ファイストスの円盤 Ⅲ そして彼がやってくる
チェコ共和国の首都プラハ。
ブルタバ川東岸に建ち、窓からはプラハのランドマーク的存在であるプラハ城を眺めることができる古い屋敷。
そこは名門貴族の血が流れる男が持つ別邸のひとつだった。
その日、屋敷の主であるその男は執務室である遺物の写真を眺めながら意味ありげな笑みを浮かべた。
「どうかされましたか?」
不審に思った彼に長年仕える執事の問いかけにも答えることなく、さらに三十分が過ぎたところでようやく彼はその言葉を口にした。
「やはり次はこれだな」
それからしばらく経ったある日。
ギリシアの首都アテネにふたりの蒐書官が姿を現す。
「さすが地中海。ロンドンとは大違い。と言いたいところなのだが……」
「雨とはガッカリです。しかも寒いですね。意外に」
「まったくだ。どうせ呼びつけるのなら、我々日本人がギリシアと聞いて思い浮かべる光景が広がる太陽が降り注ぐ季節にしてもらいたかったな」
「本当に」
到着早々この地の天候に文句を並べ立てているそのふたりとは最高の蒐書官ペアと評されている永戸、湯木のコンビであった。
「まあ、唯一ありがたいことはここに来た理由がバカンスではなく、仕事だったことか」
「まったくそのとおり。さっさと仕事を片付けてロンドンに戻りましょう」
「そうだな。我々にとってやはりロンドンが一番だ」
どうやら冬のギリシアがお気に召さなかった感のあるふたりだが、普段はロンドンを中心に活動している彼らがこうしてギリシアにやって来たのにはもちろん理由がある。
そう。
古今東西すべての言語を読み解くことができるという天野川夜見子の金看板を引きはがすことに執念を燃やすチェコの貴族ウルリッヒ・フォン・ホーヘンベルグの指名があったのである。
曰く、今回の勝負に付き合っていただく方は、ロンドンでは大変お世話になったミスター永戸とミスター湯木でお願いしたい。
「貴族様に指名されるのはたいへん名誉なことなのだが、どうせ指名されるのなら麗しい女性がよかった。それにしても、なぜホーヘンベルグ卿は菱川君たちではなく我々を指名したのだろうか?」
「もちろん我々に仕返しを目論んでいるからでしょう」
「我々に仕返し?……それはあきらかな逆恨みだな」
「まったくそのとおり。温厚なことだけが取柄である人畜無害な我々を理由もなく恨むとはホーヘンベルグ卿は見かけによらず心が狭い人間のようです」
「そういうことなら矯正するためにたっぷりと懲らしめる必要がある」
「その意見には激しく同意します。世の中の厳しさを貴族の坊ちゃまにしっかりと教えてやることにしましょう」
ふたりはそう言って相手をこき下ろしたものの、彼らはホーヘンベルグに恨まれるだけの十分過ぎる理由を持ち合わせていた。
それはロンドンを舞台とした前回の勝負のときのこと。
そこで、ふたりは彼を一方的に弄んだ挙句、百億円を超える出費を強いていたのである。
もっとも、ふたりが語ったホーヘンベルグの心情は彼らがこの場だけの話として本人に断りもなく勝手につくり上げた虚構であり、百億円を超える金を支払った件も、実は投資ビジネスで巨万の富を手にしていたホーヘンベルグ本人は「確かにその額は大きいが見返りに私が手にしたものは支出に見合うとても有益なものだった」とそれを後ろ向きには捉えてはいなかったことは多くの証言から確認されている。
「さて、湯木君に聞こう。彼はどう動くと思う?」
コーヒーを飲みながら意見交換をおこなう。
それはふたりが仕事を始める前におこなう儀式のようなものだった。
「彼は先祖から引き継いだ肩書を誇るだけの馬鹿ではない」
テーブルを挟んで反対側に座る相棒が自らの問いに対して口にした短い言葉にコーヒーカップを持ったままで彼が応じる。
「それはロンドンで会ったときにわかっている。つけ加えれば、彼はビジネス界での成功者でもある」
「そのとおり」
もちろんこれは皮肉ではなく、言葉通りふたりはともにホーヘンベルグを高く評価していた。
コーヒーを一口含んだ相棒の言葉は続く。
