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古書店街の魔女  作者: 田丸 彬禰


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メンドーサ絵文書

 フランスの首都パリ。

 華やかという言葉がよく似合うこの都市にも当然闇は存在する。

 そのひとつがパリ三区と呼ばれる場所に建つ古い屋敷のひとつでおこなわれる闇オークションである。

 もちろんそれは非公式かつ非公開なものだったのだが、数年に一度の割合で不定期におこなわれ一晩で驚くべき額の現金が動くため、その世界では有名なものとなっていた。

 だが、驚くのは金額だけではない。

 当然そこに出品されるものも、その金額にふさわしいものであり、逸品、珍品という言葉さえそれを表現するには陳腐に思えるものばかりだった。

 そういうことでオークションは常に盛況であり、この日のオークションにもこの場でしか手に入らないものを求めて裏世界の有名人が世界各地から集まってきていたのだが、そこにはある組織に属するふたりの日本人も含まれていた。


「さて、どのようなものが出品されるか楽しみだな。まあ、我々が手にしたいものは限られてくるのだがそれでも目の保養にはなる」

 その日本人のひとりが隣に立つもうひとりの日本人に独り言のようにそう声をかけると、その男の後輩らしいそのもうひとりは首をかしげた。

「出品されるものはこのカタログに載っているでしょう」

 そう言ってこれ見よがしにそれを見せたのは、入場券代わりに購入した薄っぺらいオークションのカタログである。

 だが、それを見た男は真面目な顔で語った後輩の言葉を鼻で笑う。

「甘い。甘過ぎるよ、牧君。君は本当にそれに載せられているものだけが出品されるものだと思っているのかね」

「違うのですか?」

「当然だ。というか、載せられていないものこそが、本当の目玉であり、我々を含む真実を知っている者たちの目当ての品だ。そうでなければ我々がここにいる意味がない」

「そういえば、たしかにカタログには魅力的なものも数点ありますが、大部分は価値のないゴミですし、そもそも我々蒐書官が参加し手に入れなければならないものは載っていませんでした。突然パリに飛ばされただけではなく、このような珍奇な服を着てつまらぬオークションに参加しなければならないのはなぜなのかと思っていたのですが、何かカラクリがあるわけですね」

 彼の後輩はそう言って黒の蝶ネクタイを摘まむ。

「まあ、カラクリというほどでもないのだが、カタログに載せられたものだけを見れば、好きもの同士の秘蔵品交換会にしか見えない」

「たしかに。要するにこれは万が一のための保険ということなのですね」

「そうだ。もっとも、万が一ということが起きないから、世界から裏社交界の有名人が現金を抱えてここに大挙してやってきているのだろうが……おっと、招かざる客のおでましだ。この話はここまでにしておこうか」

 彼は自分たちに向かってやってくる人物を見つけるとそう言って後輩との話を打ち切った。


「やっと見つけましたよ、ミスター飛田。ミスター牧」

 ふたりの会話を中断させたその声の主は、相手の心情などお構いなしに自分の都合だけを押しつける、まさに「ザ・アメリカ人」と呼べる男だった。

「ミスタージェームス。お会いできて光栄です」

 どこからも文句のつけられない完璧な挨拶をしながら、彼は心の中でその言葉の後にこう呟いていた。

 ……勘違いするなよ、アメリカ人。

 ……朱雀さんの指示があるから相手をしているだけだ。

 ……そうでなければ敵である貴様などと親しく話をするわけがないだろう。

 五人の統括官のなかで一番の武闘派とされるヨーロッパ大陸を所管する統括官朱雀衛の下で長く働いているためなのか、その影響を強く受けている彼は上司と同じ言葉を心の中で吐いていた。

 もちろんそこは蒐書官。

 それを顔のどこにも表すことはなかったのだが。

「ところで、ミスタージェームス。ひとつお伺いしたいことがあるのですがよろしいでしょうか?」

「なんなりと」

 笑顔とは対照的な歓迎する様子など微塵も感じない飛田の問いかけに、相手も必要以上の笑顔とそれに相応しいわざとらしさ満載の仕草で男が応える。

「……ちっ」

 その様子に不機嫌さが増した彼は相手にもよくわかるように盛大に舌打ちしてから毒が籠った言葉を吐くために口を開く。

「聞くところによれば、あなたは人が羨むような非常に高い地位に就いているそうですね」

 彼の言葉を聞いた相手の口が動く。

「羨む地位かどうかはわかりませんが、カイロ駐在の首席交渉官を務めております。ミスター飛田」

「いやいや、十分に羨ましい身分ですよ。ミスタージェームス。そのような高い地位の方がなぜパリに出稼ぎにやってきたのですか?お仲間はパリにもいるでしょうに」

 続いて彼が繰り出したのは最近起こった相手の不祥事を皮肉った最高級の嫌味である。

 だが、相手は動じない。

 笑顔を崩さぬまま、すぐさま丁重だが十分に毒が籠った言葉を返す。

「あなたの言われるとおりパリには仲間が売るほどいます。そういえば、最近あなたがた蒐書官にパリの仲間が大変お世話になったようですね。彼らに代わってお礼を言わせていただきます」

 ……くそっ。

 その言葉に不機嫌さを増した飛田はギアをさらに一段階上げる。

「喜んでもらえているのならうれしいかぎりです。それで、その報復をするためにわざわざあなたがカイロからあなたがやってきたということですか。まったくご苦労なことです。ですが、そういうことならその対象はもてなした当事者にしていただきたい。なにしろ我々はパリにやってきて間もないだから」

「まったくです。イタズラをして怒られるのは我慢できるが、何もしていないうちに怒られるなど迷惑千万」

 まさに相手の倍返しにさらにその倍をお返しするような強烈な言葉の応酬である。

 だが、このようなやりとりに関しては、一日の長があるのは相手の方だった。

 涼しい顔で彼らの嫌味を受け流すとウィンクとともにこの言葉を返した。

「それについては私も同感です」

 その言葉にふたりが鼻白むのを楽しそうに眺めながら、一本取った形となったその男はさらに言葉を続ける。

「それに、そういうことはここを統括しているパリの主席交渉官であるウィリアムスが考えればいいことであって、私はその件にはノータッチです。私がここにやってきたのはそれとは別件です」

「別件?」

「はい」

「それはこのオークションに参加することでしょう」

「いや。それは手段であって目的ではない」

「目的ではない?この闇オークションでコレクションに加えるべき品を手に入れることが本当の目的ではないとおっしゃるのか?」

「そのとおり」

「では、本当の目的とは……まあ、あなたのような小心者が敵である我々にそのような重要事項を教えるわけがないか」

「構いませんよ」

「えっ?」

 嫌味を込めて送り出した言葉に対して即座に返ってきたそれは彼にとって意外過ぎるものだった。

「い、いいのですか?」

「もちろん。ですが、その前に」

 男は人気のない場所を親指で指し示す。

「他人に聞かれてはいけない内容なもので」

 それは場所を変えてから話すという意味だった。

「いいでしょう」

 ふたりの日本人は頷き、その言葉に従った。


「では、お伺いしましょうか。その目的とやらを」

「……贋作の発見とその出品者を排除」

「ほう」

 さすがに表情を変えることはなかったものの、男が口にした贋作という言葉がふたりの心中を穏やかとは対極のものにさせたのにはわけがある。

 それはもちろん彼らの主が抱える工房が「完全コピー」という名の最高級の贋作をつくりだしていたからだ。

 ……こいつは「すべてを写す場所」の存在を知ったうえで我々と話をしているのか?

