輝く日の宮
蒐書官。
彼らは主の命を絶対的なものとし、そのためにはどのような手段でも使うという信念のもと世界各地で蒐書活動をしている。
それはもちろん彼らの主が住む日本でも同じである。
その日、このエリアを担当している蒐書官崎原と向坂の姿は都内にある閑静な住宅街にあった。
「私もこういう世界に住んでいるので、あんたたちの噂は聞いている」
その家の主が吐き出すように言ったその言葉に顔色ひとつ変えず蒐書官のひとり崎原が言葉を返す。
「それはお耳汚しのことで」
それはまるで相手を不機嫌にさせるためにあるような言葉だった。
……悪い話ではないということで家に入れたのが失敗だった。
後悔の言葉である心の声を握りつぶし、男が言葉を続ける。
「だが、私にはあんたたちがここをわざわざ訪ねてくる理由がわからない。それとも蒐集するものを本から絵画に変えたということなのか」
彼らが訪れていたのは有名な画商であり、その世界では高額の商品を扱うことで有名な人物の家だった。
その人物の名は木村恭次。
そして、彼は最近取引に失敗し大きな負債を負っていた。
彼の失敗。
それは、ある有名な画家のフェイクを掴まされたことだった。
その損害額二百七十五億円。
もちろん即死レベルの被害であり、警察に泣きつきたいところなのだが、それができない事情が彼にはあった。
たしかに有名絵画のフェイクを掴まされるということは、絵画を扱う者としてはその眼力を疑われる恥であり、さらにそれを自ら公にするなど自らの無能さを世間に晒す行為で愚の骨頂と言われても仕方がない。
だが、それでもこれだけの金額である。
恥を忍んででも百人中九十九人は被害届を出すことだろう。
では、それでも彼が被害届を出さない、いや出せない理由とは何か。
それは彼が住む世界に関係している。
実は彼の生業とは闇ルートを利用して世界各地で盗まれた絵画などを仕入れ、日の当たらない場所での取引でそれを手に入れることを望んでいる顧客に売る、いわば闇画商というものであり、これまでその商売で莫大な利益を上げてきていた。
そのため、騙されたとはいえ、警察にそれを知らせるということは今後この世界で生きていけなくなるということだけではなく、物理的にも生きていないということにもなりかねない。
そうした事情で彼が悶々としているところに現れたのが彼らだった。
向坂の口が開く。
「本当にお困りのようですね」
「たしかに困っているが、抱えている絵を売れば済むことだ。部外者であるあんたたちに心配される筋合いではない」
「そうでしょうか。とてもそのようには見えませんが」
「何だと」
恭次は思わず気色ばんだ。
だが、彼が置かれている状況は目の前のいる崎原が指摘した通りだった。
取引で大損をして経営が厳しいようだという話をどこからか聞きつけた同業者や常連客は彼の足元を見透かしたかのように普段なら怒鳴りつけて追い返すような破格値での絵画の取引を迫ってきていた。
もちろん拒否したいのは山々だったものの、二度にわたって延期してもらっている例の絵を含むいくつかの絵を仕入れ代金を支払うために一時的に金を借りたこの世界の金貸しへの返済期限が目の前に迫っており、このままではすべての絵を彼らの言い値で手放さなければならない。
しかも、それで手にする金も焼け石に水に等しい苦しい状況に陥っていたのだ。
口を開いた恭次は八つ当たり気味に言葉をまき散らす。
「その様子では私の状況を知っているようだな。どうせ他のやつらと同じように絵を安く買い叩きにきたのだろう」
「まさか。この私がそのような下賤なまねをするわけがないでしょう」
恭次が吐き出した捨て台詞に返ってきたその言葉は、それまで会話には参加せずふたりの蒐書官の間に座っていた女性からのものだった。
……服のセンスは微妙だが、二十代後半の長い黒髪で十分に大きな胸の美人。
……年齢が若いことを除けばすべての点で真紀さんには劣るが私好みではある。
恭次は、愛する妻の比較しながら目の間の女性の品定めをしたものの、今がそのようなことを口にするときではないことくらい百も承知である。
「……女性蒐書官とは珍しいな。名前は」
「私の名前は天野川夜見子」
「天野川?……どこかで聞いたような」
それは昔同業者から何度も聞かされていたために彼の頭の片隅に残っていたある世界に生きる者全員にとって関わりを持ってはいけない人物の名前だった。
だが、近くには住んでいたものの、完全にその世界の人間ではない彼は思い出させないでいたのはむしろ喜ばしいことだったかもしれない。
その女性の口が再び開く。
「私の名前などどうでもいいことです。それよりも取引の話です」
「だから、絵はあんたらには売らんと言っているだろう」
「私が買いたいものは絵ではありません」
「では、何を買いたいというのだ」