「そんな彼だ。前回と同じ轍を踏まぬように必ず対策をとってくる」
「まあ、そうだろうな。それで、彼は何に対してどのような対策をとってくると君は考えているのかな」
「そこは彼が自分の失敗は何かと考えていることと関係する。彼にとっての一番の失敗とは何か?」
「もちろんそれは戦う相手を間違えたところだ」
そう言ってから彼は人の悪そうな笑みを浮かべた。
「……と言いたいところだが、それを言ってしまえば元も子もない。とりあえずそれを除いた中で一番の失敗とは勝負の品の選定を誤ったことだろう」
ホーヘンベルグが夜見子に挑む勝負とは、彼が用意した書を夜見子が読み解けるかどうかというものであり、夜見子が読み解けないものを用意できなかったことがホーヘンベルグの失敗であるという彼の言葉は間違いなく正しい。
だが、相棒が口にしたのはそれを肯定するものではなかった。
「彼が挑む勝負の性質上、勝負の品は最初から限定されるのだから、それを言ってしまったら勝負そのものが成り立たなくなる。それに公平な目で見て彼がこれまで選んだものはどれも勝負を挑むに相応しいものだった。つまり、君の意見は我々の目からのものであり、彼自身はそう思っていない」
「なるほど」
相棒に自らの答えを否定された彼だったが、それで気分を害した様子もなく、程よく苦みの利いたコーヒーで潤った口を再び開く。
「では、君はそれを何だと思っているのかな?」
「我々の挑発に乗ったこと」
「挑発?」
「そう。彼は的確な投資をおこなって大金を稼ぐことができる優れた判断力と経済感覚を有している。その彼にとって前回挑発に乗った挙句、余計な出費をしたことは勝負に負けた以上に悔やんでも悔やみきれない痛恨事だったはずだ。だから、今回の勝負では用心深くなった彼が前回のような大盤振る舞いすることはない」
相棒の言葉に彼は大きく頷く。
「確かに。そして、その彼から多くのものを引き出すのが我々の腕の見せ所というわけか」
「そのとおり。だが、君も私もすでに勝った気でいるが、実は何も始まっていない。準備万端のホーヘンベルグ卿に足をすくわれ、捕らぬ狸の皮算用と笑われないように心して交渉すべきだろう」
「相変わらず慎重だな。だが、そうは言っても我々が彼とおこなうのは勝利を前提とした成功報酬を決める交渉だ。そして、それ以上に忘れてはいけない重要なことがある」
「実際に彼と勝負するのは夜見子様ということだろう」
「そういうことだ。つまり、負けることなど微塵も考慮する必要がないとは、油断でも慢心でもなく、ただの事実であるということだ。そもそも、私に言わせれば、三度の大敗に懲りもせず四度目の挑戦を申し込んできた彼はクリスマスにもろ手を挙げて賛成する七面鳥だ。熟慮に熟慮を重ねた結果彼がそれを望むというのなら、宴の席で骨までしゃぶってやるのがせめてもの情けというものだ」
「クリスマスに賛成する七面鳥。……それは実にいい表現だ」
彼が言い放ったその辛辣さ十分のたとえに相棒は思わず苦笑いを浮かべる。
「ところで……」
話が一段落したふたりの視線の先にあるのはともに空になったコーヒーカップだった。
「このコーヒーは美味しいな」
「こちらではグリークコーヒーと言うそうだが、カイロの連中が好んで飲んでいるターキッシュコーヒーの親戚のようだな」
「おそらく同じものなのだろうが、味は断然こちらの方がいい」
「もう一杯もらうかい?永戸君」
「もちろん」
「では……」
それは紅茶だけではなくコーヒーの味にもうるさい彼らがアテネの予想外の寒さに震えながらホテルを出てわざわざやってきたコーヒーが美味しいと評判の老舗カフェでの一コマだった。
さて、自らの預かり知らぬところで「クリスマスに賛成する七面鳥」に仕立てられた夜見子の対戦者であるチェコの貴族ホーヘンベルグだが、この時彼はまだプラハの自邸に留まっていた。
もちろん約束の日時まではまだ余裕があり、宴の準備も終わっていたのだが、それでも人を待たせるのが嫌いな彼ならすでに現地入りしてふたりの蒐書官と顔合わせしていてもおかしくなかった。
では、なぜそうしていないのか?