「すべてを写す場所」

 それは、「それを知る者は見つけ次第速やかに抹殺せよ」という義務が課せられている彼らの組織にとってトップシークレットに属する贋作工房につけられた名である。

 当然のように彼は警戒の色を濃くする。

「それはおもしろい話だ。具体的には?」

「このオークションには贋作が出品されているということです」

 ……つまり「すべてを写す場所」とは無関係か。

 そう判断した彼は警戒レベルを少しだけ下げ、暗殺用の注射器から手を放すと、言葉を続ける。

「だが、それはおかしな話です」

「そのとおり。そのようなものが出品されていたのならこのオークションの信用はガタ落ちとなり、これだけ人が集まるということはないでしょう」

 先輩の言葉を引き継いだ牧の視線の先にあるのは狭くはない控室にたむろする多くの参加する者である。

 男もその様子を眺めなおすが、それがどうしたと言わんばかりの表情を浮かべる。

「実にもっともな話です。ですが、私が言ったことも間違いのない事実なのです」

「では、贋作を出しても人が集まる理由を教えていただきますか?」

「まず、ここがいわゆる闇オークションであり、出品されるものは盗品や盗掘といった出どころ不明のいわゆるいわく付きのものばかりであり、手に入れた後に怪しいと思っても専門家に鑑定させることができない」

「確かに専門家に鑑定を依頼などしたら手に入れた品が白日の下に晒され、最悪商品は没収され持ち主はお縄になる。そのような危険を冒してまで鑑定はしない」

「そういうことです。それからもうひとつ。そちらがより重要なのですが、その贋作は非常に出来が良く、専門的な検査をおこなわなければ贋作だとはわからない。ですから、それを掴まされた大部分の客は今でもそれが本物だと思っている」

「……なるほど。それで繋がった」

 それは唐突すぎる言葉だった。

「どうしたのですか?飛田さん」

「ミスタージェームスの言葉で私がここに来てからずっと引っ掛かっていた疑問が解けた」

「と言いますと?」

「我々の資格だ。ミスタージェームス。もしかして、あなたがここに来たのは美術館の主席交渉官ではなくあくまで個人の立場としてではないでしょうか?」

「そのとおり。以前このオークションに参加したアメリカ人の代理人というアンダーカバーを用意しました」

「そして、我々も夜見子様配下の蒐書官ではなく、チェコの貴族ホーヘンベルグ卿の代理人という立場でここにやってきている」

「そうです。ですが、それは品格を重んじる主催者に認められた招待者以外は参加できないとかいう規則があるためだと聞いております。そのため我々はホーヘンベルグ卿の直筆の委任状を持って来たのでしょう」

「本当の理由は違う。いや、言い方が悪かった。おそらくそれは建前であり、主催者が気にしているのは品格などではない」

「では?」

「主催者は大きな組織をオークションに参加させたくないのだ。だが、我々や金満の巨大美術館をオークションにさせた方が高額での落札が期待できるのだからこの参加者を個人に限定するというのはどう考えてもおかしい。では、見込める利益を捨ててまで守ろうとしているものとは何か?それは贋作の製造販売の事実。眺めるだけしかできない個人のコレクターなら欺けるが、我々やミスタージェームスが属する美術館なら自前で科学的調査をおこなうことができるので真贋鑑定が可能だ。彼らにとってそのような顧客の存在は商売の根幹を揺るがす。だから排除しているのだ」

「私の上司もそう判断しています。ですから、フランスで活動し顔が割れている者ではなく、わざわざカイロにいる私が送り込まれたのです」


 フラフラと近づいてきたシャンパングラスを持った別の参加者をやり過ごしてから話は再開される。

「ところで、ミスタージェームス。今回あなたが我々と行動したいと申し出た理由を聞いていませんでしたね」

 飛田のその棘のある言葉はまだ何かを疑っているのはあきらかだったのだが、それはそこからさらにエスカレートする。

「そもそも我々とあなたがたは敵とまではいかなくても少なくてもライバルとはいえるでしょう。そのあなたがたが我々にすり寄ってくるのは何か魂胆があるとしか思えない」

 もはやオブラートに包むことさえせず悪意をそのまま吐き出す飛田の言葉にジェームスは苦笑いを浮かべるしかなかった。

「あなたの言葉はほぼすべて正しい。ただし、私の本拠地カイロでは我々と蒐書官はそれなりに仲良くやっていますし、お互いの活動を邪魔するようなことは極力避けています。そして、なによりも今回の件は私の上司から指示であり、きれいな言葉で言えばあなたの主に対するお礼です」

「お礼?報復の間違いではないのですか?」

「いや、本当のお礼です。あなたがたの主に私を含めて多くの者の命と組織の名誉が救われた。そのような恩を仇で返すようなら我々全員は地獄行き確定だ」

 ……いやいや、あんたたちの日頃のおこないだけで地獄行きはすでに決まっている。だから、今頃殊勝な言葉を述べても手遅れなのだよ。

 もちろん目の前の男を嘲るその心の声を彼が言葉として口に出すことはない。

 咳払いで間を取ったあとに彼が口にしたのは別の言葉だった。

「なるほど。あなたの気持ちは理解したが、そうであれば、そのお礼がこれというのはどういうことなのかも説明してもらわなければなりませんね」

「いいでしょう。まず、このオークションの情報をあなたがたに流したのは我々です。あなたがたはこのオークションにこれまで一度も参加していなかったようですから十分有益な情報であったと思いますが」

「だが、あなたは今我々に自分の仕事を手伝わせようとしているではありませんか。それが我々に情報を流した本当の目的ではないのですか?」

「手厳しい。ですが、私はまだ仕事を手伝って欲しいとは一言も言っていませんよ」

「では、手伝わなくてもよろしいわけですね?」

「いや。それは是非お願いしたい」

「やはり」

「ですが、珍品が多数出品されるこのオークションに貴重な書も出品されるかもしれないと思えば、あなたがたは必ず現れる。今話した私の情報がなければ、その時に大金を払っておかしなものを手にすることになったのですから、アフターケアをするためにやってきた私の仕事を少々手伝ってもバチは当たらないと思いますがいかがでしょうか」

「ふん。その程度のことなどあなたの手を借りなくても独力で回避できる。恩着せがましく手伝いを要求するとは片腹痛し」

 もちろん何も知らないジェームスは彼の言葉はただの強がりだと思ったのが、実は彼らにはその言葉を鼻で笑うだけの根拠があった。

 そう。

 彼らには贋作を掴まされることがない手だてがあったのだ。

 もっとも、それは商品に触れるという行為をおこなうことによって可能なものであり、触れることができなければ、その技術が宝の持ち腐れに終わることになるのだが。

 ……だが、こんなところでわざわざ我々の能力をこの男に見せる必要などない。

 ……ここはこの男の提案を蹴り飛ばすのではなく、形だけでも感謝の言葉を述べ、それに乗るべきか。

 そう考えなおした彼が笑顔とともに口を開く。

「わかりました。ほんのお手伝いということならいいでしょう。ただし、我々が手に入れる品については欠片にも遠慮はしないことは先に言っておきますよ」

「もちろんそれは構いません。私は同じ品を手に取った場合、文字が書いてあるものの優先権は蒐書官にあるという取り決めをミスター新池谷と交わしています。ここでもその取り決めに準じることにしましょう」

「いいでしょう。そうであればこちらも一時的な手打ちをすることに異存はない」

「私からもひとつ質問があります」

 ふたりの会話が一段落すると、これまで飛田とジェームスの会話に口を挟むことなく聞き役に回っていた牧が口を開いた。

「伺いましょう。ミスター牧」

「あなたは自信満々にここで贋作が出品されているという。だが、それはおかしくありませんか?」

「……私の説明にどこか不審な点がありましたか?」

「我々もあなたも現在個人の資格でここに参加している」

「そのとおりです」

「それは属する組織の名前を出せば、参加が許されないからです」

「それも正しいです」

「それで、どうやってここに贋作が出品されていることがわかったのですか?考えられるのは、贋作を掴まされたかわいそうなコレクターから商品を購入しようとしたときですが、そうであれば、あなたがたには実害がないはずだ。違いますか?」

