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古書店街の魔女  作者: 田丸 彬禰


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61/104

前方後円墳の設計図

「これぞまさに灯台下暗しだな」

 東京都新宿区。

 半年ぶりにこの地に戻ってきた男は目の前に聳える高層ビルディングを見上げながら苦笑まじりにその言葉を口にした。

「まったくです」

 そして、男の隣に立ち、彼の言葉に力強く相槌を打つのは前任者に代わって書類上は昨日から彼の相棒となった若い男である。

「東京から出かけた北添さんが目的のものを手に入れるために東京に戻ってくるとは皮肉なものですね」

「現状はまさに山越君の言葉のとおりだ」

 若い男の渾身の皮肉をたった一言で握りつぶしたその男北添の肩書はもちろん蒐書官。

 そして、その彼が一年間にわたって追いかけていたもの。

 それは「前方後円墳の設計図」と呼ばれる古い図面だった。


「それにしても古墳に設計図があったとは驚きです」

「そうか?私はそうは思わないが」

 新しく相棒になった山越の言葉を即座に否定した北添はさらに言葉を続ける。

「たとえば、前方後円墳が奈良周辺にある天皇の墳墓だけだということであれば、すべて同じ職人集団の手によるものとも考えられ、そうであれば棟梁たちの頭のなかにある知識と経験だけでつくることは可能なのかもしれない。だが、実際は全国各地にとんでもない数の同じ形状の墳墓がつくられたのだ。なんらかの設計図または指示書をもとに各地の職人が墳墓を造営したと考えるのがごく自然のことだと思うのだが君は見様見真似で古墳がつくられたと考えているのかね」

「そういうわけではありませんが、そのようなものはすべて口伝によって伝えられていたと私は思っていました」


 ……ほう。


 北添は新しい相棒の言葉に少しだけ驚く。


 ……その言葉はそう間違ってはいない。

 ……蒐書官になったばかりと聞いていたが、それなりの見識はあるということか。

 ……だが、まだ甘い。


 古い時代の建築に造詣が深い北添は心のなかで呟いたそれを少しだけオブラートに包み吐き出す。

「確かに古代人は我々現代人には信じられないくらいに膨大な情報を口承によって伝えており、伝達手段として十分に機能していた。だが、それでも書いて残すことに比べれば伝達手段としては多くの点で劣るうえに、口承という手段は誰にでもできることではない。なによりも、口伝えですべてが伝えられるほど古墳の造営は簡単なものではないのだ」

 そこで一度言葉を区切り、軽く息を吸い込む。

「それに夜見子様はその一部ではあるものの、すでにそれが存在していたことを示す証拠を持っている。つまり、間違いなく古墳の設計図は存在する」

「そうなのですか?」

「そうだ。そして、古墳は日本中で造営されており、それをつくるための設計図も日本中に散らばっていたと考えられる」


「そもそも……」

 専門分野に立ち入った北添の言葉は俄然熱が帯びる。

「古墳造営というものは、子供の砂遊びとは違う。数人の労働者がただ土砂を積み上げていれば出来上がるというものではない」

「それはわかります」

「そのような大規模な土木事業を図面の一枚もなしにおこなえるはずがない」

「まったくそのとおりです。ところで……」

 延々と続きそうな先輩の建築談義を打ち切るためにすべてを肯定し、それから間髪入れずに後輩蒐書官が口にしたのは別件だった。

「北添さんはどうやって東京に目的のものがあることを知ったのですか?」

「そんなことが聞きたいのかね?」

「はい。ですから、ぜひともご教授を」

 もちろん彼は大好きな古墳についての話を続けたかったのだが、視線の先にある後輩の顔に大きく書かれた「そのような話にはまったく興味ありません」という文字はそれを諦めさせるに十分過ぎるものだった。

「……わかった。どちらにしてもそれは話さなければならないことだったのだから。では、どこか座れる場所に行こうか」

 渋々断念はしたものの未練たっぷりのその言葉を口にした後に、北添は一年分はあろうかと思われる大きなため息をついた。


 彼らが入ったのは目の前にあった日本で一番人気のあるコーヒーチェーン店だった。

 そこで、北添はノーマルのコーヒーを、山越は一度では覚えられないような妙に長い名前の飲み物を注文した。

「君が注文したものは何かね。どうやら紅茶のようだが」

「簡単に言えば、紅茶ラテですね。最近これにハマっています」

「そうか」

 ベテラン蒐書官らしく喫茶店にはこだわりのある彼ひとりなら絶対に入らないであろうこの店のメニューのひとつがいかにおいしいかを嬉々として語る後輩のうんちく話を興味なさそうに聞き流した北添は目の前の人物の話が一段落したところで口を開く。