その理由。
それはある人物に会うためだった。
「それで、私に耳寄りな話とは?」
面会はしたものの、どこまでも疑わしそうな表情をした彼の前には、ひと目で高級とわかるスーツを着込んだひとりのアメリカ人の姿があった。
そのアメリカ人が口を開く。
「それをお話する前にひとつお伺いしたいのですが、よろしいですか?」
「もちろん構いませんよ」
「では、お伺いします。閣下は蒐書官どもの飼い主である天野川夜見子と本を使った勝負をするという噂を聞いたのですが、間違いないでしょうか?」
……そういうことか。
相手の意図をすぐに察した彼は警戒レベルを一段階上げた。
「……そのとおり。よくご存じですね」
一瞬の沈黙のあとにチェコの貴族が口にしたその言葉にははっきりとわかる負の成分が含まれていた。
たじろぎつつ男は必死に愛想笑いを浮かべ彼の言葉に答える。
「いわば我々は彼らと同業者。蛇の道は蛇と言ったところでしょうか」
「なるほど。それであなたが言う耳より話と、私とミス天野川の勝負がどう関係があるのですか?」
「つまり、あなたがその勝負に勝つためのご助言をしたい。そういうことです」
「勝つための助言?」
「はい」
「……それはありがたい。ちなみに、あなたは私たちの勝負の内容はご存じなのですか?」
「知っております」
「なるほど。では、ここではっきりさせておこう。ミスター・マクファーソン」
相手に対する嫌悪感を露骨に漂わせ自らの立場を明確にする。
ホーヘンベルグの言葉はそのような意図さえ感じられるものだった。
彼の冷気を纏った言葉は続く。
「あなたがたが蒐書官とどのような争いをしているのかは知らないが、少なくても私は彼女とはフェアな勝負をしているし、結果は別にして蒐書官たちとの交渉を含めてそれは十分に楽しいものだ。あなたは何か勘違いをしているようだが、これはただ勝てばいいというものではない」
目の前にいる館の主が自分にどのような感情を抱いているかは疑いようもいない。
だが、自分も大きな組織の代表としてこの地で活動している交渉官。
ここで自らの使命を放棄して簡単に引き下がるわけにはいかないのだ。
そう自分に言い聞かせたマクファーソンは何事も感じていないかのように装い言葉を続けようとした。
「もちろん承知しております。閣下。そこで……」
「ミスター・マクファーソン」
男は彼の言い訳じみた言葉を遮る。
「本来なら今すぐにでもお帰り頂きたいところですが、せっかく来たのだ。私が彼女に勝つとあなたがたにどのような利益がもたらされるのかを聞いておきましょうか」
言葉は相変わらず丁寧だが、もはや詰問である。
ここで偽りを語ることは利益となるものが何もないどころか自らの生命も危うくなることを悟った彼は絞り出すように真実を吐き出す。
「……直接的な利益になるものがあるかといえば、答えはないです。ですが、我々の組織は蒐書官どもに散々煮え湯を飲まされてきました」
「……つまり、ビジネス上の恨みを晴らすために私に協力するということですか?」
「そういうことになります」
「なるほど。あなたの言いたいことは十分にわかりました。ハッキリ言ってあなたの動機は私の好みではないし、あなたが私のゲームに口を挟むこと自体不快です。当然私はそのような提案に金を払う気も、私があなたがたに対して便宜を図ることもありませんが、それでよろしければあなたの言うその耳寄りな提案とやらを駄賃代わりに聞きましょう」
雨のアテネ。
ギリシアにおける海外からの空の玄関口であるエレフテリオス・ヴェニゼロス国際空港とも呼ばれているアテネ国際空港。
その日、プラハからチューリッヒ経由でこの国にやってきたひとりのチェコ人の男をふたりの日本人が出迎えていた。
「お久しぶりです。ホーヘンベルグ卿」
「こちらこそ」
挨拶をしながら、彼は思う。
……この前会ったアメリカ人と違い、彼らに対して不快な感情を抱かないのはなぜだろうか。