「そうですね。あなたが言う仮定であればそのとおりです」

「では……」

「察してやれ。牧君」

 牧の言葉を制するようにふたりの会話に割り込んだのは先ほどジェームスと手打ちを済ませた彼の先輩にあたる人物の言葉だった。

「どういうことですか?」

「決まっている。君は先ほどこう言った。『贋作を掴まされたかわいそうなコレクターから商品を購入しようとした』」

「確かにそう言いました」

「では、そのかわいそうなコレクターが実はコレクターに成りすまして潜入した彼の友人であったのならどうなるかな?」

 すぐさま牧はジェームスの顔を見る。

 そして、彼の言葉が正しかったことを悟る。

「……一億九千万ドル」

 絞り出すようにジェームスが口にしたその金額は彼らが被った被害の大きさであることはあきらかだった。

「商品は?」

「盗難に遭った印象派の絵画二点と戦災で消えたとされた一点。競り落としたすべてが贋作だった」

「……ほう」

「そのようなものに二億ドル近くも支払うとはお友達はよほど良い眼をお持ちだったようですね。それとも一服盛られていたのでしょうか」

「というか、そもそもそのようなものが出てくること自体疑ってかかるべきでしょう」

「そうおっしゃるが、その男はこの地では有名な闇画商というアンダーカバーをつくることに成功するくらいの者だ。それなりの目利きであることは間違いない。だが、贋作とわかったのはアメリカに持ち帰って調査してからであり、つけ加えるならば、彼だけでなく当時の上司もそれを本物と疑うことなくアメリカに送っていた」

 ここぞとばかりに浴びせられた罵詈雑言にささやかな反論を試みた男だったが、さらなる言葉が彼を踏みつける。

「つまりそれは恐ろしく優れた職人の手によるものだということですか」

 ……それと同じくらいにあなたがたの頭のおめでたさも職人級ということだ。

 心の声であるそれがにじみ出ているような飛田のその言葉にジェームスが苦り切った顔で答える。

「褒めたくはないが、残念ながらそういうことになる。だが、失態は失態。その上司はパリから東欧の一交渉官に格下げされた」

「それはお気の毒に」

「ちなみに彼はあなたがたに嵌められたと騒いでいました」

「それは完全な濡れ衣で逆恨みというものです。それはそれとして、それがわかった時点で抗議して返却し金を取り返せばいいではありませんか?素人ならともかく、あなたがたはそうではない」

「それができていれば私がここにやってきていないと思いますが」

「まあ、そうですね。それで、その理由とは何ですか?」

「売買契約書の存在。そこには『入札に参加した時点で破損その他商品に関するどのような問題があった場合でも返金しないことを約束したものとみなす』とあります。いわば貰った金は絶対に返さないという宣言ですね。ですが、まさかその文言が『その他』に重点が置かれているとは考えなかったようです」

「典型的な詐欺師の手口とはいえますが、たしかに平和的解決は難しそうです。ですが、そうであれば力ずくでとりかえせばいいでしょう。そのためにあなたがたも有能な兵を抱えているのでしょう」

「まあ、それはそうなのですが、武力行使は最終手段です。それに、そうなったら相応のお返しは覚悟しなければなりません。たいへん小さなことではありますが、そうなれば我々が名を借りた形式的な雇い主にも迷惑がかかる。あなたがたと名義人がどのような関係かは知らないが、少なくても我々の名義上の雇い主はすべて状況がまったくわかっていない赤の他人のような人物だ。さすがにそれでその方が害されるようなことになったら申しわけない」

「これまで散々人を騙し、法律を犯して多くの遺物を手に入れてきた組織の方が語るその話を、長い間あなたがたとつきあっている私たちがそのまま信じるとはさすがに思ってはいませんよね。訊ねたいことはまだありますが、そろそろオークションが始まります。続きは会場に移動してからにしましょうか」

 実に微妙な空気だけを残し、彼らはオークション会場へと歩き出した。


 彼らがやってきたオークション会場であるその部屋、いや、そのホールと表現した方がいいであろうそこはおそらくこの館で一番広い場所と思われた。

 そして、その大きな空間にはすでに多くの先客がやってきていた。

「随分いますね」

「控室は三部屋あったようだから当然これくらいはいるだろう」

 すでに参加者はグループごとにテーブルが割り振られており、受け付けを終えたふたりも指定されたテーブルに向かうのだが、当然のようにあの男は彼らのもとにやってくる。

 自分のテーブルに用意された椅子を引きずって近づいてくる男を見つけた牧はウンザリしながら、先輩蒐書官に訊ねる。

「いいのですか?」

「構わんよ」

「えっ?」

 男を毛嫌いしているようだった彼が意外にも鷹揚だったのにはもちろん理由はある。

「嫌だと言ってもヤツは来る。結果が同じなら快く迎えたほうが精神衛生上よいだろう」

 ……冗談か?それとも本気なのか?

 先輩が真面目な顔で語ったその言葉は後輩蒐書官にはその真意が判断できず、苦笑いを浮かべてその提案を言葉通りに受け入れるしかなかった。

「ところで、私はこれまでオークションに参加したことはなかったのですが、飛田さんはどうなのですか?」

「何回かはあるが、ここまでのものには参加したことはない。さすが世界一と言われるだけのことはある。雰囲気が違うな」

「ここが世界一?世界一のオークションハウスはクリスティーズではないのですか?」

「いいえ」

 ふたりの会話に割り込み、彼の疑問に答えるように説明を始めたのはちょうど彼らのもとに到着したジェームスだった。

「それはあくまで表の世界だけの話です。裏の世界ではそれよりも巨額の金が動くオークションは驚くほどたくさんあります。そして、その中のひとつはカイロでおこなわれているものです」

「カイロ?」

「はい」

「それはもしかして……」

「そのとおり。あなたがたの知り合いが主催者です。私もよく参加していますが本当に逸品ばかりが登場しますよ。値段もそれなりですが……」

 ここまで話したところで三人の会話を遮るようにオークショナーが叩く開始を知らせるハンマーの音が鳴り響き、会場の照明が一段階暗くなる。

 それを待っていたかのように、ふたりのライバル組織に属する男は隣に座る彼の耳元で囁く。

「ところで、ミスター飛田。出品されるものは十二点。どうしますか?」

「いつまでも茶番に付き合ってはいられない。当然最初のものを落とす」

「わかりました。では、サポートしますので、私の時はよろしくお願いします」

「承知した」

 もうひとりを置き去りにしたその会話により、テーブルの下で手を結んだ彼とジェームスはオークションが始まるとふたりだけで値を釣り上げ続けざまに商品を落札する。

「飛田さん。あんなものにそんな大金を支払うとはどういうことなのですか。そもそも我々の目的はそのようなものでは……」

「落ち着いてください。ミスター牧」

 どう見ても安物のおもちゃを五十万ユーロという高額で落札した彼に食ってかかる後輩蒐書官に、事情を説明したのは同じくパリの土産物店ならどこにでも売っている絵葉書セットを七十万ユーロで落札したジェームスだった。

「ミスター牧。あなたのおっしゃる通りロットナンバー十と十一の二点を除けばすべてがゴミであり、このようなものに大金を支払うなどありえないことだというあなたの言葉は正しい。しかし、これは絶対に手に入れなければならないものなのです。なぜなら、これこそが本当のオークション参加権なのですから」

「そういうことだ。つまり、本当のオークションに参加できるのはカタログに載る品を落札した十二名だけということだ。まあ、ライバルを減らすために複数の商品を落とすことはできなくもないが、本当のオークションに参加する前に余計な出費はしたくないと思うのは皆同じだ。それにこの手のものは大抵紳士協定で落札はひとり一点となっている。それを破ったらそれこそ品格が疑われ出口直行だ。そのあとにどうなるかは言うまでもない」

「そういうことです。それに見ていてください。そのうち我々が支払った金額が安く見えてきますから。ちなみに前回は最後の商品だった袋菓子ひとつに五百万ユーロという値がついたそうです」

「それはわかる。最後の品ということで主催者に対するアピールも兼ねているのだろうからな。まあ、全員がアピールがてら落札する気もなく気前もよく値を釣り上げていったものの、突然誰もいなくなり残ったひとりが渋々金を払ったという可能性もあるのだが」

「それはなかなか面白い話ですが、なぜそこまでして主催者にアピールする必要があるのですか?」

「わかりやすく言えば、次回の招待状をもらうためですね。このオークションは闇オークション界トップの格付けになっていますから、審査の厳しいここに参加した経歴は彼らにとっては勲章となるわけです。それが複数回となれば当然他の闇オークションではそれなりと待遇が受けられるわけで……」

「なるほど」

「だが、そこまでして手に入れたものが贋作とは悲しくなるな」

「まったくです。ようやく我々の気持ちを察していただけたようですね」

「いや、それだけはわからん」


 さて、その後オークションはどうなったのか?