「あなたはさっきこう言いました。蒐書官は書物を買うのだと。そのとおり。そして、私が買いたいものとはあなたが最近手に入れた『輝く日の宮』です」
数分の沈黙後、彼の口が開き、口惜しさが滲み出るその言葉が流れ出る。
「……知っていたのか」
「もちろん」
「……やっと思い出したよ。天野川夜見子。あんたは蒐書官などではなく蒐書官を使って本をかき集めている世界有数の蒐書家その人だ。たしかに『輝く日の宮』ならあんたが欲しがるのも合点がいく。だが、あれはあんたが直に乗り出してくるほどのものなのか?」
「イエス」
輝く日の宮。
それは遠い昔に失われた物語の名前であった。
もう少しだけ説明を加えれば、日本で一番有名な物語に本来あったとされている幻の一巻に与えられた名である。
「それにしても、必死に探していた私たちよりも先に盗品を扱う弱小画商ごときが『輝く日の宮』を見つけ出すとは驚きました」
「……実は私自身も驚いているよ。そのようなものが本当にあるとは思っていなかったからな」
「せっかくだから聞かせてもらいましょうか。どういうことですか?」
「……まったくの偶然だった。あれは骨董品目当てに京都の田舎にある蔵を漁っていたときのことだった」
語られた話は紛れもない事実だった。
彼は盗品の売買とともに、蔵開けと称してそのような宝探しもおこなっていた。
そこで偶然発見したのだ。
それを。
「それでも、よく『輝く日の宮』の存在をよく知っていましたね。あなたは源氏物語のファンなのですか?」
「いや。それを好きなのは妻だ。妻が『輝く日の宮』を見つけてくれとよく言っていたものでね。それを思い出したわけだ」
「随分高尚な趣味を持つ素敵な奥様ですが、あなたは奥様に感謝すべきですね」
「そうだな。蔵の持ち主は『輝く日の宮』を知らなかったので良い値段で買い取れたが、妻の話を聞いていなければ私だって蔵に置いてきたところだ。ただし、あれが本物かはどうかはわからない。なにしろあの手のものを鑑定できる知り合いがいなかったものでね。……もしかして、私が鑑定人を探していたところからから『輝く日の宮』を見つけたことを探り当てたのか?」
「まあ、そういうことにしておきましょう。どっちにしても奥様があなたの窮地を助けたことになるわけです」
「……どういうことだ?」
「あなたが私たちについてどのような噂を聞いているかは知りませんが、私は価値があるものはそれに相応しい値をつけます。二百八十億円。もちろん即金。これだけあれば、あなたが掴まされたフェルメールの『合奏』の偽物に支払ってつくった二百七十五億円の大赤字を穴埋めしてもお釣りがくるはずです。もちろんそうすれば手持ちの絵をハイエナたちに買い叩かれることもなくなります」
「ちょっと待て。二百八十億円を即金だと?それは本当なのか」
「もちろん。現金を積んだトラックがすぐ近くに待機しています。ただし商談は今日だけ。これを逃したらあなたは破滅するだけです。さあ、どうしますか?」
疑わしいのは重々承知している。
だが、これを断れば彼女の言うとおりただ破滅を待つだけである。
つまり、断るという選択肢は彼には残されていないのだ。
……どんな罠があってもここは乗るしかないか。
恭次の口が開く。
「……もう一度言っておくが、あれが本物かどうかは保証しないぞ。忘れたころに返金しろと言われても応じない。それでいいのなら取引に応じよう」
「いいでしょう。……そうだ。ついでにあなたが掴まされたその偽物もそこにつけなさい。どうせそんなものは目障りなだけでしょう」
「……いいだろう。あの忌々しい絵もくれてやる。これで商談成立だ」
……よかった。
その心の声は、なぜかその場にいる唯一の女性のものだった。
「ところで、奥さんは『輝く日の宮』を読んだのですか?」
「……いや。読んでいない。その存在も知らない。彼女に読ますこともなくこうして手放すことになったことだけが心残りだ」
「なるほど。では、奥さんに伝えてください。近いうちに私の城を訪れなさいと」
「わかった。ありがとう」
「おめでとうございます。夜見子様」
恭次から受け取ったふたつの商品を抱えたふたりの男を従えて車に乗り込む夜見子に待っていたもうひとりの男が声をかけると、満面の笑みを湛えた彼女は大きく頷く。
「わざわざここまで来た甲斐がありました」
「大仕掛けを施しただけのことはあったということでしょうか」
「そうですね。あの画商は、まさか自分に絵を売った者、その絵を買おうとしていた客たちと彼らの顧問鑑定士、自分に大金を貸し付けた業者まですべて私の配下だとは思わなかったでしょうね。金貸しを演じた美濃部はその道のプロですから当然ですが、ドンドン値が上がっていくのに動じない病的なフェルメールマニア役の岩瀬の演技も秀逸でした。あれだけフェルメール愛を熱く語っていた彼は本だけでなく絵に造詣があるのでしょうか」