「では、君が知りたいということを話すことにしようか」


「先ほども言ったが、始まりは夜見子様が手に入れた一片の紙きれだ」

「紙切れ?」

「私も現物を見たことがないのだが、それを見たらまさに薄汚い紙切れと表現したくなるような代物らしい」

「元はどこにあったものですか?」

「少なくても、夜見子様が現在の地位に就く前から立花家の書庫にあったもののようだが、それ以上はわからないそうだ。入手記録が残っていないことからおそらくそれ自体を目的に手に入れたものではなく何かに紛れてやってきたものだろうというのが夜見子様の見解だ。どちらにしても奇跡に近い出来事だ。夜見子様の前にその価値がわからない者がそれを手にしていたらよくて火おこしの材料、下手をすればゴミ箱直行になっていたのだから」

「なるほど。それで、その奇跡の品にはどのようなことが書かれていたのですか?」

「寸法の思われるいくつかの数字と図形の一部。それだけだそうだ」

「それだけで、どうやってそれが古墳の設計図とわかったのですか?」

「言うまでもないことだが、夜見子様は我々よりも正確に紙の年代を特定することができる。すぐに飛鳥時代の貴重なものだとわかった。だが、山越君の疑念どおり、年代の特定だけではそれが古墳の設計図とはわからない。そして、事実そこに書かれているものだけでは、建築物の一部について書かれていることまではわかったものの、さすがの夜見子様でもそれ以上のことはわからなかったそうだ。だが、いるだろう。夜見子様の近しい者のなかにそのようなものに詳しい人物が」

「……北添さんですか?」

「そのとおり。と言いたいところだが、私でははとてもそこまで辿り着けない。だが、羨ましいことに夜見子様の周辺にはそこに到達できた者がいたわけだ。さて、ここで山越君に問う。それが誰かわかるかね?」

 北添に問われた後輩蒐書官は考える時間をつくるためにいつも以上にゆっくりとコーヒーを味わい、それから導いた答えを小さく呟く。

「……お嬢様ですか?」

「この場面において君の口からお嬢様と出てくるとは思わなかったが、そういえば君の元の所属は由紀子様率いるお嬢様の護衛隊だったね」

「……はい」

「だが、そうであってもお嬢様の博学さに気づくとはたいしたものだ。君の言うとおり、たしかにすべてのことに通じているお嬢様もわかったことだろう。だが、この場合の答えであれば、それは不正解だ。さて、その正解に当たる人物だが、その人物について、もうひとことつけ加えれば、その知識はお嬢様と違い建築に特化している」


 ……なるほど。そういうことですか。


「……そこまで言われれば、私にも誰のことを言っているのかわかります。答えは日野さんですね」

 もちろんそれは正解である。

 北添が当然のように頷く。

「そう。橘花の建設部門のトップであるあの老人はそれをひと目見ただけで古墳。しかも、特定の前方後円墳の設計図の一部であることを見抜いたのだという」

「さすが『すべての建築の神に愛されし者』ですね」

「まったくだ。橘花の幹部は本当に鬼才ばかりだな。凡人である私にその才の一部でもわけてもらいたいものだ」


 ……それを言ったら、触れただけで紙の年代がわかる我々も十分に普通ではないと思うのですが。


 本気で自らの非才を呪う先輩を眺めながら山越は心の中でそう呟いた。


 だが、彼が口にしたのはそれとは別の話題だった。

「ですが、夜見子様と日野さんはあまり仲がよくないのではないですか?」

 これに関しては後輩蒐書官の言葉は半分ほど当たっている。

 彼らの主はその男を「偏屈爺さん」と呼び、もう一方も彼らの主を「珍妙な姿をした引きこもり」と呼んで、お互いを蔑みあっているのは彼らが属する組織のなかでは有名な話だったのだから。

「だが、それはうわべだけのことだ」

「そうなのですか?」

「そうだ。それだけではない。実子以上に溺愛しているお嬢様ほどではないが、まちがいなく夜見子様は日野氏のお気に入りだ」

「にわかには信じられないことです……」

「そう思うのは自由だが、日野氏の様子をよく観察すれば誰でも私と同じ結論に達するはずだ。そして、当主様が夜見子様を娘同様に扱っている厚遇ぶりも考え合わせると、どうやら、夜見子様の異性に対する吸引力は同年代よりもかなり年齢の高い者に有効のようだな」