 言うまでもない。

 気の利いた、いや、このオークションの本質を知っている者が無価値なものに高値をつけて次々に落札していく中、多くの者は目玉として出品されていた二点を手に入れようと激しく争い、めでたくふたりの人物がそれらを落札した。

 もちろん、事情を知っている者たちにとってそれは喜劇以外のなにものでもなく、冷笑をもって大喜びするふたりを祝福する。

「……二百万ユーロですか」

「確かに珍しい品ではある。だが、あのようなものに夢中になるとは、彼らはここで一番価値があるものが何かがわかっていない素人であるのは疑いようもない」

「ちなみにあれも贋作なのでしょうか?」

「その可能性はありますが、おそらく本物ではないでしょうか」

「何かの拍子に真実を知ったときに素人なら出どころを喋りそうだから、まちがなく本物だろうな。それと主催者側もアレを入れることによって素人とそうでない者を振り分けているのだろう」

「ですが、素人とでなくても権利を手に入れるために札を上げる者もいるでしょう」

「まあ、それはいるだろう。だが、そのような者ならすでにその前に何度か入札に参加している。その点、素人は二点に集中するから見分けるのは簡単だ。さて、たしか次で最後だったな。それで、出品されるものは……花束か」

「世界一高い花束になるのは間違いないでしょう」

「見ものだな」


 もちろん結果はその言葉どおりとなり、開始直後からその値は驚くべきスピードで上昇すると、すぐに目玉に見えた二点の絵画の落札額を超え、瞬く間にその二倍の価格にまで跳ね上がる。

 やがて、ほとんどの者は脱落し、残ったのは肌の色から東洋系と思われるひとりとフランス人と思われる紳士だけだった。

 両者ともまったく譲る気はなくそのバトルは激しさを増し、値が上がる度にギャラリーとなった大部分の参加者からは感嘆ともとれる奇妙な歓声が上がるが、当然それを冷ややかに眺める者たちもいる。

「両方とも必死だな。余程欲しいものがあるのだろうな」

「まあ、そうでしょうね。ですが、こうなることは最初からわかっていたはずなのですから、そうであれば最後まで残るという選択は愚か以外に言いようがないですね。私たちのようにさっさと抜け出しておけば高みの見物ができたものを」

「まったくです。今頃札を上げながら後悔していることでしょう」

 バトルはさらに続いたが、結局フランス人らしき男が六百五十万ユーロの大台に乗ったところで降り、その花束は東洋人が落札した。

「……当然といえば当然だな。あの人が狙いをつけたものを逃すはずがないのだから」

 それは勝負が決まる直前にその男から送られてきた小さな合図によってその人物の正体に気づいた彼が口にした言葉だった。

 ……おっと。驚きのあまり思わず声に出してしまった。

 彼は少しだけ慌てたものの、一度ジェームスに目をやり自分の呟きが気づかれていなかったことを確認してから、何事もなかったかのように彼は後輩蒐書官に声をかける。

「さて、牧君。君ならあれをいくらで買うかね?」

「六ユーロ」

「さすがに六ユーロでは買えまい。だが、六十ユーロは高いな。その三分の一というところか?」

「カイロの花屋なら六ユーロでもお釣りが来ます」

「まあ、我々が手に入れたものも五十歩百歩のレベルなのだから他人のことは言えまい。さて、茶番はこれで終わりここからが本番だ。気を抜くなよ。牧君」


 ひと時の宴は終わり、大部分の参加者は今回の記念として主催者から渡された高級ワインを手にして屋敷をあとにする。

 同じころ、彼ら三人を含む落札者たちは屋敷の主に仕えているという初老の執事に導かれ別室へと続く天井から床まで豪華な装飾が施された長い廊下を歩いていた。

 だが、やってきたのはなぜか十組だけだった。

「……どういうことでしょうか?」

 歩きながら隣から聞こえてくるその声はとても小さい。

 もちろんそれは盗聴を疑っているものだ。

 当然後輩の問いに答える彼の声もそれに負けないくらいに小さくなる。

「牧君。君はここにいない者が誰であるかはわかるかね」

「もちろん。例の二点の購入者です」

「そう。つまり、先ほど言ったとおり主催者が本来のオークションに相応しくない輩を『あなたがたは特別な品を落札したので貴賓室へどうぞ』とでも言って排除したということだ。騙されたとも知らず尻尾を振ってついていく彼らの哀れな姿が目に浮かぶよ」

「まったくです。ところで、ここから我々はどうなるのですか?」

「やつの情報通りなら、まず商品の下見が始まる。もちろん今度のものは直後におこなわれる本当のオークションに出品されるもの。つまり我々の獲物だ」

「つまり、我々の最初の仕事はそこでおこなわれるわけですね。ですが、それを確かめる機会はあるのでしょうか?」

 牧の言葉は言外に商品を触れる機会が訪れるのかと訊ねていているものだった。

 そして、それに対する彼の答えはといえば……。

「そのチャンスをつくることを含めて我々の仕事ということだ。それに……」

「それに?」

「いや、何でもない」

 ……牧君にはまだ言わないほうがいいな。

 彼はそう心の中で決めていた。

 ……鮎原さんを除けば蒐書官一交渉能力が高いあの人がここにやってきている以上、いざとなれば助言や協力を仰ぐことができるということだ。

「ところで、飛田さん。私には最後の品を落札したのはアジア人に見えましたが飛田さんはどう思いますか?」

「ん?」

「つまりですね。怪しくありませんか?」

 牧のその唐突な言葉は彼にとってはやや意外なものだった。

 ……あえて日本人とは言わなかったが気づいていたようだな。

 ……だが、気がついたのはそこまでというのは実にもったいない。

 後輩蒐書官のニアピンを薄く笑った後に、前を歩くふたり組を眺める。

 ……それにしてもこの人はなぜここにいるのだ?

 ……同じ要件でやってきたのなら我々にも連絡があるはずだから、つまり別件。

 ……ということは、この謎を解くカギは隣の男か。

 彼は知り合いの左隣の人物を観察する。

 ……話しているのはイタリア語。つまり、イタリア人がこの人の依頼者。

 ……だが、この人がペルーからわざわざやってくるほどのイタリア人の知り合いとはいったい何者だ?

 彼は考える。

 そして、それほど時間を費やすることなく彼の思考はその人物が過去におこなった仕事に関係したイタリアの首都に囲まれた一角に拠点を持つある組織に辿り着く。

 ……なるほど。バチカンか。

「君も気づいていたのか。だが、彼らが話しているのはイタリア語だ。つまり、あれは我々には縁もゆかりもない男だ」

「そうですよね。知り合いであれば、こっそりとでも声をかけてくるはずですし」

 ……甘いな。そうであれば、なおさら声などかけない。

 ……そう。私のように。

「それからひとつ注意しておく。彼らが近づいてきても絶対に話しかけないように。それはまちがいなく君のためになる。さて、どうやらここが会場のようだな」

 ふたりの視界に広がる舞踏会が開けそうな大広間。

 そこが目的の場所だった。


「では、ミスタージェームスが言うその驚くべき完成度の贋作とやらを拝ませてもらおうか」


 だが、それからわずか数分後。

「……これはどういうことだ」

 それを見た彼は呻いていた。

「どういうことだと言われても……」

 彼の後輩も同様の感想を持っていた。

「やはりそういうことか」

 ……これは贋作。

 それが彼の結論だった。

「どうかいたしましたか?」

 彼の呻きに素早く反応し、言葉をかけてきたのは参加者に比して広すぎると思われる真のオークション会場壁面にずらりと並ぶ出品作ごとについた説明係のひとりである女性だった。

「これが『メンドーサ絵文書』であることは疑う余地もない。だが、あれは現在イギリスにある。それについてどう説明するつもりなのですか?もしかして、あなたがたはあれを盗んできたとでも主張するのですか?もっとも、これはあれとは明らかに違うのだが」

