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古書店街の魔女  作者: 田丸 彬禰


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ファイストスの円盤 Ⅱ 捻じれた取引

 ニューヨークで起こった「ファイストスの円盤」に関わる一連の事件が決着し、それに関わった者の多くもそれらすべての記憶を心の片隅に追いやった頃、エジプトの首都カイロでこの地域の蒐書官を統括している新池谷勤のもとに重要情報が届けられていた。


「『ファイストスの円盤』と同類のものがほぼ無傷で発見された。一千万ドルでの売却希望。購入の意思があれば連絡のうえ現金を持って現地に来られたし。ただし、商品の受け取りトラブルを避けるために受け取りは現地人ではなく責任者またはそれに極めて近い者であることが条件」


「さて、聞こうか。君は先日の件を知っているかのような実にタイミングの良いこの情報をどう思う?」

 そのオフィスの長である新池谷が皮肉を込めてそう訊ねた相手は、蒐集官時代から彼の下で働くベテラン蒐書官西野だった。

「罠でしょう」

 久しぶりにカイロにやってきた彼がおいしそうにターキッシュコーヒーを飲みながらその情報を斬り捨てると、彼の前に座るその人物は人の悪そうな笑みを浮かべゆっくりと口を開く。

「罠?おもしろい。では、彼らは我々のために具体的にどのような罠を用意してくれていると君は考えているのかを聞かせてもらおうか?」

 彼の問いに、少しだけ考えた弟子が応じる。

「言ってしまえば食虫植物。この地に相応しいたとえを使えば、ミイラ取りがミイラになる。つまり、エサに釣られてやってきたコソ泥を人質にして身代金を巻き上げる算段をしている」

 ……気が利いた言葉を言おうとして的外れの言葉を繰り出す。

 ……君はまったく変わらない。

 彼は心の中で苦笑し、隠すことなくそれを口にする。

「君が言いたいことと君が口にしたたとえは随分意味が乖離しているぞ。それに私は君と違ってコソ泥ではないし、そもそもコソ泥ごときを人質にしても身代金を支払う者などいないと思うのだがどうだろうか」

 それはまさに事実に大量の皮肉を降りかけた言葉というにふさわしいものだった。

 だが、彼の弟子にあたる人物はその言葉を待っていましたと言わんばかりに言葉を繋ぐ。

「もちろん私だってコソ泥ではありませんし、我々をコソ泥と言ったのは彼らの見立てを口にしただけです。ですが、彼らが彼らの言うところのコソ泥を誘拐のターゲットにするのには明確な理由があります」

 ……誘っているな。

 ……だが、相手は君だ。受けてやろう。

 彼はそれが罠であることを知りながら、久々に味わう高揚感に身を委ねることにした。

「ほう。それは何かな?」

「一般人であれば、身代金を要求する相手は国となりますが、余程のことがない限り国家が民間人を救うために動くことはありません。ですが、我々のような組織は違います。彼らもそれを知っている。だから、狙いを我々のような組織の人間にしたのでしょう。だが、他の組織はともかく我々をそこに加えたことは実に浅はかではあります」

 ……なるほど。待ち構えていただけに確かによい答えだ。

 彼は頷き、さらに歩みを進める。

「なるほど。それはよく考えたものだ。それで、君がこれを罠だと思う根拠はどのようなものかな?」

「この誘い文句から漂う芳しき胡散臭さ以外にはないでしょう」

「それだけか」

「はい。それだけです。つけ加えることはありません」

 先ほどの言葉とのあまりの落差に彼は吹き出す。

「実に貧弱な根拠だ。前言取り消し。これが昇格試験なら君は完全に落第だ」

 だが、それは弟子による第二の罠だった。

 ニヤリと笑うとその言葉を口にする。

「では、トップ合格できるような最強の根拠を披露しましょうか?」

 ……ほう。まだ余力があったのか。

 彼は心のなかで感心する。

「ほう。それは素晴らしい。では、そちらもご披露願おうか」

「新池谷さんがその質問をするためにわざわざ私をアマルナから呼び寄せたこと。いかがですか?」

 ……なるほど。要するに君はこれが言いたかったわけだ。

「どうしました?」

 言葉に詰まったかに見える師匠を嬉しそうに気遣う弟子の言葉とともに男の顔に苦笑いの見本のような表情が浮かぶ。

「……君の口から飛び出したものとは思えないくらいの素晴らしい根拠だな。そのとおり。君の言葉どおり私はこの情報に疑いを持っている。もちろん不測の事態が起きぬようすでにこの周辺で活動している蒐書官には当該地域からすみやかに離れるように警告を出している」

 そこまで言うと、一息入れるように新池谷もやや冷めたコーヒーに口をつける。

 それを横目で見ながら彼の部下が再び口を開く。

「ですが、そこまでならわざわざ私をカイロまで呼び寄せなくてもいいことです。それで、新池谷さんが私に本当に問いたかったこととは何ですか?」

「気がついていたのかね」

「もちろん」

「わかった。では、ここからが本題だ。君の率直な意見を聞かせてもらおうか。まず君はこのグループが『ファイストスの円盤』を本当に手に入れていると思うかね?」

「……五分五分と言ったところでしょうか」

「ほう」

 彼が口にした五分五分という言葉。

 蒐書官はその言葉を可能性が非常に低いときに使用する。

 もちろん、彼にそれを教え込んだ男が、その言葉の意味するところを知らないはずはない。

「……それでもゼロとしない理由は?」

「色々ありますが、以前かの地で『第二のファイストスの円盤』が発見されている以上、絶対にないとは言えないことが一番大きいでしょう。蒐書官は可能性がゼロと確定するまでは絶対にその言葉を口にしてはいけないと私に教えたのは誰ですか」