「ないですね。まったく」
「そういうことなら彼はもしかして歩むべき道を間違えたかもしれません。本当に見事な演技でした」
「このためにわざわざニューヨークから戻ってきていた彼もその言葉を聞いたら喜ぶことでしょう。ところで、あの画商は手に入れた二百八十億円の大部分が元は自分の金だと知ったらどうなりますかね」
「さあ。あの男の気持ちなど興味がないです。大事なのは私たちが現存する唯一の『輝く日の宮』をたった五億円で購入したということです」
「まったくです」
「……それにしても男というのは全くダメな生き物ですね」
「そうでしょうか?正直同じ男としては夜見子様のお言葉とはいえ、『はい、そのとおりでございます』とは言い難いです」
「そうですか?何年も一緒に暮らしていながら、自分のパートナーのことがさっぱりわかっていないのですよ。そう言われても仕方がないでしょう」
「なるほど、そういうことですか。そういえば『妻は本の存在など知らない。本を読ませたかった』などと涙ながらに語っていましたね。あそこまでいくとたしかに哀れではありますが、あれはあの男個人の問題です」
「そういうことにしておきましょう。実はあの時、私はもう少しで噴き出しそうになりました。なにしろ私たちに『輝く日の宮』の存在を知らせてきたのは彼女で、しかも、中身は本物に違いないと太鼓判を押してきたのも彼女なのですから。正確な検査は必要ではありますが、おそらく彼女の言うとおりこれは本物。相変わらずいい眼をしています」
「そうですね。さすが上級書籍鑑定官嵯峨野真紀というところでしょうか。夜見子様が彼女をあの男に張りつけるとおっしゃったときには無駄なことをと思っておりましたがこうして結果が出るわけですから、お見事としか言いようがありません」
「実を言うと、闇市場でよく名を聞くあの男が扱う盗品の中に珍しい本もあるのではないかと思って送りこんではみたものの、私もそろそろ呼び戻そうと思っていました。それから、忘れないうちに伝えておきます。あの男が『輝く日の宮』を見つけたという蔵があった周辺の捜索をすぐに始めなさい。うまくすれば『雲隠』も見つかるかもしれませんから」
「承知いたしました。ですが、あれは……」
「あなたの言いたいことはわかっています。ですが、ないと思われた『輝く日の宮』もこうして私たちの目の前に現れたのです。『雲隠』だって絶対にないとは言えません」
「なるほど。では、早速」
「それから、もうひとつ……」
「はい?」
「絵に本当に傷ついていなかったかをすぐに工房のスタッフに確認してもらってください。あれはお嬢様が千葉のお屋敷にあったものをこっそり貸してくださったものですから、傷物などにしたら私たち関わった全員切腹です」
「承知いたしました。ですが……」
「何ですか?」
「そういうことなら、やはり工房で制作したフェイクを……」
使ったほうがよかったのではないかという男の言葉を彼女は遮る。
「そうしたかったのは山々ですが、真紀からの報告ではあの男の目利きはかなりのものということでした。相手の力量がわからない以上持てる最大戦力であたるのがこういう場合の上策というのが鮎原の意見です。それに、お嬢様が貸し出すと言ってくださっているのに無下に断るなどできるわけがないでしょう」
……なるほど。
彼は思った。
……鮎原さんの話はあくまで建前で、もうひとりの言葉こそがそのすべての理由というわけですか。
「では、手っ取り早く手に入れるために最終手段を使うというのは?」
「交渉によって手に入れられる可能性が十分にあるのに力を使うなどありえないというのが鮎原の意見です。それに、彼によれば、あの男は金の卵を産む鶏になる可能性があるそうです。少なくても、私たちがあれだけ探しても見つけることができなかった『輝く日の宮』をあの男がどうやって手に入れたのか、その具体的方法が判明するまでは生かすべきということです」
男たちとの会話を早々と打ち切った夜見子はある人物に電話をする。
「お嬢様、お借りしていました『合奏』を明日お返しにお伺いいたします。もちろん傷ひとつついておりません」
「了解しました。私は『輝く日の宮』が手に入るのなら『合奏』は消えてもいいと思っていたのですが、無事戻ってくるわけですね。お気遣いありがとうございます。それで「輝く日の宮」は手に入りましたか?」
「はい。これもすべてお嬢さまのおかげでございます。もちろん明日『輝く日の宮』もお持ちいたします」
「楽しみにしています。これで『源氏物語コンプリート計画』にまた一歩近づいたわけですね。それにしても『合奏』は随分いい値段がつきましたね。当主様はたしか二百億円を少し切る値段で買い取ったのですが」