After story Ⅱ テーブルの下で交わされた握手
「前方後円墳の設計図」の後日談的話となります
内容的には本編で語られなかった話といったものになりますが
東京の中心部の一等地にひっそりと建つ屋敷。
豪華な調度品が並ぶその屋敷の応接間。
「初めまして、天野川夜見子さん。立花家の秘蔵っ子と聞いていたが、名高い蒐書官を束ねているのがこんなに若く美しい女性とは思わなかった」
屋敷の主をそう唸らせたのは彼の目の前にいる三十歳より少しだけ手前の女性だった。
「ありがとうございます。こちらこそ桐花家当主桐花武臣様にお会いできて光栄です」
普段はあまり使うことがない丁寧な言葉を返すその女性の返礼を鷹揚に受け取った男は、彼女よりも十歳ほど年長といったところだろうか。
……温和な顔をしているし、言葉も非常に柔らかい。だが、その外見に騙されてはいけない。
彼女は心の中で気を引き締まる。
その直後。
「そういえば、いつぞやは友人が大変お世話になりました。今は語ることができない本人になりかわり私からお礼を申し上げます」
……早速来ましたね。
その言葉に彼女は身構える。
男が口にしているのは、彼が清少納言自筆の「枕草子」を所有していることを知った夜見子がこの国の表面上の最高権力者を動かし、巻き上げるようにしてそれを手に入れたあの一件のことだった。
実はその情報は偶然男の屋敷を訪れた上級書籍鑑定官北浦美奈子からもたらされたものだったのだが、部下に対する報復を恐れた彼女は男の友人ふたりを身代わりに仕立て上げて情報を流し、それによってふたりはこの世から消えていたのだ。
……この言葉だけではこの男がどこまで知っているかはわからない。
だが、ここでそれを持ち出し、しかもそれが桐花家の当主であることを考えれば、やはりすべてを知っていると考えて行動したほうがよい。
それが彼女の考えだった。
「さて、何のことやら」
彼女は惚ける。
「さすがは橘花の幹部。私が問い質せば、大概の者は土下座して自らすべてを白状するというのに堂々とシラを切り通しますか。つけ加えるのならば、我が家の家宝を巻き上げておきながら、その当人のもとに堂々とお願いにやってくるとはあなたは見かけによらず太い神経をした方のようですね」
「恐れ入ります」
彼女は笑顔を絶やさない。
もちろんそれは表面上のことだけあったのだが。
「それで……」
そんな彼女を興味深そうに眺めながら男も表情を変えることなく言葉を続ける。
「私に許可が欲しいということだったのですが、その許可とはどのようなことに関してなのでしょうか?」
男の耳にはすでに立花家当主より彼女が訪ねる理由は伝わっている。
……それにもかかわらずそれを訊ねるということは罠に誘っているということなのでしょうね。まあ、こちらに主導権がない以上それに乗るしかないのですが。
「では、お話させていただきます。その要件というのは……」
彼女は要件を端的に話す。
目の前の男にとってはそれで十分だった。
すべてを聞き終えた男が口を開く。
「なるほど。要するに、あなたは『古墳の設計図』を手に入れるための交渉を我が一族の末端に座する九尾武久と譲渡交渉をしたいということですね。ですが、困りました」
誰の目にもあきらかな演技だとわかる表情とともにその言葉は紡がれた。
「噂によれば、あなたの配下である蒐書官は、一度狙った獲物はどのような手段を使ってでもそれを手に入れるとき聞きます。ですが、あなたが『古墳の設計図』を手に入れるために交渉したいという九尾武久は自らのコレクションに執着しており、とてもそれを手放すとは思えません。それどころか……」
男はそこで一度言葉を切り、少しだけ声のトーンを下げてその言葉を付け加えた。
「彼が相手では交渉そのものが成立するかどうかも怪しいと思いますよ」
「どういうことでしょうか?」
「あの男は自分を中心に世界が回っていると妄想するタイプの人間だということです」
そう言って男はわざとらしく大きなため息をついた。
……なるほど。やはりそういうことですか。
「気難しい方なのですか?」
「気難しい?それは随分優しい言い方ですね」
男は彼女の言葉を部分的に否定すると、補足するようにその場にいない男について説明を始める。
そして、彼女はあらためて知る。
九尾武久が想像以上に自己愛に満ちた男であることを。
「お判りいただけましたか。彼が交渉相手としては最悪の人間であることが」
「はい」
そう返事はしたものの、彼女は一方の言い分だけを鵜呑みにするほど物分かりがいい人間ではない。
……これからの言葉こそが本命だ。
それが彼女の本音である。
もちろん男の方も自らの言葉が彼女に完全に受け入れられたとは思っていなかったのだが、敢えてそれを確認することなく彼女の言葉に小さく頷くと結論へと言葉を進める。
「つまり、彼が所有している品をあなたが手に入れようとするのなら、通常の交渉ではダメなのですよ」
「ということは……」
「彼そのものを排除しなければならないということです。つまり、あなたが私に求めているのは彼をこの世から抹殺することへの許可と同義語なのです」
……やはりそう来ますか。
彼女は小さくないため息をつく。
それはここにやってくる前に交渉のプロともいえる側近のひとりが有力なものとして挙げた想定だった。
……ですが、この男が望んでいるのがどちらなのか?