 実を言えば、あまりもわかりやすい贋作に彼はガッカリしていた。

 続いて彼は返す刀で同業者も斬り捨てる。

 ……この程度のものに騙されるとは情けないやつらだ。

 ところが……。

「いいえ。あちらは今でもそのままだと思いますよ。これはあれとは別のものです」

 女性はそれが当然と言わんばかりにそう答えた。

「……ということは、これは模造品ということですか?」

 あえて贋作という言葉を使わなかったのは彼なりの配慮というものだった。

 だが、説明係の女性は再び彼の言葉を否定する。

「いいえ。模造品でも、もちろん贋作でもありません」

「違うのですか?」

「もちろん」

「そう断言するということは、当然それがどういうことなのかを説明をしていただけるのでしょうね」

 気色ばんで問う彼の言葉に女性は慌てる様子もなく応える。

「模造品でも贋作でもなければ、考えられるのはほぼ同じものがふたつあったという以外にはないと思いますが」

「確かにその主張は筋が通るが証拠がない。それをあなたの言葉だけで信じろというのは金を払う側としてはやや無理があると思うのですが」

「言いたいことはわかります。では、あなたはどうしろとおっしゃるのでしょうか?」

 ……来た。

 彼が待っていたのはこの言葉であり、有能な蒐書官である彼が向こうからやってきたこのチャンスを逃がすはずがない。

「手にとって読ませていただきたい」

 当然の要求である。

 ……拒否するのはわかっている。

 それが彼の予想であり、もちろんそれに備えて次の手も用意されていた。

 だが……。

「……わかりました。いいでしょう」

 少し間は開いたが、それが女性の言葉だった。

 ……簡単に了承するとは驚きだ。

 ……それだけ品物に自信があるということなのだろうが、相手が悪かったな。

 彼はそっと苦笑する。

 それとともに、ジェームスの言葉どおり眺めるだけでは真贋判定ができないほどのものであることもまた事実だった。

 ……「すべてを写す場所」の完全コピーは我々でも見分けがつかないが、これも外見上だけならそれほど見劣りしない。やつらが騙されるのも頷ける。

 ……だが、残念だったな。我々を騙すにはそれだけでは足りないのだよ。

 ……では、化けの皮を剝がさせてもらおうか。

 もちろん、この時点では彼は自信満々だった。

 だが、差し出されたそれを取った瞬間、彼のその考えは改められる。

 ……なんだ?少なくても紙もインクも年代の齟齬はない。

 ……つまり本物でなければ、これは完全コピーということになる。

 ……だが、完全コピーのリストに「メンドーサ絵文書」はなかった。

 ……本物? そうでなければ、別の工房製の完全コピーということか?

 自分の能力を悟られないようにライトに透かして確かめるフリをするものの、彼はこの時驚き混乱していた。

 ……これをどう判断すればいいのだ?

 その時だった。

「……それは本物だ」

 音もなく近づいた男が通り過ぎる一瞬にそう囁いた。

 ……あ、ありがとうございます。

 もちろん声の主が誰かを知っている彼は振り返ることなく歩き去る男に心の中で感謝すると、彼から受け取ったそれを睨みつけ苦闘を続ける後輩蒐書官に声をかける。

「牧君。君はこれとイギリスの『メンドーサ絵文書』との違いがわかるかね」

「強いていえば、こちらの保存状態が悪いこと。発色の違い。それから若干文言に違いがあるというところでしょうか」

「そうだな。存在する理由はともかく、これが本物かどうかについては、私はクリアしていると考えるが君はどう考えているかね」

「私も飛田さんの意見に同意します」

「そうなると、とりあえずこれは買いということになるが、それについては?」

「それについても同意します」

「よろしい。では、改めてお伺いしましょうか」

 密談は終わり、彼は振り向き、少し離れた場所からふたりの鑑定が終わるのも待っていた女性に問いかける。

「確かに内容を確かめてもこれは本物の『メンドーサ絵文書』としか思えない。それを踏まえてお聞きする。なぜ、同じものがふたつあるのでしょうか?」

 彼の言葉に笑顔で頷いたその女性が口を開く。

「あなたが先ほど指摘したとおり世間で知られている『メンドーサ絵文書』は現在イギリスのボドリアン図書館の収蔵品です。ですが、その前の所有者が複数存在することはご存じですか?」

「もちろんです」

「それでは話が早い。その初期の所有者が複製をつくったのではないかとも考えられますが、私は別の意見を持っています」

「それは?」

「私の見解は『メンドーサ絵文書』の作者アントニオ・デ・メンドーサ自身が実は同じものをもうひとつ作製していたというものです」

「おもしろい意見ですが、その根拠は?」

「いくつかについて、ここにある『メンドーサ絵文書』はオックスフォード版の『メンドーサ絵文書』とは言い回しが変わっています。もう少し言うならば、オックスフォード版がより洗練されています。常識的に考えてこちらがコピーならそういうことは起こらない。つまり、こちらが初期版である。私はそう考えています」


「予想外の掘り出し物を引き当てたな。まさか『メンドーサ絵文書』がもうひとつあるとは思わなかった」

「まったくです。何が贋作ですか。彼らが使用している鑑定機器は相当な年代もののようですね。それともメンテナンスがされていないのでしょうか」

「まずメンテナンスが必要なのはやつら自身ではないのか」

「まったくです」

 そんな軽口を後輩蒐書官と交わしながら彼の目はある人物を追っていた。

 ……やはりな。

 その男が連れの男と熱心に言葉を交わしているのはすべてある宗教に関連する遺物の前だった。

 ……決まりだな。ん?