 そう言って彼は笑った。

 むろん半分は冗談だろうが、残りも冗談なのかは容易には判断できない。

 若い蒐書官がさりげなく話題を変えたのはそのような理由だった。

「どうにもその話をそのまま受け入れるのは簡単なことではないのですが、百歩譲って日野さんはそう思っているとしても、それだけで夜見子様も日野さんと仲が悪くないとは言えないのではないでしょうか?」

「たしかに夜見子様が日野氏をどう思っているまではわからないのだが、少なくても橘花幹部で日野氏とまともな付き合いをしているのは夜見子様ひとりだけなのは事実だ。なにしろ夜見子様の親友である墓下様などは日野氏に近づくことはなく、あの一の谷氏も日野氏だけは苦手らしくあの老人から逃げ回っているのを何度も見かけた」

 そう言ってから、彼は続けて数年前に見た年寄りに首根っこを掴まれて説教されて項垂れる一の谷の様子を面白おかしく語り始め、冷徹そのものともいえる一の谷の為人からは想像できないそのあまりのおかしさに後輩蒐書官が聞き入ったその話が終わったとき、ふたりのカップはともに空になっていた。


 カップが空になったまま長く居座るわけにもいかないため、追加で注文したふたり分のコーヒーと、「糖分補給」と称して彼が注文したドーナッツを持って後輩が戻ってくるとふたりの会話は再開される。

「ところで、日野さんの能力を疑うわけではありませんが、日野さんのその言葉は検証されたことなのでしょうか?」

 後輩蒐書官はその疑問をぶつけると彼は重々しく頷く。

「たとえ相手が専門家であっても他人の言葉を鵜呑みにしない。いい心掛けだ。実際のところ、話がここまでだったら私もその話は眉唾ものではないかと疑っていたことだろう」

「というと、他にも何か見つかったのですか?」

「いや。他には何も見つかっていない」

「何もない?では、北添さんが納得した根拠とは何だったのでしょうか?」

「先ほどの話をもう少し詳しく語れば、日野氏はひととおりそれを眺めると実在する群馬の前方後円墳の名を挙げ、それはその古墳の設計図の一部であると言ってのけたのだ」

「結果は?……まあ、他に何も見つからず、北添さんが納得したということは……というか、正しかったから私がここにいるわけですが」

「そういうことだ。ちなみに、それを聞いた夜見子様はすぐに調べ日野氏の言葉が正しかったことを確認している」

「驚きですね」

「そうだな。だが、驚くのはまだ早い。ひとつ問うが私の目には君がこの結果自体に驚いているように見えるが間違いないかね」

「間違いありません。というか、それ以外の何に驚けばいいのですか?」

「まあ、確かに数多くの古墳からひとつを瞬時に選びだしたのは驚異だ。だが、私の言うそれよりも驚くべきこととはその数値が頭の中に入っている日野氏そのもののことだ。もちろんこれひとつなら覚えていられるだろう。だが、実際はどうかといえば、とんでもない数の古墳から数値ひとつでターゲットを見つけ出す作業をおこなうためには日本中の古墳のデータを頭にいれていなければならない。しかも、夜見子様は日野氏に紙の年代を知らせたのは目の前にそれを提示してからなので日野氏はそれを事前に調べることなどできない。これがどういうことかわかるかね」

「……瞬間的に頭の中を検索してそれを探し当てるためにはそれに見合うだけの知識が頭の中にある」

「そういうことだ。そして、それだけ建築に関する知識を詰め込んでいたらさすがに他の知識が入る余地はない。私はその話を聞いた時に日野氏の知識が建築に特化している理由がわかったよ」


「そこで、北添さんにお鉢が回ってきたのですか?」

「甘いな。この程度で終わるようであれば、話はコーヒー一杯分で済む。ここまではまだ序の口だ」

「そうなのですか?」

「当然だろう。ということで、この後に夜見子様はそれを見つけるために我々に対してどのような指示を出したのかわかるかな?」

「設計図を持っている者がいないか捜索をさせたのではないとしたら思い当たるものはありません」

「なるほど。だが、手がかりもない状況で所有者を捜索させるのはあまりにも無謀だろう。答えは日本中の古書店にローラーをかけただ。これは君がまだ蒐書官どころか橘花グループにリクルートもされていない頃の話なのだが、それは実に楽しいものだったよ」