 弟子のその言葉に師匠がうれしそうに笑みを浮かべる。

「そうだった。確かに君にそれを問うのは愚かだったな。では、君にさらに問う。この情報に対してどのように対応すべきだろうか?」

「放置。言葉を飾れば様子見がいいでしょう」

「だが、それでは相手がそれを手に入れており、さらに本当に譲り渡す気があった場合には、誰か別の者の手に『ファイストスの円盤』が落ちることになる」

「そうでしょうか?」

「君は違うと考えているのかね」

「個人のコレクターの手に渡るようであれば、打つ手はいくらでもある。我々にとって問題になるのは前回も先を越された例の美術館が手に入れたときだけだ。だが、大金を払ってせっかく手に入れたものの、その扱いに困り、最後にはつまらぬ仕事の報酬としてライバルである我々にそれを渡した彼らが再び同じ轍を踏むわけがない。……と新池谷さんは考えていると私は思っていますがいかがでしょうか?」

「言ってくれる。だが、そのとおり。彼らのボスがよほどのお調子者でもないかぎり彼らがもう一度あれに手を出すことはない。その他の者が危険地帯まで入り込んで『ファイストスの円盤』を手に入れてきたらせいぜい高値で買い取ってやるだけのこと。それが私の考えだ。それで、君自身はこの件についてどう考えているのかね?」

「新池谷さんとまったく同意見です」

「なるほど。つまり私と君の意見が一致したということだな。そういうことなら対応は間違いないだろう。ところで……」

 そう言った新池谷の表情はそれまでと全く違うものだった。

「君が根城としているアマルナ近郊には美味しい酒を提供する店はないだろう。ありがたいことにこのホテルにいるかぎりそのような不自由に巡り合うことはない。せっかくカイロまで来たのだ。つきあいたまえ」

 ……まあ、これで一件落着。

 新池谷も彼の弟子もこのときそう思った。

 そして、実際にそうなるはずだった。

 だが、事実は違ったのである。

 そう。

 彼らが思いもよらないところにお調子者がいたのだ。


「いったい、これはどういうことだ」

 カイロで新池谷が自らの弟子にあたるベテラン蒐書官と久しぶりに酒を酌み交わしながら語り合った夜からしばらく経ったある日の朝、ニューヨークであの男は叫び声をあげていた。

 それは彼にその連絡を伝えに来た部下が震え上がるほどの怒りに満ちたものだった。

「許可なくあの手の連中には近づくなと言ったはずだ。それなのに……」

 出勤してきた彼に手渡されたメモ。

 それにこう記されていた。


「貴殿の大切な部下を預かっている。生きて再会したければ一千万ドルを用意されたし。交換方法は後ほど連絡する」


「間違いないのだな」

「残念ながら……」

「わかった。まずは詳細を確認するためにお調子者のスコットの言い訳を聞くことにするか」

 怒りがまだ収まらない彼が口にしたのはその地域を所管する部下の名である。

 だが、隣に立つ彼を補佐する男は意外なことを口にした。

「スコットというのは、カイロ駐在のジェームス主席交渉官のことでしょうか?」

「それ以外の誰だというのだ」

「では、それはおやめになったほうがよろしいでしょう」

「なぜだ?」

「拉致されたのは彼の部下ではないからです」

 それは彼にとっては意外な言葉であるとともに、最近起きたある悪夢を思い出すものでもあった。

 その悪夢を振り払うように彼が言葉を続ける。

「どういうことだ。シリアはカイロ駐在の彼の担当地域だろう」

「確かにそうであり、実際に彼のところにも同じ誘い文句は届いていたようなのですが、ジェームス主席交渉官はその誘いを無視したうえに、シリアとヨルダン、それにレバノンで活動していた部下たちには直ちに出国するように命じていたそうです」

「つまり、彼は私の指示を守っていたということか?」

「どうやら彼が誘いに乗らなかったのは別の情報を手にしたからのようなのですが、とにかく彼が指示に従っていたのは事実のようです」

「……ちょっと待て」

 報告に頷いてから彼はそこに含まれる奇妙な言葉に気づく。

「別の情報とは何だ?」

「現地の蒐書官のトップから警告が出ていたそうで、彼はそれに従ったとのことです」

「……蒐書官から我々にそのような情報が来ることも、主席交渉官ともあろう者が蒐書官の言葉を簡単に信じたということも承服しかねるが……まあ、とりあえずそれを問うのは後回しだ。カイロが動かなければどこだ。この不始末を起こした元凶は?」

「イスタンブール駐在のマクニール主席交渉官です」

「……やはり、またあの馬鹿の仕業か」


 マクニール。

 フルネームをフランク・マクニールといい、蒐書官とはライバル関係にあるあの美術館の裏組織第十三交渉部のイスタンブール駐在主席交渉官である。

「我々にあのジョーカーをもたらして大損させた大馬鹿者はどのような理由をもって再びジョーカーを手に入れるためにシリアに部下を派遣したのだ?」

「その情報を手に入れたマクニール主席交渉官はジェームス主席交渉官にこう確認したそうです。『腰抜けのおまえが行かなければ我々がシリアに入りお宝を手に入れることになるが構わないか?』と」