……彼の予想が正しければ、この男が私を導きたいと思っているのはあちらなのですが……。
「困りました」
「だが、諦める気はない」
「まあ、そうですね。その打開策というものがあればご教授ください」
今度は彼女が誘い水を向けると、男はそれに乗るようにある提案を口にする。
「桐花家当主として、あなたがたが九尾武久と交渉することを許可します。もちろん私から九尾に交渉に応じるように口添えしましょう」
……やはり、そうなりますか。
男の言葉は彼女が想像していたものだった。
……ですが、問題はここからです。
「それは、ありがたいお話です。ですが、私たちの方針は変わらず、九尾氏も先ほどのお話どおりの方であれば、最終的には彼にとって不幸な結末が訪れることになりますが、それでもよろしいのですか?」
「もちろん一族の一部が欠けることになるのは当主にとって非常に悲しいことです。ですから、私はそうならないように祈ります」
……つまり、黙認するということですか。
……ですが、それでは譲歩が全然足りません。
押し黙る彼女の感情を読んだ男がさらに言葉を付け加える。
「すいません。言葉が足りませんでした」
「と言いますと?」
「実を言いますと、あなたと私は利益を共有しているのです」
「九尾氏の宝が失われることのどこかあなたの利益になるのですか?」
「私の利益は九尾武久の宝が失われることではなく、あなた達との交渉の結果九尾武久本人がこの世から失われることです」
「つまり、九尾氏を殺せと」
「言葉を飾らず表現すればそうなります。もう少しはっきりと言えば、あの男を殺すことが、あなたが『古墳の設計図』を手に入れる条件となります」
……いよいよ来ましたか。
「……それは殺人依頼ということですか?」
「断りますか?」
「そういうわけではありませんが……」
もちろん彼女も無碍にそれを拒むことはない。
だが、だからと言ってそう簡単に話に乗るわけにはいかない。
特にこの相手には。
……もう少し条件が出るまで待ちましょう。
その気持ちが滲む様子に男は相手の手強さを感じる。
……やはり、もう一押しが必要ということですね。
……では、これを。
男は頷き、隠し持っていた最強のカードを切る。
「いいでしょう。では、もうひとつ提案をすることにします。この件を受けていただけるのであれば、あなたが欲する『古墳の設計図』だけではなく、先日の『枕草子』の件はすべて不問とし、あわせてその権利を正式にあなたに譲るものとします。もちろん関わった者に対する報復をおこなうことはありません」
……なるほど。やはり、そう来ましたか。
それが彼女の感想だった。
……つまり、最初にあの話を持ち出したのは、あなたはすべてを知っており、そしてここでそれを手札として使うためだったのですね。
……実に気に入らないことです。
もちろん男が並べ立てた好条件は魅力的だ。
しかし、彼女は気づいていた。
ついでのように最後に付け加えた「関わった者に対する報復をおこなうことはありません」という言葉。
これこそが彼が本当の切り札であるということを。
そして、申し出を断れば、すぐさまそれが発動するということも。
つまり、これは周到に準備された脅しである。
もちろん脅しに屈するのは不本意である。
……ですが……。
「それによって得られるもの、それから失うものの大きさを考えれば、自分のプライドなど取るに足らないものであることをお忘れなく」
目の前にいる男から出される提案をあらかじめ想定した彼女の相談役が対応策として提示したそのアドバイスを思い返しながら彼女は大きく息を吐き、男の言葉の明るい部分だけを見ることにした。
「すばらしい申し出です」