 それが逆の意味の言葉だったことは苦笑いを浮かべる彼の表情からすぐに読み取った後輩蒐書官が大げさな身振りとともにそれに応える。

「それはなんともご愁傷様です。それで収穫は?」

「副産物は大量に見つかったのだが、肝心の設計図については完品どころか断片的なものも見つからなかった」

「それはますますご愁傷様でした」

「そう言うと思ったよ。だが、その言葉を口にするのは少々早かったようだな」

「どういうことですか?」

「つまり、品物は確かに見つからなかったのだが、その代わりに我々は複数の古書店主からそれに繋がるある重要な情報を手に入れたのだよ」

「そこで設計図の持ち主が見つかったということですか?」

「半分当たりだ。正確に言えばその情報は我々よりも前に古墳の設計図を探し回っていたグループがあったというものだった」

「我々よりも先に動いていたということはどこかの研究者……ではなく、我々が訪ねる相手ということですか?」

「まあ、正解としておこうか。厳密には探していたのはその組織の末端の者たちだったのだが、とにかくそのひとりを見つけて吐かせた結果全体像と首謀者がわかったというわけだ。ちなみに、そのひとりに辿り着くまでにこれだけ時間がかかった理由はわかるかね」

「雇い主が子分をかくまっていたからでしょう」

「逆だ。仕事が終わると首謀者が直属の部下たちに命じて探索者たちを密かに始末していたのだ。その男は逃亡中に我々が確保したから助かったようなもので、そうでなければ多くの同僚たちと同じ運命を辿っていたことだろう。もちろん、そうなれば彼の主への痕跡は完全に消えていたことになる」

「子分を使って我々の獲物を掻っ攫ったうえに、証拠隠滅のために必死に働いた子分たちを埋める。いいですね。絞めがいのある悪党のようで。ちなみに、随分とすばらしい信念と趣味をお持ちのようですが、どのような方なのですか?」

「これから訪ねる九尾武久のことか?一見するとわからないが実は桐花家に繋がる者だ」


「桐花家?」

 彼の言葉を聞いた後輩蒐書官は小さく呻いた。

「それは少々やっかいですね」

「まったくだ」

 彼が後輩の言葉に力なく同意する理由。

 それは九尾武久が属するという一族にある。

 桐花家。

 それは、日本の開国とともに突如現れて以降どのようなときにでも遥か高みから世界を見下ろす立花家と違い、敗戦後の混乱で多くのものを失ったが、それでも依然として隠然たる力を持ち続けている日本の歴史が始まってから今に続く旧家のひとつに与えられた名である。

 そして、それとは別にこの桐花家に関しては裏の世界でしか知られていない「神の見えざる手」と呼ばれる闇の力を有していることでも知られていた。

 多くの者はどのようなものかを知らないその力であるが、その真の力を知る立花家当主は、夜見子に対してもいかなることがあろうとも当主の許可なく桐花家に手出しをすることはならないと申し渡している。

 それほどの存在なのである。

「そういうことであれば当然夜見子様には報告をしているとは思いますが、夜見子様からはどのような指示があったのですか?」

「当主様に了解を取り付けるのでそれまでしばらく待てと」

「それだけですか?」

「それだけだったな」


 ……つけ加えるなら行動開始の指示とともに相棒を君に変えたことが指示のひとつだったのだが、本人が触れないのだからこちらからあえてそれを言う必要はないだろう。


 彼は心の中でそう呟く。 

「それにしても、彼はなぜ古墳の設計図などを集める気になったのでしょうか。しかも、どの程度のものが集まっているのかは知りませんが、せっかく集めながらそれを公開もしない。公開すれば歴史に名を残せるというのに」

 そして、彼の小さな気配りに気づかない能天気な後輩がさっさと別の話題に話を進めると彼もさりげなくそれに追随する。

「それについては少々言葉を加える必要がありそうだな」

「と言いますと?」

「九尾武久が古墳の設計図の探索を始めたのは二十年前からだということからコレクションの大部分はそこから出来上がったと思われる。そのきっかけは今のところわからないが、一族が隠し持っていた何かをきっかけに蒐集活動を始めた可能性は十分に考えられる。ちなみに、我々が確保した男からの情報では少なくてもほぼ完品がひとつ、部分的なものについてはかなりの数を九尾武久は手に入れているようだ。それから君のもうひとつの疑問だが、こちらは容易に答えられる。コレクターには二種類存在する。ひとつは名誉や実利を得ることを含めて自らのコレクションを自慢したい者。そして、もうひとつが理由は様々だがひとりだけでそのコレクションを楽しむ者。闇オークションに手を出している者や法律に触れる蒐集方法をおこなっているコレクターは皆後者となるわけで当然九尾武久はこちらに属する」

「なるほど」

「言うまでもないことだが後者が所有しているコレクションについては知らされている情報は皆無なのだが、その分今回の件と同じように彼らが抱える品には公開されれば世間の常識を覆すような驚くべきものが多数含まれている」