もちろんこれからこの日本人たちと厳しい交渉をおこなう彼がその心の声を口に出すわけにはいかない。
「言っておくが、今回は勝つ自信がある」
それが、心の声の代わりに口にしたふたりに対しての言葉だった。
だが、再会早々に飛び出した宣戦布告のような彼の言葉にもふたりは動じることはなく笑顔のままでそれに応じる。
「そうでしょうね。勝つ自信もなく勝負を挑むほどホーヘンベルグ卿は愚かではない」
「そのとおり。お互いがんばりましょう。ところで、今回勝負のために用意した品とは何でしょうか?ホーヘンベルグ卿」
「挨拶代わりにそれを訊ねるとは相変わらず仕事熱心なことだ。だが、私に訊ねなくても君たちならすでに絞り込みは済んでいるだろう」
「もちろん我々なりにはおこなっています。ですが、それは何の根拠もない勝手な思い込みです。それで、どうなのでしょうか?」
「あくまでも手の内は明かさないというわけか。いいだろう。ヒントはそれが所蔵されているのはクレタの博物館だ。これならどうかね?」
「そうですね。……『ファイストスの円盤』でしょうか?」
「すぐその名が出てくるとはさすがだな。さて、今度は私の番だ。私が『ファイストスの円盤』を持ち出したことに対する君たちの感想を聞こうか?」
「いつも通り素晴らしいと思います」
「だが、ミス天野川は読み解けると?」
「我々は蒐書官。主を信じるだけです。ただし……」
「ただし?」
「私がその役であれば、すぐに白旗でしょう」
「私も同じです。なにしろあれはオンリーワンの品なのだから解読しようがない。せめてサンプルが他にもあれば……」
彼へのお世辞の要素が多分に含まれた雑談に混入されていたこの言葉。
実はこれこそ中欧で活動しているお節介な者たちが目の前の人物に余計な情報を流していないかを確かめるための罠だった。
わずかな表情の揺らぎも逃すまいと凝視するふたり。
だが、結論を先に言えば、これは取り越し苦労の類だった。
確かに彼らが警戒していたとおり、お節介な輩はプラハを立つ直前の彼に接触していた。
しかし、「第二のファイストスの円盤」に関しては、それを蒐書官に差し出したその組織のトップであるジョン・ウェラーがその事実を口外していなかったためにホーヘンベルグのもとを訪れていたマクファーソンという名の交渉官はそれを知らず、最近夜見子が「第三のファイストスの円盤」とともに手に入れ、解読のための重要なアイテムとなった「地中海のロゼッタストーン」については彼ら全員が門外漢であった。
つまり、彼はこの時点でも間違いなく「ファイストスの円盤」はひとつであると信じていたのである。
「なるほど。それは期待できるということだな」
当然のように返ってくるチェコ貴族の言葉にふたりは笑顔で頷く。
「その話はこの辺までにして、このままカフェに行きましょう。美味しいグリークコーヒーが飲める店を見つけてありますから」
ホーヘンベルグがギリシアにやってきた翌日。
「さて、今回は君たちにペースを握られる前に条件を提示しておく。君たちの主が勝利した場合の報酬は『ファイストスの円盤』の貸し出し。それだけだ」
……来た。
ホテルにあるラウンジでの交渉が始まって早々に飛び出した彼の言葉にふたりの蒐書官は顔を見合わせる。
「随分渋いですね」
「貴重な遺物を一定期間自由に扱えるのだ。十分だろう」
「いえいえ、それでは条件が悪すぎます。まず、あなたが勝負の品として選んだ『ファイストスの円盤』はこれまでも多くの専門家がその解読に挑んできたものです」
「もちろんそれは知っている」
「そして、それはすべての挑戦を跳ねのけてきた逸品です。そのような難攻不落のような品で勝負し、あなたの望み通り我が主が敗北した場合は『古今東西あらゆる言語を読み解ける』という主の称号ははぎ取られ、主が勝利した場合でもあなたは他の誰も知り得なかったあらたな知識を得られるわけです。それにもかかわらずその代償が『ファイストスの円盤』を手に取ることだけというのはあまりにもあなたに有利な条件です。わが主天野川夜見子は己の名誉を賭けている以上、あなたもそれ相応のものを賭けるのは当然のことではないでしょうか」
