう」

「……はい」


 成田名物の鰻。

 そう言った本人はもちろんそれが万人の知る常識のつもりだったのだが、彼の言葉が通じるのは実は千葉県民のごく一部だけだった。

 とりあえず返事はしたものの、その言葉がなぜ唐突に出てきたのかが理解できなかった茨城県出身の後輩は訊ねる口を開く前に申しわけなさそうな表情を浮かべる。


「植草さん。ひとつ聞いてもいいですか?」

「何かな?」

「前回も仕事が終わってから鰻を食べましたが、成田の鰻というのはそれほど有名なのですか?」

「……ん?」


 成田の鰻が日本一だと信じてやまない彼にとっては思いがけないものといえる後輩蒐書官のその問いは彼を大いに驚かせ失望させた。


「今の君の言葉は失礼千万というだけではなく人間にあるまじきものといわざるを得ない。鰻といえば成田だということを君は知らないのか?」


 彼としては、当然の言葉である。

 だが、後輩もここは譲らない。

 そして、後輩のそれにも彼と同じくらいの理由がある。


「もちろん知りません。鰻といえば私の地元龍ケ崎でしょう。なんと言っても牛久沼の鰻は最高ですから。……それなのに何が『鰻といえば成田』ですか。『鰻といえば牛久沼』の間違いではありませんか?」


 それぞれの地元を愛する気持ちは大事である。

 だが、後輩蒐書官の最後のひとことはあきらかに余計だった。


「……おもしろいことを言う」


 その言葉とともに先輩蒐書官の声のトーンは一気に攻撃的なものへと変わる。


「成田の鰻を食べずに鰻を語ってはいけないというこの世の理を知らない人間が蒐書官のなかに存在したとは驚きだよ。そもそも牛久など大仏以外何もないだろう。雑魚しか取れぬ水たまりで鰻とは片腹痛し。君が食べているのは鰻ではなくドジョウではないのかね」


 ……まずい。


 後輩蒐書官は瞬時にそれを察したものの、後の祭り。


 ……謝罪すべきか?

 ……だが、私にだってプライドがある。ここまでいわれては応戦せざるを得ない。


 彼は毅然として開戦を決意する。


「その言葉をそっくりお返しします。だいたい日本一汚い泥水の中で蠢く生き物などたとえ生物学上鰻に分類されていても間違っても人が食するものではありません」


「言ってくれるではないか。その戦い、受けてたとう」


 それから三十分後。

 つまり、延々と続いていた暴言の応酬が終局を迎える少し前。

 そこであの有名な都市伝説が登場する。


「……『成田に来て鰻屋を素通りしたら祟られる。だが、それを食べれば幸運が友を連れてやってくる』というのは我々蒐書官だけでなく世間の常識なのだよ。それすら知らないとは驚きだ。『蒐書官の風上にも置けない男』とはどうやら君のことだったようだな。羽鳥君」


 先輩蒐書官が披露するいかにも胡散臭いその金言に彼は盛大に鼻白む。


「何ですか?その取ってつけたような格言は。出どころはどこですか?」

「私がよく行く鰻屋の主だ」

「つまり、蒐書官のくだりは嘘ですか?」

「失礼な。嘘ではなく愚かな君のために私が特別に考えてやったものだ。なにしろ、私は最初に成田の鰻店を訪れた直後に橘花グループにスカウトされ、今に至っているのはだから。もちろんあれ以来私は成田に来たら必ず鰻を食べているが、その結果は君が知ってのとおりだ。対する君はどうだ?ドジョウかミミズかもわからぬ貧相な生き物を食っている君には私以上のご利益はあったかね」

「それは……」


 ……そうだ。


 交渉能力の差が如実に表れ、開戦直後に主導権と取られると、ここまで一方的に押しまくられていた後輩蒐書官はあることに気づき笑みを浮かべる。


「……ちなみに、夜見子様は?夜見子様は成田に来て鰻を食べているのですか?」


 もちろん彼はこの言葉で一発逆転を狙ったわけなのだが、当ては見事に外れる。

 そう。

 先輩蒐書官は、相手が同じ蒐書官であればいずれ考えつくその言葉を狙い撃ちしようと待ち構えていたのだ。

 そのため、敢えてそこに触れずにおく。

 獲物がおびき寄せられるように。

 もちろんやってきたそれを見逃すはずもない先輩蒐書官は黒い笑みとともに隠し持っていたその言葉を放つ。


「もちろん私がその話をしてから成田に来るたびに食べている。この前もターミナルゼロに花板を呼びよせて天然鰻を鮎原さんやハーゲン氏と一緒に食べていたそうだ。ついでいえば、それは他の橘花幹部も同じで、由紀子様も晶様もそれぞれ成田に贔屓の店を持っている。で、それがどうしたのかな?」


 ……くそっ。我ながら浅はかだった。


 彼の心の声を待つまでもなく彼が切り札に使えると思ったものは実は自らにトドメを刺すための罠だった。

 いつものこととはいえ、簡単に罠に嵌り論破される自分を情けなく思う彼の耳に勝ち誇った先輩蒐書官の声がやってくる。


「さて、頑迷な羽鳥君が成田の鰻が日本一だとようやく納得してくれたところでそろそろ店に行くことにしようか。安心したまえ。予約したのはあの界隈で一番格の高い店で値段もそれなりなのだが、今日は私のおごりだ」


 実際のところ今でも牛久沼の鰻が日本一だと思っている彼は納得などしていない。


 ……だが、おごりということであれば話は別だ。


 先輩相手では最初から勝ち目のないことを知っている彼はここが引き際だと自分自身を納得させると、自分ができる最高の笑みをつくりこの言葉を口にした。


「そういうことなら日本一の鰻を食させていただきます。……仕方なく」

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