「それに対してスコットは何と答えた?」

「『お好きにどうぞ』と。つまり、形の上では了解は取れているということになります。もっともふたりは昔からライバル関係にありますから、ジェームス主席交渉官はこのときすでに蒐書官からその情報が危険なものだと知らされていたものの、マクニール主席交渉官にはそれを伝えなかったと思われます」

「間違いなくそうだろうな。ライバルの失敗の報を聞いて、祝杯を挙げているスコットの顔が目に浮かぶ。だが、かわいそうなのは囚われの身となったマクニールの部下だ」

「そのとおりです。それで、どうしますか?」

「命令違反の結果囚われた者にかける情けはない。見捨てる。と言いたいところだが、そうはいかぬ」

「そのとおりです。我々の仕事は常に危険と隣り合わせ。このような時に救いの手を差し伸べなければ今後我々の手足となって働く者がいなくなります」

「そのとおりだ。それにしても厄介なことだ。ブレット。何かいい手はないか?」

「仲間を救うという一点だけを考えれば、要求されたとおりに金を用意する以外に手はありません」

「そうだな。だが、それでは私の腹の虫がどうにも収まらない。マクニールを責任者として交渉にあたらせる。もちろん身代金はイスタンブールの金庫から支払わせることにしよう」

 もちろん彼としては命令違反の責任を取らせる意味も兼ねての措置のつもりだったのだが、色々な意味でそれは大きな判断ミスだった。

 そして、その結果はすぐに現れる。

 人質がひとりからふたりに増えたのだ。


 二件目の拉致事件が起きてから一日が経った夜。

 その日、カイロで指折りの高級イタリアンレストラン周辺は物々しい警備が敷かれていた。

 エジプトではこのような光景はそれほど珍しいものではない。

 だが、その対象が政府関係者でも外国の要人でもなく一組の民間人となれば、さすがにこの警備レベルは地元の人間でも驚かずにはいられないだろう。

 驚くことはまだある。

 現代では日本人とアメリカ人が会食する光景は世界中で見ることができるごく普通の出来事になっているが、それが蒐書官と彼らのライバルであるあの美術館の関係者となれば、彼らの関係を知った者にとってその組み合わせは奇異なもの以外にないだろう。

 さて、そのふたりだが、ひとりは当地におけるあの美術館の工作員代表で、主席交渉官の肩書を持つスコット・ジェームス。

 そして、もうひとりである日本人は……。

 もちろんエジプト地区の蒐書官を束ねる統括官新池谷勤である。

「それにしても、我々がこうして同じテーブルで食事をしている様子を見たら、我々の上司は卒倒するのではないでしょうか?」

「そうですね」

 上機嫌で話すジェームスに相槌を打ちながら新池谷は彼の様子を注意深く眺める。

 ……どうやら、この男には我々を罠に嵌める意図はなさそうだ。

 ……ということは、重武装の蒐書官たちをこのレストランも周りに配置したのは、少々やりすぎだったか。

 彼は心の中で苦笑いを浮かべた。

「ところで、今日はどのような理由で私を招いてくださったのですか?ジェームス主席交渉官」

「もちろん礼だよ」

「礼?」

「そうだ。君からの忠告に従った結果、私の部下がひどい目に遭わずに済んだ」

「……なるほど」

「それだけではない。私がカイロから動かないことを知ったある愚か者が部下をシリアに送り込んだのだが、めでたくテロリストに拉致された。それだけではない。助けに行くつもりで交渉先に送り出した者まで捕まったのだ。おかげでやつが支払う身代金は倍になった。これほど愉快なことはない」

 だが、その言葉とは裏腹に男の顔から笑顔が急激に抜け落ちていく。

「……君にはわかっているだろうが実は笑っている事態ではないのだ。たとえその上司が嫌いな男でも、命じられた部下には罪はないのだから。そこで、今日のディナー代の代わりに教えてもらいたい。あなたならこのような状況をどうやって打開する?」

 ……なるほど。それが急な招待の目的か。

 彼は納得する。

「つまり、ふたりを助けたいということですか?」

「そうだ。そして、それは我々だけでなくあなたがたでも同じ立場になれば同様な結論に至るはずだ」

「たしかに」

「だが、我々は有効な打つ手が見つけられない。こんなことならあの馬鹿を力づくでも止めておけばよかったと後悔しているのだが、今となっては栓なきことだ。それにしても前回といい、今回といい、持ち場でないところでイスタンブールは余計なことばかりする」