「いや。私は前回すでに十分過ぎるものを渡している。今回はこれくらいで十分だ。何と言われようと私はこの条件から一歩も譲る気はない」
頑なホーヘンベルグに、ふたりが困惑の表情を浮かべる。
と言っても、表面上のことなのだが。
彼の交渉相手のひとりである永戸が口を開く。
「それは困りました」
「困ることはない。私が提示した条件を君たちが受け入れれば済む話だろう」
「そうはいきません」
「なぜ?」
「新人蒐書官ならともかく私たちは曲がりなりにもエースと呼ばれる身。あなたが一方的に有利なこの条件を飲んでしまっては、私たちはその看板を下ろすだけでは済みません。よくて左遷。悪くすればクビです。ですが、お言葉をお聞きするかぎりホーヘンベルグ卿も一歩も譲る気はないと見える。そういうことであれば、とるべき道はひとつしかありません」
「……それは何かな?」
「今回は勝負を見送る。少なくても交渉は一時中断すべきということです」
もちろんこれは彼らが前回の交渉で使用した手であり、ホーヘンベルグも予想したものだった。
……二度もそんな安っぽい手には引っ掛かるはずがないだろう。
ホーヘンベルグは心の中で蒐書官たちの浅はかさを嘲笑した。
……彼らの主が「ファイストスの円盤」の名を聞けば、手に取りたいと思うのは間違いない。
……そして、彼らが主の意向に背くことはない。
……つまり、これは彼らの条件闘争の一環であり、本気で交渉を終わらせたいと考えているわけではない。
……ここはそれを逆に利用する。
「そうか。そういうことなら……」
攻め時と見た彼がその提案に乗るかのように言葉を重ねようとしたとき。
「……ところでホーヘンベルグ卿」
ホーヘンベルグの言葉を遮るように男の言葉が続いた。
そう。
その言葉には続きがあったのである。
「この交渉中断はどちらに有利になるかおわかりですか?」
蒐書官のひとり永戸が口にしたその言葉。
これが今回のキーワードだった。
「それはどういうことかな?」
すぐにはその意味を理解できなかったホーヘンベルグの問いかけに彼は答える。
「あなたが次に用意するものがわかった我が主はこの中断期間に相応の準備ができると言っているのです。ですから、半年後、いや一か月後なら今の条件で勝負を受けましょう。なにしろ我が主にそれだけの準備期間を与えられれば、間違いなく『ファイストスの円盤』を解読するでしょうから」
彼の言葉を相棒のもうひとりが引き継ぐ。
「つまり、そうなればホーヘンベルグ卿は大金を出資して我が主が『ファイストスの円盤』を手に取るお手伝いをしてくださり、その代わりに我が主が解読した『ファイストスの円盤』に刻まれた言葉を楽しむことができるわけだ。勝負という点ではやる前から結果が見えているつまらぬものになるが、両者がともに満足できる果実が得られるというわけなのだから悪くはない。いや、大変素晴らしい。素晴らしいよ、永戸君」
「そうだろう。湯木君が太鼓判を押してくれるならもう安心だ。では、そういうことで一か月後にお会いしましょう」
「では」
「ちょっと、ちょっと待ってくれ」
……おかしい。どこかおかしい。
立ち上がったふたりを止めた彼は心の中で自問自答していた。
……確かに彼らは私の譲歩を待っているのだから、今は引くべき時ではないという私の判断は間違っていない。
……だが、このまま放置すれば、「ファイストスの円盤」での勝負が流れてしまう。そこまではいかなくても、延期は避けられない。
……それは「ファイストスの円盤」を手に取る機会を失う彼らにとってもマイナスだが、貸し出し許可を得るためにイラクリオン考古学博物館に多額の手付金を払った私も大きな損害を被ることも意味する。
ここまで考えたところで、彼はあることに気づく。
……待て。
……本当にそうなのか?