「手に入れがいがあるということですか」


「ところで桐花家の一族を相手に交渉するのに北添さんはどのような策を用意しているのですか?」

「策?そのようなものは用意していない」

「つまり、策もなしに手ぶらで敵陣に乗り込むのですか?」

 それは蒐書官の基本に悖るのではないか。

 後輩蒐書官は言外にそう言っていた。

 もちろん、ベテラン蒐書官である彼がそのような初歩的なことを忘れるはずがない。

 ……随分甘く見られたものだ。

 彼はその言葉に苦笑いを浮かべる。


 ……だが、彼は新米なうえに、私との付き合いも短い。

 ……ここは、私の言葉が足りなかったと考えるべきだろうな。


 思い直した彼は言葉をさらに加えることにした。

「いや、そうではない。九尾はほぼ交渉不可能な相手だ。そのような相手に小細工を弄してもどうにもならないということを言っただけだ」

「……どういうことですか?」

「わからないかね。では、もうひとことつけ加えよう。そのために交渉経験のないにもかかわらず君が今回の私のパートナーに選ばれたのだ。噂どおりの活躍を期待している。これなら、どうかね」

 今度は彼の言葉を理解した後輩蒐書官はニヤリと笑う。

「なるほど、そういうことですか。つまり、相手の屋敷に乗り込んだ瞬間に即パーティーが始まるというわけですね」

 後輩の言葉に彼は薄く笑った。


 ……ハズレではない。

 ……だが、ここではもう少し上品な言葉を選ぶべきだろう。

 ……それに、それだけなら、わざわざ君を選ぶ必要はない。


 彼は訂正をするためにさらに言葉を添える。

「それではただの物盗りだろう。我々は誇り高き蒐書官。コソ泥と間違えられるようなことはしない」

「では、どうするのですか?」

「物事にはすべて手順というものがある。宴はそれをすべておこなってから始める」

「手順?」

「決闘にだってそれをおこなうには手順があるだろう。それと同じだ。始まってしまえば行きつくところは同じなのだが、その前にやらなければならないことがあると言っているのだよ」

「わかりました。では、言い方を変えます。白手袋はどの時点で投げつけるのですか?」


 ……いい表現だ。


 自分好みの言葉に彼はニヤリと笑う。

「まず、絶対にやらなければならないことは相手が品物を持っているかどうかの最終確認と、それを我々に差し出す気があるかを問うことだ」

「そこでケリがつけば無用な血を流す必要がないわけですね。ですが、先ほど相手はそのような者ではないと北添さんは言ったではありませんか」

「そのとおり。だが、今回は夜見子様だけではなく立花家の名誉もかかっている。結果がわかっていても必要な手順はすべて踏まねばならない。だから、手袋を投げるのはそれらの儀式がすべて終わってからということになる」

「……子分どもを平気が埋めるような男がそこまで待ってくれますかね」

「相手に先手を取られると非常に厳しいという君の懸念はもっともなことだが、これは決定事項だ。それに、そうならないようにするのは残念ながら我々以外の仕事だ。我々は夜見子様の指示に従って我々の仕事をやるだけだ」

「……わかりました」

 その言葉を口にした後輩蒐書官の顔には先ほどまではなかったあきらかに緊張の色がうかがえる。


 ……自らの生死が他人の交渉結果に委ねられているという事実。

 ……ようやくそれを飲み込み、この仕事の難しさがわかってきたということか。


 彼は自分が最初の仕事をしたときのことを思い出しながら少しだけ笑みを浮かべた。

「緊張しているようだね」

「そのようなことはありませんが……」

「いや。隠す必要はない。今からおこなうことを考えればそれくらいの緊張感を持ってもらわなければ困るのだ。だが、過剰に緊張されても困る。そこで、初めて蒐書官の仕事をおこなう君の不安を取り除くために言っておく。蒐書官にかぎらず橘花の人間にとってそれは常識中の常識のことではあるが、自己犠牲の精神などまったくない私は他人の成功のために人柱になる気はないし、もちろん君を弾除けに使うつもりもない。蒐書官がことを始めるということはすべての準備が完璧に整ったということであり、それはつまりその後に起こることは完璧な勝利以外にはないということだ。だから、君は君に与えられた仕事だけを過不足なくやってくれたまえ。そうすれば、成功は必ずついてくる」