 男が怒りの矛先を向けたイスタンブールとはもちろん地名だが、それはそこを拠点として活動する特定の男を示す言葉でもある。

 ……マクニールという男のことだな。

 自らが掴んでいた情報とすり合わせをおこなった彼が口を開く。

「とりあえず、まずあなたが考える案を伺いたいものですね」

「わかった」

 彼の前に座るアメリカ人がフォークとナイフを置く。

「君と違い、私が考えることなど極めてオーソドックスなものだ。それでも聞くかね?」

「もちろん」

「では、聞いてもらおうか」

 それから彼が語ったこと。

 それは大きくわけてふたつだった。

 ひとつは金で解決すること。

 もうひとつは武力鎮圧。

「……だが、ひとつはすでに破綻し、もうひとつはさらに多くの犠牲を伴う可能性があるうえに、かの地における将来の活動が大幅に制限される問題がある」

 ……そのとおり。

 彼は心の中で目の前が語った男の言葉に同意するが、実際に口にしたのは別の言葉だった。

「前者はともかく、後者についてはもう少し詳しく説明してもらいたいものですね」

「よろしい。君も知っているとおり我々にもそれなりの組織がある。その組織を投入すればふたりの奪還も可能かもしれない。だが、地の利が相手側にある場所での襲撃で、しかも一番の目的は殲滅ではなく人質奪還となれば、さすがにこちらが無傷というわけにはいかない。ふたりを助け出すために十人の犠牲者を出す作戦が本当に正しいのかは疑問だ。さらに、作戦が成功するということは、つまり相手側は殲滅したということを意味するわけで、それは当然新たな憎悪を生み、結果的にかの地で活動する者を危機に晒すことになる」

「なるほど」

「まあ、君にはこの程度のことを説明する必要はなかったのだろうが」

「そのようなことはありません。あなたの見識の深さに感服しました」

「とにかく私の話はこれで終わりだ。今度は私などでは思いもよらない君の策をお聞かせ願いたい」

「……そうですね」

 だが、正直なところ彼自身が考え実行できるものは、これと変わらぬものばかりだった。

「残念ながら何も。期待に応えられないのは申しわけないのですが……」

 彼の言葉に男は盛大にがっかりする。

 もちろん半分は演技だが、もう半分は本気である。

「そうか。だが、頼みの綱だった君からも助力を得られないとなれば万事休すだ。なにしろイスタンブールだけでは手に負えるものではないとなれば、本来の管轄者である私にシリア行きが命じられるのは避けられない。そして、上から与えられる役目を考えたらシリアに行った私は生きてこのエジプトの土を踏むことはない。これがまもなくやってくる私の楽しい未来図というわけだ」

「……まさに最後の晩餐ですね」


「随分と警備が厳しいですね。まるで、これから戦争でも始めるようです。ということは、ロケットランチャーを構えるか弱き日本人女性もどこかにいるということなのですか?」

 ロケットランチャーを構えるか弱き日本人女性。

 それはエジプトで長く活動している蒐書官なら誰でも知るある特定の人物を示す言葉だった。

 当然彼女をよく知る相手は顔を歪める。

「やめてくて。そんなものを頼んだらのちのち面倒になる。色々な意味で」

「色々な意味で?まあ、たしかにそうですね。ところで……」

 お互いにいい思い出などまったく存在しないその女性に関する出来の悪いジョークで口を滑らかにした直後、潮を引くように笑顔が消えた男は話題を変える。

「いかがでしたか?実際に本音の話をしたジェームス主席交渉官の印象は」

 ホテルに向かう車の中で彼にそう問うたのは、アマルナに帰った直後カイロに呼び戻された彼の古くからの部下である。

「西野君よりもよっぽど素直だったよ。まあ、なりふり構っていられない彼の気持ちもわかる。上からの命令とはいえ無策で敵地に乗り込むほど無謀なことはないのだからな。だが、策がないという理由で命令を拒絶できたとしても、自分の身可愛さに囚われたふたりを見殺しにしたという話が広がれば彼の信用は損なわれ今後の活動に支障を来たす。組織を束ねる者にとっては頭が痛いところだ。そこで、君に問おう。彼の窮地を救うような策があるかね」

「……ジェームス主席交渉官を助けたいのですか?」

「彼は私が主催するオークションの上客であるうえ、ある程度はコントロールができる。彼の代わりにイスタンブールの住人とやらのようなおかしな輩が後釜になったらやっかいなことになるのだから当然だろう」

「新池谷さんも素直ではありませんね。ですが、我々だって先ほど彼が挙げた策に色を付けたものくらいしか持ち合わせがないのですから手助けは無理だと思います。そして、一番の上策と思われるものは先ほど彼も口にしていましたが責任者がひとり人柱となり、それを口実に救出活動からの撤退を決定する案でしょう。これなら犠牲者は人質を含めて最低三人だけで済みますし、多くの者も納得するでしょう」

「だが、それではその人柱役を演じる彼は助からん」

「そう。つまり、我々ができることは東京に状況を連絡したうえ、彼の幸運を祈ることくらいしかないということです」


「……以上が新池谷からの連絡です。では、三人の意見を伺いましょうか?」

 カイロから九千キロ以上離れた東京都千代田区神田神保町の古書店街。

 その一角に建つ建物の一室で、女性が目の前に座る彼女に仕える男女三人に新池谷の言葉を伝え、意見を求めた。

「まず、鮎原」

「はい。この件に関しては、彼らの醜態を眺める以外に我々がやることもやれることもないと思われます」

 それは状況を考えればきわめて常識的なものではあったのだが、この男の言葉とは思えぬものともいえた。

「珍しいわね。鮎原が弱っている相手を甚振らないなんて」

「まったく。今までのおこないを悔い改めたのかしら。でも、今回は私も鮎原の意見に賛成する」

「私も」

 意外過ぎるその男の言葉に、いつもは反対の意を示すふたりの女性も皮肉交じりに同意の声を上げる。

「ふたりとも勘違いしないでください。私は趣味や道楽で策謀を考えているわけではありません。あれはあくまで仕事の一環です」

「それは初耳」

「まったくね」

 男は苦笑しながら彼女たちの言葉に少しだけ反論するが、ふたりの女性に一蹴された。

 ……あなたが本気になれば彼女たちを黙らせることなど雑作もないでしょう。今日は随分と手を抜きましたね。まあ、そうした理由もわかりますが。

 三人の会話に薄く笑みを浮かべた彼女が口を開く。

「鮎原がどのような理由で陰謀を張り巡らしているのかはともかく、窮地に陥っている彼らの手助けをして私たちの利益になることはありませんか?」

「残念ながらないですね。強いて挙げれば、今後もカモとして新池谷君が開く闇オークションで大金を支払ってくれることくらいでしょうか。それにしても、カイロ駐在の彼もとんだ貧乏くじを引きましたね。同僚が愚かだったばかりに命を代償とした尻拭いをさせられるのですから」

