After story Ⅰ ふたつの聖書
「メンドーサ絵文書」の後日談的話となります
実際には本編で語られなかった話ですが
フランスの首都パリでおこなわれた闇オークション会場内。
そのふたりの男は同じ品物を眺めていた。
「長谷川。あなたはこの『三十六行聖書』ではなく、『四十二行聖書』を手に入れるべきだと言いたいですか?」
「そのとおりです。パオロさん」
彼のその言葉を聞いた後、パオロと呼ばれた男は隣の商品を眺める。
「保存状態もよく完全な形で残っている『三十六行聖書』は見送り、たった一枚の『四十二行聖書』を手に入れるべきというあなたの言葉は私には解せぬ。私にもわかるように説明してもらいたいものですね」
その毒のある言葉にも特別に反応することなく、彼が淡々と答える。
「その世界に住んでいらっしゃるあなたにふたつの価値について説明をする必要はないわけですが、私が問題にしているのは『三十六行聖書』の出どころの不確かさです」
「それはどういうことかな」
「つまり、これだけの品が突然売りに出されるのは不自然だということです」
実はこのときすでにこの「三十六行聖書」が贋作であることを見抜いていたものの、その本当の根拠を語るということは自らの能力を語ることと同義語となる彼はそのようないかにも取ってつけた理由で購入に反対していた。
だが、当然彼のクライアントであるその男はそれで納得するはずはない。
「ここはそういう場所なのだから、その程度のことは十分にあるのではないか。それに内容について確かめたが問題はなかった。そして、それ以上にこれは我々が所有している『三十六行聖書』と比べても保存状態が格段に良い。そのようなものを手に入れることを取るに足らない小さな理由で躊躇するなどありえぬことだ。手に入れるのは絶対にこちらだ」
そう断言する男に彼はため息をつく。
……誰に吹き込まれたかは知らないが、私に対するあきらかな対抗心。
……だが、それはあなた自身を滅ぼすものだ。
……まあ、いい。私はそこまで心配してやる必要はないのだから。
……ただし、巻き添えは御免だ……。
「わかりました。購入資金を出すパオロさんがそこまでおっしゃるのであれば、そういうことにいたしましょう。ただし、この件に関して私が反対していたことは、あなたの上司に提出する報告書に明記することはご承知ください」
「もちろん承知した。だが、そこまでやる必要が本当にあるのかな。恥を掻くのはあなたの方ですよ」
「構いません」
彼は笑顔でそう言った。
だが、心の中で彼は別のことを語っていた。
……これはたしかに見ただけではわからぬほど出来のよいものだ。
……だが、贋作は贋作。本格的な調査をすればわかる。
……つまり、このままいけばあなたは贋作を掴まされる。
……それが判明したときにあなたがとる行動といえば、アドバイザーとして同行した私にすべての責任を擦り付けること。
……これはその対策なのですよ。
彼は一度男の表情を窺う。
……勝った気でいるようだな。
……愚かな男だ。
……それにしても……。
彼は視線をその商品に戻す。
……仕事柄、多くの贋作を見てきたが、「すべてを写す場所」の作品群を除けばこれほどのものはあまりお目にかかったことはない。
……しかも、ざっと見ただけでもオークションの出品された商品の二割が同じレベルの贋作である。
……いくらここが有名な闇オークションとはいえ、これだけの数の高品質の贋作が同一会場に紛れ込むことが偶然であるはずがない。
……つまり、これは主催者によって意図的におこなわれている。
……すなわち腕の良い職人を抱える工房が主催者の周辺に存在する。
「ところで、長谷川」
思考する彼にかけられた声は、すでに明るい未来がやってこないことが確定している人物からのものだった。
「何でしょうか?パオロさん」
「これにはどれくらいの値が付くと思うかね」
「……そうですね」
彼は少しだけ考える。
「市場に出てくる可能性を考えたら七千万ユーロから八千万ユーロ。もしかしたら一億ユーロは超えるかもしれません」
「本物なら」という言葉をつけることなく彼は答える。
「なるほど。では、こちらの『四十二行聖書』はどうだろうか?」
「同じくらいはするでしょう。コレクターアイテムとして自慢できるのは『四十二行聖書』のほうですから」
「たった一枚でも?」
「そうです。こちらにも買いを入れますか?」
「いや。予定通り『三十六行聖書』だけにしておこう」
「わかりました」
……順番は『四十二行聖書』が先だ。このまま放置すれば、『四十二行聖書』の入札競争の余熱で『三十六行聖書』の価格も沸騰することは避けられない。
……そうなれば、偽物を手に入れるために大金を叩くことになり、贋作であることがあきらかになったあとには無能という誹りを受けることになる。
……この男だけが汚名を塗れるのならそれでも構わないが、おそらくそうはなるまい。
……仕方がない。アドバイザーの仕事からははずれることになるが、ここは私が小細工を弄する以外に手はないようだ。
「パオロさん。バチカンで使う便箋はありますか?」
「もちろんあるが、それをどうする?」
「それを利用して『三十六行聖書』を効率的に手に入れようと思いまして」
「そのような手があるのかね?」
「一回限りしか使えないものではありますが」
「それで、具体的にどうするのかね」
「あなたには署名入りの手紙を書いてもらいます。もちろん明るい場所で使われる役職名を入れて」
「それは構わないがそれを何に使うのだ?」
「バチカンの権威を利用して『三十六行聖書』の入札から降りるように脅し、いや説得します。もちろん海千山千の相手には言葉だけでは通じません。当然それなりの飴をしゃぶらせます」
「つまり、賄賂を渡すということか?」
「さすがです。ですが、ここは協力金と言っておきましょう」
「それで、いくら払うつもりなのかね?」
「一組三十万ユーロ」
三十万ユーロ。
それは日本円で三千万円を超える大金だ。
そのような金をもらうことはあっても払ったことはないその男は顔を顰める。
「……それはいささか多い気もするが」
「ここにいるのは金持ちばかりですので、少なくてもこれくらいは支払わないと金を渡した効果が出ません。それどころか、馬鹿にしているのかと怒り出すかもしれません」
「わかった。それで、その……交渉は参加者の誰に対しておこなうのだ?」
「私たちを除く九組のうち七組。『三十六行聖書』の入札に参加するのは七組ですのでそのすべてに対して交渉をおこないます」
……まあ、実際は五組だが、その場で気が変わるかもしれないので、こういう時は先に手を打っておくべきなのです。いわゆる先行投資というものですね。
「話はわかった。だが、それだけのことをやる価値が本当にあるのかね?」
「もちろん。これが成功すれば我々がこれに対して使う金は五百万ユーロでお釣りが来ますから、かなりの経費節減となります」
……その程度の額で収まれば、たとえ偽物を掴まされても私までは火の粉は飛んでこないだろうし、この男もうまくすれば生き残れるかもしれない。
……もっともそれはこの男の努力次第なのだが。
「わかった。それで、肝心の手紙の内容は?」
「それは……」