「はい」


「では、行こうか」


 彼らの目的場所。

 そこは新宿駅からほど近くでありながら、とてもそうは見えない広い敷地に建てられた見事な洋館だった。

 その屋敷の一室に通されてから五分ほど待った彼らの前に現れたのが、この屋敷の主である九尾武久だった。

 年は四十代前半。

 名門一族の一員というよりは新興企業のワンマン社長といった雰囲気を漂わせる武久は、ソファに座る前にふたりを品定めするように眺める。

「蒐書官。噂には聞いていたが実物を見るのは初めてだ」

 傲慢と言ってしまえばそれまでだが、それ以上の何かを感じさせる。


 ……さすが桐花家の一族と言ったところか。

 ……ただの成金とは威圧感が違うな。


 彼の品定めが終わった後も、武久の言葉は続く。

「名門一族である私のところにやってくるのだから、さぞかし選抜されたベテランなのだろうと思っていたのだが、ひとりは素人同然だな。まったく舐められたものだ」


 ……さすが。


 彼は一瞬で相方の未熟さを見破った眼力に心の中で感服する。


 ……もっとも、彼が未熟なのは交渉能力だけなのですが。


「さすがですね。彼は最近蒐書官になり、昨日から私とペアを組んでいる山越と言います。それから申し遅れましたが私は北添です。よろしくお願いします。九尾様」

「すでに要件は本家から聞いているが、一応本人の口からも聞いておこうか」

「承知しました。端的にいえば、私どもは古墳の設計図を求めてここにやってきております」

「言葉は丁寧だが中身は盗人そのものだな。とにかく要件については承知した。だが……」

 武久はそこまで言ったところで、ふたりを睨みつける。

「私が苦労して集めたものをなぜおまえたちに譲らなければならないのだ。まずそれを教えてもらおうか」


 ……所有していることは隠すことはしないわけだ。

 ……さすが名門桐花家の一員。

 ……では、こちらはそちらのプライドを有効に利用させてもらおう。


 もちろん選択肢はいくつも用意していたのだが、この男に効果的なものは何か。

 そして、自分たちにとっての有利な情報を引き出すにはどのような言葉がよいのか。

 彼は少しだけそれを考え、そして、選び出したそれを口にする。

「その前に九尾様はどの程度のものをお持ちなのかを教えていただきたい」

「図々しいやつだな」

「恐れ入ります」

「まあ、いいだろう。わざわざ来た駄賃代わりに教えてやる。信じるかどうかはおまえたちの勝手だが、私は所有しているもののうちほぼ完全なものは三点。そのうち一点は大王陵のものだ。断片的なものは多数。そのうちいくつかについてはそれがどの古墳のものかがわかるものだ。おまえたちがいつからあれらを探し始めたかは知らないが、もう日本国中探してもこれ以上のものは出てくることはない。それくらい徹底的に探し回った」

「なるほど」


 ……おそらくそれは本当のことなのだろう。

 ……そうでなければ、我々があれだけ探しても何も見つけられないということはないのだから。

 ……逆に彼のコレクションを手に入れてしまえば、現存する古墳の設計図のほぼすべてを手中にできるということになる。

 ……情報は揃った。

 ……ん?


 隣の部屋からほんの僅か音がした。

 それは他の者が気づかないほど小さなものだ。

 だが、彼だけは知っている。

 それが合図であり、その合図が何を示しているかということを。


 ……どうやら始まったようだな。


 彼は心のなかでそう呟いて僅かに笑みを浮かべる。


 ……まったく気が早いことだ。

 ……間違って交渉が成立したら君はどのような言い訳をするのか興味深い。

 ……もっとも、交渉が成立して一番困るのはこの私なのだが。

 ……まあ、とにかくこちらも始めるとしようか。


「さて、お訊ねの件ですが、九尾様が集めた品をすべて我が主に譲渡しなければならない理由。それは我が主がそれを望んだからです」

「傲慢だな。しかも、それはおまえたちが手に入れたい理由であって、私がおまえたちに渡さなければ理由にならない」

「私たちにとってもあなたにとってもふたつは同義語です」

「ますます傲慢。だが、おまえたちの主張はわかった。武臣の頼みだったので時間をつくったが話はここまでだ」

「そうはいきません」

 面倒くさそうに話を切り上げようとした武久を咎めるかのような彼の言葉が飛ぶ。

「まだ言い足りないことでもあるのか」

「もちろんです。なにしろ我々が出す条件で品物を譲り渡していただけるかについて九尾様の言葉を頂いておりませんので」

「私がどのような条件を出されても承諾しないことくらい私の言葉を聞かなくてもわかるだろう」

「ですが、交渉決裂となると、九尾様に待っているのは不幸な結末だけとなります。そうならないためにどうぞ我々が出す条件をお飲みください」

「脅しているつもりか。だが、おまえはまったくわかっていないな」

 男の言葉に彼は首を傾げる。

 もちろんすべてを承知のうえで。

「私たちが何をわかっていないとおっしゃるのですか?」

「邪魔者を消しているのは自分たちの専売特許だとおまえたちが思っていることに決まっているだろう。私がおまえの質問に気前よくペラペラと喋ったのは機嫌がよかったからだと思っていたのか」