「命を代償とした尻拭い?それはどういう意味ですか?鮎原」

「わかりませんか?美奈子さん」

「さっぱり」

「真紀さんはどうですか?」

「私も」

「まあ、簡単なことなのですが、少し説明して差し上げます」

 そう前置きして彼が話したことは、西野が口にしたあの話だった。

「つまり、組織の体面を保つために彼は犠牲になるということなのですか?」

「言葉を飾らずに言えばそうなります。ですが、他に選択肢がなければ致し方がないことですし、そのために彼のような立場の人間があるとも言えます」

「なるほど。鮎原の言いたいことはわかった。でも、それは本当に無意味な死ですよね。本人にとっては」

「そのとおり。少なくても私は遠慮したいわね。そんな死に方」

「私も」

「ちなみに鮎原がジェームスとやらの立場になったらどうしますか?」

「私もお二人と同様人柱役は遠慮したいですね。ですから、そのような状況になれば新池谷君のオフィスに一目散に逃げ込みます。ライバルではありますが、自分の立場を理解してくれているのが彼ですから」

「アハハ。それはいいアイデアだ」

「本当に」

「ところで……」

 自らの問いに答える鮎原の言葉に呟きのようなひとことを返したのは彼の主にあたる女性だった。

「先ほど鮎原は彼を助けても私たちにはたいした益はないと言いましたが、もし彼を助けることによって私たちは大きな利益を得られるとしたらどうしますか?」

「それは真剣に策を練る必要がありますが、現実には彼の手の中にそれほどの手札が残っているとは思えません」

「私も鮎原の意見に同意します。そもそも彼らは私たちの敵なのですから、鮎原が述べた程度の理由で美術館の者を助ける必要はないと思います」

「私も鮎原や真紀と同じ意見です」

 つまり見捨てる。

 三人のその意見は間違いなく正論である。

 だが、三人の主が口にしたのは意外な言葉だった。

「確かに彼から直接得られる利益は僅かです。ですが、彼が人柱になることを阻止すると間違いなく私たちは大きな利益を得ることができます」

「それは常識では考えられませんね。それにはどのようなカラクリがあるのでしょうか?」

 三人を代表するように一番の年長者である男が主に問い開けると、彼女はイタズラをした子供が物陰からその成功を確かめたときに浮かべるような笑みをつくる。

「種明かしをすると、まずただ彼を助ければ私たちが利益を得られるというわけではありません」

「と言いますと?」

「仕事を依頼し報酬を支払う相手はカイロの主席交渉官でないのです。つまり、依頼は他者からのものであり、彼が助かるのはその副産物ということになります」

「なるほど。そういうことでしたら、その依頼者というのは今回の不祥事の元凶であるイスタンブール駐在の首席交渉官ではないのですか?」

「真紀が依頼者は彼であるとした理由は?」

「このままでは間違いなく火の粉は自らにも飛んできます。それどころか生贄の一番手に指名されてもおかしくありません。その前に手を打ったのではないでしょうか」

「なるほど。よくできた話ですが残念ながら違います」

 それに続いたのは冷徹そのものといえる男の声だった。

「……おそらくジョン・ウェラーでしょう。彼には我々が満足するようなお宝を隠し部屋から持ち出す権限がありますから」

「さすが鮎原。そのとおりです。先ほど秋島からウェラーが今回の不祥事について助力を求めてきたと連絡がありました。しかも、その時に彼はとんでもないものを成功報酬として提示してきました」

「とんでもないもの?いったい彼は何を差し出すと言ってきたのですか?」

「彼らが隠し持っている宝のひとつ『クレオパトラのラブレター』という品です」


 話は少しだけ遡り夜見子がその書について言及した前日。

 北米地区の蒐書官を束ねる秋島の屋敷を訪ねてきた者がいた。

「今日はどのようなご用件でしょうか?ミスター」

 その訪問者とは蒐書官とはライバル関係にある組織を率いるジョン・ウェラーその人だった。

「こう頻繁に我々のもとにやってきては、あらぬ疑いをかけられることになりませんか?」

 それは皮肉交じりの一言だったのだが相手は何事もなかったかのようにこう応じた。

「あるかもしれませんね。ですが、今の私にとってそんなことは微細な事柄にすぎません」

「……ほう」

 その言葉に彼の警戒心が一レベル上昇する。

 だが、相手はそれすら気にしないようにさらに言葉を進める。

「さて、今日お伺いした要件を話す前に、まず見てもらいたいものがあります」

「拝見しましょう」

 彼が左手を上げると、二人分のコーヒーカップは片付けられ、何もない大理石製テーブルに蒐書官のライバルである組織のトップであるその男が置いたものは一枚のパピルスだった。

「これは?」

「我々の先輩があるコレクターの家から無断で頂いてきたものです」

 警戒を解いたわけではないものの、相手の露骨なまでに着飾った言葉に湧き上がる笑いを必死に耐えた彼はやっとの思いでその言葉を返す。

「……それはつまり盗みとったということですか?」

「そうですね。我々の中ではそのような言い方はしませんが、一般的な表現ではそうなります。そのため一般公開ができないわけですが」

 ……もしかして、先ほどの言葉はジョークではなかったということか。

 彼の嫌味に近い言葉にも表情を変えず言葉を綴る男を意外と受け取った彼は淡々と語る男の表情を注意深く眺め始める。

 ……表情が硬い。

 ……つまり、その要件とやらは前回以上のものということなのか?