 それはその男が自分を呼ぶ合図だった。

 彼は同じ品を眺めるふりをしながらその男に近づく。

「……これを落としたまえ」

 彼の耳に声が届く。

 視線の先にはあるものは……。

「……『グーテンベルク聖書』」

 思わず出た彼の言葉に相棒が反応する。

「ですが、これは一枚のみ。どうせ手に入れるなら、あちらのほうがよさそうです。完品のようですし」

 指さす先には隣に並ぶ「三十六行聖書」と呼ばれる古い聖書が置かれている。

 ……確かに歴史的価値は「四十二行聖書」とも呼ばれる「グーテンベルク聖書」の価値がある。しかし、こちらは羊皮紙版でないうえにその一部しかない。

 ……それに比べて「三十六行聖書」は現存しているものは非常に少なく希少性はこちらのほうがあると思うのだが。

 ……なるほど。そちらはそのクライアントが落とすということか。

 彼はそう判断すると心の中の購入希望リストにそれを加える。

「これで二点。まあ、こんなものだろう」

 彼は小さく呟く。

 もちろん彼は十分に満足すべき成果だと納得していた。

「いくらなんでもさすがにもうないだろう」

 それは彼の心からの言葉だった。

 だが、幸か不幸かそうはならなかった。


 十分後、表現するのが難しいくらいに困惑の表情を浮かべて彼が歩みを止めていたのは先ほどの「メンドーサ絵文書」とよく似たコデックスの前だった。

「……私は初めて見るものですが、飛田さんはこれを知っていますか?」

 後輩蒐書官が絞り出すような声で彼に訊ねるものの彼にとってもそれは見覚えのないものだった。

「知らない。それどころかこのタイトルも初めて聞くものだ」

 彼は商品の脇に置かれた名札を指さす。

「当然です」

 ふたりの会話に割り込んできたのはこの商品の説明係らしき紳士だった。

「どういうことですか?」

「これはさるお方が秘蔵していた逸品なのです。今回のオークションのために放出していただきました。そのタイトルはその方が名付けたものです」

「なるほど。それは興味深いです。購入希望リストに入れたいのですが、まず中身を確かめてもよろしいですか?」

「構いません。ただし、古いものですから扱いは丁寧にお願いします」

「ありがとうございます。では……」

 触れた瞬間彼にはわかった。

「なるほど」

 ……古く見えるがつくられたのはそれほど古いものではない。

 ……つまり、これこそ贋作。

「ちなみに、出品者とあなたの関係は?」

「特にございません」

 ……よく知っている間柄だな。

 ……それとも、出品者本人か。

 些細な声の震えから彼はそれを読み取った。

 だが、彼がそれ以上に気になったのはその内容だった。

 ……贋作であるのは間違いない。

 ……だが、内容を含めて出来は驚くほどよい。

 ……これだけのものを想像だけでつくり上げるのは無理だ。

 ……つまり、これには間違いなくオリジナルがある。

 ……しかも、それはまだ知られていないものだ。

「牧君。君はこの内容について知っているかね。これと類似したものでもいいが」

「いいえ。知りません」

「では、この内容について齟齬が生じる部分はあったかね」

「いいえ」

 ……さて、どうしたものか。

 ……内容はいいが、贋作と承知で購入するのは私のプライドが許さない。

「……もちろん買いだよ」

 再び迷う彼の耳に声がする。

「ですが、これは……」

「内容に信憑性があり、初めて見るものならまずは手に入れる。検討とオリジナルを手に入れる算段をするのはその後だ」

「……承知しました」

「どうかしましたか?飛田さん」

「いや。なんでもない」

「ところで、あのアジア人もこれに興味があるのですかね。熱心に見ていましたが」

「さあな」

 ……隣に立つ蒐書官でもわからないのだから、他人が会話に気づくはずもないか。

 ……さすがです。

「飛田君。君がそれについて意見があるのは承知の上で言う。このコデックスを落とす」


 その後ひと回りしたが、今度こそ追加で購入希望リストに加えるべき目ぼしい獲物もなくターゲットが決まったところで、彼らは会場内を所在なさげに歩いていたあの男に声をかける。

「ミスタージェームス。あなたが手に入れるものは決まりましたか?」

「はい。そちらは?」

「決まりましたよ。合計三点」

「多いですね。いいのですか?……全部偽物ですよ」

 ジェームスのやや嘲りの香りが籠った言葉に彼は軽い笑みと頷きで応じる。

「真贋はともかく内容は良いものだったので構いません。ところで、あなたは具体的に何を手に入れることにしたのですか?」

「絵画です」

「……絵画ですか。たしか先ほどの話では前回掴まされた贋作は……」

「そのとおり」

「懲りませんね」

「私と前任者と違いを見せたいと思いまして……というのは建前で、前回のことを考えたら、よくできていても偽物であることは間違いないのでこれを選んだというのが本当の理由です」

「なるほど。それで、どれでしょうか?あなたが選んだ絵とは」

「あちらのものですね」

「……確かに良いものですね」

 彼らはその絵に近づき、枠を持って裏を見る。

「古いものですね」

「その辺は抜かりないですよ。前回もそうだったようですから」

 ジェームスは言葉ともにため息を吐き出す。

「……これではたしかにわかりませんね」

 だが、彼の真の目的はそこではなかった。

 裏板を眺めるふりをしながら彼は絵に触れる。

 ……紙ほどには正確ではないだろうが、それでも描かれたおおよその年代くらいはわかるだろう。

「なるほど」

 そして、彼が下した答えは……。

「行方不明のゴッホの絵画。確かに贋作にしやすい一点ではあります。ところで、最近あなたの組織は色々と出費が多かったようですから、贋作を大金で買い取るはたいへんでしょう。あなたが落札できたら私どもがそれを同じ額で買い取りましょう」

「それが本当ならおおいに助かるが、その言葉を本当に信じていいのでしょうか?気前よく高額で落札したまではいいが、約束を反故にされたら目も当てられない」

「その点はご心配なく。実は私どもには出来のよい贋作を専門に集める変わった趣味の持ち主がおりますものでその人物に買い取ってもらいましょう。まあ、多少足は出ますが、それについては一点貸しとしておきましょう」

 もちろん彼の知り合いにそのような高尚な趣味を持つ者はいない。

 つまり、恩着せがましく言葉を飾っているが、本物であるこの絵を言葉巧みにかすめ取ろうという算段である。

 だが、心の底からそれを贋作だと信じているその男は彼の思惑に気づかない。

 何かあると思いつつ、彼の提案に乗ってしまう。

「では、お願いしようか」

「契約成立です」

 彼は再び笑みを浮かべジェームスと握手を交わすものの、その笑顔はあきらかに先ほどより黒さの増したものだった。

 ……さて、こちらの仕事が終わったところで、あの人はどのようなものを手に入れるつもりなのか確認するか。

 彼はその男がいる場所に近づく。

 彼らもちょうど入札に参加する商品の最終決定をしているところであった。

 その男は彼らが近づくと、声を少しだけ大きくして相手の男に話しかける。

「では、パオロさん。落札希望の品は『三十六行聖書』と聖遺物三点。それから宗教画が二点。それで、よろしいでしょうか?」

「そうだ。必ずすべてを手に入れてくれ」

「小さなサイフでこれらすべてを落札するとなると大変ですが、ありがたいことにその心配がありませんので問題はないです。それから、もう一度確認しますが、『四十二行聖書』は入札しなくてもよろしいのですね」

「あれはすでに完品があるので、無理に手に入れなくてよい」

「もうひとつ。出所不明なので私はおすすめしませんが、『三十六行聖書』は絶対に手に入れるのですね」

「そうだ。最優先に」

「承知しました。パオロさん」

 ……あの人は完全版の「三十六行聖書」ではなく、わずか一枚の「四十二行聖書」に随分とこだわるのだな。何か思い入れでもあるのだろうか?

 彼は心の中でそう呟き、薄く笑う。

 だが、すぐに男が言外に語っている真実に気づく。

 ……いや。蒐書官のなかでも商売人気質が強いあの人がそのようなもので動くはずがない。

 ……つまり、そういうことだ。

 ……それで、私に購入しろと言ったのか。

 ……ということは、もう一方は……。


 そして、木槌の音とともに本当の闇オークションが開幕する。

「ところで、ミスター飛田」

 開始早々、彼らには無関係の品がどんどん値が上がっていくのを眺めながら左隣に座るアメリカ人が彼に話しかける。

「……声が大きいですよ。ミスタージェームス」

「それは済まなかった。それで、君たちはいったいどれくらいの現金をレセプションに預けてきたのかね?」

 このオークションの特徴のひとつが支払いはすべて現金ということである。

 そのため、参加者は多額の現金をこの屋敷に持ち込むことになるのだが、自らの支払い限度額をあきらかにする意味合いもあり、受付時に持ち込んだ現金の額を申告したうえ預けることになっている。

そして、彼らのそれは……。

「十億ユーロ」

 十億ユーロ。

 それは一千億円を超える大金である。

「十億ユーロ?それは随分と豪勢な」

「そちらは?」

「方々からかき集めてその四分の一といったところか。これでも相当奮発したつもりだったのだが、あなたがたの金額を聞いてしまうとお恥ずかしいかぎりです。だが、こういう言い方をしては本当に申しわけないのですが、あなたがたレベルでもそれだけの大金を自由にできるということは、さらに上の地位にあるミスター新池谷はいったいどれだけのお金を動かす権限が与えられているのでしょうか?」

 当然羨望と嫉妬に彩られたジェームスの言葉に彼が答えることはない。

 ただ、彼も、そしてその相棒もただ微笑むだけだった。

 ……まあ、常識的に考えても最低十倍。

 男は自ら答えを出し、改めて自分たちが相手にしている者たちへの恐怖を噛みしめる。

 その男を慰めるかのように彼が口を開く。

「ほかの参加者も似たり寄ったりでしょう。もっとも、そうでないところもありそうですが」

「知り合いの富豪でもいらっしゃいましたか?」

「いや。私が言ったのはこの世に存在するという得体の知れないもののことですし、もちろん私の知り合いでもありません」

 彼はそう言って自らの言葉を否定したものの、先ほどの言葉はもちろん彼の知り合いのクライアントを示していた。

 彼は心の中で呟く。

 ……あれだけの品を手に入れる気なら当然我々の数倍は用意しているはず。

 ……清貧を旨とする組織がどうやってこのような場で使える、しかもそれだけの大金を調達できるのやら。

 ……どうやら彼らも日の当たる部分にあるのは氷山の一角ということのようだな。

「それはそれとして、そろそろミスタージェームスが手に入れるべき品が登場しますよ」


 オークショナーによって紹介されたそのタイトル「Lovers: The Poet's Garden IV」は長い間所在不明となっているゴッホの作品の名である。

「あのようなものをよく持ち出してきましたね」

「まったくです。かなり昔に行方不明になっているということでしたが、ということは、ほとんどの人は本物を見たことがないわけですね」

「そういうことです。つまり、贋作作成者にとっては、『有名画家の作品』、『現在所在不明』、そして『実物を見た者がいない』という条件が揃った実にありがたい作品というわけです」