……もし、彼らが独自で博物館と交渉できるのなら、わざわざ主の名誉をかけた危ない橋を渡らなくてもよくなる。
……現にクレタの美術館にはコネがなかった私でも高額のレンタル料を支払うことによって「ファイストスの円盤」を借り出す約束を取り付けることができた。つまり、私ができたことを彼らができないという保証はない。逆にここで交渉を中止してしまうことは彼らにその気にさせるきっかけになるのではないのか?
……もちろん借りるためにはそれなりの金は必要だ。だが、軍資金が豊富な彼らにとってそれは障害にはならず、ここで交渉を中止にしてしまうことは彼らにとってたいしたマイナスにならないどころか、プラスになるとさえ考えられる。
……もしかして、彼らもそれに気づいたのかもしれない。
……そうであれば、交渉が決裂しそうになっても彼らはこうして悠然としているのも理解できる。
……つまり今交渉を終わらせて損をするのは手付金を失うだけで何も得るものがないこの私だけということになるではないか。
……それだけはいかん。
「……わかった。とりあえず君たちの要求するものを聞こうではないか」
こうして彼は再び折れることになる。
感情を表面上のどこにも表すこともなく彼らは深々と一礼する。
「ありがとうございます。さて、湯木君。君は追加すべきものは何がいいと思う?」
「……そうだな」
考え込むふたり。
いや、考え込むふりをするふたりと言った方がいいだろう。
なにしろ彼らの中ではこうなることは想定済みのことだったのだから。
それから、数分後に彼らが追加で要求したものとは……。
「ファイストスの円盤」とともにイラクリオン考古学博物館が所蔵しているいくつかの粘土板。
そして、もうひとつ。
ついでのように加えたものの、実は彼らが本当に追加要求したかったものであるフランスでおこなわれるあるオークションに蒐書官が参加するために必要な直筆委任状。
「……本当にそれだけなのか?」
「はい」
予想外のつつましさに思わず確認するホーヘンベルグの言葉にふたりは頷く。
「私たちの主にとってはそれを手に取って読む。それこそが何よりも重要なことであり、それが何かは問題ではないのです」
もちろん彼らの言ったことは嘘ではない。
だが、それは重要な部分がほとんどそぎ落とされた抜け殻について語ったようなものでもあった。
しかし、そのようなことを知らない彼は勝ち誇ったように笑みを浮かべる。
……でかいことを言いながら、要求するものがそれとは恐れ入る。
「いいだろう。それについては認める。ただし、勝負は明日から三週間。君たちの主が勝った場合の貸し出し期間は勝負が決着してからの二週間。これは譲れない」
「いつもよりもだいぶ期間が短いですね」
「許可が下りなかったのだから仕方がないだろう。だが、君たちの主は優秀だ。それくらいの時間があれば『ファイストスの円盤』に刻まれた文字を読み解くはそう難しくないはずだ」
「なるほど。確かにそうですね。わかりました。それについては承知しました」
「……本当にそれでいいのか?」
「もちろんですとも」
湯木が口にしたその言葉の直後、思わず舌打ちをしてしまったホーヘンベルグだったが、心の中ではそれより何千倍もの大きな音が鳴り響いていた。
実はこれこそがギリシア入りの直前に面会したあのアメリカ人が「耳よりな情報」と称した入れ知恵、その重要なピースだったである。
曰く、天野川夜見子は借り出した書に対してなにかしらの不正をおこなっている可能性があります。ですから、いつもより貸し出し期間を短くすることを提案すれば、時間が必要な彼らは必ず異議を唱えます。そして、閣下にとってそれがなぜ重要なのかといえば、たとえその時どんな不利な状況であってもそこを起点に交渉を有利に運ぶことができるからです。