 ……それとも、何かよからぬことを企んでいるのか?

 相手のただならぬ様子に自問し警戒レベルをさらに高める彼だったが、男が口にした次の言葉を聞いた瞬間そのすべてが吹き飛ぶ。


「そして、我々はこれを『クレオパトラのラブレター』を呼んでいます」


「『クレオパトラのラブレター』……ですか?」

 かろうじて冷静さを装ってその言葉を口にしたものの、その衝撃は簡単に隠せるものではない。

 ……さすがに驚いたようだな。

 相手が動揺する様子を確かめると彼はようやく表情を崩し、前回の一方的な譲歩を余儀なくされた屈辱を取り返すようにほくそ笑む。

「残念ながらクレオパトラの署名こそありませんが、相手はアントニウスであり、その内容からこれを送った者はクレオパトラ七世で間違いないと思われます。内容はタイトルどおりアントニウス以外の者に見られることを予想していないもので、もしかしたら、クレオパトラはこれでアントニウスの心を射抜いたのではないかとさえ思えます」

「なるほど」

 彼は相槌を打ちながら、それに触れる。

 ……高品質のパピルス。しかも時代はプトレマイオス朝末期のもの。

 ……それで、肝心の内容は……これはすごい。もはや疑う余地はない。

 ……本物だ。

「素晴らしいものですね。つまり、今回は前回の事件で失った軍資金を稼ぐためにこれを売りに来たということですか?」

「いいえ。これはある依頼に対する成功報酬です。そして、今日の要件とはその依頼をすることです」

「なるほど。では、伺いましょう。その依頼の内容を」

「実は、我々は今非常に困った状況に陥っています。その状況の打破。それが今回の依頼の概要です」

 それから、男はシリアで起こった二件の拉致事件についての詳細を語った。

「……ハッキリ言ってここまで来ては我々の力で解決できる事案ではなくなっている。ですが、捕まった二人を簡単に見殺しにするようなことになれば、今後危険地帯に踏み入る者などいなくなるのも事実。そうかといって、撤退の理由にするためだけに有能な現場指揮官を生贄に捧げるなどもってのほかだ。要するに我々は八方ふさがりの状況なのです」

「それはライバルである我々にとっては願ったり叶ったりといえますね」

「そうでしょう。ですから、あなたがたに対するエサとしてこれを用意した。そして、ふたりの仲間の生きた状態での救出。これが具体的依頼内容となります」

「……なるほど。承知しました」

 ……そうは言ってもさすがにこれは我々でも厳しい。

 ……そういうことであれば……。

 彼が思い描いたのは前回の交渉の再現だった。

 だが……。

「それから言っておきますが、今回は報酬の前渡しは絶対にありません。あくまでこちらの依頼を完遂した場合のみこれをお渡しすることにいたします。ただし、成功した場合には私の首をかけてお渡しすることをお約束します」

 ……まったくゆるみがない。

 彼は諦め、それとは別の言葉を口にした。


「依頼内容と報酬、それに支払い条件はすべて承知しました。我が主に確認のうえ、ご返事いたします」


 主が説明したニューヨークから届いた情報に全員が唸る。

 少しだけ間を置き、一人の女性が口を開く。

「……まず確認しなければならないのは、その『クレオパトラのラブレター』なるものが本物なのかとどうかということでしょう。どうなのですか?鮎原」

「秋島君が確認したのなら間違いないでしょうね」

 その女性である上級書籍鑑定官のひとり北浦美奈子に問われた秋島の上司にあたる男がそっけない言葉を口にする。

 少しだけ気分を害したような表情を見せた女の言葉はさらに続く。

「そのようなものがあることなど私たちは知りませんでしたが、あなたはこれが存在していることを知っていたのですか?」

「いいえ。私も初めて聞くものですので、彼らはかなり以前からそれを隠し持っていたのではないでしょうか。そして、もうひとつここから読み取れることがあります」

「それは?」

「その所有者がそれほどのものを盗まれながらそれを公表していないこと。これは元の所有者はそれなりの者ということを示しています」

「なるほど。ですが、出どころなど私たちにとってはどうでもいいことです。とにかくこれを手に入れ愛でたいものです」

「それはそうなのですが……」

「……困りました」

 右隣をチラリと眺めながら口にした主の言葉に困惑の色を隠せない三人。

 もちろんそれには大きな理由がある。

「鮎原。こういうときのあなたです。何かいい策はないのですか?」

「そう言われましても……我々は日頃からそのような輩に対して高額の通行税を払い、そのうえでさらに十分に気をつけているのは、このような事態が起こった場合に完璧な勝利は得られないからです。それでも半年一年という時間をかけてとなれば、いくつか策はありますが、数週間以内に解決する即効性のある策となるとなかなか思いつきません」