彼女は差し出された男の手を最高の笑顔とともに握りしめ、その共闘は成立した。
互いに相手をまったく信用していなかったものの、自らの目的と利益、そして彼女に関しては守るべきもののために積極的に相手を協力するという実に歪なその共闘は、唯一の共通項である九尾武久を殺害のための段取りを着々と進めていた。
それぞれが示したいくつかの提案を了承したあとに、彼女はそれを実行するうえでの肝ともいえるある重要事項を口にしていた。
「……交渉をおこなうために九尾氏の館に入る蒐書官は当然武器の携帯はできません。しかも、数も相手が多い。そこでことを起こすためには少なくてもこちらが動き出す前に九尾氏の部下が手を上げることないように当主様にご助力していただきたいのですが、それは可能でしょうか?」
「もちろん可能です」
彼女が出した無理難題を男はあっさり肯定する。
そのあまりの速さに彼女は顔を歪める。
「こちらが願い出て、それを言うのは非常におかしなものなのですが、どのようにして九尾氏の手を止めるのですか?」
「簡単なことです」
疑わしそうな表情を隠さない彼女の疑問に男は黒味を帯びた笑みで応える。
「桐花家当主である私の言葉」
「あなたの言葉?」
「蒐書官は正式なルートを使って交渉申し込みをしてきているので、桐花家の公的な客人として粗末な扱いをすることがないようにと九尾武久に伝える。さらに万が一のことがあっても立花家に言い訳できるように交渉記録を取るように指示することによって行動を縛る。そして、最後に桐花家の名誉のためにその時が来ても不意打ちなどという卑怯な手など使わず最初の一撃は必ず相手に撃たせるようにとつけ加えておきましょう。もちろん当局と報道機関への通告は私の名でおこなう。これで、どうでしょうか?」
「内容としては申し分ないものです。ですが、当局や報道機関はともかく肝心の九尾氏はそれを守るでしょうか?」
「これはあなたも知っていることでしょうからあえて隠しませんが、桐花当主である私の言葉の呪縛から逃れられないあの男は必ず守ることを約束しましょう。そして、もしそうならなければ、あの男がすぐにでも私の代わりに桐花家当主になるでしょう」
……「神の見えざる手」の効果ということですか。
……そして、その呪縛が破られた時は簒奪があるということ。
……なるほど。
そう思案する彼女を眺めながら男は小さなため息をついた。
「……それにしても、目的のものを手に入れるためにはどのようななことでも躊躇わずおこなう。あなたがたは本当に揺るぎませんね」
「当然です。私たちは慈善事業をおこなっている正義の使徒などではありませんから、自分たちの目的達成の手段を選ぶ基準はあくまで私たちにとって最良のものというだけであり、それ以外の雑念にその選択が左右されることはありません。ですが、それはあなたも同じではなのですか?桐花家当主。桐花武臣様」
もちろんそれはやってきた皮肉を倍する強烈な皮肉である。
だが、彼女のその言葉に動じる様子など微塵もなく、それを軽く受け流した男はどす黒い笑みを浮かべる。
「……まったくそのとおりです。ですが、せっかくだからこの場であなたの言葉をひとつだけ訂正しておきましょう」
「それは?」
「あなたは自らのおこないを正義ではないと言ったが、私はそうは思わない」
「……では、何と?」
「正義とは勝者だけが口にできる自らのおこないを言うのです。当然敗者のおこないなど決して正義とは言わない。これがあなたや私の生きる世界での常識です。つまり、あなたがたが勝者であり続けるかぎり、あなたがたがおこなっていることすべてが正義なのです」
「正義が勝つではなく、勝ったものは正義……」
「……よい言葉ですね」