「……つまり、すぐに口封じをするから何を話しても問題ないと。ということは、最初から我々を殺すつもりだったということですか」

「そうなるな」

「ですが、我々が戻らなければ我が主は黙っていません。もう一度言います。このままでは不幸な結末しかありません。我々が提示する条件を飲んでください」

「何度も言わせるな。それに言っておくが、桐花家の一員である私にとっておまえの主を黙らせることなど容易いことだ」

「それは日頃疎ましく思っている桐花家当主武臣様の力を借りるということですね」

「好き嫌いなど関係ない。利用できるものを利用するだけの話だ。さて、あの世にいくおまえたちへの手土産が出揃ったところでそろそろお別れとなるわけだが、私は情に厚い男だ。言い残したいことがあれば聞いてやる」


 ……まさにこれから死にゆく悪党が口にするセリフ。

 ……まあ、あなたにはピッタリではありますが。


 彼は心の中で目の前の男を盛大に嘲った。

「では、お言葉に甘えてひとこと。我々蒐書官は、あなたと違い邪魔だという理由だけで人を殺めたりはしません。まして、不要になったからといって自分のために働いた者を殺すなどありえぬ話であり、そのような輩と我々を一緒にされては甚だ迷惑です」

「つくづく気に障る物言いだな。そんなに早く死にたいのか」

「その言葉。そっくりお返しします」

「なんだと」

「我々が手ぶらでやってきたからといって何も準備をしていないと思ったら大間違いだということです」

「言っておくが、ここにいる五人は精鋭であり、隣にはさらに十人も控えている。ついでにいえば、軟弱者の武臣と違い私自身も自らの身を守る術を人並み以上に心得ている。つまり、武器のないおまえたちには万に一つも勝ち目はない。もっとも、忌々しいが武臣とのつまらぬ約束は守らねばならない。おまえたちが戦闘行為に入ったと認められるまでは手を出さないでやる」

「つまり、最初の一撃は私たちが撃ってもよいということですか?」

「そうなるな。ハンデをやる。せいぜい足掻くがいい」

「それは助かります」

 彼は丁寧に頭を下げ、それから隣に座る人物に目をやる。

「さて、我々もすべての義理は果たしたことですし、お言葉に甘えてさせていただきましょうか。山越君」

「はい」

「あなたの仕事を始めてください。自らの義務を完璧に果たしてください」


 五分後。

 何が起こったかもわからぬままあの世に旅立った六人の死体が転がるその部屋には言葉通り血まみれになった三人の男が立っていた。

「見事ですね。私など足元にも及ばぬ完璧な仕事です」

 その状況を眺めながらふたりに声をかけたのは、ことが終わったあとに加わった数日前まで彼のパートナーだった男である。

「それは音もなく屋敷に侵入し館の住人すべてを短時間に始末した誰かが言うセリフではないだろう。しかも、隣にいたのは武装した者たちだったはずだ」

 彼は苦笑いを浮かべ、控え目過ぎる元パートナーの言葉を訂正する。

「私の場合は真紀様をはじめとした多数の仲間がいましたし、なによりも武器が使えた上に相手にしたのはほとんどが素人ですからそれほど難しいものではありませんでした。それに比べて彼は……」