「……鮎原の知恵の泉も涸れ果てたというわけですね」

「残念ながらそう言われても返す言葉がありません。ですが、『クレオパトラのラブレター』をウェラー氏が所有していることがわかったのは大きいです。ここは彼らに恩を売ってそれを手に入れることは諦め、別の機会を待つことにすべきではないでしょうか?」

 ふたりの女性だけではなく、日頃どのようなことにも見事な解決策を提示する年長の男さえ撤退を進言するのは、それだけ今回の事案には現在だけでなく未来にも影響するような問題が含まれているからだ。

 もちろんそれは彼女もよくわかっている。

 ……やはり、敵中深く入り込み急襲する困難さ、そして、無傷で当該人物で救出する目的と被害の程度、それからその結果が招く苛烈な報復をクリアするのは難しいのですね。

 ……残念ですが、鮎原の意見に従い今回は諦めるしかなさそうです。

 三人の主であるその女性がウェラーの要請を却下する決定を口にしようとしたとき、彼女の隣から声が上がる。


「そのパピルスを手に入れる件。私が引き受けましょう」


「お嬢様。ですが……」

「問題ありません。そして、心配は不要です」

 彼女を制する声。

 それはこの建物の主でもあるその女性天野川夜見子が仕える立花家の次期当主からのものだった。

「お嬢様」

 決定を告げる支配者の言葉に静まり返るその部屋の沈黙を破って声を上げたのは年長の男だった。

「お伺いしたいことがあるのですがよろしいでしょうか?」

「どうぞ」

「お嬢様がそうおっしゃるのであれば、問題は何もないのはわかっておりますが、あえてお伺いさせていただきます。彼の依頼を受けるにあたっての問題点をどのようにして解決するのでしょうか?できることなら愚かな私どもにもわかるようにわかりやすく説明していただければ幸いなのですが」

「わかりました」

 男の言葉に応じた少女は言葉を紡ぐ。

「鮎原が心配していることは大きく分けてふたつ。依頼をおこなうことの困難さと遺恨による将来の活動への不安」

「そのとおりです。お嬢様」

「ですが、それはすべて武力を使用したときの話であって、私が目指すのはあくまで交渉による解決です。そこで、まず鮎原に問います。交渉による人質奪還が可能となった場合に相手に支払う身代金はどれくらいになると思いますか?」

「相手はふたりで三千万ドルを要求していますのでその辺ではないかと」

「なるほど。では、その倍額を用意してください。いいえ。ここは彼らに用意させなさいですね」

 少女の言葉は絶対である。

 それについてどれほど疑問を持っていても反論は許されない。

 特に、長年立花家に仕えてそれが体に染みついているその男にはとっては。

 男は無言で深々と頭を下げる。

 だが、顔を上げた男はさらにひとつの疑問を呈す。

「あ、鮎原」

「構いません。言いたいことがあるのなら聞きましょう。鮎原」

 慌てて男を制しようとした彼女を止めた少女の言葉にもう一度頭を下げた男が口を開く。

「ですが、気前よくそのような大金を支払うことによって我々を拉致することがいい商売になると勘違いをして同様なことを考える輩が現れるのではないでしょうか?」

「あなたの言うとおり。普通であればそれが呼び水になり同類の事件が頻発するのは間違いないでしょう」

「では、今回はそうでないと?」

「そのとおりです」

「どういうことでしょうか?」

「もちろん交渉を立花家の名で当主様がおこなうからです。もっともそうなれば交渉ではなく命令と言ったほうがいいわけなのですが。つまり、交渉の最後に『次はない』と釘を刺しておけば鮎原が懸念するようなことは起こらないということです」

「ですが、そもそも相手は立花家のコントロール下にある組織なのですか?なにしろ例の誘い文句は新池谷のもとにも届いていたそうですから」

「そうですね。ですが、要求してきた金額や拉致の手際を考えれば素人ではなくどこかの派閥には属しているのは確実でしょう。ですから、直接交渉ができなくても属している派閥さえわかればその長から解放を命じることは可能です。万が一そうでなければ……」

「そのグループを賞金首に仕立てるということですか?」

「そう。もう少しはっきりと言えば大金をぶら下げて共食いをさせます。蛇の道は蛇。彼らの居場所については同類であれば心当たりがあるのでしょうから、すぐにケリがつきます」

「なるほど」

「さて、皆さんに私の策をわかってもらえたところで、そのためにあなたがたに至急やってもらいたいことはふたつ。相手が何者であるかを確認すること。それから身代金の調達です。夜見子さん。それについてはお任せしてもよろしいですか」

「もちろんです。ですが、本当によろしいのでしょうか?この程度のことに立花家が関わっても」

 橘花グループの幹部である彼女は知っている。

 強大な力を持つこの一族がこの世界を動かすことには関わらないその理由、いや、枷をと言ったほうがよいそれを。

 だが、少女はふたりの心配に笑みで応える。

「問題はありません。これは一見すると囚われになった人間を解放する人道援助にようですが、実態はあくまで立花家の利益のためです。ですから、政治介入には当たりません。当主様もおそらくそう判断すると思います」