……何が「借りた遺物に不正を働く時間が必要なので、必ずそれに異議を唱えます」だ。彼らはそれについて反対するどころか見事なばかりの素通りではないか。ホラ吹きアメリカ人の話を信じたばかりにいらぬ疑いを持たれかねない事態になってしまっただろう。
当然のようにホーヘンベルグはこの後、心の中でその場にいないアメリカ人に対して盛大な抗議をおこなったわけなのだが、それに夢中になっていた彼は気づかなかった。
目の前に座り彼を眺めるふたりの日本人がどのような表情をしていたのかということを。
「永戸君。君はどう見た?」
交渉が終了してから一時間後、ふたりが現れたのはあのカフェだった。
そこで、砂糖の入らぬグリークコーヒーを注文したふたりはコーヒーがやってくるのを待ちながら少しずつ会話を始めていた。
「ホーヘンベルグ卿の背後には助言者がいたことについてかい?」
彼が疑問符をつけた自らの感想を口にすると、相棒はその言葉に応じる。
「正確には耳元で囁いた者がいた。というところだろう。つけ加えれば、そいつはかなり出来の悪いアドバイスをしたようだ」
「それはホーヘンベルグ卿が必ずしも助言に従ったわけではないと言っているのかな」
「少なくても私にはそう見えた。だが、その悪影響は間違いなくあった」
「つまり、従う気になかったが、その言葉に行動が左右されたというわけか。まさに悪魔の囁きだな」
「それで、その囁いた者の正体は誰だと思う?」
「疑いようもなく中欧を徘徊する例のお調子者集団のひとりだろう。だが、そんなことよりも、先に検討すべき問題がある」
「ホーヘンベルグ卿が貸し出し期間を極端に短くしたことだろう」
「そうだ。あれはそのお調子者の言葉に従っておこなったことであるのは間違いない。もちろん問題なのは囁いた事実ではなく、そのお調子者の雇い主があの事を知っていたかどうかということだ」
「正確に知っていたのならその男からホーヘンベルグ卿に正確にそのことを伝わっていたはずだし、そうなれば彼の口からそれは漏れていただろうから答えはノーだ。菱谷君の話ではハンガリーでも同じことがあったというから、おそらくその時と同じで根拠などなく単なる嫌がらせで口にした言葉が実は核心を突いていたといったところだろう。もしかしたら噂を流しているのはハンガリーでの一件と同一人物かもしれないな。どちらにしても目障りだな。その男」
「だが、我々が直々に手を下す必要はない。それについては蒲原さんを通じて大陸側の統括官である朱雀さんに処理をお願いしよう」
「わかった」
「それから、もうひとつ。こちらはより重要だ。私は専門家ではないのでそれについてとやかく言うわけにはいかないが、あれの完全コピーをわずか二週間でつくり上げるのは本当に可能なのだろうか?」
「もし、最初からつくり上げるのであれば、たとえ『すべてを写す場所』であってもおそらく無理だろう。だが……」
「もしかして、君はすでにそれは出来上がっていると言いたいのかい」
「そうでなければ、作業を諦めているということになる。だが、鮎原さんがわざわざ『今回の貸し出し期限は先方の指定に従え』という指示してきたのだ。それはつまり今回の提案があることを鮎原さんは予知していたわけなのだから、当然それに対しての手を打ってあると考えたほうがいいだろう」
「確かにそうだ。だが、どうやって?……いや、その種明かしは次回日本に戻った時に鮎原さんに聞かせてもらうことにしようか」
「そうだな。とにかくこれで我々の仕事は一段落。あとは三週間後に品物を受け取りにクレタまで行くだけだ」