「ですが、私にはあの絵はよく描けていたように見えました。まるで、本物のように」

 それは本物であることを確信している彼がその男に対する皮肉を込めて言ったものだったのだが、どこをどう間違えたのかはわからぬものの、結果的にその言葉をあらぬ方向に解釈したジェームスはわざわざつくり直した苦り切った表情でそれに応える。

「真実を知らなければ私だって消えた絵画が手に入ると小躍りしているところでしょう。忌々しいことです」

「そうですね」

 ……どうやら言い方が悪かったようだ。

 彼は心の中で呟き、薄く笑う。

「ところで、あの絵も元の所有者はどなたなのですか?」

「さあ、知りません」

「それではせっかく手に入れても所有権が得られないのでは?」

「それについて私はまったく心配していません」

「と言いますと?」

「あなたがたが買い取ってくださるということなので、その心配は私ではなくあなたがたがすることなのですから」

「……確かに」

 先ほど決まったばかりの約束を持ち出してふたりを一言で黙らせたその男がニヤリと笑うとさらに言葉を続ける。

「それに、あなたがたの手に渡ればあの絵も永遠に闇の中になるわけですからあなたがたも気にすることはないしょう。そもそもあれは贋作。そのような心配をすること自体時間の無駄というものです」

「それはそうですね」

 ……少々意味合いが違うが、これは「羹に懲りて膾を吹く」ようだな。

 ……そのために釣り上げた大魚を逃すことになろうとは考えてはいまい。

 たった今やり込められた腹いせを含めて、彼は心の中でそう呟いたものの、それは贋作疑惑の裏表すべてを知っていたからの話であり、そのような事実を知らないほぼすべての参加者はそれを本物だと信じて札を上げたのは当然の成り行きというものである。

「どんどん上がりますね。もちろんいきますよね?」

「当然です」

 払いが自分ではないため驚くほど気前がよいジェームスにはそう即答はしたものの、実のところ彼は非常に後悔していた。

 ……さすがに、会場で贋作の噂を流すわけにはいかなかったのだが、これは少々困ったことになったな。

 ……このままいけば、五億ユーロもありえるか。

 だが、百万ユーロから始まったそれは九千万ユーロまで上がったところで、脱落者が出始め、桁がひとつ上がったときには彼の相手は三人だけとなっていた。

「意外に早くカタがつきそうですね。あの絵が本物であったら一般のオークションよりも安いくらいですよ」

 他人のサイフで勝負するアメリカ人はいかにも部外者らしく簡単にそう言うが、彼は脱落者の気持ちが痛いほどわかる。

「ここに持ち込んだ金だけで買い物をするルールがある以上、そうならざるを得ないということです。つまり、ここで無理に勝負にいって間違って手に入れることになっては肝心のメインターゲットの番になったときに手札がなくなり、ライバルが格安で手に入れるのを眺めていることになりたくありませんから」

「ということは、残っているのはすべてこれがメインターゲットにしている者ということですか?」

「おそらくそういうことだろう。つまり、ここからが本当の勝負ということです。まあ、とにかくミスタージェームスは限界までいってください。もし、手持ちが超えるようになれば我々が補填しますから」

「わかった」


 それから、二十分後。

「……ようやくか」

 さすがに精も根も尽きた表情を見せるそのアメリカ人が勝ち抜いたマラソンにつぎ込んだ額二億三千万ユーロ。

 日本円で二百三十億円以上の大金である。

 だが、これでもゴッホの短い活動期間の後期に描かれた幻の絵であることを考えれば高くはない買い物といえるだろう。

「危なかった」

「どうやら、相手の軍資金の限界が先に来たようですね。とにかくお疲れ様でした。では、あとゆっくり見物していてください。さて、牧君」

「はい」

「いよいよ我々の番だ」


 もちろんジェームスがおこなった白熱したバトルを見ていた彼らは自分たちのターゲットでも同じことが起こることを覚悟していた。

 だが、今回の参加者にとって彼らが狙う品はそれほど興味を引くものではなかったらしく二点のコデックスはあっさりと落札される。

「五百万ユーロで二点を手に入れ、お釣りが来るとは思わなかったよ」

「まったくです。このままもうひとつもこの調子で落としたいですね」

 だが、ここで軽口を叩いたのがいけなかったのか、彼らにとっての最後の一品となる「四十二行聖書」では次々に札が上がる。

「ここで来たか……」

 苦虫を五十匹ほど噛んだような顔で彼が呻くと、後輩蒐書官もそれに負けないくらいに渋い顔で応じる。

「まさかこちらの方が人気だったとは……どうしますか?飛田さん」

「いくしかないだろう」

 彼としては、手に入れろと指示されている以上、そうせざるを得ないのだが、それでも、この後にも多くの魅力的な品が控えていたことから、たった一枚の「四十二行聖書」なら、すぐに入札者は減るだろうというのが彼の読みだった。

 だが、その考えは甘かった。


「……疲れたよ」

 それが彼の第一声だった。

「我々が手に入れるのはわかっていたが、ここまで手間取るとは思わなかった」

「まったくです。コレクターにとってたった一枚でも『四十二行聖書』を持っているということはそれだけでステータスになるということなのでしょうか」

「どうやらそのようだ。我々は闇オークションの参加者の気質や好みというものをまったく知らなかったようだ」

「そうですね。ですが、このような場で競争相手に消えてもらうわけにもいきませんし、仕方がありません。とにかく金と時間はかかりましたが、それ以外の努力はまったく必要もなく解決できるのですからまずまずの成功と言ってもいいのではないでしょうか」

「そうだな。だが、まさかこちらに三億ユーロを支払うことになるとは思わなかった」

 ……ということは、ほぼすべての者が本物と思っている「三十六行聖書」の完品はさらに激戦になるということか。

 ……伝説の域にあるあの人はこの状況でいったいどのような方法で切り抜けるのやら。

 ……それとも、乱戦に巻き込まれ、金の力で解決するだけなのか。

 ……これは見ものだ。

 彼は意味ありげに笑みを浮かべた。

 だが、それからわずか数分後。

 彼の予想は大きくはずれる。

 いや、ある意味では見事に当たったというべきなのかもしれない。

 なにしろそこで起こったことはまさしく魔術と呼べるものだったのだから。

「……いったいこれはどういうことだ」

 目の前で起こったことを彼は懸命に理解しようとして失敗する。

 困惑の表情を浮かべたまま、彼は自分と同じく驚きの表情を隠すことができないでいる後輩に訊ねる。

「牧君。君はこれがどういうことかわかるかね」

 答えは彼の想像のとおりだった。

「もちろん起こったことが何かはわかります。しかし、なぜこうなったのかは皆目見当がつきません」

「そうだな。では、ミスタージェームス。あなたはこの状況が起こった理由を説明できますか?」

「それはもちろん誰もその価値を知らなかった。またはそれに興味を持たなかった。というわけにはいかないだろうな。なにしろ先ほどあなたがたが手に入れた『四十二行聖書』に彼らはあれだけ殺到し、値が急騰したのだから。代替とは言わないが、彼らがこちらを手に入れようとするのは水の流れよりも明らかだ。それなのに……私こそあなたにこの状況の原因を説明してもらいたいものです」