「今回の件が立花家の利益になると?」

「そうです。立花家次期当主である私が『クレオパトラのラブレター』を読みたいと言ったのですから、それをおこなうことは立花家の利益です」


 あれから一週間。

 驚くことにすべてが元通りになっていた。

 いや、すべてというのは語弊がある。

 その多くがと訂正しよう。

 では、もっとも変わったこととは何か。

 それはあの美術館のイスタンブール駐在主席交渉官フランク・マクニールが更迭されたことである。

 それに伴い、彼のライバルだったスコット・ジェームスの統括地域が拡大することになった。

 こちらについては重要ポストが減るため一部で反対意見があったものの、ここ数年に起きた人的被害の影響で任に堪えうる人材が不足しているという組織の長ジョン・ウェラーの主張がそれを押しきった。


 さて、そのウェラーであるが、ふたりの交渉官を死地から救出したことによって美術館、特にその裏側での名声が高まったわけなのだが、失ったものも多かった。

 蒐書官が拉致グループに気前よく支払った「七千万ドル」という大金はすべて、彼が抱える金庫から支出されたものである。

 そして、もちろんあの「クレオパトラのラブレター」も。

「まさか交渉で人質を取り返すとは思わなかった。日頃我々相手に武力をひけらかすやつらだ。てっきり『クレオパトラのラブレター』に目が眩み、武力での鎮圧に乗り出すと思った。そうなれば、武装組織の反感の目がやつらに向いて、我々は紛争地域で自由に動けるようになると思ったのだが残念だ」

 成功報酬としてその品物が引き渡された日の午後、彼が部下の前でボヤキ気味に呟いたこの言葉が本音であれば、この男も相当な食わせものということになるだが、それが本当に彼の心の中を投影したものなのかは彼以外の誰にもわからない。

 そして、その彼が疑問に思っていること。

 それは……。

「それにしても、あなたがたはどうやって交渉を成立させたのだ。確かに七千万ドルは大きい。だが、それだけなら我々との交渉にもやつらは応じたはずではないのか」

 もちろん彼の疑問に秋島は笑顔を浮かべるのみで答えることはなかった。


 それから一連の騒動の勝者となった天野川夜見子が手に入れたものについても語っておこう。

 もちろん成功報酬である「クレオパトラのラブレター」。

 さらに、手数料として称して鮎原が身代金にこっそりと上乗せしてウェラーからせしめた一千万ドル。

 そして、驚くべきことに人質救出の際に拉致グループからも貴重な書を手に入れていた。

 「三つ目のファイストスの円盤」

 それがその品物の名である。


「私はおまえたちがその地で何をしようが一切関知しない。だが、これは命令である。用意した六千万ドルを受け取り、それと引き換えに我々の商品であるふたりのアメリカ人を生きたまま開放せよ。異教徒の命などには従わないというのならそれもよかろう。だが、その場合おまえには前任者と同じ運命が待っていると思え。もちろんその前に今の地位に就きたいばかりに前任者の死に進んで手を貸したおまえの裏切り行為はお前の支配地域のすべて者に対してあきらかにしてやる。そうなれば、私が手を下す前におまえの命が尽きているかもしれないな。カラスがおまえの死体をついばんでいる光景が目に浮かぶ」


 電話口から聞こえるその見事なアラビア語は部下に厳しく傲慢が服を着ていると陰口を叩かれるその男を震え上がらせる。


「……それから、言うまでもないことだが、おまえが受け取る六千万ドルにはおまえたちが盗掘し隠し持っているある品の代金も含まれている。それを人質と一緒に差し出すことを忘れるな。それで、おまえの配下が私の部下のもとに無礼なチラシを送りつけた罪は許してやる」


「お嬢様」

 その日の夕方。

 天野川夜見子が声をかけたのは彼女が語学を教えていた少女だった。

「お嬢様は拉致グループが三つ目の『ファイストスの円盤』を持っていることを知っていたのですか?」

 彼女の言葉に少女はかぶりを振る。

「いいえ。知っていたというわけではありません。ただし、存在していることは知っていました」

「なぞかけのような言葉ですね。それはどういうことなのでしょうか?」

「本家『ファイストスの円盤』と先生が手にいれた『第二のファイストスの円盤』。このふたつの円盤には共通した言葉だけでなく、どちらか一方にだけ記された言葉もあります。この円盤の言葉すべてを解読するためには、もうひとつ『ファイストスの円盤』、もしくは、ロゼッタストーンのような代物を手に入れなければなりませんでした。もしかしたら活動資金の源として盗掘を繰り返している彼らならそのようなものを手に入れているかもしれない。単純にそう思っただけです」

「なるほど。とにかく『ファイストスの円盤』の完全解読ができるようになったのはすべてお嬢様のおかげです。ありがとうございました」

「お礼は当主様に対して言うべきでしょうね。なにしろ当主様がその商品を『ファイストスの円盤』とハッキリ言わなかったために相手は混乱し、彼らが盗掘し保管していた品物をすべて吐き出すこととなったのですから。そして、その結果として先生は『三つ目のファイストスの円盤』だけではなく『地中海のロゼッタストーン』まで手に入れることができたのです。そんなことより、これで『ファイストスの円盤』の完全解読ができるようになったわけなのですから、急いで作業に取り掛かってください」

「それはもちろん。ですが、なぜそれほど急がれているのですか?」

「決まっています。もうすぐ彼がやってくるからです」

「彼?」

「もちろんプラハに住む私たちの恩人のことです。そして次回、彼が先生に挑む品として選ぶのは『ファイストスの円盤』なのですから」

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