「たしかに銃も持たずに乗り込んだにもかかわらず、ひとりで五人を瞬殺というのは噂に違わぬ仕事ぶりだ。さすが由紀子様のお墨付きだけのことはある」

 ふたりからの賞賛に頭を下げた彼が遠慮気味に口にしたのはひとつだけ気になるあのことだった。

「ですが、本当によかったのですか?」

「何がかね?」

「もちろん桐花家の一族の者を手にかけたことです」

 彼の懸念は当然である。

 彼が最後に殺した男とは夜見子が立花家当主より無断で手出しすることはまかりならぬと釘を刺されていると聞かされていた桐花家の一員である男だったのだから。

 心配そうな彼の言葉にふたりの先輩は人が悪そうな笑みを浮かべる。

「それは今更の話だな」

「そうですね。今頃後悔されても命乞いもできぬまま首を切り落とされた哀れな男は生き返りません。困りました。北添さん。事実を取り繕う何か良い策はありますか?」

「それはもちろん決まっているだろう。彼はそのために呼ばれたのだから」

「なるほど。そうでしたね」

 そう言いながらふたりは彼を冷たい目で眺める。

「……もしかして……」

 後輩蒐書官の脳裏に浮かんだのはすべての責任を負わされて処分される自分の姿だった。

 だが……。

「冗談だ。その点については心配ない。もし、九尾の命を奪ってはならぬと指示が出ていれば、それこそ君を殺してでも止める」

「それどころか、そのような指示が出るのであれば、今回の案件は成立しないでしょう。交渉が成り立たない相手との取引。夜見子様より指示された商品を手に入れるための方法はこれしかなかったのですから交渉にゴーサインが出た時点で許可が出たと考えるべきだと思いますよ」

 そう言った言葉のあとに響くのはこの場の状況にはあまりにも場違いなふたり分明るい笑い声だった。

「では、夜見子様は桐花家から九尾を殺害する許可は取っていたということですか?」

 なおも不安がる後輩の言葉に応えるために、先輩のひとりが口を開く。

「許可どころか、交渉を認める条件がこれだったのだよ」

「条件?九尾武久を殺すことが条件だったのですか?」

「そういうことだ。ただし、山越君が先ほど不安になったことは夜見子様も可能性のひとつとして考えていた。だから、すべてが終わった後に言いがかかりをつけられぬように交渉の様子は録音したうえ九尾が我々を殺すという言葉を口にするまでは手を出すなというのが夜見子様の指示だった。もっとも、志摩君は随分前から仕事を始めていたようだが」

「それはいざとなったら北浦さんたちを助けるために隣室を早めに押さえておく必要があったからですよ。ですが、それは必要なかったようですね」

 そう言って、彼の前パートナーは惨状をもう一度眺める。

「桐花家当主は夜見子様に対してなぜそのような条件を出したのでしょうか?」

 釣られるように眺めなおした後輩蒐書官の問いに、彼が答える。

「君も九尾武久の桐花家当主に対する言葉を聞いていたからわかったと思うが、彼はあきらかに当主を嫌い軽んじていたことだ。だが、相手を嫌っていたのは九尾だけではなかったということだ」

「つまり、桐花家当主武臣も同じ感情を持っていたということですか?」

「結果を見れば、彼の場合はそれ以上ということになる。なにしろ九尾との譲渡交渉をおこなう許可を得ようとした夜見子様に対して、桐花家当主は九尾を亡き者にすれば、夜見子様が九尾の持つ古墳の設計図の手に入れることを認めるのはもちろん、以前夜見子様が権道を使って彼から『枕草子』の原本を手に入れた一件についても水に流すと言ったのだから」

「ですが、桐花家の人間が常人ではないとはいえ、さすがに嫌いというだけでそこまでの条件を出すとは考えにくいのですが……」

「そのとおり。つまり、九尾が始末される理由はそれだけではなかったということだ」

「どういうことですか?」

「九尾武久は不遜にも桐花家当主の地位を狙っていた。少なくても桐花武臣はそう思っていたようだ。つまり、彼にとって今回の件は自らの手を汚すことなく潜在的脅威の排除ができる絶好の機会。そのためには一族が持つ秘物どころか過去の因縁さえも簡単に捨て去ることもできる。内紛自体は名門一族にはよくあることだが、色々意味で桐花武臣と九尾武久では格が違ったということだ」

 その言葉とともに今度は三人の目はソファにもたれかかった旧家の一員の死体に注がれる。

「ところで他家の揉め事の後始末までおこなって手に入れようとした肝心の品は見つかったのですか?」

 彼の言葉に前相棒が答える。

「もちろん。彼の書斎から本一冊どころか博物館がひとつ建つくらいのものが見つかったよ。まだ、ほかにもおもしろいものがないかを真紀様率いる書籍鑑定官たちが探している」

「清掃屋の方々は?」

「常に完璧な彼らが手抜かりなどするはずがないでしょう。いつもどおりの後始末を準備しています」

「なるほど。それは結構だ。まあ、とにかく仕事は終わりだ。残りの回収は真紀様に任せて、やるべき仕事が終わった我々はそろそろ引き揚げるか」


 彼らが去ってからしばらくしてこの古い屋敷は火に包まれる。

 その直前に多くの者が館に出入りしたという証言があったものの、それらはすべて無視され、彼らがかかわったものがいつもそうであるように、今回もまたそれは住人の過失による不幸な火災事故として片づけられることになる。

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