「それはオークショナーをはじめとして主催者側も同じようですよ。見てください。彼らの表情を」

「そうだろうな。もしかしたら彼らが一番驚いているのかもしれないな」

 彼はそう言いながら考える。

 ……手品の種はわからない。

 ……だが、この手品をおこなったのが誰かはあきらかだ。

 ……そう。もちろんあの人だ。

 そして、彼らの目の前で起こった魔術。

 それは「三十六行聖書」が一瞬で落札されたことだった。


 翌日の遅い朝。

 パリ中心部にあるそのカフェで彼とその相棒はやや緊張気味に苦めのコーヒーを飲んでいた。

 そして、この日はもうひとり、彼らの緊張の原因をつくっていた日本人が同席していた。

「一緒にいた方を放っておいてもいいのですか?」

 彼がそう訊ねると相手はそれにはまったく興味なさそうに大量の角砂糖をコーヒーに放りこみながら答える。

「彼は昨日のうちにバチカンに戻ったよ。品物とともに。君たちこそいいのかね。友人をほったらかしでも」

 その男が気にしているのはもちろん本来なら敵側の人間ジェームスのことである。

「検査のために日本に戻ると言ってあるので一週間後にパリで落ち合うことになっています。ということで、彼も昨日カイロに戻りました」

「なるほど。つまり、お互い身軽になって心置きなく話ができるわけだな。では、聞こう。おおよその見当はつくが、君たちがあのオークションに参加した目的は何かね」

「朱雀さんの指示はあの美術館の幹部とともにオークションに参加せよ。詳しい仕事の内容はアメリカ人に聞くようにというものでした」

「それで?」

「ふたりの話を合わせると、彼らの手伝いをしながら贋作の出どころを探しだし懲らしめるということだったようです」

「おそらくそれは少々違う」

 飲みかけていたコーヒーカップを置くと、その男はそれまでよりも真剣な顔をつくる。

「相手はともかく、朱雀君の意図は贋作の出どころを見つけるだけではなく、君たちが手に入れた贋作のオリジナルを手に入れろというのが正しいはずだ。君たちも商品を眺めていれば気づいたと思うが、おそらく朱雀君もいくつかの贋作がオリジナルの所有者によってつくられている情報を掴んでいたのだろう。だが、それを教えずにそのような指示を出すとは相変わらず意地悪だな。朱雀君は」

「そのようなことは……」

「だが、私に言わせればそれだけでは全然足りない。君たちが持っているこの後の計画を教えてもらえるかね」

「見つけ次第そこを襲い……」

「いかんな」

「だめですか?」

「当然だろう。それでは贋作に関わる者たちを滅ぼすことはできても、最悪の場合肝心のオリジナルを手に入れられない可能性だってある。私に言わせればそれは考えられる中で最悪の選択だ」

「では、どのようにしたらよろしいでしょうか?」

「せっかく見つけた金の卵を産むニワトリは簡単に殺してはいけない。オークションと贋作をつくっている工房を我々の支配下に置くべきだ。あれだけのオークションを我々の支配下におけば、そこにやってくる珍しい商品を出品前に押さえることができるだろう」

「贋作工房は?」

「彼らの資金源なのだからそのままでよいだろう。そうすればこちらから資金提供をする必要がなくなる。それに、あれだけのものをつくるのだ。工房を温存しておけばいずれ利用する機会もあるだろう。もっとも制御が難しそうであれば処分もやむなしなのだが」

「なるほど。ですが、我々は例の美術館と行動を共にするということになっています。彼らがそれを許すとは思えませんが」

「当然枷は外す」

「どういうことですか?」

「贋作グループの処分はこちらだけでおこなうと言えばいいだろう。彼らはまだオリジナルを見ながら贋作をつくっている事実を知らない。それに、彼らにとって兵を動かすことは、得られる利益よりも諸々の不利益のほうが大きいと考えているのはあきらかだ。我々がすべて引き受けるといえばもろ手を挙げて賛成するだろう。たとえ反対しても、君はあのアメリカ人から絵を買い取っている。それを梃にして交渉すれば容易くその権利を手に入れられるはずだ」

 ……さすが蒐書官随一の商売人。すべての道は利に通じるだな。


「ところで……」

 何杯目かのコーヒーを飲んだ後に彼が訊ねたのはオークション会場でその男が披露した魔術のことだった。

「昨日のオークションで『三十六行聖書』に他の参加者が誰も札を上げなかった件ですが、あれはどのようなトリックに結果だったのですか?」

「単純に興味をそそるものではなかったということだろう。少なくても私の預かり知らない話だ」

 そうは言ったものの、その男の顔にはその言葉を待っていたかのように黒い笑みが浮かんでいた。

 男は楽しそうに言葉を続ける。

「ちなみに、君たちは私がどのようことをしたらパーフェクトゲームが可能になると考えているのかね」

 彼も、そして彼の相棒も考える。

「買収でしょうか?」

「または、脅迫」

 ふたりはそれぞれ思いついた答えを口にする。

「なるほど。買収または脅迫か。たしかにそれでも可能かもしれないが、私はそのような中途半端な策は採用しない。それに私が『三十六行聖書』が出品されているのを知ったのはここに来てからだ。そのような小細工が具体的にどのようなものだったかも説明が必要だな」

「どのような商品が出品されるのかを事前に知っていたのではないのですか?」

「いや。本当に知らなかった。今回の客であるバチカンの秘物蒐集部も招待時に聞いていたのは来るだけの価値のあるものがあるという情報だけだったそうだ」

「……そうですか。残念ながら短時間にできる方法までとなると……」

「もう降参とは情けない。では、ヒントをやろう。オットー・フォン・ビスマルク」

「ビスマルク?鉄血宰相のビスマルクですか?」

「そう。そして、彼がおこなったとされ、その名は中学生でも知っている有名な政策とは何か?」

「『飴と鞭』でしょうか」

「そのとおり。それを今回の件に重ね合わせてみたまえ」

「……もしかして買収と脅迫の両方ということですか?」

「そういうことだ。つまり、どちらか一方ではダメなのだよ」

「なるほど」

「具体的にはどのようなものだったのですか?」

「飴については、安全牌である君たちと隣にいたアメリカ人を除く全グループに三十万ユーロを渡す約束をした」

「つまり七グループに合わせて二百十万ユーロをばら撒いたということですか」

「一グループは最大三名だったからな。最低でもひとり十万ユーロになる。これだけもらえればそう文句は出ないだろう」

「ですが、払う側としては巨額ですよね」

「だが、それでも君たちが『四十二行聖書』一枚に支払ったものに比べれば微々たる額だ。もっとも、あの『三十六行聖書』は贋作だから十分高いのだが」

「飴についてはわかりました。では、鞭のほうは?」

「バチカンの権威を使って脅した。少々香りをつけて」

 ……つまり、バチカンの印籠をこれ見よがしに見せびらかし「これはバチカンが手に入れるものである。おまえたちは差し出された金を受け取って黙っていろ。さもなければ命にかかわる」とやったわけですね。まさに闇オークションでしか通用しない手ですが、さすがです。

「短時間にそれだけのことができるのであれば誰が札を上げるかも把握できたのではないのですか?」

「もちろん把握していた。七組のうち五組が買いを入れる予定だった」

「それだけわかっているのになぜ全員にお触れをまわし、金を配ったのですか?」

「購入する予定をしていなかった者に変な気を起こされたら面倒なことになるからだ。少々の手間や金を惜しみ、後で後悔するなど愚か行為以外のなにものではない。初期投資は出し渋りすることなくおこなわなければならないのだよ。それに、たとえ蟻の一穴でも考えられる不安要素はすべて取り去っておくのが肝要なことだし、結局よりそれによって確実に多くの果実が得られるのだ。君たちは派手な成果に見える相手との直接交渉ばかりを尊ぶが、入念な下準備をおこなえばそれ以上の成果が簡単に得られることは、君たちが落とした『四十二行聖書』と私が落札した『三十六行聖書』。双方がそれに支払った金額の差が示しているとは思わないかな」

「……おっしゃるとおりです。反論のしようがありません」

「とにかく、これで私の話は終わりだ。君たちが朱雀君の期待以上の成果を出すことを願っているよ」


「そうだ。ところで、君たちが気前よく支払った金だが、あれは本物なのかい?」

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