「ファイストスの円盤」による夜見子とホーヘンベルグの勝負が決してからしばらく経った東京都千代田区神田神保町。
その日、そこに建つ建物の一室にはあの男の姿があった。
「壮観ですね。これで現在存在が判明している『ファイストスの円盤』のすべてが夜見子様の手中にあることになりました」
男は、サイドテーブルに並ぶ三つの「ファイストスの円盤」を眺めながら、そう言葉を口にすると、テーブルを挟んで前に座る彼の主はそれに応えるようにティーカップを軽く上に掲げる。
「ありがとうございます。さて、『ファイストスの円盤』のクレタへの返却と事後処理も済んで落ち着いたところで、あなたに伺いたいことがあります」
「なんなりと」
「永戸と湯木の報告には、あなたはホーヘンベルグがレンタル期間を短くすると主張することを知っていたようだとありましたが、本当なのですか?」
「いいえ。知っていたわけではありません。可能性のひとつとして考えてはいただけです」
「なるほど。では、そう考えた根拠は何ですか?」
「ホーヘンベルグ氏の助力により『レヒニッツ写本』を手に入れたときに、例の美術館の関係者がハンガリー当局に接触していたようだと朱雀君から報告がありました。そういうことであれば、いずれその人物または彼と近しい者がホーヘンベルグ氏本人にも接触を試みるのではないかと考えたのです」
「ですが、それとレンタル期間が短縮されることは結び付かないのではないでしょうか?」
「いいえ。そうでもないのです。その者はハンガリー当局に我々が貸し出したものに不正を働いている可能性があると嘯いたのは間違いないでしょう。もちろん彼が根拠を持っていたわけではないでしょうが、そのような情報を得て何もしないわけにはいかず、当局は我々から返却された『レヒニッツ写本』を必要以上に調査しました。当然何も出ず彼は当局から顰蹙を買いましたが、彼はこのとき嫌がらせにはその言葉は効果的と確信したと思われます。そして、次回はもう一歩進める可能性が十分にある。そのひとつがレンタル期間の短縮というわけです。つけ加えれば、ホーヘンベルグ氏の為人を考えれば、今回のこれは本人の思いつきではない。間違いなくありがたいアドバイスの賜物でしょう」
「その男が本当に事実を知っていた可能性はないのですか?」
「もし、我々が借りた品を完全コピーして返却し、原本を手に入れている事実を彼が知っているのであれば、当然彼の上司であるジョン・ウェラー氏も知っていなければなりません。ですが、『ファイストスの円盤』に関わる二度にわたる交渉でどんなに状況が不利になっても彼がその話を持ち出さなかったことから彼らはそれを知らないと判断できます」
「つまり、その男は口から出まかせを言っていたが、それが偶然ニアピンだったということなのですか?」
「そういうことです」
「わかりました。それからももうひとつ」
「……現物がやってくる前から『すべてを写す場所』が『ファイストスの円盤』の完全コピーの作業を進めていたことでしょうか?」
「そうです」
「こちらにはついてはそれほど複雑な事情はありません。有名な『ファイストスの円盤』がいずれ勝負の品となるのは間違いありませんでしたが、コピーをつくる作業はいつも以上に時間が必要になる。そのために、多くの資料を取り寄せ事前準備をしていた。たまたま今回はそれが役に立った。ただ、それだけのことです」
「役に立った?」
「もし、交渉前に『すべてを写す場所』の作業が終わっていなかったのなら、永戸君たちはレンタル期間の短縮に反対せざるを得ず、その結果ホーヘンベルグ氏は耳元で囁かれた話を信じた可能性が高かったわけですから、そういうことになります」
「……なるほど」




